2015年05月27日

点字タイプ入力ソフト「brlinput」のバージョンアップ

久しぶりの投稿になります。去年作ったbrlinputというソフトを更新しました。点字タイピングで文字入力ができるソフトです。興味のある方は使ってみてください。特徴としては片手入力ができることです。対象はWindowsVISTA以降です。お約束ですが、自己責任でご利用ください。

次のリンクからダウンロードできます。

インストーラ版: [BrlinputSetup1.17.msi](https://app.box.com/s/g8hnoar683555bswv8c5y7gmx9b9dna7)
(md5:2c7dc75dba9bdc322cd0172b09f45c4f)

ZIPファイル版: [brlinput1.17.zip](https://app.box.com/s/2bbfb5z2et7cxxoz5pwwv60um0cirmkh)
(md5:59957d780c2a41e22df4ffd779f69bd9)

不具合の指摘をコメント欄でいただいてから開発を再開したのですが、次々に別の不具合に気づいたり、新しいアイデアが浮かんだり、なかなか公開できませんでした。

件の「最初に入力した文字がそのまま出てくる」不具合は、キー入力になってはじめて必要になるアセンブリ(dll)をロードする処理の重さが原因のようでした。もしかすると他にも理由があるかもしれませんが、とりあえず自宅の処理の遅い仮想マシーンのWindowsではこの問題は起きなくなりました。

基本的な使い方は以前書いたので端折ります。「点字タイプソフト作ってみました。(2014/04/15)」をご覧ください。これには古い情報がいくつもありますが、以下の情報で読み替えてください。

主な変更点は次の通りです。

* インストーラ作りました。
* NVDAのAPIに対応し、入力文字の読み上げやガイドをNVDAで行えるようにしました(nvdaControllerClient32.dll同梱)。
* PC-TalkerのAPIにも対応しました(ただしVISTAでの仮名の読み上げには対応していません。漢字変換を利用してください)。
* かな入力モードおよび六点入力モードで、4-5-6-7の点を入力すると、このソフトのメニューが開くようにしました。従来の方法、タスクトレイのアイコンでアプリケーションキー、もしくは「点字(状態)バー」で右クリック、でも開きます。
* 設定画面を作りました。メニューの中の「設定」で開きます。設定された内容はレジストリを使わず、config.jsonに書き出されます。インストーラを使ってこのソフトを導入した場合は、ユーザーフォルダのAppData\Roaming\brlinput内に作られます。ZIP版を使って導入した場合は、brlinput.exeと同じ場所に作られます。
* SAPI5やMicrosoft Speech Platformの音声を選べるようにしました。もちろんあらかじめパソコンに日本語音声合成が入っている必要があります。
* 情報処理用点字に切り替えられるようにしました。切り替えの方法や入力は点字表記の情報処理用点字と同じです。
* 入力モード切り替えのショートカットキー(標準はALT+CTRL+変換キー)を設定画面で変更できるようにしました。
* カタカナを直接入力できるようにしました。「2-3の点」もしくは「2-3-5の点」でカタカナ開始、「2-3の点」でカタカナ終了です。
* カタカナ切り替えに利用したため、「ゐ」と「ゑ」は本来の点字入力ができなくなりました。かわりに、4-6の点を前置符号として、それぞれその後に「い(1-2の点)」、「え(1-2-4の点)」で入力します。これは漢点字の方式からの借用です。
* ユニコード点字は点字そのものをテキストとして表示するものですが、それを行う六点直接入力、八点直接入力で、点字を読み上げる機能を加えました。設定画面で指定できます。なおユニコード点字そのものを入力するには、フォントSegoe UI Symbolなどが入っている必要があります。
* 点字確認キーを追加しました。これは点字入力を学習する人向けの機能です。Hキーでクリップボードの1文字の点字を表示し、読み上げます。Gキーではクリップボードの読み上げる位置を移動させながら、確認できます。
* 点字入力の状態を表示する「点字状態バー」を入力位置に追従できるようにしました。点字学習者やロービジョンの方の確認用です。
* デスクトップやスタートメニューへのショートカットを作成・削除できるようにしました。メニュー内の「ショートカット作成」から行います。ここではウィンドウズ起動時の自動起動の設定も行えます。
* 点字状態バーに表示される点字を画像として描くようにしたので、ユニコード点字フォントがないパソコンでも表示されるようになりました。この点字は文字色と同じ色で描かれます。ハイコントラスト(左shift+左alt+PrintScreenで切り替え)の時も同様です。また六点漢字(現在未対応)の対応を見越して4マス表示できるようにしています。

bar

次はメニューです。仮名入力の時、4-5-6の点とスペースを押して、手を離すと開きます。このソフトの仕様ですが、7の点としてのスペースや点字と組み合わせたコマンドのスペースの押下のタイミングは単独のスペースと区別するために、点字のキーを押さえた後に押します。

この方法でメニューが出ないときは、タスクトレイのアイコンから開いてください(Windows+Bのあと、矢印キーでアイコンに移動後、アプリケーションキーです)。

menu

次は設定ウィンドウです。上記メニューの設定項目を選んでエンター(クリック)で開きます。特に説明はいらないと思いますが、フォネティック読みは「朝日のア、いろはのイ、上野のウ....」といった例の読み方で、音声合成が聞き取りにくいときに使います。

settei

最後に、このソフトは入力情報の記録をとることはありません。また外部に情報を送信する機能はありません。



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2015年02月05日

《春》 描写に関係する文章

この絵を見て分かることから、この絵と関係のありそうな古典を探してみます。

 

画面に向かって左側の一番端には、一人の上を見上げた男性が描かれています。布か皮の茶色の、踵のあたりから翼の生えた二重の折り返しのある靴を履いています。形はサンダルではなくしっかりと足の甲や足首を包んでいますが、つま先の方はサンダルのように親指と人差し指の間にひもが通っていて、足の指がすべて出て、地面に指が着いているようです。左足が正面の鑑賞者の方を向き、左足の先は斜めに開いています。

左手は腰に当て、右手は頭上へと伸ばしています。その右手で二匹の竜のようなものが巻き付いている杖をまっすぐ上へと差し伸ばし、霞のようなものを触れています。頭には金属製の二重のつばのある兜をかぶっています。つばや装飾は金色をしていますが、丸い部分は紺色のように見えます。

その兜の下には、くるくると巻いた茶色がかった豊かな髪があふれ出しています。顔は右横を向き、目は杖の先を見上げています。口は、口笛を吹いているのかしゃべっているのか分かりませんが、薄く開いています。服装ですが、大きな赤い一枚の布の中程を右肩にかけています。帯をしているわけではなく、左腰にある左手で押さえて止めているように見えます。

左手の下に何か留め具があるのかもしれませんが、左手を腰から外したら、そのまま左半身がはだけてしまいそうです。体にかけている布の淵には、ぎっしりと小豆色の丸い装飾が埋め込まれています。この布の全面には、クラゲの足のような四五本の曲がった金色の線の小さな塊がいくつも描かれています。

この布の上から彼は剣をぶら下げています。刀は鞘に入って、左の太もも上を通って斜め外へと描かれています。黒い鞘には、右肩から伸びる黒い輪が留められています。刀の束は黒みがかって植物的な装飾がされています。鞘の先は柄と似た材質でできていているようで、湾曲し鋭くなりながら伸びています。鞘をぶら下げている紐は黒く、等間隔に丸い立体的な装飾が取り付けられています。

 

この像はおそらくメルクリウス(マーキュリー)でしょう。翼の生えた靴を履いていること、これは竜ですが二匹の蛇が巻き付いた杖を持っていること、そして本来は帽子ですがかぶり物をしていることで、彼がメルクリウスだと判断していいでしょう。ただメルクリウスが刀を持っているという記述は知りませんし、蛇であるはずのものが竜である意味も、帽子ではなく兜である理由も、本来の描写と違います。それでも彼はメルクリウスと言えるでしょう。

そこで、メルクリウスが記述された有名な古典を探すと、古典ギリシャ語で書かれた『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』が見つかります。これには長いものと、要約した短いものがあります。この両方に興味深い表現があります。ヘルメスの母マイアの特徴として「巻き毛の」、「洞窟に隠れ住む」という修飾がされています。

また長い方には「美しい靴をはいた」という記述があります。これは真ん中にいる一般的にはウェヌス(ヴィーナス)とされている女神の特徴に重なります。彼女はベールをかけているので、あまりよく見えませんが巻き毛のようです。ただ他の女性も巻き毛のように見えるのでこれだけでは断定できません。

しかし女神の後ろにある木々でできた丸いアーチは、確かに「洞窟」を連想させます。そして、彼女の履いている金色の細かな細工がされたサンダルは、はっきりと「美しい靴」といえるでしょう。この絵の中には他に靴を履いている女神はいないので、間違いようがありません。これはただの思い過ごしかもしれませんが、この符合は興味深いものです。

このギリシャ語の文章は詳しく解釈する価値があるでしょう。「美しい靴」の記述は長い方にしかないので、そちらを解釈すべきなのでしょうが、全部で580行もあり、そう簡単にはできません。そうやって以前解釈したのが12行の短い方です。これをも一度解釈し直してみましょう。そのあと長い方の重要そうなところを調べていくことにしましょう。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον, Ἀργειφόντην,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
Ατλαντος θυγάτηρ, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ: ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην:
λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
χαῖρ᾽. Ἑρμῆ χαριδῶτα, διάκτορε, δῶτορ ἐάων.

 

この次に調べるのは右側です。右端にいるのは、薄く青い肌をした翼の生えた男性です。彼は絵の右端から飛んできて、周囲に生えている木々の間から抜けてきたようです。彼の髪と翼、体をまとう布も肌よりも少し濃い青をしています。彼は左下にいる女性を抱えています。右手で彼女の右肩を、左手で彼女の左脇を捕まえて、軽く持ち上げているように見えます。辛うじて彼女の右足の先は地面に着いているようです。

彼女が着ているのは薄い衣で、透けて中の肌まで見えています。その衣は意外に長く、地面について広がっています。この衣は透明な無地ですが、股から下の部分には黒い草の模様が見えます。これは衣の向こう側が透けて見えているようにも見えますが、所々衣に描かれた模様のようでもあります。下の裾にだけ金色の縁取りがついています。

翼の男と彼に手をそえられている女は見つめ合っています。女の体は前を向いているので左の方に振り返りながら彼を見上げています。彼は頬を膨らまし、彼女の方へと息を吐いています。息の流れが白い筋として描かれています。一方、女の方は男の顔を見上げながら、口から花の咲いた草を次から次へとこぼしています。この草花は男の作った風に飛ばされるようにして、左に流されながら落ちていきます。

草花を口からこぼしている女の左隣には、花柄の服を着た女が描かれています。彼女はもっと後ろの方から歩いてきたかのように、左足を前に右足を後ろに描かれています。顔は進む方向をまっすぐ向いています。彼女の全身は花で満たされています。服だけでなく、髪にはいくつもの花を差し、首には花の首飾りを掛け、胸の下にはいくつもの花の咲いたバラの蔓が巻き付いています。おなかが大きいので妊娠しているのかもしれません。隣の女とは違い、服は透けておらず下の肌は見えません。その白い服には、いくつかの種類の植物が丁寧に一株一株描かれています。腕の部分は、金色の鱗状の模様のある布を結びつけたものが見えています。

おなかの下のあたりで、左手で服をたくし上げ、そこにたくさんの花を載せて抱えています。右手はその花の塊の中に入れていて、花をつかんでそれを撒こうとしているようにも、花がそこから落ちないようにしているようにも見えます。よくみるとこの花の塊の横には草履のような焦げ茶色のものも一緒に抱えています。これがいったい何なのかはよく分かりません。

左肘のあたりから右下の方に、白い帯状のものが流れて花の塊につながっています。この帯状のものは何かよく分かりませんが、葉のような大きな白い装飾が縁にいくつも並んでいます。これは左肘にある装飾と同じ形をしています。左肘から出ているものはすぐに体の後ろに回り込んでいるので、右肘からのもののように長いかどうかは分かりません。

この花柄の女の体の上を、透明な衣を着た女の両手が重ねて描かれています。右手はまっすぐ左下に伸ばされ、花柄の女の左ももの方に届きそうです。左手の肘は直角に曲げられ、右手の上を通って、花柄の女の左肘から二の腕のところに描かれています。両手はともに開いて驚いているような仕草になっています。この花柄の服の上に重ねられた手をよく見ると、服の柄のはずの植物の一部分が手の上にもかかっている奇妙な描写があります。

 

画面の右側には、このように三人像が重なるように描かれています。この重なりにはそれぞれの人物が絵の中の物語でも密接に関わり合っていることを予想させます。頬を膨らまし息を吹いている有翼の男と口から花草を出している女の組み合わせは、オウィディウスの『祭暦』5巻に出てくる花の女神フローラ(クロリス)と西風の神ゼフィロスです。194行は口から春のバラの息を出している女神フローラの記述があります。

dum loquitur, vernas efflat ab ore rosas

この後に書かれているのですが、彼女を誘拐して妻にしたのが、西風ゼフィロスです。風の神は翼とともに描かれるので、絵の中の有翼の青い男がゼフィロスだと分かります。体が青いことがとても奇妙ですが、それがなぜなのか今の段階では分かりません。

この行の後に、フローラ自身が自分は以前ギリシャ語でクロリスと呼ばれていたことを語ります。

Chloris eram quae Flora vocor: corrupta Latino
nominis est nostri littera Graeca sono.

この記述をもってEdgar Windは『Pagan Mysteries in The Renaissance』の中で、透明な服の女神をクロリスが花柄の服の女神フローラに変身したと解釈しました。また高階氏は『ルネッサンスの光と闇』の中で、その変身の解釈を踏襲し、さらにクロリスの指の上に花柄の一部が描かれていることを、この女性も服の向こう側にいるべき存在であることを示すとして、変身を強調する描写と指摘しました。

口から花を出す女神よりも、花柄の服を着た女神をフローラと解釈したい気持ちは分かります。しかし花を口から出しているだけでも、上記にそう記述されているので、彼女自身が既にフローラであることは示されています。また《ヴィーナスの誕生》に描かれている花柄の服の女神はフローラではなくホーラとしか解釈できません。つまり花柄の服を着ているからといって必ずしもフローラではないことを示す一例になります。同じ作者の作品においてこのような例があれば、その可能性も考慮する必要があるでしょう。

この記述を先に進んでいると217行目から次の内容があります。これはフローラの台詞ですから、上の句とちゃんとつながりがあります。

conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;
protinus accedunt Charites, nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.

ここにあるHoraeは季節女神ホーラたち、Charitesは優雅の女神カリスたち(三美神)のことです。三美神はこの絵の中に確かに描かれています。そして《ヴィーナスの誕生》で花柄の服を着ているのがホーラの可能性があったのですから、この記述によって《春》の花柄の服の女神もホーラであると示せるかもしれません。

このように『祭暦』のフローラが出てくる5月2日の記述がこの絵に関係しているようです。言葉遊びを使って詳しく確かめてみましょう。ただ5月2日の記述は、全部で220行もあります。これを解釈するのは大変です。以前調べたのが、下記の213行から228行までの16行だけでした。これの再検証と、もっと範囲を広げていくのが今回の目的です

saepe ego digestos volui numerare colores,
nec potui: numero copia maior erat.
roscida cum primum foliis excussa pruina est
et variae radiis intepuere comae,
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;
protinus accedunt Charites, nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.
prima per immensas sparsi nova semina gentes:
unius tellus ante coloris erat;
prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.
tu quoque nomen habes cultos, Narcisse, per hortos,
infelix, quod non alter et alter eras.
quid Crocon aut Attin referam Cinyraque creatum,
de quorum per me volnere surgit honor?

 

『祭暦』の記述の中に三美神が出てきたので、きっと三美神の描写は上記の中にあるでしょう。しかしもっと詳しい三美神についての文章を見つけました。それが先日述べたフィチーノの『愛について』の一文です。

Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.
Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo;
prout in mundum transiens ipsum rapit, amor;
prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas.
Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.

この文章は前述のEdgar Wind の『Pagan Mysteries in The Renaissance』の中で引用されていたものです。ピコ・デラ・ミランドラのメダルに刻まれた三美神の周りにある銘文「PULCHRITUDO AMOR VOLUPTAS」の典拠として示されました。メダルの三美神に対して三つの単語ですから、それぞれがその女神の名前を左から順に表していると考えられます。

しかしWind はそのあとで《春》においては、右から順に、PULCHRITUDO CASTITAS VOLUPTASと断定してしまいました。つまりAMOR(愛) がCASTITAS(貞節) に置き換わっています。これは別の当時作られたジョヴァンナ・トルナブオーニの三美神メダルの銘文「CASTITAS PULCHRITUDO AMOR」と折衷させたものです。Wind のネオ・プラトニズム的解釈では、質素な身なりであることや、右辺のクロリスからフローラへの変身に対応させるために、三美神の真ん中の女神はウブな貞節である必要がありました。

しかし《春》を眺めていると、このピコ・デラ・ミランドラの配列で問題ないように思います。その理由は、三美神の周りにいる神々の存在です。右端の女神は美しい画面中央の女神のそばで彼女に手をかざされ祝福されているのでPULCHRITUDO(美)を表し、真ん中の女神は上空のクピドから首筋を狙われているのでAMOR(愛)を表し、そして左端の女神は男性の体のそばに寄り添っているのでVOLUPTAS(快楽)を表すと解釈できます。

そう考えて、このフィチーノの言葉を見直してみると、この記述がこの絵の中の三美神の描写そのものに見えてきました。この文章の前後も含めて、フィチーノの文章を再び解釈してみます。

 

以上のように、三つの文章がこの絵に関係があると思われます。これらの文章は以前も解釈したのですが、範囲が広げられないか試しながら、解釈を整理してみます。



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2015年02月03日

《春》 古典語の言葉遊びが鍵である可能性

今まで考えてきたボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》の解釈をまとめていこうとしているのですが、その前に。

ボッティチェリの神話を描いた絵画、《春》、《ヴィーナスの誕生》、《パラスとケンタウロス》、《ヴィーナスとマルス》は、何の物語を描いているのかがはっきりしません。一見、神話の一場面のように見えるものも、細かい部分では神話の記述とは明らかにずれています。また青いゼフィロスや、ツタの絡まった女神など奇妙な描写がよく見られます。問題のないような絵であっても細部には奇妙な描写が描かれています。そういった記述のずれや、奇妙な描写は古典語の言葉遊びのためではないかというのが、僕の主張の中心です。

繰り返しになりますが、ここでやっている言葉遊びについて改めて説明します。

ボッティチェリの神話がどの物語を描いているのか知りたくて、ラテン語や古典ギリシア語といった古典語の原典を引用しながら長い間調べていました。すると、あるとき三美神の描写とフィチーノの『愛について』というラテン語の文章との間の関係に気づきました。→ 《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について

Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.
Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo;
prout in mundum transiens ipsum rapit, amor;
prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas.
Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.

このラテン語の文章で言葉遊びをすると、彼女たちのダンスの様子を記述しているように解釈できました。例えばmudusという言葉に「世界」という意味と「装飾」という意味があるのですが、これを使うと三美神の左右の女神だけが宝石を付けていることを示していると解釈できます。今から見直すと不正確なところもありますが、この文章との出会いにより、言葉遊びがすべてを解く鍵かもしれないと気づきました。

もちろん、これだけではただの偶然かもしれません。単語にはいろんな意味があるのでかなりのこじつけが可能です。しかし、こじつけが可能だからこそ、抽象的な哲学の言葉を、こんなに美しい具象へと変えることができるとも言えます。これがきっかけになって、見えたままの描写が記述されている古典だけでなく、言葉遊びでこの絵の描写になる古典も探索の対象にすることにしました。大量に連続して古典の記述と絵の描写の対応が見つかれば、それは偶然ではなく、必然と言えるようになるでしょう。

そうやってボッティチェリの神話画について典拠をいろいろ探しながら、いろいろここで書いてきたわけです。この中で見つけた、言葉遊びが確かに描かれていると考えられる作品の例を挙げてみます。

まず、《アペレスの誹謗》です。この絵は神話ではなく、古代ギリシアの画家アペレスが自分の身に起こった出来事を元に表した絵を、ボッティチェリが再現したものです。アペレスの描いたとされる絵の内容は、やはり古代ギリシア時代の作家ルキアノスが文章として残しています。そしてさらにその内容をボッティチェリよりも半世紀ほど前に生まれたアルベルティが書いた『絵画論』の中で詳しく紹介しています。

アペレスが書いたとされる元の絵の描写はルキアノスの著作の中にしかありませんから、ボッティチェリの《アペレスの誹謗》はこの文章を元に描いたとしか考えられません。読むとすぐに分かりますが、この文章に記述されている人物が確かに描かれているのが分かります。あとは絵に使ったのが、ルキアノスの古典ギリシア語の原典そのものか、翻訳かということでしょう。アルベルティの『絵画論』はイタリア語版とラテン語版があるので、そのイタリア語とラテン語の可能性もあります。また『絵画論』とは別のルキアノスの翻訳の可能性もなくはないでしょう。

どの記述を元にしたかについての議論はロナルド・ライトボーンの『ボッティチェリ』や、パノフスキーの『イコロジー研究』で触れられています。自分でも古典ギリシア語、イタリア語訳、ラテン語訳、ついでに英語訳、ドイツ語訳を、それぞれ和訳して絵の内容と比べてみました。→ カテゴリー:アペレスの誹謗

それで分かったのは、直接古典ギリシア語を元にして描いているということです。確かに記述は絵の内容に対応していますが、どうしても絵の中に見つけられない文章が残ります。そこで残ったその文章で言葉遊びをやってみると、どれも絵の中の描写として当てはめていくことができました。最初は絵として表しやすいものだけを描いているのかと考えていましたが、その章のギリシア語の言葉を一語も残さずに絵の中に見つけることができました。この絵の中に描かれていない記述と、この絵の中にある奇妙な描写の対応を示すことができたわけです。

ἐν δεξιᾷ τις ἀνὴρ κάθηται τὰ ὦτα παμμεγέθη ἔχων μικροῦ δεῖν τοῖς τοῦ Μίδου προσεοικότα, τὴν χεῖρα προτείνων πόῤῥωθεν ἔτι προσιούσῃ τῇ Διαβολῇ. περὶ δὲ αὐτὸν ἑστᾶσι δύο γυναῖκες, ῎Αγνοιά μοι δοκεῖ καὶ ῾Υπόληψις・ ἑτέρωθεν δὲ προσέρχεται ἡ Διαβολή, γύναιον ἐς ὑπερβολὴν πάγκαλον, ὑπόθερμον δὲ καὶ παρακεκινημένον, οἷον δὴ τὴν λύτταν καὶ τὴν ὀργὴν δεικνύουσα, τῇ μὲν ἀριστερᾷ δᾷδα καιομένην ἔχουσα, τῇ ἑτέρᾳ δὲ νεανίαν τινὰ τῶν τριχῶν σύρουσα τὰς χεῖρας ο)ρέγοντα εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ μαρτυρόμενον τοὺς θεούς. ἡγεῖται δὲ ἀνὴρ ὠχρὸς καὶ ἄμορφος, ὀξὺ δεδορκὼς καὶ ἐοικὼς τοῖς ἐκ νόσου μακρᾶς κατεσκληκόσι. τοῦτον οὖν εἶναι τὸν Φθόνον ἄν τις εἰκάσειε. καὶ μὴν καὶ ἄλλαι τινὲς δύο παρομαρτοῦσι προτρέπουσαι καὶ περιστέλλουσαι καὶ κατακοσμοῦσαι τὴν Διαβολήν. ὡς δέ μοι καὶ ταύτας ἐμήνυσεν ὁ περιηγητὴς τῆς εἰκόνος, ἡ μέν τις ᾿Επιβουλὴ ἦν, ἡ δὲ ᾿Απάτη. κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι, αὕτη ἐλέγετο・ ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν. Οὕτως μὲν ᾿Απελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.

この文章か翻訳以外にこの絵の描写を知ることができない状況で、これだけの長さのひとまとまりの文章を、たとえこじつけの言葉遊びを使って、すべて絵の中に見つけることができたということは、これが古典ギリシア語そのものを元にし、そのこじつけが絵の作られたときにも行われたことを示していると考えていいと思います。

(この文章は人物の特徴だけを表現していますが、この絵にはもっとたくさんの描写が描かれています。つまりこの章の前後の文章もこの絵の中に描かれていると考えるのが自然でしょう。正直将来残りの解釈をすることが楽しみで楽しみでしょうがない。)

同様なことが、有名な《ヴィーナスの誕生》の典拠についても言うことができます。《ヴィーナスの誕生》と『ホメロス讃歌』の二番目の長さの『アフロディーテ讃歌』を比べてみます。『ホメロスの参加』の中には三種類の『アフロディーテ讃歌』があって、その中の二番目の長さのものに、西風ゼフィロスに運ばれて上陸するアフロディーテ(ヴィーナス)と、彼女を迎え入れる季節女神ホーラたちの場面が描かれています。

Εἲς Ἀφροδίτην
αἰδοίην, χρυσοστέφανον, καλὴν Ἀφροδίτην
ᾁσομαι, ἣ πάσης Κύπρου κρήδεμνα λέλογχεν
εἰναλίης, ὅθι μιν Ζεφύρου μένος ὑγρὸν ἀέντος
ἤνεικεν κατὰ κῦμα πολυφλοίσβοιο θαλάσσης
ἀφρῷ ἔνι μαλακῷ: τὴν δὲ χρυσάμπυκες Ὧραι
δέξαντ᾽ ἀσπασίως, περὶ δ᾽ ἄμβροτα εἵματα ἕσσαν:
κρατὶ δ᾽ ἐπ᾽ ἀθανάτῳ στεφάνην εὔτυκτον ἔθηκαν
καλήν, χρυσείην: ἐν δὲ τρητοῖσι λοβοῖσιν
ἄνθεμ᾽ ὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντος:
δειρῇ δ᾽ ἀμφ᾽ ἁπαλῇ καὶ στήθεσιν ἀργυφέοισιν
ὅρμοισι χρυσέοισιν ἐκόσμεον, οἷσί περ αὐταὶ
Ὧραι κοσμείσθην χρυσάμπυκες, ὁππότ᾽ ἴοιεν
ἐς χορὸν ἱμερόεντα θεῶν καὶ δώματα πατρός.
αὐτὰρ ἐπειδὴ πάντα περὶ χροῒ κόσμον ἔθηκαν,
ἦγον ἐς ἀθανάτους: οἳ δ᾽ ἠσπάζοντο ἰδόντες
χερσί τ᾽ ἐδεξιόωντο καὶ ἠρήσαντο ἕκαστος
εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι,
εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης.
χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε: δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι
νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.
αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.

この記述と絵の描写の違いは、アフロディテが貝ではなく泡に乗ってやってくること、ゼフィロスが一人でいること、迎え入れるホーラが複数であることなどで、登場人物はだいたい合っているのに、絵の場面としては明らかに違っています。そのためこの詩に影響を受けていると思われるポリツァーノの『ラ・ジョストラ』の方が一般には典拠だと考えられます。こちらには、貝とゼフィロスの連れアウラ(そよ風)が記述されているからです。ただこの詩でも出迎えが複数だったり、完全に記述と描写が一致するわけではありません。

そこで、この古典ギリシア語の文章も言葉遊びをしてみました。すると、これもすべての単語をこの絵の中に見つけることができました。例えば、本来複数のはずの出迎えのホーラが一人しかいないのは、古典ギリシア語の語形変化によって説明できます。またゼフィロスと一緒にいる有翼の女神は、勝利の歌を歌う女神ニケと解釈できます。さらにこの絵の左の角にある点描で書かれた部分はἄλλης ἀοιδῆςの言葉遊びの「異質な隅」のことだと分かります。今回は特に一つの詩全部が残らず描かれています。つまりこの絵は一つの詩と等価な存在と言えるでしょう。詳しくは→  《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(1) 以降。

このように古典語の文章を言葉遊びをすることで、連続して大量に絵の中に見つけ出すことができます。これらの古典は大抵いままで研究者が何らかの関係があると指摘をしてきたものです。なぜなら単語の意味すべてが言葉遊びによって別の意味に変えられるわけではなく、意味を変えなくても絵として描ける場合は、そのままの内容で描かれているからです。出典を分からなくするために、言葉遊びをしているのではなく、抽象的で絵の描写にしにくい記述を、仕方なく、具象的な意味に置き換えているに過ぎないと思われます。しかしこれを理解するには最低限、ラテン語やギリシア語の意味が分からないと無理なので、そう簡単には分からなかったというわけです。さらにヴァザーリや初期の解釈者が与えたもっともらしい先入観が、思い込みや願望を誘発させて、みんなを解けない方向に導いてしまいました。

そういうわけで、手法の説明が済みました。次は《春(プリマヴェーラ)》と関係ある古典について説明を行います。どういう理由で、それらの古典が関係あると思われるのか詳しく述べていきます。また古典ではありませんが、最初に説明したフィチーノの『愛について』の一節が関係あると思われた理由も説明します。



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2015年01月27日

《春》 典拠解釈の再開

再び《春(プリマヴェーラ)》についての典拠の解釈をやっていきます。断続的でしたが、《春》についての考察をし始めてもう6年です。もうそろそろ解釈を完成させたいと思います。わざわざ宣言してから再開しなくてもいいのですが、意識してスイッチを切り替えないと、なかなか集中力を高められないのです。

今までの考察によって次のことが分かってきました。この絵の典拠となるものは、『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』、Ovidiusの『祭暦』第五巻の一部分、そしてFicinoの『愛について』第二巻第二章の一部分だと思われます。それも、これらの文章をそのまま描いたのではなく、ラテン語や古典ギリシャ語の意味を言葉遊びで変化させて描いています。本来の解釈とは違う意味だからこそ、よく分からない描写がいくつもこの絵に現れているのであり、典拠となる文章がどうしてもはっきりしなかったわけです。このことはBotticelliの他の異教画についても言えます。去年の段階での他の作品を含めた要約は「ボッティチェリの神話画の解釈」に書いています。

典拠の解釈によって導き出されたこの絵の神々は、従来指摘されていたものと違ってきます。Vasariの記述を根拠に中央の女神はヴィーナス(ウェヌス)と信じられてきましたが、彼女はマーキュリー(メルクリウス)の母親マイアとなります。またEdgar Windが唱えてから有力な解釈とされてしまったクロリスからフローラへの変身は否定されるべきものです。口から花をこぼしている女神はフローラで、その花を服を寄せて作った急ごしらえの籠で受けている女神は季節女神ホーラの一人です。

このように神々の特定など、ほぼこの絵の解釈は完成しています。ただ断片的に考察を続けてきたので、整合性がとれていなかったり、全体像がつかみにくくなっています。去年の《ヴィーナスとマルス》の解釈でやったようなまとめをしばらくやってみようと思います。

それはそうと、去年の年末、《パラスとケンタウロス》が日本にやってきました。不思議なこの絵について関心を持った人が、ここを見てまだ完成していない僕の解釈が世の中に広まるか、ちょっと心配したのですが、そうはなりませんでした。20万人以上絵画展に行ってて、《春》と違って、《パラスとケンタウロス》は検索上位なのに、ここまで理解してもらえないのも、それはそれで相当へこんでしまいます。でもやはり今はそのほうが都合がいいです。訳が分からないことを書いていると思って無視してもらった方が集中できます。



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posted by takayan at 02:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月20日

『アナクレオンテア』と《ヴィーナスとマルス》

前回まではルクレティウスの『物の本質について』とボッティチェリの《ヴィーナスとマルス》との関係を調べてみました。『物の本質について』の冒頭にあるウェヌスを讃えている文章を意図的に違う意味になるように翻訳すると、絵に落書きする人の独白になることが分かりました。そしてこの記述がまさに《ヴィーナスとマルス》の描写そのものだと示せました。今回はアナクレオンテアの一つの詩と《ヴィーナスとマルス》との関係を示します。絵に落書きをするからには、落書きの対象となる絵が前もって存在しなくてはなりません。今回示すのは落書き以前のその絵の典拠となるものです。

アナクレオンテアのこの詩については以前もここに書いたのですが、そのときはとてもいい加減な翻訳をしていました。一つの詩の言葉遊びが絵の描写の典拠となりうるという、他のボッティチェリの神話画の解釈にとっても重要な手掛かりとなるものですが、当時の私の古典ギリシャ語文法の知識に限界があって正確には訳出できませんでした。断片的な解釈では、この絵との対応を指摘できていましたが、細かな詰めの部分では完全に証明できていませんでした。今回はできるだけ厳密に単語の意味を調べ、絵との対応を深めていこうと思います。

その前に言葉の説明です。アナクレオンテアとは紀元前六世紀に活躍した古代ギリシャの詩人アナクレオンの作風に似た詩のことです。16世紀に詩集が出版されると西洋の芸術に大きな影響を与えました。この詩の一つに、クピドが蜂に刺されて母ウェヌスに泣きつくと、ウェヌスが彼に人の痛みについて諭すという内容の作品があります。ちなみにこの詩に近い内容のものとしてテオクリトスの『牧歌』第19歌『蜂蜜泥棒』(偽作)があり、この詩をもとにルーカス・クラナッハはヴィーナスとクピドの絵を描いています。さて、アナクレオンテアのこの詩と《ヴィーナスとマルス》の絵の共通点は、「ウェヌス」と「蜂」だけです。記述されるべきマルスがいません。そして従来の解釈では描かれていないはずのクピドがいます。しかしこのアナクレオンテアの詩を真面目に誤訳していくと、この絵を見ながら書いた詩であるかのような内容に変えることができます。

Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι
κοιμωμένην μέλισσαν
οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη
τὸν δάκτυλον. Πατάξας
τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·
δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς
πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην,
ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν,
ὄλωλα, κἀποθνήσκω.
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς,
πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι
μέλισσαν οἱ γεωργοί.
Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον
πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης,
πόσον δοκεῖς πονοῦσιν,
Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

これがその詩のギリシャ語原文です。記号付のギリシャ文字を使っているので、スマホなどでは正しく表示されない可能性があります。以下の文章内でのギリシャ文字も同様です。原文を確認したい場合は次のリンク先にある画像化したものを見てください。[画像化したテキスト]

それでは、まずこの詩の本来の意味を解釈してみます。なお古典ギリシャ語の詩を解釈するため、神々の固有名詞はギリシャ神話のものを使います。対応が必要なローマ神話での名前は括弧内に記しています。


Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.

ここで使われている単語は次の通り。Ἔρωςは男性名詞Ἔρως「愛、エロス(クピド)」の単数主格。ποτ΄はποτε「あるとき、かつて」の母音省略。ἐνは与格支配の前置詞ἐν「の中で」。ῥόδοισιは中性名詞ῥόδον「バラ」の複数与格。κοιμωμένηνは動詞κοιμάω「眠らせる」の中動態現在分詞の単数女性対格。μέλισσανは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数対格。οὐκはοὐ「英語のnot」。εἶδενは動詞εἶδον「見る」の三人称単数アオリスト。ἀλλ΄は接続詞ἀλλά「そして、しかし」の母音省略。ἐτρώθηは動詞τιτρώσκω「傷つける」の受動態三人称単数アオリスト。τὸνは冠詞ὁの単数男性対格。δάκτυλονは男性名詞δάκτυλος「指」の単数対格。

この文の主節はἜρως ποτ΄ μέλισσαν οὐκ εἶδενで「あるときエロスは蜂を見ていなかった。」となります。ἐν ῥόδοισι κοιμωμένηνは分詞句でκοιμωμένηνは中動態なので「眠っている」となり、合わせて「バラの中で眠っている」となります。この分詞は女性単数対格なので、蜂μέλισσαと性数格が一致して、これを修飾しているのが分かります。そのあとに接続詞ἀλλάに導かれて従属節「ἐτρώθη τὸν δάκτυλον」が続きます。動詞が受動態なので「彼は指を傷つけられた。」という意味になります。全体をまとめると、「あるとき、エロスはバラの中で眠っていた蜂に気付かず、指を刺されてしまった。」となります。


Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε· δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα, κἀποθνήσκω.

πατάξαςは動詞πατάσσω「叩く」のアオリスト分詞の男性主格単数。τὰςは冠詞ὁの単数女性属格もしくは複数女性対格。χεῖραςは女性名詞χείρ「手」の複数体格。ὠλόλυξεは動詞ὀλολύζω「大声で泣く」の三人称単数第2アオリスト。δραμὼνは動詞τρέχω「走る」のアオリスト分詞の単数男性主格。δὲは接続詞「そして、しかし」。καὶは接続詞「そして」。πετασθεὶςは動詞πέτομαι「飛ぶ」の受動態第2アオリスト分詞の単数男性主格。πρὸςは対格支配の前置詞「の方へ」。τὴνは冠詞ὁの単数女性対格。καλὴνは形容詞καλός「美しい」の単数女性対格。Κυθήρηνは名詞Κυθηριάς「キュテレイア、アフロディーテ(ウェヌス)の別名」の単数女性対格。ὄλωλαは動詞ὄλλυμι「失う、死ぬ」の一人称単数完了。μῆτερは女性名詞μήτηρ「母」の単数呼格。εἶπενは動詞εἶπον「言う」の三人称単数アオリスト。κἀποθνήσκωは動詞ἀπόθνήσκω「死ぬ」の直説法か接続法の一人称単数現在。

ὠλόλυξεが主動詞で、その省略されている主語は文脈からエロスとなり、意味は「彼(エロス)は大声で泣いた。」です。πατάξας τὰς χεῖραςの分詞は男性主格単数なので、このエロスを修飾していると考えます。まとめると「両手を叩きながら彼は泣き喚いた。」となります。

δὲは前の文との接続詞。そのあとのκαὶが二つの分詞をつなぐ等位接続詞。δραμὼνは分詞の単数男性主格、πετασθεὶςも分詞の単数男性主格で、両者ともエロスの動作を表しています。πρὸςはこれらの動作の方向を示す前置詞で、その目的語が単数女性対格のτὴν καλὴν Κυθήρην「美しいキュテレイア(アフロディーテ)」です。ここでπετασθεὶςは受動態の活用語尾をしていますが、能動態のないデポネント動詞なので、受動態でも「飛んで」と訳します。ここまでをまとめると、「そして、彼(エロス)は走ったり、飛んだりして美しいキュテレイア(アフロディーテ)の方に向かった。」となります。

εἶπενは三人称単数アオリストで、この前後にある言葉がエロスの台詞であることを示しています。ὄλωλαは一人称単数完了の動詞で、エロスが自分を主語にして話している言葉です。同様にκἀποθνήσκωも一人称単数の動詞で、これもエロス自身の言葉です。ただしこれは完了形ではなく、現在形です。ὄλωλαは蜂に刺されたさっき起きた出来事を表していて、κἀποθνήσκωは死ぬほど痛くてたまらないという現在を表しています。ὄλλυμιもἀπόθνήσκωも「死ぬ」という意味がありますが、前者は刺されたときの様子なので、「怪我をした」と訳してみます。途中にあるμῆτερは呼格で「お母さん!」、これもやはりエロスの台詞です。まとめると、「『僕怪我しちゃったよ、お母さん、怪我しちゃったよ、僕死んじゃうよ』と彼(エロス)は言った。」と訳せます。


Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.

ὄφιςは男性名詞ὄφις「蛇」の単数主格か複数対格。μ΄はμεの母音省略で、人称代名詞の一人称単数対格。ἔτυψεは動詞τύπτω「叩く、刺す」の三人称単数アオリスト。μικρὸςは形容詞μικρός「小さい」の単数男性主格。πτερωτὸςは形容詞πτερωτός「羽のある」の単数(男性/女性)主格。ὃνは代名詞ὅς「」の単数(男性/中性)対格。καλοῦσιは動詞καλέω「呼ぶ」の三人称複数現在。μέλισσανは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数対格か複数属格。οἱは冠詞ὁの複数男性主格。γεωργοίは男性名詞γεωργόςの複数主格。

主節はὄφις με ἔτυψεで、ἔτυψεは蛇による攻撃なので「噛まれる」として、子どもの台詞っぽくして「蛇が僕を噛んだんだ。」となります。ここも前の文からの続きで、エロスの台詞と考えています。μικρὸςとπτερωτὸςはともに単数男性主格で主語のὄφιςを修飾しています。ここまでで「小さくて、羽の生えた蛇が僕を噛んだんだ。」とします。実際はエロスは刺されたわけですが、蜂のことを知らないので、蛇をたとえに出したのでしょう。蛇を知っているエロスは、おそらく蛇の毒のことも知っていて、そのために彼は自分が死んでしまうと考えたのかもしれません。単数男性対格のὃνは人称代名詞ですが、ここでは関係代名詞の役割をしています。先行詞はὄφιςです。関係節の主語は複数男性主格のοἱ γεωργοίで、意味は「農家の人たち」です。動詞はκαλέωで、この動詞は二つの対格をとるとき「AをBと呼ぶ」という意味で訳せます。この文ではὃνとμέλισσανがその二つの対格です。関係節をまとめると、「農家の人たちが蜂と呼んでいる〜」となります。全体で、「農家の人たちが蜂と呼んでいる、小さくて羽の生えた蛇が僕を噛んだんだ。」となります。


Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

ἡは代名詞ὅςの単数女性主格。δ΄は接続詞δέの母音省略。εἶπενは動詞εἶπον「言う」の三人称単数アオリスト。εἰは接続詞εἰ「英語のifに相当」。τὸは冠詞ὁの単数中性(主格/呼格/対格)。κέντρονは中性名詞κέντρον「刺激、針、突き棒」の単数(主格/呼格/対格)。πονεῖは動詞πονέω「(自動詞)苦労する、(他動詞)苦しめる」の能動態三人称単数現在か受動態/中動態二人称単数現在。τῆςは冠詞ὁの単数女性属格。μελίσσηςは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数属格。πόσονは疑問の相関代名詞πόσος「どれだけ?」の単数男性対格か単数中性(主格/呼格/対格)もしくは副詞。δοκεῖςは動詞δοκέω「考える、思う」の二人称単数現在。πονοῦσινは動詞πονέω「(自動詞)苦労する、(他動詞)苦しめる」の三人称複数現在。Ἔρωςは男性名詞Ἔρως「エロス(クピド)、愛」の単数主格。ὅσουςは関係の相関代名詞ὅσος「〜と同じくらいであるところの」の複数男性対格。 σὺは人称代名詞σύの二人称単数主格。βάλλειςは動詞βάλλω「投げる、攻撃する」の二人称単数現在。

δέは接続詞。ἡは三人称単数の代名詞で、文脈からエロスに話しかけられているアフロディーテのことだと分かります。ἡ δ΄ εἶπενは「そして彼女(アフロディーテ)は話した。」となります。その内容がこの後すべてです。すぐ後のεἰで条件節τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσηςを導きます。ここで分からないことが一つあります。πονεῖの前のτὸ κέντρονと後ろのτὸが同じものを表しているとしか考えようがないことです。この文法的な理由がよくわかりません。とりあえず詩としての構成の関係上、τὸ κέντρονをπονεῖの前に置かざるを得ないのだけれど、前に出してしまうと、それを修飾する属格との距離が離れてしまうので、属格の修飾を受けるために代名詞をそこに残した。そう考えてみました。間違っていたらすみません。つまり条件節をπονεῖ τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςと考えて解釈します。πονεῖは受動態二人称と考え「あなたは苦しめられる」とします。従って、τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςは「蜂の針」と訳せるので、「あなた(エロス)が蜂の針に苦しめられているのならば、」となります。

次に主節です。主節はπόσον δοκεῖς πονοῦσινです。動詞はδοκεῖς「考える、思う」です。その後にも動詞πονοῦσινが並んでいますが、δοκέωは独立節を目的語にすることができるので、考える内容を表す節の動詞だと分かります。先頭の疑問詞πόσονは英語のhow much?、how many?などに相当する単語ですが、この場合δοκεῖς ではなくπονοῦσινに付属する間接疑問詞と考えます。πονοῦσινは前に別の形で出てきた動詞ですが、ここでは自動詞の能動態で「苦労する、苦しむ」と解釈します。主語は三人称複数となりますが、これはここまでに出てきた言葉にはありません。ここでは単に「人々、みんな、他の人」とします。動詞を自動詞と考えるので、πόσονは副詞となります。「みんながどんなに苦しいか、あなたは考える?」となります。

次のἜρωςは呼びかけです。そのあとはὅσουςが導く関係節σὺ βάλλειςです。男性複数与格のὅσουςは英語のas much asやas many asなどに相当する言葉です。先行詞にあたるのはπονοῦσινの複数主語となるでしょう。そして、σὺ βάλλειςのσὺ(英語の単数主格のyouに相当)は、ここもまだアフロディーテの発言なので、エロスを表しています。そして主語がエロスならば、彼は常に弓矢を携行しているので、動詞βάλλειςは「矢を射る、矢を刺す」となります。もちろん同じように人を尖った物で刺す蜂との対比です。複数対格のὅσουςはこの動詞の目的語になるので、エロスの矢の餌食になるたくさんの人々のことを表しています。「同じようにたくさんの人たちにあなたは刺している。」となります。

まとめるとこうなるでしょう。

すると彼女は言った。「あなたが蜂の針に苦しめられているのならば、他の人もどんなに苦しいか、考えてごらん?エロス!同じようにたくさんの人にあなたも矢を刺しているのよ。」


少し推敲して全体をまとめるとこうなります。

あるとき、エロスは、バラの中で眠ていた蜂に気が付かずに、指を刺されてしまった。両手を叩きながら、彼は泣き喚いて、美しきキュテレイアへ駆けて飛んで、「僕ケガしちゃったよ、お母さん!」彼は言った。「ケガしちゃったよ、僕死んじゃうよ。」「農家の人たちがハチと言ってる、小さくて羽の生えた蛇が僕を噛んだんだよ」。すると彼女は言った。「あなたが蜂の針に苦しんだのならば、他の人もどんなに苦しいか考えてごらんなさい。エロス!同じようにたくさんの人にあなたも矢を刺しているのよ。」

このままだと《ヴィーナスとマルス》とは似ても似つきません。キュテレイア(ウェヌス)と蜂という単語があるだけの詩にすぎません。


今度は、絵に合わせた翻訳を行います。

Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.

ποτ΄はπότεの省略形ですが、名詞πότηςの省略と考えることもできます。πότηςは男性名詞で「酔っ払い、酒豪」という意味の単語です。語尾が省略されているので、いろんな格・数とみなすことができます。この絵で酔っ払いに見えるのは横になっているアレス(マルス)です。次にἐν ῥόδοισιです。本来「バラの中」と訳されますが、ῥόδοισιを「バラ色の物」と考えてみます。またἐνは英語のinだけでなくon、at、byでもいいので、ἐν ῥόδοισιは「バラ色の物の上で」と解釈できます。κοιμωμένηνは中動態現在分詞の「眠っている」ではなく、受動態現在分詞で「なだめられている」とします。したがって、πότε ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσανは、ピンク色の敷布の上にいる酔っ払ったアレスが暴れないようになだめている蜂を表すことになります。この絵のようにぐったりとする前のことでしょう。蜂をなだめるというのがちょっと奇妙な表現ですが、蜂が暴れ出したら大変です。

rose

主節のἜρως μέλισσαν οὐκ εἶδενは本来「エロスは蜂を見ていなかった」となりますが、エロス(クピド)が大きな兜をかぶったサテュロスだとすれば、その兜が邪魔で周りが見えないのは絵のとおりです。まさに兜がいつもの布きれの代わりの立派な目隠しとなっています。エロスが矢でなく、槍で攻撃していることが奇妙ですが、矢は古典ギリシャ語でβέλοςであり、これは飛び道具全般も表します。イタリア語だとarma da lancioとなります。この絵の槍は投げない馬上槍試合で使うランスですが、これはイタリア語ではlancia da giostraであり、lanciaの一種であれば、投げる槍と同様にβέλοςの範疇となります。このように兜も槍もいつものエロスの装備の単なる言葉遊びになっているのが分かります。彼は確かにエロス(クピド)となります。

μέλισσανを修飾していた先ほど解釈した分詞句と合わせると、「酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上でなだめている蜂をエロスは見ていなかった。」となります。これはアレスが起きているときの記述なので、この絵よりも前の出来事となり、この絵の中で見つけることはできません。やがて彼は眠くなり、この絵で描かれているように、そのバラ色の物の上で寝ているわけです。

blinderos

ἐτρώθη τὸν δάκτυλονが、そのまま「指を傷つけられた」だとすると、エロスの指に傷がないといけません。しかしどの指にも見つかりません。そこで三人称単数の主語が、この絵の中の別の誰かと仮定して、一本一本丹念に探していくと、ウェヌスのこれ見よがしに放り出している左足の親指に傷があります。意味ありげにアレスの右の人差し指が、この傷を指さしています。なおこのアレスの指差しの描写は、この詩ではなく、『物の本質について』の記述の中で明らかになります。

fingerwound

この文をまとめると、次のようになります。

酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上でなだめている蜂をエロスは見ていなかった。そして彼女(アフロディーテ)は指を傷つけられた。


Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε· δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα, κἀποθνήσκω.

πατάξαςはπατάσσω「叩く、傷つける」の三人称単数アオリストとみなすことができるので、ここを分詞句ではなく節として考えます。τὰςを単数女性属格、χεῖραςを女性名詞χειράς「ひび」の主格と考えれば、この節の意味は「あなたは彼女のひびを傷つけた。」となります。これだとひびが既にあったように思えてしまうので、「あなたは彼女のひびをつけた。」とします。この「ひび」とは先ほど確認したアフロディーテの傷のことになります。ただこの主語は、この中に描かれた者でしょうが、まだ誰だかわかりません。ただアフロディーテを彼女と呼んでいるので、これはアフロディーテ以外の人物視点の言葉でしょう。そうなると傷を付けた者への批判の言葉となるでしょう。

次にὠλόλυξεです。これは「鋭い声を出す」という意味ですが、声代わりに音とすれば、これは右端のサテュロスが持っているほら貝の音を表していると考えることができます。イタリア語のvoceは声も楽器の音色も表すことができるので、この言い換えは可能です。つまり、ὠλόλυξεで「彼は鋭い音を発した。」となり、右端のサテュロスについての記述となります。

loudcrying

δὲは「そして」。δραμὼν καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρηνは真ん中のサテュロスの描写と考えます。彼は足を大きく開いて、走っている姿をしています。またしっぽの様子から彼が飛び跳ねている様子もわかります。そして顔がアフロディーテ(ウェヌス)の方を向いていいます。アフロディーテはそれだけで美しく描かれていますが、念を押すために宝石を身につけています。καλόςのイタリア語の意味の中にglorioso「輝かしい」があります。ここをまとめると「輝かしいアフロディーテの方を向いて走って、跳ねていた」となります。

runandjump

toAphrodite

次はὄλωλαの意味です。彼はどこも怪我はしていません。しかし、見ようによっては右腕を槍が貫通しています。この描写に対して、僕は壊れたと訴えているわけです。そしてアフロディーテをお母さんと呼んでいて、なおかつこの子は男の子のようですから、アフロディーテとアレスの間の男の子ども、フォボスかダイモスになるでしょう。εἶπενはそのまま「彼は言った」と訳します。確かに彼は口を開いています。もう一つ、ὄλωλαがあります。これはただ繰り返しとします。そしてκἀποθνήσκωです。これは自動詞のままで「僕死んじゃうよ!」とします。彼の顔の表情から母親の気を引こうとしているだけのように思われます。

まとめるとこうなります。

あなたは彼女(アフロディーテ)のひびを付けた。彼(右端のサテュロス)は鋭い音を発した。そして輝くアフロディーテの方を向いて走って跳ねながら、「僕壊れちゃったよ!お母さん」と彼(真ん中のサテュロス)が言った。「僕壊れちゃったよ。」「僕死んじゃうよ。」


Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.

ὄφιςは蛇のことですが、この絵の中には描かれていないようです。ただこの絵の中に描かれているサテュロスたちがアフロディーテの子どもを表しているのならば、右下の子どもはハルモニアになるでしょう。服を着ている点が女性であることを示しているのかもしれません。彼女がハルモニアならば、彼女は蛇に関係ある存在です。なぜなら、彼女は将来カドモスと結婚しますが、晩年彼とともに蛇の姿に変えられてしまいます。とはいっても彼女はまだ人の姿をしています。蛇といえばイタリア語ではserpente、ラテン語でもserpenteです。この語はラテン語の動詞serpo「這う」に由来する言葉です。したがってὄφιςjは語源にさかのぼって「這うもの」と考えれば、これは右下のサテュロスの腹這いになっている姿を表していることになります。この子は他の子よりも小さいのでμικρὸςはそのまま「小さい」と訳します。πτερωτὸςは「翼のある」という意味ですが、これはサテュロスたちの耳の形のことだとします。με ἔτυψεはそのまま「私を叩いた」とします。主節の部分をまとめると、「小さくて、翼のようなものがある、這っている者が私を叩いた」となります。つまり、アフロディーテの足指の傷を作ったのは右下の小さなサテュロス、そしておそらく彼女はアレス(マルス)とアフロディーテ(ウェヌス)の娘ハルモニアです。

serpo

後半のὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοίは関係節で、本来の解釈と同じで先行詞はὄφιςです。οἱ γεωργοίは農家の人たちを表しますが、この絵には複数の農家の人たちは描かれていません。ハルモニアの前には植物があるので、彼女は農家かもしれませんが、彼女だけだと単数です。そこで辞書を探してみます。γεωργόςに近い綴りの言葉にΓεώργιοςがあります。この語はγεωργόςを語源とするもので、綴りとしては「i」があるかないかの違いです。このΓεώργιοςはキリスト教の英雄、聖ゲオルギオス(セント・ジョージ)のことで、国名のGeorgiaジョージアや人名のGeogeジョージの由来となるものです。聖ゲオルギオスは槍を使って竜を退治したことで有名な聖人です。そしてこの絵にも立派な槍が描かれています。つまり槍を抱えて悪者退治をしている彼らは「聖ゲオルギオスたち」というわけです。ゲオルギオスの綴りに「i」が足りませんが、それはアレスが支えている立てた棒で補えということでしょう。そういう綴りの不整合も、子どもたちの可愛らしい未熟さとそれを見守る親の姿として表現されています。

georgios

本来のこの文ではκαλοῦσιは呼び名を表す動詞として使いますが、この意味を絵で表現することは難しそうです。そこで、今回はこの動詞の意味をイタリア語のconvocore「呼び寄せている」とします。蜂の方向を向いて法螺貝を吹いている右端のサテュロスの行為を表す言葉とします。しかしそうするとμέλισσαν「蜂」という単語の解釈に困ります。このままでは文法的にうまく訳せません。そこでまた別の意味を考えます。μέλισσαは動詞μελίζω「ばらばらにする」もしくは「歌う」のアオリスト分詞の中性(主格/呼格/対格)でもあります。つまり、この語を分詞と考え、関係詞を修飾する形容詞とします。μέλισσα「蜂」は本来μέλι「蜂蜜」が由来とされますが、頭・胸・腹とはっきりと分かれた姿はこの分詞を使って形容することができます。そしてこれは右下のハルモニアを表す言葉にもなります。彼女は鎧の二つの穴から別々に体を出しています。つまり「体が別々のそれ」は蜂もハルモニアも表していると考えることができます。ただし聖ゲオルギオスたちからは、ハルモニアはそのような姿になっていることは見えていないので、これは「私」つまりアフロディーテの視点でのハルモニアの描写になるでしょう。

さて、最初の文にもμέλισσανという言葉がありました。そこでは蜂をなだめると解釈していましたが、μέλισσανがハルモニアを表しているとすると、蜂と解釈するよりももっとこの絵にあったものになります。小さな子どもなので、「なだめる」でもいいですが、「あやす」とします。この修正は最後のまとめで行います。ただアレスがあやしているときも、ハルモニアが絵のように体が別々に出ていたとは考えにくいので、この絵が描かれている時点での彼女の様子で、過去の彼女のことを呼んでいるとします。

この文章の解釈に戻ります。お母さんであるアフロディーテが傷つけられたことを知った彼らは、その犯人を退治しようとしているのでしょう。このときμέλισσανという言葉をそのまま「蜂」と理解してしまったようです。槍が蜂の巣の方を向いているので、エロスがちゃんと見えていないので断言はできませんけれど、その可能性が高いでしょう。しかし、そもそもアフロディーテは、ハルモニアが犯人だとエロスたちに気付かれないようにしたのかもしれません。そのため、小さくて、羽が生えて、体がばらばらな蛇が噛んだと言ったのかもしれません。神様が自分の子どもに対して嘘がつけないでしょうから、わざと難しい謎々の形で話したのでしょう。もちろん、この絵の謎解きをする人への問題でもあります。ところでμέλισσανという言葉がエロスたちに伝わっていなくてはなりませんが、アフロディーテは口を開いていません。厳密に考えると、同じ内容を子どもたちに少し前にしゃべっておく必要があるでしょう。

まとめると、こうなります。

小さくて翼のようなものが付いてる這う者(ハルモニア)が私(アフロディーテ)を叩いた。そして体が分かれているその者を聖ゲオルギスたち(男の子たち)が呼び寄せている。


Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

δέは接続詞です。ἡは三人称単数の代名詞で、この絵の中でしゃべっているように見えるのは真ん中のサテュロスか、右下のハルモニアです。今回はハルモニアとしましょう。ἡ δ΄ εἶπενは「そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。」となります。

すぐ後のεἰで条件節τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσηςを導きます。今回もこれを、πονεῖ τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςと考えて解釈します。τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςは本来「蜂の針」ですが、ハルモニアを体がばらばらな者と形容したので、τῆς μελίσσηςはハルモニアも表していると考えます。しかし、そうするとτὸ κέντρονの意味が「針」のままだとおかしくなります。そこで別な意味を考えてみるわけですが、κέντρονのイタリア語の意味を調べると、pungolo、stimoloという言葉が出てきます。英語ではgoadです。こらは刺激という意味を持ちますが、同時に家畜を追うときなどに使う「突き棒」を表します。これはハルモニアのすぐそばでアレスが左手で立てている金属の棒を表す言葉になるでしょう。この棒にハルモニアの手が触れた描写になっているので、それにより彼女に属する物という表現も可能になります。つまり、τὸ κέντρον τὸ τῆς μελίσσηςは「体がばらばらな者の突き棒」と解釈できます。この解釈は元々の蜂の針を表すこともできます。というより、これはハルモニアの台詞なので、自分への追及をかわそうと蜂へ転嫁した言いようだと考えた方がいいでしょう。そうするとこの節は、「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたのならば、」となります。

serpo

次にπόσον δοκεῖς πονοῦσινです。これは本来の解釈とほとんど同じでいいでしょう。πονοῦσινは自動詞とします。「みんながどれくらい困っているか、あなた考えてるの?」です。この場合、前も見ずに大きな槍を振り回しているエロスへの批判となります。構図的に槍はエロスの前の二人のサテュロスに刺さっているようにも見えます。アレスも槍に倒されたかのようになっています。ハルモニアは罪を犯しましたが、大騒ぎをしているエロスにも確かに非があります。こちらの節がこのような意味になると、前の節は条件よりも譲歩がいいかもしれません。ここまでをまとめると、「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれくらい困っているか、あなた考えてるの?」となります。

georgios

次のἜρωςは呼びかけです。二人称の動詞の主語が誰であるかを示しています。そして次の文です。ὅσους σὺ βάλλειςは本来ὅσουςを関係詞として、英語のas many asのように訳していました。しかしこの語は感嘆文のhow many!やhow large!の意味でも使えます。ὅσουςは男性複数対格です。他動詞βάλλω「投げる」は、対格によって、攻撃する対象を表現する場合にも武器を表現する場合にも使えますが、その対格が男性複数ですから、この絵の場合は複数ある攻撃の対象と考えられます。つまり、絵で槍が二人のサテュロスとアレスを貫いているかのように描かれているので、これをこの言葉が表しているとするわけです。ちょうど全員男性です。「エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」という非難めいた台詞になっています。エロスは大きな槍まで持ち出して大騒ぎしていて、槍が人物に重なって描かれていますが、実際に刺さっているわけではありません。

まとめると、こうなります。

そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれだけ困っているか、あなた考えてるの?エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」


絵に合わせてまじめに誤訳したものをまとめると次のようになります。

酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上であやしているこの体が分かれている子(ハルモニア)をエロスは見ていなかった。そして彼女(アフロディーテ)は指を傷つけられた。お前は彼女(アフロディーテ)のひびを付けた。彼(右端のサテュロス)は鋭い音を発した。そして輝くアフロディーテの方を向いて走って跳ねながら、「僕壊れちゃったよ!お母さん」と彼(真ん中のサテュロス)が言った。「僕壊れちゃったよ」。「僕死んじゃうよ」。小さくて翼のようなものが付いてる這う者(ハルモニア)が私(アフロディーテ)を叩いた。そして体が分かれているその子を聖ゲオルギスたち(男の子たち)が呼び寄せている。 そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。「蜂の針(体が分かれている子の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれだけ困っているか、あなた考えてるの?エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」


この詩を以前訳したものといくつか違ってしまいましたが、この記述が落書きされる前に描かれていたという設定の絵となります。ある日の日中の、夫婦と四人の小さな子どもたちの、ちょっとした事件の一コマという絵です。ぼーっと見ていただけでは絶対に気付かない内容です。『物の本質について』の文章はこの絵に対して落書きをする様子を記述したものとなります。アフロディーテに傷を負わせたのは、ハルモニアですが、彼女は既にアレスに捕らえられ、もうこれ以上悪さをしないように彼の鎧の中に閉じ込められています。彼女が罪を犯し捕らえられていることは、金属の棒とアレスの腕で作った牢屋がそれを表しています。

この詩の解釈だけでは、フォボス、ダイモス、ハルモニアという名前は推測できるだけで断定することはできません。しかし、サテュロスたちはそのような姿をしていますが、彼らはアレス(マルス)とアフロディーテ(ウェヌス)との間の子どもたちと考えてよいでしょう。大人のサテュロスは、暴力的な愛欲を象徴する存在なので、アレスとアフロディーテの子どもを表すものとしては、この姿は視覚的にとても的確なものと言えるでしょう。彼らが二人の子どもであるならば、それぞれフォボスかダイモス、そしてハルモニアとなります。またエロスはアレスの子ではありませんが、武器を持っているので暴力的な属性を満たしているとして彼もサテュロスのように描いていると考えられます。なおエロスのお腹が丸見えなのにおへそが描かれていない描写は、アフロディーテから生れたわけではないがアフロディーテの子どもとして扱われている、その特殊性を端的に示しています。

以前から「愛は力に勝つ」という、マルシリオ・フィチーノの『愛について』の金星(アフロディーテ)と火星(アレス)の説明から導かれるその思想が、この絵に描かれているということが言われていましたが、その解釈は当たらずといえども遠からずで、アレスを倒しているのは、アフロディーテではなく、本職のクピドです。もちろん、本当にクピドが槍で倒したわけではありませんが、そう見えるように描いていることに意味があると思われます。

書いている途中で度々新たな発見があったため、各投稿の間に不整合なところがいくつかありますが、以上のように今回と前回までの解釈により、《ヴィーナスとマルス》は『アナクレオンテア』の蜂とエロスの詩と『物の本質について』のウェヌスを讃える冒頭の部分の記述を重ねて描かれていることが説明できます。



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posted by takayan at 03:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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