2011年09月02日

《ヴィーナスとマルス》 解釈の準備

《プリマヴェーラ》(Primavera)、《ヴィーナスの誕生》(The Birth of Venus)、《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)とボッティチェリ(Botticelli)の神話画について独自の解釈を行ってきました。今回は残っていた《ヴィーナスとマルス》(Venus and Mars)です。いままでと同じ手法で解釈してみることで、以前示した《プリマヴェーラ》の解釈が何も特別なものでなかったことを明らかにしようと思います。ボッティチェリであっても神話画の基本は、やはり文章の記述そのものだったということを示そうと思います。

この《ヴィーナスとマルス》の画像を確認したい場合は、次のリンク先にある画像をクリックしてみてください。さらにクリックすると、高解像度版が開くので、細部まで詳しく眺めることができます。
Venus and Mars (Botticelli) - Wikipedia, the free encyclopedia

以前書いた《プリマヴェーラ》や《パラスとケンタウロス》の解釈では、従来の解釈とは女神が違っていると結論付けましたが、この絵においては女神が違っているとは言いません。彼女は愛の女神アフロディーテ(ヴィーナス)で、相手は軍神アレス(マルス)であることは否定しません。しかし、内容は違います。見てすぐ誰だか分かってしまうので、この絵をわざわざ調べようと思わなかったのですが、改めてこの絵も調べてみると、他のボッティチェリと神話画と同じくらい、とても興味深い絵だということが分かりました。登場する神々は一般的な解釈と同じですが、ここに描かれているのは従来とはまったく違ったものになります。

本題に入る前に、まず神々の呼び名を決めておきます。今回は、解釈の都合上、ギリシャ神話の呼び名で話を進めていきます。つまり、アフロディーテとアレスと呼ぶことにします。ローマ式とヴィーナスやマルスと呼んでもいいのですが、あとで引用する予定のギリシャ語との兼ね合いから、初めからアフロディーテと呼んでおきます。そのほうが分かりやすくなると思います。

ちなみに、ヴィーナスという名前はラテン語由来の Venus という言葉の英語読みのカタカナ化です。同じようにラテン語での読みをカタカナ化したものがウェヌスとなります。そしてギリシャ神話の名前はアフロディーテ(Ἀφροδίτη)となります。ラテン語で書かれたローマ神話が元になった話でヴィーナスを語る場合には、ウェヌスもしくはヴィーナスと呼ぶのが適切だと思いますが、ギリシャ語で書かれた物語が出典ならば、イタリア人の描く絵でもギリシャ語で名前を呼んだ方がしっくりくるでしょう。今回はそう書かせてもらいます。

それでは、絵の説明です。これは横長の絵です。向かって左側にアフロディーテがいます。足をゆったりと画面の右の方に伸ばしています。アフロディーテは普通は裸でいることで自分が何者であるかを誇示しているのですが、今回は金色の縁で飾られた白い服を着て、全身をそれで覆い隠してしまっています。胸元には、宝石の飾りがあります。中央に大きく透明な水晶のような丸い石があって、その周りを八個の小さな丸い真珠のような銀色の石がとり囲んでいます。他には髪にも装飾品はありません。アフロディーテは、画面左下にある金色の刺繍の入った薄赤いクッションに右ひじを乗せ体を支えています。左手は、長く伸ばした左足のひざのあたりに乗せています。伸ばした左足はずっと服の下にあるのですが、足首から先は裾から出ていて、なまめかしく草の上に置かれています。右足は服の下でよく見えないのですが、よく見ると左足の下をくぐっていて、左足のふくらはぎの向こう側に服に隠れた足先があります。彼女は向こうのアレスを見つめながら、何か物想いをしているようです。

アフロディーテの向かいには、アレスがいます。彼はバラ色の布の上で、口を半開きにしてぐったりと眠っています。戦いが終わって疲れ果てているのでしょう。アレスはアフロディーテと対照的に服は着ておらず、あるのは腰にかけてある白い布だけです。そしてアフロディテとは逆向きに、画面の右側に頭があって、左の方向に足を伸ばしています。アレスの背中にある布の下には鎧があります。アレスの上半身は、この鎧に背中と左ひじを乗せ、奥の大きな木に頭をもたれかけた姿勢になっています。右腕はだらりとして、右手は左ももの上に力なく乗っていてます。右手の人差し指はゆるく指をさすような形になっていて、その先にはアフロディーテの裸の足の甲があります。左に伸びているアレスの足はアフロディーテの太ももの近くまで伸びていますが、彼女の体には触れていないようです。右足の膝は立ててあり、その下を左足が通っています。左足のつま先には、薄赤い敷布の縁が包むようにかかっています。この薄赤の布はアレスだけのもののようで、アフロディーテの体は乗っているように見えません。

この絵にはアフロディテとアレスのほかに、4人のかわいらしい子供のサテュロス(Satyrus)がいます。額に白く短い2本の曲がった角があり、山羊のような蹄のある茶色の毛で覆われた動物の足をしています。ふつうアフロディテのそばにいる子供といえば、背中に羽のあるエロス(キューピッド)のはずですがここに彼はいません。子供のサテュロスたちはそれぞれ思い思いの子供っぽい無邪気な仕草をしています。

アフロディーテとアレスの体のすぐ向こう側には体を右に向けている3人のサテュロスが並んでいます。その中のアフロディーテのすぐそばにいるサテュロスはアレスの方に向かって、アレスの持ち物だと思われる大きな兜をかぶって、それから馬に乗って使うような大きな金色の槍を構えています。兜も槍も子供の彼にはとても大きすぎます。兜は大きいので顔が完全に隠れてしまって、彼自身槍をどこに向けて狙っているのか分かっていないでしょう。一番左の彼は一生懸命両手で槍の柄を抱えているのですが、小さな彼には持ち切れないので、途中をもう一人のサテュロスが抱えています。

槍の中ほどを抱え込んでいる真ん中のサテュロスは、大またで尻尾を跳ね上げ、その槍で突撃していくかのような勢いで描かれています。前が見えない後ろのサテュロスに代わって、この真ん中のサテュロスが目標を見ているのかというと、そうでもありません。彼は振り返ってアフロディーテの顔を見つめています。

もう一人のサテュロスがさらにその右に描かれています。このサテュロスは、一見大きな槍を一緒に抱えているかのように並んで描かれているのですが、よく見ると違います。彼は槍のこちら側にいて、ホラ貝を両手で支えて吹いています。貝はアレスの耳元にあり、アレスを大きな音でびっくりさせてやろうとしているのでしょうが、アレスには起きる気配がまったくありません。

もう一人のサテュロスは三人とは全く違うところにいます。アレスの体の下にある鎧の中です。鎧の中に入っていて、やっとその中から這い出してきたばかりといった様子です。鎧の頭や腕を出す穴から体を出しているので、その鎧を着ているような感じになっていますが、小さなこの子には鎧は大きすぎて、左手は頭が出るところから一緒に出てきています。そういう描写がいちいち子供っぽいです。このサテュロスは一人だけ別なところにいて特異な存在ですが、薄い服を着ている点でも他の三人とは違っています。もしかすると女の子かもしれません。

この絵にはいくつか妙なところがあります。まず一つはアレスの頭が寄りかかっている木にある蜂の巣です。この蜂の巣は、しっかり見ないと見つからないくらい、わざと目立たないように描かれています。おそらく絵の中に描かれているどの人物もその存在が見えていないでしょう。この蜂はいかにも何かの象徴的なものにみえるのですが、よくわかりません。もうひとつ、アレスの左手の下にある鉄の棒のようなものです。何かの武器なのかもしれませんが、これもよくわかりません。

背景ですが、絵の向かって左側アフロディーテの上半身、そして絵の右側アレスの上半身があるところは、木の枝がぎっしりと上まで茂っています。左右の茂みの間の、絵の横幅の三割弱にあたる中央部分がひらけて、向こう側の景色が見えています。地平線まで草原が広がっていて、地平線の右側には緩やかな山が見えていて、それから青空が広がっています。

この絵は一般的には、字義通り、愛は武力よりも強いことを表していると解釈されます。さらに新プラトン主義的な解釈によると、官能的な愛ではなく、理性的な愛の勝利となります。戦いの神のアレスが裸でぐったり倒れているのに、着衣のアフロディーテがしっかり起きており、それが新プラトン主義の愛を体現するこのアフロディーテの勝利を意味しているというわけです。また蜂はヴェスプッチ家の紋章であり、これは依頼者を示すものだと言われます。この絵に関しても、新プラトン主義やフィレンツェの人間関係といった、《プリマヴェーラ》や《パラスとケンタウロス》の一般的な解釈で行われているものと同じ手法で解釈されています。

もちろん、今回もこの解釈は採用しません。新プラトン主義とメディチ家を中心としたフィレンツェの人間関係は、ボッティチェリの神話画を読み解くのに必要ありません。これは僕の解釈で一貫しているものです。

この絵を詳しく眺めてみて疑問に思うのは次の点です。(つまり今回わかったことです。)

  • どうして、いつもと違ってアフロディーテは裸ではないのか?
  • どうして、アレスは眠っているのか?
  • それぞれのサテュロスはいったい何をしているのか?
  • 右端の暗がりにいる蜂にはどんな意味があるのか?
  • アレスの右手の下にある棒は何なのか?
  • どうして、子供がエロス(クピド)ではなくサテュロスなのか?
  • そして、アフロディーテは何を思っているのか?

 

次回は、この絵の元となったと思われる文章を引用しながら、これらの問いへの答えと、絵に描かれている物語の新しい解釈を示していこうと思います。なお上に書いたこの絵の描写の解説は、それを踏まえた、解釈しやすい表現になっています。



拍手する
posted by takayan at 20:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月04日

《ヴィーナスとマルス》 解釈(1)

それぞれが誰なのか、改めて考えみます。

まず、分かりやすい画面右で寝ている男性です。彼はアレスでいいでしょう。この絵の中にはいろんな武器や防具が配置されています。彼は現在、ほとんど裸で、どれも身につけてはいないのですが、これらは彼のものだと考えていいでしょう。神話の中で武具を持った男性が出てくれば、彼は戦いの神アレス以外に考えられません。

彼がアレスだと決まれば、左の女性はアフロディーテだと分かります。アレスには他にも子供を作った女性がいくらでもいるのですが、やはり最初に思いつくアフロディーテで問題ないでしょう。アフロディーテはもともとはヘパイストス(Ἡφαιστος)の妻であったのですが、アレスに乗り換えてしまいます。この話はここでは詳しく書きませんが、ホメロスの『オデュッセイア』に詳しく書かれています。オウィディウスの『変身物語』にも、短いですがヘパイストス(ウルカヌス)による二人への罠の話が書かれています。

それでは、この二人の周りにいる子どもたちはいったいなんでしょう。アフロディーテのそばにいる子供といったら、翼のあるエロスのはずですが、違います。彼らの額には二本の角があり、足は山羊の足です。この姿からおそらく彼らはサテュロスでしょう。大人のサテュロスは、本能のままの野蛮な性欲のかたまりの姿で描かれる存在ですが、ここに描かれているのは、まだ無邪気なだけの子供です。

彼らはやはりエロスの代わりの存在でしょう。性愛を示すエロスという言葉の意味だけ考えれば、サテュロスは置き換え可能な存在といえるでしょう。そう思って、この絵を見てみると、画面の一番左にいるサテュロスは、まさにエロスを表していることが分かります。なぜなら彼は目隠しをして、尖ったものを何かに突き刺そうとしています。これは『プリマヴェーラ』で描かれているエロスの特徴そのものです。もしかすると、兜の下の顔には角がないかもしれません。背中の翼は角度のせいで見えてないのかもしれません。毛むくじゃらの足のように見えるものも何か別のものなのかもしれません。

では、左端がエロスだとして、残りの三人は誰でしょう。エロスの友達?それとも兄弟?おそらく兄弟ではないでしょうか。アレスとアフロディーテの間には三人の子供がいます。ヘシオドスの『神統記』によれば、アレスとアフロディテの子供として、フォボス(Φοβος)、デイモス(Δειμος)、ハルモニア(Ἁρμονια)の三人です。ハルモニアは女神で、のちにカドモス王と結婚することになりますが、晩年は王ともども蛇となる運命にあります。

エロスもアフロディーテとアレスとの間の子供だとする話もありますが、アレスと付き合う前からエロスがいる物語もあって、そこらへんは定まってはいないようです。この絵の子供たちの毛の色を見ると、エロスだけがアフロディーテの髪の色に近く、残りの三人がアレスの髪と近い色になっています。この色の区別はエロスはアレスの子供ではないとするものかもしれません。

そういうわけで、この絵に描かれている神々は、アフロディーテ、エロス、アレス、フォボス、デイモス、ハルモニアではないかと推測できます。つまり、アフロディーテがヘパイストスと別れた後の、アレスとアフロディテ夫妻のほのぼのとした休日の一家の様子を描いてるのではないでしょうか?

 

次回は、この推測をより確実なものにしていきます。



拍手する
posted by takayan at 03:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

《ヴィーナスとマルス》 解釈(2)

それでは、この絵の出典を探してみます。

神話画にはたいてい元になった神話の記述があるはずです。以前解釈した《プリマヴェーラ》も結局そうでした。でも、アフロディーテ(ウェヌス)とアレス(マルス)が出てくる物語と言ったら、先ほど指摘した『オデュッセイア』や『変身物語』で描かれる密会するアフロディーテとアレスの話ぐらいです。それだと、前回推理したほのぼのとした絵とは全く違う内容になってしまいます。これでは困ります。他に何かないでしょうか?

そう思って探すと、ひとつ面白い話を見つけました。紀元前500年頃に活躍したギリシアの詩人アナクレオン(Ἀνακρέον)が書いたとされる詩です。

古典ギリシア語で引用すると次のようになります。

表示されないときは、このリンクで開く。

これだと分かりにくいので、英訳詩を示します。

表示されないときは、このリンクで開く。

この詩は17世紀のイギリスの詩人トーマス・スタンリー(Thomas Stanley)が訳したものです。だから古風な言葉遣いなのは、仕方がないです。しかし、蜂蜜(honey)、槍(spear)や、エロス(Love)という言葉が見つかるので、もしかしたら、これかもしれません。この英訳を参考にしながら、ギリシャ語を訳してみます。詩的な表現よりも意味を重視して訳してみます。ギリシャ語の訳は慣れていないので、ところどころ間違っているかもしれません。

アフロディーテの夫は、リムノス島の鍛冶場にいて、エロスたちのためにいくつもの鉄の軸の矢を作っている。アフロディーテは甘い蜂蜜でその矢の先を浸す。そしてエロスは胆汁を混ぜる。ある日、アレスがずっしりとした槍を振り回しながら、大声でエロスの矢にけちをつける。するとエロスが「この矢は重いよ。持ってみると、わかるよ。」と話しかける。アレスはその矢を持ってみる。アフロディーテは微笑んでいる。すると、アレスは唸り声をあげて、「これは重い。お前が持ってみろ。」と言う。するとエロスは「ずっと持っててね。」と言う。

絵の内容と違います。いくつかのキーワードは出てくるのですが、これではないようです。せっかくだから、他のアナクレオンの詩を探してみます。すると、すぐに英語のタイトルで、「The Bee」という名前の詩が見つかります。この絵で意味の分からなかった蜂について、何か情報が得られるかもしれません。


Love, a Bee that lurk'd among
Roses saw not, and was stung:
Who for his hurt finger crying,
Running sometimes, sometimes flying,
Doth to his fair mother hie,
And O help, cries he, I die;
A wing'd snake hath bitten me,
Call'd by countrymen a Bee:
At which Venus, if such smart
A Bee's little sting impart,
How much greater is the pain,
They, whom thou hast hurt, sustain?
引用元

ギリシャ語のほうも引用します。
Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι
κοιμωμένην μέλισσαν
οὐκ εἶδεν, ἀλλ ΄ ἐτρώθη
τὸν δάκτυλον. Πατάξας
τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·
δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς
πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην,
ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν,
ὄλωλα,κἀποθνήσκω.
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς,
πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι
μέλισσαν οἱ γεωργοί.
Ἡ δ΄ εἶπεν · εἰ τὸ κέντρον
πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης,
πόσον δοκεῖς πονοῦσιν,
Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;
引用元

これも訳してみます。

ある日エロスは、バラの中で休んでいる蜂に気づかずに、指を怪我してしまう。エロスはそいつを叩き落し、大声で泣き叫ぶ。走って、飛んで、美しいアフロディーテのところにやってきて、「痛いよ、おかあさん。痛いよ。ぼく死んじゃうよ。」と言う。「羽のはえた、ちっちゃなヘビが、かみついたんだ。農家のおじさんが、ハチって呼んでたやつだよ。」。するとアフロディテは、エロスに言う。「蜂の針でそんなに痛がったりして。あなたがどれだけ他人を痛くしてきたのか考えてごらん。エロス、あなたはとても多くの人に矢を放ってきたというのに。」

アフロディーテも、エロスもいます。蜂もいます。でも、アレスがいません。残念ながらこれでは内容が違います。でも、ちょっと気にかかる言葉もあります。バラとヘビです。アレスはバラ色の敷布の上で寝ています。ハルモニアは晩年ヘビに変えられてしまいます。これはもしかすると、《プリマヴェーラ》の三美神の解釈でやったように、言葉の意味をわざとずらせば、うまくいくかもしれません。(参照:《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について

 

次回は、いよいよ絵の描写との文章の関係を検証します。




更新情報:2011/10/05
The Bee のギリシア語の詩および英訳詩を Openlibrary からの引用だと読みにくいので、文字列にしました。


拍手する
posted by takayan at 15:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月05日

《ヴィーナスとマルス》 解釈(3)

このギリシャ語を絵に合うように訳してみます。

最初の文。

Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.

μέλισσαν (蜂)は動詞 εἶδον の目的語とします。この動詞の主語は Ἔρως とします。実際、兜をかぶったエロスは画面右端の蜂たちの動きは見えません。この絵の蜂たちはこの描写のためだけに描かれていると考えられます。動詞 κοιμάω の主語は書かれていませんが、このとき、ἐν ῥόδοισι というのを、バラ色の敷布の上と解釈すれば、この主語はアレスとなります。

問題は誰が指を怪我していかということです。絵に描かれている神々の指を丹念に見てみます。でも見つかりません。では足の指をどうでしょう。足の指を見せているのはアフロディーテだけです。彼女はこれ見よがしに左足の裸の甲を見せています。特に変わったところはない健康そうな足です。しかし、よく見ていくと、親指に黒い線で描かれた傷があります。一見、草のように見えてしまうので、気づきにくいかもしれませんが、傷を探そうとして眺めてみれば、これ以外に指の傷に見えるものはありません。つまり、怪我をしているのはアフロディーテとなります。アレスの右手の人差し指が何かを指し示しているような形だったのは、そういうことでした。誰がアフロディーテを傷つけたのか、その犯人探しもしなくてはいけませんが、とりあえずこの文章の訳は次のようになります。

ある日のこと、彼(アレス)がバラ色の敷布の上で休んでいて、エロスが蜂を見ていないとき、彼女(アフロディーテ)は指に怪我をしていました。

次の文章。

Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·

これは短い文章です。これは本来の訳とそれほど変えなくてもいいでしょう。叫んでいるので、これは右側のホラ貝を持ってるサテュロスの描写となります。ただ声ではなく、ホラ貝の音を使って、大きな音をたてるところが違ってきます。また、このこのサテュロスは、ダイモスとフォボスのどちらでしょうか。これは後から出てくる文章との兼ね合いですが、叫び声をあげているので、恐怖の神ダイモスとします。

彼(アレス)をやっつけようと、彼(ダイモス)は大きな音を鳴らした。

その次の文章。

δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα,κἀποθνήσκω.

今度は真ん中で後ろを振り返っているサテュロスです。実は引用した文章の παταχθείς の活用がよく分からないので、異本で使われている πετασθεὶς (πέτομαι)を使って訳しました。前回も同様です。この意味は fly, dart, rush; escape となります。前回は飛んで、逃げ帰るという意味でしたが、今回は槍を持っている様子を描写しているので、突撃すると訳します。前回の意味では、移動の方向は、アフロディーテのところでしたが、今は槍の進む先に体が向かっています。そのため、顔を向けるている方向が、アフロディーテとなっていますが、これでも文章として成り立つでしょう。それから、怪我をしているのはエロスではなくアフロディテになるので、同じセリフでも意味が違ってきます。

さて、このサテュロスがフォボスかダイモスのどちらかという問題ですが、言葉としての意味はほとんど同じ意味ですが、神としての特徴を調べると、フォボスの方が混乱や敗走という特徴が加えられています。このことから、この絵では突撃する方向ではなく後ろに気持ちが向いてしまっているので、彼はフォボスだと考えます。結果として文の意味は次のようになります。

彼(フォボス)は走って突進しながら、アフロディーテの方を見て、「ケガしてるの、お母さん。ケガしてるの。死んじゃうの。」と言う。

次は、フォボスの質問への解答です。

Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.

ここは本来は、引き続きエロスの言葉ですが、傷つけられたのがアフロディーテなので、これはアフロディーテの台詞と考えます。アレスとアフロディーテの子供の中で、蛇と関係があるのは、『変身物語』で描かれているように将来蛇となる娘のハルモニアです。また、この絵の中で蛇のように腹這いになっているのは右下のサテュロスだけです。したがって、右下で鎧の中に入っているハルモニアが、この文章で描写されています。

形容詞 πτερωτὸς は通常「羽のある」と訳されます。この言葉に近い πτερόν という「羽」の意味の名詞があるのですが、この言葉には「予兆」という意味もあります。つまり、一般的な訳ではありませんが、この形容詞は「予兆のある」とも訳せます。腹這いになっていたり、舌を突き出しているように見えるのが、彼女が蛇となる予兆なのでしょう。

ここからがさらに見事な描写です。ふつう μέλισσαν は蜂を意味する名詞として扱われますが、これは動詞 μελίζω の分詞形と考えることができます。この動詞の意味は「体をバラバラにする」という意味です。おそらく頭・胸・腹がくっきり分かれるので蜂はこう呼ばれているのでしょう。さて、この絵の中でハルモニアがどう描かれていたかと言うと、鎧の頭の出るところから、頭と左手、そして腕が出てくるところから、右手が出ています。まさに、体がバラバラになっています。

そして、γεωργοί です。この絵には農夫がいませんが、心配ありません。今回は動詞として解釈します。絵をよく見ると、まさにハルモニアは左手で何か緑色の実を持って、右手で土を掘っているような仕草をしています。まとめると次のようになります。予兆に気づいているのはちょっとおかしいかもしれませんが。

小さな予兆のある蛇のような子(ハルモニア)が傷つけたのよ。体が別々になって(出てきて)いる子と彼(アレス)に呼ばれているわ。彼女は地面に何か植えているの。

最後も引き続き、アフロディテの台詞です。ただし、話しかけている相手はエロスに変わっています。

Ἡ δ΄ εἶπεν·
εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

ここは、傷を受けたアフロディーテが話し手なので、本来の詩の意味と少しずつ変わってきます。名詞 κέντρον は蜂の針やその針による痛みの意味ですが、ここではアレスの左手の下にある鉄製の棒のことだと解釈します。これは何に使うものなのかはよく分かりませんが、家畜を追うときに使う棒などのことも、この言葉で呼ぶようです。この棒でいたずらをしてハルモニアはアフロディーテを傷つけてしまったのでしょう。そしておそらく、アレスに取り上げられ、アレスはそのまま寝てしまったのでしょう。彼女は罰として鎧の中に閉じ込められているとも考えられます。

彼女は言う。「体が別々のところから出てきているあの子の突き棒で、私は怪我をしたけれど、あなたはどれだけの人を傷つけたか考えてみなさい。エロス、あなたは槍を使ってどれくらい傷つけているの。」

以上のように訳せます。あとから修正しないといけないところもあるでしょうが、だいたい意味はあっていると思います。それにしても、見事な意味のずらしです。この詩からこの絵を作りだした知性は驚嘆すべきものです。

 

まとめは、次回。



拍手する
posted by takayan at 02:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月07日

《ヴィーナスとマルス》 解釈まとめ

今まで解釈してきた《ヴィーナスとマルス》 と呼ばれているボッティチェリ(Botticelli)の絵画についてまとめてみます。

この絵は、アナクレオン風歌謡(Anacreontea)の一編の詩(英訳詩名 The Bee、The Wounded Cupid など)が元になっています。この詩が絵の題材になったことを示すには、これが書かれた時期にこの文章を画家が目にできたことをまず先に示す必要がありますが、前回示したいくつもの符合により、この絵の存在こそがその証拠だと言ってかまわないでしょう。

従来この詩は、蜂に刺されて痛がっているエロスに対して、アフロディーテがあなたのほうがもっと人に痛い目を合わせているのよと諭す話なのですが、この絵は詩そのままの情景を描いていません。この詩のそれぞれの単語の意味を、正しいけれど別な意味で解釈することで、違う情景を作りだし、それを描いています。

この誤解釈は、翻訳者の能力が低いために起きたものではなく、逆に、高い言語能力を使った意図的なものだと考えられます。たとえば、蜂を示す単語 μέλισσα の使われ方を見ればわかります。この単語がこの絵の誤解釈のキーワードとなっています。メリッサという言葉が、「蜂」と「体が分かれた者」の二つの意味で、使われているからです。このような意図的な誤解釈の積み重ねでこの絵は成り立っています。

 

それでは、この絵で描かれている状況を想像を交えて、書いてみます。

この絵はアレスとアフロディーテの家族の情景を描いた絵です。アレスがバラ色の布の上で寝ていて、そしてエロスが蜂を見ずに蜂を攻撃しようとしていて、アフロディーテが足の指を怪我をしている場面です。アフロディーテが怪我をしたのは、この絵が描かれている瞬間よりもかなり前の出来事です。

アフロディーテを怪我させたのは、ハルモニアです。まだ立って歩けないかもしれないくらいの末っ子のハルモニアが、突き棒でアフロディーテの足の指を傷つけてしまいました。それを見つけたアレスは、突き棒を取り上げ、ハルモニアが勝手にいたずらをしないように自分の鎧の中に入れて遊ばせることにしました。鎧が動かないようにその上に背中をもたれかけています。体の小さなハルモニアでも、鎧の頭を出す穴から体を全部出すことができないので、体が別々の穴から出てしまいました。そのかわいらしい様子を見たアレスは、体が分かれているという意味でメリッサと彼女を呼びました。

アレスは日ごろの戦いの疲れから、そのまま眠ってしまいました。ハルモニアは自由に動き回れなくても、手近にあった実を左手で掴んで、右手で地面を掘って遊んでいます。そこに、エロス、フォボス、デイモスのやんちゃな男の子たちが戻ってきました。母親のアフロディーテが怪我をしていることに気がつくと、フォボスは「お母さんが死んじゃう」と心配します。アフロディーテは「アレスがメリッサと呼んでいる農業をやっている者が怪我させたのよ」とちゃんと伝えたのですが、男の子たちは、それは別のメリッサ(蜂)がやったんだと勘違いしてしまい、蜂に向かって戦いに出かけます。エロスは、いつもの目隠しと矢の姿をアレスの兜と槍で再現してしまっています。フォボスは、エロスの槍を支えて一緒に突撃しているのですが、お母さんのことが心配で後ろを振り返りながら前に進んでいます。デイモスは、蜂たちに向けてホラ貝を吹いて彼らを恐怖に陥れようとします。アフロディーテは、自分のことを心配して振り返ってくれるフォボスの顔を見つめています。これがこの絵に描かれている場面です。

しかし、アフロディーテは彼らが何をやっているのか分かっていません。蜂の巣がアレスの頭の後ろにあることは、そこから見えないのです。デイモスがホラ貝を吹いているのは、アレスに対してふざけているとしか思っていません。このあと起こる大混乱は誰も気付いていません。でも大丈夫、彼らは不死なる神々です。蜂に刺されたくらいでは死ぬことはありません。微笑ましい、ある日の一家の光景です。

 

一般的な知識として、アレスとアフロディーテの関係は浮気だと理解されています。この絵の二人を見ると、どうしてもその話がよぎってしまいます。しかし、そうとは限りません。

ヘシオドスの『神統記』では、世界の始まりからの神々の話を描いているのですが、アフロディーテとヘパイストスが夫婦だったことは書かずに、アレスとアフロディーテの間にフォボス、デイモス、ハルモニアという子供がいるとだけ書かれています。この本を元に考えれば、アレスとアフロディーテが子供たちと戯れている様子も、自然なものと映ります。

ちなみに、『神統記』ではエロスは誰の子供でもなく、世界に最初に現れた神々の一人です。その後の時代に、泡からアフロディーテが生まれると、エロスは彼女の従者となったとされています。したがって、この絵の人間関係のすべてが『神統記』の記述を元にしたと考えることはできません。どうみてもこの絵のエロスは、他の子供たちと同じアフロディーテの息子として描かれています。

また、アレスとアフロディーテが密会していたとしても、『オデュッセイアー』で描かれているように、二人がヘパイストスの罠にかかった状態で、多くの神々の前で晒しものになったとき、神々の承認の元、アフロディーテとヘパイストスの婚姻関係は終わったとみることもできます。アフロディーテがキュプロスに向かったという文は、そういう意味があるでしょう。

とにかく、過去に何があったにせよ、この絵の神々はまるで人間の家族のように、幼い子供たちと一緒に過ごす、ほのぼのとしたある日の家族の出来事が描かれています。アフロディーテの子供たちが同時期にこんなふうに子供の姿をしていたことはないでしょう。神話にもそんな描写はどこにも書かれていません。これは、ボッティチェリが言葉遊びで作り出した、彼だけに描ける不思議な神話の情景です。

 

それでは最後に、最初に立てた問いへの解答です。これまでの解釈を読んでもらうと分かるのですが、問いを立ててしまった以上、答えないといけません。

・どうして、いつもと違ってアフロディーテは裸ではないのか?
それは、この絵が母親としての彼女を描いているからです。裸で寝ているアレスのそばで、アフロディーテもいつものように裸なら、別の意味に解釈されてしまうからです。

・どうして、アレスは眠っているのか?
それは、バラ色の布の上にいるからです。

・それぞれのサテュロスはいったい何をしているのか?
槍の近くの三人は、母を傷つけた蜂を退治しにい行こうとしています。詳しくは上に書いたとおりです。 鎧の中のサテュロスは再びいたずらをしなように行動を制限されています。

・右端の暗がりにいる蜂にはどんな意味があるのか?
ギリシャ語の蜂の語源的解釈がこの絵を読み解くヒントです。

・アレスの左手の下にある棒は何なのか?
突き棒です。おそらく戦いに使うものでしょう。ギリシア語では、蜂の針と同じ言葉です。これでアフロディーテは足の指にちょっとした傷を作ってしまいました。でも神様なので、すぐに傷は消えてしまうでしょう。

・どうして、子供がエロス(クピド)ではなくサテュロスなのか?
サテュロスとして描かれていますが、彼らはエロスを含めてアフロディーテの子供たちを表しています。姿がサテュロスなのは、無邪気ないたずら者の子供を表すためではないかと思われます。また野蛮ではあるけれど、その種族の姿そのものに性愛の属性をもった彼らは、誰よりもアフロディーテの子供であることを、図像的に指し示せるのではないでしょうか。

・アフロディーテは何を思っているのか?
アフロディーテの視線は、アレスを見ているようにも、デイモスを見ているようにも、フォボスを見ているようにも見えます。しかし、この中で彼女の方を見ているのは、フォボスなので、やはり彼女は自分を見つめているフォボスと目を合わせているのではないかと思います。そして自分のことを心配してくれるわが子を母として愛おしく思っているのではないでしょうか。

以上の解釈を踏まえたこの絵のタイトルを考えると、《アフロディーテとアレスとその子供たち》となります。

 

バラ色の布を根拠にこの詩であることが分かったのですが、正直に言うと、最初に問いを立てた段階では、「メリッサ」の解釈にはまだ気づいていませんでした。辞書で単語の細かな意味を調べて、説明を書いている途中で、いろいろ新たに気付きました。まだギリシア語の訳を含めて、整合性がとれていないところもいくつかありますが、少しずつ修正しようと思います。

以前書いた《プリマヴェーラ》の解釈ですが、その「三美神」の描写もやはりこれと同じように意味の誤解釈によって描かれているとしました。キーワードはラテン語の mundus (世界、装飾品)です。あの絵の解釈だけだと答えを出すための強引な曲解に見えたかもしれませんが、この《ヴィーナスとマルス》でも同じ誤解釈が成り立つので、ボッティチェリが意図的にこの特殊な文章の解釈法で絵を描いていたことが、はっきりと分かりました。

それにしても、ボッティチェリのこれらの神話画は、世界で最も美しい、難解で詩的なパズルでした。



拍手する
posted by takayan at 03:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月09日

《ヴィーナスの誕生》 解答

正直、今キーボードを打つ手が震えています。《ヴィーナスとマルス》の解釈が終わって、もしやと思って、《ヴィーナスの誕生》も同じ方法で読み解けるのではないかと調べてみたら、この絵も読み解けてしまいました。

《ヴィーナスの誕生》の解釈を試みたのは、2年半前です。そのとき様々な記事を書きましたが、核心部分は次の二つの記事でした。
『ウェヌスの誕生』の元になっているもの
『ウェヌスの誕生』についてのまとめ

このときは、ルキアノスの文章に出てくる貝の上で横たわるアフロディーテの記述をもってきて、彼女がアフロディーテであることを示すために貝が使われていると解釈しました。この文章は『エウロパの略奪』の場面なので、この絵には花嫁を祝福する意味も含まれるとしました。花が舞うこともその文脈で説明しました。

二年半前は、ボッティチェリがこの文章を読んだという証拠は何もありませんでした。しかし、今回調べてみると、この文章がまさに、この絵を読み解く文章だということが分かりました。このときは、現代ギリシア語の文章しか見つけられなかったのですが、今回は古典ギリシア語を見つけて、それを訳してみたら、まさに、この絵の記述でした。

 

次の文章がアフロディーテの貝が出てくる古典ギリシア語の文章です。エウロパを祝福するために、水の中からアフロディーテが出てくる場面です。

ἐπὶ πᾶσι δὲ τὴν Ἀφροδίτην δύο Τρίτωνες ἔφερον ἐπὶ κόγχης κατακειμένην, ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ.

そして訳です。

そして、皆の前に、二人のトリトンがアフロディーテが寝そべっている貝を運んできました。(女神は)花嫁の上にたくさんの花々をまき散らしています。

これが普通の訳です。

これを今までのように意味を少しずらして訳します。Τρίτωνες の後で文章を切ってしまいます。

ἐπὶ πᾶσι δὲ τὴν Ἀφροδίτην δύο Τρίτωνες. ἔφερον ἐπὶ κόγχης κατακειμένην, ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ.

訳すと、

そして、皆の前に、アフロディーテと、二人と、三番目の者が現われました。
彼ら(二人)は、貝の上にたたずんでいる者を運んできました。
(二人は)その女性にたくさんの花をまき散らしています。

「δύο Τρίτωνες」 を別々に解釈して、「二人」と「三番目」と訳します。絵の中では二人で寄り添って飛んでいる神々がちゃんといます。彼らが体をしっかりとくっつけているのは彼らが「二人」であることをはっきりと示すためです。「三番目」というのは、ローブをかけようとしている女性のことです。この女性に関しては以前から解釈の問題がありました。『ホメーロス風讃歌』の記述ではこの役割の女性は複数なのに、どうしてこの絵では一人になっているのかということです。しかし、これではっきりとしました。ボッティチェリが Τρίτωνες を3番目と解釈してこの絵を描いたからです。つまり、三姉妹のホーラたちの中で一番下の妹の平和と春の女神エイレーネ(Εἰρήνη)です。

次の文章では、κατακειμένην の解釈を少し変えました。この単語は κατάκειμαι という動詞の分詞形だと思われます。これは通常は「横になって休んでいる」という意味で、ポンペイのアフロディーテの壁画の姿勢と同じ姿を思い浮かべるべきなのですが、この動詞には 英語の remain の意味もあります。それで、ここでは その場に立ったままでいる、つまりたたずんでいると訳しました。

また本来の訳では主語は二人のトリトンなのですが、ここでは言葉を分けたので、二人組と解釈しました。 そうすると、空に浮かんでいるゼピュロスともう一人ということになります。ただこうすると、先ほどと違って、『ホメーロス風讃歌』の記述とちょっと合わなくなってしまいます。『ホメーロス風讃歌』では西風のゼピュロスだけですから。この女性が誰なのかという問題が出てきます。これはこの絵が再発見されてからずっと解釈が分かれてきた問題でもあります。二人という表現は夫妻という意味が込められていると思いますので、彼女はフローラになるでしょう。彼女にも翼があるようにも見えなくもないですが、あれは全部ゼピュロスの翼だとします。前回解釈したときは、ポリツィアーノの詩『馬上槍試合』の一節からそよ風アウラだと、よく使われている説を採用しましたが、この絵はポリツィアーノの詩を参考にせずに直接古典の記述から描いています。

最後の文です。本来の解釈では、アフロディーテが主語の分詞節として訳しましたが、今回の誤解釈では、専門家の花の女神フローラがいますので、彼女と、それを風でまき散らしてくれる旦那のゼピュロスの二人を主語にします。また、νύμφῃ という単語は「花嫁」を表す言葉ですが、単なる「女性」も表すこともある言葉なので、この解釈ではアフロディーテ本人のことだとします。

 

以上のように、この文章を利用すると、次のことがきれいに説明できます。

  • ローブをかけているホーラが一人だということ。
  • アフロディーテを運んできたのが、一人ではなく二人であること。
  • アフロディーテのそばで花が舞っていること。
  • アフロディーテが貝の上に立っていること。

つまり、そう解釈できる文章をボッティチェリが絵にしたからです。

ボッティチェリが目指したとされる、ルキアノスの記述そのものを使った解釈ですので、これが正解だと思います。

 

二年半前、答えのすぐそばにいたことにちょっと自分でも驚いています。誤解釈という発想はそのときはなかったので、別な方向に進んでしまって、気が付くのにだいぶん時間がかかってしまいました。それにしても、立て続けですが、この難問を解き終えた感動は、素晴らしすぎます。



拍手する
posted by takayan at 03:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月12日

《パラスとケンタウロス》 典拠の探索

先日までに、この絵に出てくるのはアルテミスとケイロンであることを示し、そしてそれから導かれる物語を想像して、この絵に何が描かれているのか解釈をしてみました。

このとき、ギリシャ語を語源的に解釈して、何かを背負って光り輝いているとしましたが、今はわざわざそう解釈しなくてもいいと思うようになりました。背負っているのは、金色の光で飾られた盾でいいと思います。盾を持つアルテミスは稀ですが、ないことはないようですし、槍を持つアルテミスも同様です。片手に既に槍を持っているために、これ以上物が持てないので、光をもたらす者を示すトーチを持たせるのではなく、女神の服を光り輝かせてそれを示しただけだと考えます。

 

さて、今までのこのブログでの考察により、ボッティチェリの神話画は、どれもが古代の芸術作品に対抗するために描かれてきたことが次第にわかってきました。《ヴィーナスの誕生》に関してはずっと言われてきましたが、他の作品についてもそう考えられます。

《ヴィーナスの誕生》はルキアノスが残した文章そのものを元に描かれた「浮上するヴィーナスVenus Anadyomene」でした。《プリマヴェーラ》も、古代に描かれた三美神に対抗するために、フィチーノの哲学的な言葉を元に描かれたものでした。《ヴィーナスとマルス》を分析してみると、アナクレオン風歌謡の『蜂』という詩を元にして、母なるヴィーナス Venus Genetrix を描いていました(なお、先日は気づきませんでしたが、子供をサテュロスとして描いたのはラテン語 satura (英訳mixure)を意識したからだと思われます)。

このようにボッティチェリの三つの神話画は、古代作品への挑戦シリーズということになるのですが、《パラスとケンタウロス》もやはりボッティチェリにその目的があって作られたものだと考えられます。古代のアルテミス像、おそらくスコパスがアルカディアのアルテミス神殿に作った彫刻に対抗したものでしょう。そして、きっとこの絵にも典拠となる文章があるはずです。

 

そして、かなり時間がかかりましたが、一つの候補を見つけました。ウェルギリウスの牧歌詩VIIの一部分です。アルカディア人の羊飼いテュルシス(Thyrsis)と、同じくアルカディア人の山羊飼いのコリュードン(Corydon)が道で出会って、交互に詠んで競い合っている詩です。やはり原文を解釈しないと、解読できませんでした。今までのように、明快に解読できるものではないので、この記事のタイトルに「解答」と付けられなかったのですが、この詩はこの絵に関連するいくつもの面白い表現を含んでいるのが分かります。

そのラテン語の文章がこれです。

Pastores, hedera nascentem ornate poetam, 
Arcades, inuidia rumpantur ut ilia Codro;
aut, si ultra placitum laudarit, baccare frontem
cingite, ne uati noceat mala lingua futuro.

Saetosi caput hoc apri tibi, Delia, paruos
et ramosa Micon uiuacis cornua cerui.
Si proprium hoc fuerit, leui de marmore tota
puniceo stabis suras euincta coturno.

Sinum lactis et haec te liba, Priape, quotannis
exspectare sat est: custos es pauperis horti.
Nunc te marmoreum pro tempore fecimus; at tu,
si fetura gregem suppleuerit, aureus esto.

この絵の内容に近くなるように、最小限に格や綴りをわざと間違えて、訳してみます。

牧夫たちよ!成長している詩人をツタで飾りなさい!アルカディア人たちよ!嫉妬でコドロスは体が張り裂けてしまうかもしれないが、彼が賛美される者にさらに賞賛を与えたのならば、未来の詩人が悪評で傷つけられないよう、バッカスの葉を額に付けなさい!

ディアナに捧げられる毛むくじゃらの半獣の頭よ!枝分かれした者に小さく怯える長く生きる半獣の足よ!お前が成功を得続けたならば、つやつやした完全な大理石の外で、深紅の靴をふくらはぎに縛り付けることでしょう。

胸とペニスを自分自身で隠しなさい!とても期待していますが、これから毎年、お前はこの荒れ地の守人になりなさい!まず、私が大理石で住処を作りました。そしてお前です。お前が多くの教え子を育てるならば、お前は黄金のように輝く存在となるでしょう。

この翻訳の説明です。

最初の節は、アルテミスを詩人とみなした描写とみなします。そうすると、植物の蔓で飾られる様子、おでこに葉の飾りを付けている様子が見えてきます。

次の節。この説には猪や鹿といったアルテミスゆかりの獣が出てくるのですが、それを半獣(ケイロン)と読み換えています。「枝分かれした」という形容詞 ramosa は名詞の奪格とし、枝分かれした蔓に包まれた画面上のアルテミスとします。Micon は人名ではなく micant と綴りをわざと間違えて動詞として使います。cornua は ramosa で形容される「角」と訳されるべき言葉ですが、「蹄のある足」という意味もあるので、そっちに訳します。「深紅の靴」というのは、将来、ケイロンが負うことになる、足の負傷を表すとします。

三番目の節。Sinum lactis はミルクの入った容器のことですが、乳房と解釈して、ケイロンは男性ですが、わざわざ胸を隠した不自然を表すために使います。Priape は果樹園と精力の神のことですが、隠語でペニスという意味もあるので、わざわざ後ろ足の間に描きこんでいるケイロンの性器のこととします。住処を作るとはどこにも書いてありませんが、後ろに描かれているのは大理石の岩とみなし、そこにアルテミスが洞窟を作ったことを指しているとします。

 

以下は、この訳を踏まえた解釈です。

アルテミスが詩人というより、彼女が未来の詩人に詠まれるということにします。この女神の服の4つの輪や3つの輪は、四行連詩や三行連詩という詩の形式の言葉を図案化し、彼女のことを詠む人たちが作ったいくつもの詩を表していると考えます。

アルテミスには Artemis Hymnia という呼び名もありますので、詩とまったく無関係な女神ではありません。未来の詩人と言うのは、この詩が紀元前に書かれたものですので、誰でもいいです。ダンテやペトラルカでもいいです。

植物のツタで飾られたと訳しましたが、ここに描かれている葉はツタではなく、オリーブのようです。月桂樹のようにも思えますが、葉のつき方が違います(そこまで配慮しなかったと言えばそれまでですが)。これが月桂樹だったならば、アルテミスの属性の一つ Daphnaea になります。

またバッカスの葉を額に付けると訳しましたが、これは本来の訳ではお守りのためにキツネノテブクロを頭につけることのようです。神話でよくあるように過度の賞賛は災いを招くために、お守りが必要だったようです。baccare はバッカス Baccahus を連想させる綴りですが、関連語ではありません。これはわざと誤訳しました。

バッカスの冠はツタとする流儀もありますが、人々に葡萄を広めたお酒の神様なので、まず葡萄と考えた方がいいでしょう。それを踏まえると、先日宝石の台座の植物はヨモギとしてましたが、これを葡萄の葉とします。こちらの解釈の方が合理的だと思います。

 

以上のように、全体を眺めて見ると、この絵は修業が修了した後の、アルテミスとケイロンを表していることになります。アルテミスの双子の弟アポロンは予言の神ですが、ほとんど同じ能力を持っているはずのアルテミスは予言の神とは言われていません。それでも、ここでアルテミスは二つの予言をしています。深紅の靴と黄金の予言です。深紅の靴の予言は、黄金の予言が実現されることによって引き起こされるとも言っています。

以前解釈したときは、ケイロンの表情や、前足を曲げた様子から、この絵に描かれているのはケイロンがヘラクレスの矢を受け、死を望む場面としました。さらにアルテミスによって死が与えられるとまでしてしまいました。しかしこういうふうに詩を訳してみると、これはどうやら違ったようです。それでも、なかなかいい線いってたと思います。

アルテミス神殿のアルテミス像はたくさんの乳房を持った独特の姿をしていたとされていますが、この詩の訳はその要素までちゃんと触れた文章になっています。この絵の乳房を蔓で強調した女神の描写もそう思ってみると、このエペソスのアルテミスを踏まえた描写と考えることができます。

 

目的を持って探せば、莫大な古代の詩があるのですから、それに合うものは何かきっと見つかるはずです。さらに、文法を無視して、本来の意味ではなく別な意味で解釈するのですから、いろいろと、こじつけられるでしょう。しかし、それでも、これほどこの絵を説明できるものは見つからないと思います。



拍手する
posted by takayan at 03:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | パラスとケンタウロス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月16日

《パラスとケンタウロス》 もう一つの典拠

《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)に描かれている女神がパラス・アテナではなく、アルテミス(Artemis)だと気付いたことで、いろんなことが分かってきました。

前回はこの絵の描写の元となるウェルギリウスの文章を指摘しました。それによって、ケンタウロスがもじゃもじゃの髪をしていること、年老いていること、胸を隠していること、そして女神については、体に植物が巻き付いていることなどが説明できました。

しかし、これでは物足りませんでした。女神の持ち物の描写がありません。描写などはじめからなく、アルテミスの持ち物を持たせただけなのかもしれません。いや、でも、いままでボッティチェリの神話画を解釈してきた経験からすると、絶対にあるはずです。

アルテミスの武器として一般的ではない槍を持たせたり、あの曲がりくねった変な盾を背負わせたりするからには、理由となる文章が絶対にあるはずです。そう考えずにはいられませんでした。

そして、いろいろ探してみると、やはりありました。思った通り、ボッティチェリはその文章を謎解きのような解釈で描いていました。この文章はアルテミスにとってふさわしい物語の中に隠されていました。

その文章とは、次のラテン語の文章です。

Hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
Quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos;
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;

これは、オウィディウス(Ovidius)の『変身物語』(METAMORPHOSES)第三巻にある、アクタイオンの物語の一説です。この物語はティツィアーノの描いた絵画(《ディアナとアクタイオン》《アクタイオンの死》)などでも有名です。誰にも気づかれず、ボッティチェリもこの物語の一節を、この絵の中に描きこんでいました。

この文章の日本語訳を岩波文庫の中村善也訳『変身物語』から引用させてもらうとこうなります。

いつも、ここで、森の神ディアナは狩りに疲れると、ういういしい処女(おとめ)のからだに、きれいな水を浴びるのだった。今も、ここにやって来ると、妖精(ニンフ)たちのなかで、武器運びの役をしているひとりに、投げ槍と矢筒と、弦(つる)を弛めた弓とを手渡した。もうひとりが、脱いだ衣装を手に受け取る。ふたりが、はきものを脱がせる。

もちろん、ディアナはアルテミスのローマ神話での名前です。引用した部分の前には、ケイロンの後ろにある洞窟を思わせる、自然が人工を真似したような洞窟の描写ががあります。また、森で迷ったアクタイオンが見てはならないアルテミスの裸を見てしまうのは、この引用の後の方です。

 

さて、このラテン語の文章を、描かれている絵に合うような意味で訳してみましょう。どうしても原文のままではいけないときは、最小限の修正で文法的に成り立つようにします。

hic dea silvarum venatu fessa solebat.

dea silvarum というのは、森の女神であるディアナ(アルテミス)のことです。本来は主格ですが、ここでは奪格とし、「森の女神とともに」と訳します。代わりに fessa を名詞化して主語とします。

そこに森の女神(アルテミス)といっしょに狩りに疲れた者がいつものようにやってきました。

次の行。

virgineos artus liquido perfundere rore.

virgineos は形容詞で「処女の」という意味で、対格複数男性です。これは次の名詞 artus を修飾します。artus は意味がいろいろありますが、この場合は「手足、体の部分」という意味となります。ここらへんは本来の解釈と同じです。つまり、「処女の体を」となります。アルテミスは処女神ですから、問題ありません。

liquido は形容詞で、最後の名詞 rore を修飾します。rore は男性名詞 res の与格もしくは奪格の単数で、これはちゃんと形容詞と一致します。本来は rore は「露」を意味して、女神が水浴びをする様子を表します。しかし、この絵にはその様子は描かれていません。

これは無理なのかと思ってあきらめかけたのですが、近くに ros marinus という言葉が載っていました。これはちょうど地面を這う植物です。絵の中でも植物が這ってます。これにしましょう。つまり、「流れるようなローズマリー」です。

perfundere は動詞の不定法で、本来の文ではperfundoは「注ぐ、浴びせる」という意味で訳されています。しかし、他の意味として「覆う」という意味もあるので、これを使います。動詞sumが省略されているとします。

処女神の体を覆っているのは流れるようなローズマリーです。

この文章を採用するならば、なんと彼女の体を覆っているのはローズマリーでした。そして次です。

quo postquam subiit, nympharum tradidit uni.

これは、ちょっとだけ綴りを変えます。quo を 関係代名詞 qui にします。postquam は「after、as soon as」という意味の接続詞です。動詞 subeo は「下にいる」という意味があります。絵をよく見ると半獣がいるところは女神がいるところから一段下になっています。
※追記 quo に置き換えずに qui のままで、奪格を使って訳す方法もあるかもしれない。

nympharum はニンフの属格複数です。後ろの方のuniと一緒になって、「ニンフの一人」という意味になります。普通はニンフでいいのですがここにはニンフはいません。他の意味を探すと「処女、若い女性」というのもあるので、そう解釈します。アルテミスは処女神なので、「処女神の一人」とします。ギリシア神話には少なくとも他にアテナもいるので複数形でも問題ないでしょう。tradidit は動詞 drado の完了形三人称単数です。意味は、「渡す、降伏する」などの意味があります。uniは与格単数とします。

そして下にいる者が処女神の一人(アルテミス)に身を委ねました。

その次の文。

armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos.

armigerae は「武器を身につけている者」の複数形で、絵の中の二人とも武器を持っているので彼らのこととします。そのあとが、対格の武器の羅列ですが、それぞれが分担して持っています。iaculum は一本の槍で、女神が持っています。pharetram は一つの矢筒でケイロンが持っています。なお-queは単語の後ろにくっつく接続詞です。

次の arcus は対格だと解釈すると複数形ではないといけなくなります。arcusは「弓」のことですが、他にも意味があって、英語だと「anything arched or curved」の意味があります。そう「(弓のように)曲がっている物」です。

このあとが少し技巧的です。arcusを修飾している retentos は二種類の意味に解釈できます。どちらも過去分詞の対格複数男性なのですが、動詞 retendo が元になっていると解釈すると「弛んだ」という意味、動詞retineoが元になっているとすると「背負った」という意味になります。

つまり、arcus retentus は「弛んだ弓」か「背負われた曲がっている物」となります。ケイロンの弓をよく見ると、弦の止める位置が、下は弓の先端ですが、上は弓の先端ではなく、そこより下に結び付けられています。確かに、弛んだ弓が描かれています。一方、女神が背負っている物は、金色の縁が曲がっていることを強調するかのように描かれています。確かにこれも言葉の通り「背負われた曲がっている物」です。うまい具合に、それぞれが、別々の意味の arcus retentus を持っています。

まとめると、次のように訳せます。

武器を持っている者たちは、槍(女神)、矢筒(半獣)、弛んだ弓(半獣)、そして背負われた曲がった物(女神)を持っています。※()内は所有者

では、次。

altera depositae subiecit bracchia pallae.

altera は二人のうちの一人、ここでは女神で、これを主語とします。pallae を修飾している分詞 depositae は動詞 depono の変化したもので、これは普通「置く」という意味なのですが、他に「植える」という意味もあります。「両手」を意味する対格の名詞bracchia は「枝」と訳せるので、これと一緒になって、「枝が生えているローブ」となります。subiecit は動詞subicio の完了形三人称単数です。これは「下に投げる、下に置く」という意味なので、このローブが地面に付いていることを表しているとします。

一人(女神)は枝の生えたローブを地面につけていました。

そして、最後。

vincla duae pedibus demunt.

靴を脱がしている様子は見えませんので、違うことを表しているのでしょう。vincla は中性名詞 vinclum の主格か対格の複数で、意味は「chain,band,fetter」。duae は 序数 duo の主格、複数女性。pedibus は、男性名詞 pes の与格か奪格の複数で、意味は「足」です。demunt は 動詞 demo の三人称複数現在で、意味は「take away,subtract」です。

二人の足のあたりにvincla 「帯、紐、縄、、、」と呼べるものがないかじっくり見てみます。すると、ケイロンは一段下がったところにいますが、側面に地層のような帯状のものが見えています。これですね。これが二人の足で所々見えなくなっています。

pedibus を奪格と解釈するとうまくいきそうです。duae は、半獣と女神の二人のことで、これが主語になります。vincla は画面に見えている地層のこととします。ただ地層という用語のラテン名がこれだというわけではありません。そして、demunt は、二人の足で邪魔して、地層を見えなくしていることとします。

二人は足を使って帯状のものを隠しています。

 

まとめると、

そこに森の女神(アルテミス)といっしょに狩りに疲れた者がいつものようにやってきました。
処女神の体を覆っているのは流れるようなローズマリーです。
そして下にいる者が処女神の一人(アルテミス)に身を委ねました。
武器を持っている者たちは、槍(女神が所有)、矢筒(半獣が所有)、弛んだ弓(半獣が所有)、そして背負われた曲がった物(女神が所有)を持っています。
一人(女神)は枝の生えたローブを地面につけていました。
二人は足を使って帯状のものを隠しています。

女神の疲れた表情とか、ローズマリーが女神の体を服の上から這っている描写とか、武器を持っている描写とか、枝の生えたローブの描写とか、ケイロンが二本の足を持ち上げて地層を隠している描写とか、とても都合のいい描写が並んでいます。

特に「背負われた曲がっている物」というのが、はっきりと言葉として出てきました。この背中に背負っている物について最初に気づいた時から、ただの盾ではないだろうと思って、「金色の縁取りのある黒い何か」とか、「light bringer」という呼び名を表すために用意された「背負っている何か」だとか、でもやっぱり盾を持つアルテミスも稀だけどあるらしいので盾でいいやとか、紆余曲折しながら解釈してきたのですが、ここでようやく答えが見つかりました。arcus retentus です。本来「弛んだ弓」を表す言葉ですが、それの別訳で「背負われた曲がっている物」でした。

ウェルギリウスの詩の解釈で描ききれなかったいろいろな描写が、この文章できれいに補われています。でもオウィディウスの文章があるからと言って、ウェルギリウスの詩はもういらないというわけでもありません。ケイロンが胸を隠すしぐさなどを説明するためには、ウェルギリウスの詩が必要になります。

これで《パラスとケンタウロス》も、典拠を示すことができました。オウィディウスの『変身物語』にあるアクタイオンの物語とウェルギリウスの『牧歌七』の二つです。オウィディウスの物語は、槍を持つ珍しいアルテミスを記述しています。ウェルギリウスの詩は、アルテミス神殿があったのと同じアルカディアを舞台にしており、詩の中にはディアナ(アルテミス)を讃える言葉があります。どちらも、この絵の描写を作りだすのに、ふさわしい文章です。

もう、この女神はアルテミス以外に考えられません。



拍手する
posted by takayan at 02:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | パラスとケンタウロス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月17日

《パラスとケンタウロス》 さらにもう一つの典拠

前回で全部そろったと思っていたら、さらにありました。

先日、この作品は紀元前四世紀の彫刻家スコパス(Scopas)に対抗して作られたのではないかと書いたのですが、調べてみると、もう一人アルテミスの関わる古代の彫刻家がいたことが分かりました。《クニドスのアフロディーテ》を作ったことで有名なプラクシテレス(Praxiteles)です。そう、あの「恥じらいのヴィーナス」の彫刻を一番最初に作った人です。彼のオリジナルは胸を隠してはいないのですが、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》に描かれている女神も、その系譜上にある、偉大な彫刻家です。

このプラクシテレスの作ったアルテミス像そのものは残っていないのですが、パウサニアス(Pausanias)が2世紀に書いた『ギリシア案内記』の10巻37章に、その記述があります。アンティキュラ市について書かれた文章の一節です。

馬場恵二氏の翻訳した文章を岩波文庫から引用すると:

同市の右側、市からせいぜい2スタンディオンほど行ったところに高い岩がそびえ立ち、その岩は山の一部なのだが、その岩の壁面にアルテミスの聖所が建立されている同女神の像はプラクシテレスの作品のひとつで、右手に松明を持ち、肩には矢筒を背負う。女神の左脇には一頭の犬がはべっている。この祭神像はとびきり背の高い女性を越す程度の背丈がある。

見るからに誤訳しがいのある文章です。

ギリシア語は次の文章です:

τῆς πόλεως δὲ ἐν δεξιᾷ δύο μάλιστα προελθόντι ἀπ᾽ αὐτῆς σταδίους, πέτρα τέ ἐστιν ὑψηλὴ−μοῖρα ὄρους ἡ πέτρα−καὶ ἱερὸν ἐπ᾽ αὐτῆς πεποιημένον ἐστὶν Ἀρτέμιδος: ἡ Ἄρτεμις ἔργων τῶν Πραξιτέλους, δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν, παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ: μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

岩の記述の部分も関係がありそうですが、それより重要なのは、アルテミスの描写の部分です。ここを細かく別の訳にしていきます。

δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ

δᾷδα は対格単数の女性名詞で、「松明」のことです。ἔχουσα は現在分詞の主格単数女性で、元の動詞ἔχωは「bear, carry, bring」の意味です。τῇ δεξιᾷ は与格単数の女性名詞で、「右手」のことです。

δᾷδα の主格単数はδαίς ですが、これを辞書で調べると、同じ綴りの言葉で別の意味の言葉があります。その意味は banquet,feast;food です。これは「宴会、食べ物」という意味でいいでしょう。

しかし、さらにここで banquet の意味を調べてみると、イタリア語の banchetto が出てきます。意味は同じ「宴会」なのですが、この語の元の意味を調べると、banco 机の縮小辞です。つまり、「小さな腰掛け、小さな机」となります。(ただし、この連想は δαίς が宴会の意味の banchetto だと書いてある当時の辞書の存在を仮定しています。)

τῇ δεξιᾷ を「右手に」ではなく、「右側に」と訳します。すると、こうなります。

小さな台を背負っている女性が右側にいます。

次。

καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν

καὶ は接続詞、τῶν ὤμων は属格複数の男性名詞で、意味は「肩」。この名詞は前置詞 ὑπὲρ の支配を受けて属格になっています。この前置詞は、「over,above,across」という意味になります。φαρέτραν は「矢筒」の意味で、対格単数の女性名詞です。

プラクシテレスの彫刻には矢筒を掛けられる肩を持っているのは女神だけですが、ボッティチェリの絵では、女神と半獣の二人です。ちょっとずるいですが、誰の肩かはっきり指定していないので、これは半獣の肩ということにします。

そして(半獣の)両肩の後ろには矢筒があります。

次。

παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ:

δὲ は接続詞。αὐτὴν の意味は「self」で、対格単数女性です。παρὰ は前置詞です。次に対格が続くので、意味は「beside」になります。κύων は主格単数の男性名詞です。意味は「dog,bitch;monster;」です。普通は「犬」と訳しますが、ここでは「怪物」とします。そしてἐν ἀριστερᾷ は「左側に」という意味です。

そして女性の左側に怪物がいます。

最後の文。

μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

δὲ は接続詞。μέγεθος は中性名詞の対数単数で、意味は「greatness, bulk, size; might, power, excellence; importance」です。μεγίστην は形容詞 μέγας 「large, great, big, grand」の最上級で、対格単数女性です。すぐ後の、γυναῖκα を修飾しています。これは対格単数の女性名詞で、意味は「女性」です。

ἄγαλμα は中性名詞の主格か対格で、意味は「ornament; splendid work; statue」です。通常はもちろん「彫像」と訳すのですが、今回はそうしません ここでは「宝石で飾られた者」と訳します。この名詞の輝いているイメージは動詞 ἀγάλλω (adorn,glorify)由来だと思われます。

宝石で飾られた者は、どんな女性よりも荘厳です。

 

文章としてつなぐと、ちょっとおかしくなるので、箇条書きにします。

・小さな台を背負っている女性が右側にいています。
・(誰かの)両肩の後ろには矢筒があります。
・女性の左側に怪物がいます。
・宝石で飾られた者は、どんな女性よりも荘厳です。

背負っている物は、原義としての banchetto ということになります。でも、波打つように曲がっていて、台にするにも、腰掛けにするにもちょっと使いにくそうですね。探せばボッティチェリの頃の家具に何か似たようなものがあるかもしれません。でも盾ではないことはこれで分かりました。

女神の服が宝石や指輪で飾られている理由も分かりました。彫像を意味する ἄγαλμα の別の解釈だったわけです。最上級をさらに越えているのですから、相当なものです。

 

このように、パウサニアスの文章から、人物の配置や、背負っている物が台であること、女神の服が宝飾品で散りばめられている理由が分かりましたが、何よりも重要なのは、これらの記述と絵との符合により、この作品がプラクシテレスが作った《アンティキュラのアルテミス》に対抗して描かれたと分かったことです。



拍手する
posted by takayan at 09:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | パラスとケンタウロス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。