2013年03月04日

《春(プリマヴェーラ)》と『ヘルメス讃歌』

そういうわけで、ボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》の中央の女神の描写は「ホメロス風讃歌」の第4歌『ヘルメス讃歌』のある部分の記述を元に描かれていることが明らかにできました。

しかし前回はマイアの描写だけを着目したので、『ヘルメス讃歌』4行目から解釈を始めましたが、あとから思うと冒頭3行にあるヘルメス(メルクリウス)を讃える言葉だって何らかの形でこの絵に描かれていたのかもしれません。それ以前に、読み返してみると長い『ヘルメス讃歌』の前回解釈した部分はまるまる短編の方の『ヘルメス讃歌』の内容でした。

マイアの解釈にだけ集中しすぎて単純なことに気がつきませんでした。冷静に考えて、『アフロディーテ讃歌』のときと同じで、一つの讃歌全体を絵にしていると考えた方が理にかなっています。

長い方はホメロス風讃歌の第4歌で、短い方は第18歌です。以下第18歌全文です。長いほうは580行もあるのですが、こちらは12行ととても短いです。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον, Ἀργειφόντην,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
Ατλαντος θυγάτηρ, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ: ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην:
λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
χαῖρ᾽. Ἑρμῆ χαριδῶτα, διάκτορε, δῶτορ ἐάων.

そして、日本語の意味を前回のと同じように、筑摩書房刊の沓掛良彦氏訳より引用します。

キューレーネー生れのヘルメースを、アルゴスの殺し手を歌おう、
キューレーネーと羊多いアルカディアを統べる神、
幸運もたらす神々の御使者を。アトラースの畏い娘マイアが、
ゼウスと愛の交わりをなしてこの神を生んだ。
マイアは浄福なる神々のまどいを避けて、
濃く蔭をなす洞窟の奥深く住まっていたのだが、
その中でクロノスの御子は、夜の帷の垂れこめるさなかに、
うるわしい巻毛のニンフと愛の交わりをなしたのだ。
それは腕白きヘーラーを甘い眠りがとらえていた折りのことで、
不死なる神々も死すべき身の人間も、気付きはしなかった。
ではこれにてさらば、ゼウスとマイアの御子よ、
あなたを歌うことから始めたが、他の讃歌に移ろう。
さらば、恵みの神ヘルメースよ、導きの神よ、よきことども与えたもう神よ。

内容は前回解釈した部分とほとんど同じです。文法的には動詞の法が変わっていたりしているのですが、マイアの部分に関してはほとんど前回の解釈を変更せずにいけそうです。問題は最初と最後。冒頭の固有名詞はそのままの形ではこの絵に描かれていなさそうだし、そうとうやっかいです。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον,

Ἑρμῆν は Ἑρμῆς の対格です。Κυλλήνη というのは、アルカディア地方にある山の名前で、マイアが住んでいたのはこの山の洞窟でした。つまりヘルメスの生まれた場所を表し、ヘルメスの称号の一つです。語形は対格で Ἑρμῆν を修飾しています。ἀείδω は動詞で、意味は「歌う、讃える」、形は1人称単数現在の直説法か接続法です。素直に訳すと「私はキュレネーのヘルメスを讃えよう!」となりますが、この絵にはキュレネー山らしきものも描かれていません。何か違う意味に置き換える必要があるようです。

Κυλλήνιος を辞書で調べると近くに形容詞 κυλλός があります。イタリア語での訳は monco、zoppo などがあります。これらの語の比喩表現を見ると、「不十分な、不完全な、つじつまの合わない」といった意味があります。これは使えそうです。何故かというと、ヘルメスの足首を見ると、左足のブーツに翼が見えません。角度的に見えていないだけかもしれませんが、確かに不十分な描写です。

monco

しかし、この単語は κυλλήνιος であって κυλλός でありません。さあ、どうすれば変換できるでしょう。これは難易度がとても高かったです。思いつくのにちょっと時間がかかりました。κυλλήνιος と κυλλός の差は ήνι です。ήνι という語が実際にないか調べてみると、ἡνία という語があります。この語がエリジオンを起こすと、ἡνί᾽ という綴りになり得ます。そこで、ἡνία の意味はというと、briglia 「手綱」、cinghia 「ベルト」です。この絵だとすぐにヘルメスの肩から剣をぶら下げるためにかけてある紐のことを思い出します。当然ですが、このベルトは体やマントの後ろを通っているので完全には描かれていません。しかしそれはそうなのですが、重要なのは背中を通っている影がまるで塗り残しのように描かれていることです。これが不完全なベルトです。つまり、κυλλός と ἡνία が一緒になった κυλλήνιος となります。ベルトがそれ一つだけでこの単語を表せれば、不完全なブーツを使う必要はなくなりました。まとめると、「不完全なベルトを提げたヘルメスを讃えよう!」となります。

cinghia

Ἀργειφόντην,

これはアルゴスという百目の怪物を退治したの武勇伝からくる彼の異名です。これも対格です。アルゴスはたくさんの目を持っているために死角のない怪物だったのですが、ヘルメスは笛を吹いてすべての目を眠らせ殺しました。この言葉の描写がこの絵の中にもあるわけです。しかしそのままの形ではおそらく見つからないでしょう。

ここで原義通り単語を分解します。ἀργος「アルゴス」 と φονεύς「殺人者」 です。ἀργοςの意味を調べると、いくつかの意味があって、その中に形容詞でsplendente「輝く」、lucente「光る」、rapido「素早い」、bianco「白い」というのがあります。メルクリウスのそばに何か白く輝いているものを探すと、頭上の雲状のものが見つかります。ハイライトがあって輝いています。雲が棚引いて見えるのもrapidoの意味も描かれているからでしょう。この形容詞ἀργοςを名詞化します。φονεύς の意味としてdistruttore 「破壊者」というのもあります。これは雲の形を壊していることになります。つまり、「白く輝くものを破壊する者を!」となります。

argos

 

こう解釈すると、この絵の中にἈργειφόντην としてのメルクリウスが現れます。それが分かって、ヘルメスの顔を見ると、唇を心持ち突き出し口笛を吹いているように見えてきます。笛の代わりに口笛というわけです。ヘルメスが手に持っているのは笛ではなく、カドゥケウスですが、これも眠りに誘う機能がありますからアルゴスと戦うには正しい武器です。彼がこの場でカドゥケウスを持っている必然性がここに見つかりました。普段の彼の持ち物ではないヘルメットも剣も彼が実は彼が戦闘中であることを示していたことになります。左上にはオレンジを掴んで逃げようとしている怪物にも見えてきます。雲のようなものにたくさんの目が描かれておらず普通の雲に見えてしまうのは、カドゥケウスと口笛のせいで目をつむってしまっているからなのでしょう。

whistling

 

Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,

本来の意味は、「キュレネー山と羊の多いアルカディアの守護者を」なのですが、この内容も別の形で描かれているはずです。Κυλλήνης はさっきと同じように「不完全なベルトをした」とします。Ἀρκαδίης は属格です。そこでイタリア語の名詞 arcadia の形容詞形 arcadico の意味を調べます。すると、「アルカディアの」、「牧歌的な」、「アルカディア派の」という意味の次に、「気取った、技巧的な、わざとらしい」という意味があります。現代のイタリア語だと lezioso、 manierato の意味です。この語がヘルメスの不自然な姿勢を表す言葉であると解釈することにします。この絵が描かれた時点で manierato にこの意味があったかどうか微妙ですが、マニエリスムに通じる姿勢であることはあきらかでしょう。

πολυμήλου は「羊の多い」というアルカディアを形容する言葉ですが、この絵にはどう見ても羊はいないので、別の解釈をします。この語は πολυς 「多い」 と μήλον 「羊」 の合成語です。μήλον の他の意味を調べると、pomo、mela とあり、「リンゴ、リンゴのような果実」という意味です。まさにこの絵の中にはリンゴのように丸いオレンジがたくさん実っています。したがって、まとめると「不完全なベルトをした、わざとらしい、たくさんの果実のある場所の番人を!」と解釈できます。

ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον,

本来の解釈では、対格単数の名詞 ἄγγελον 「伝令」、対格単数の形容詞 ἐριούνιον「恩恵をもたらす」、複数属格の ἀθανάτων 「神」は複数属格で、合わせて、「恩恵をもたらす神々の伝令を!」となります。これを絵の中に探してみましょう。

ἄγγελον には伝令や天使の意味がありますが、これは彼のブーツの翼が表しているとします。属格 ἀθανάτων とくっつけて、ここで区切って、「神々の伝令者を!」とします。ἐριούνιον はヘルメスの呼び名の一つで「恩恵を与えるもの」ですが、このイタリア語での意味は benefattore となります。意味はもちろん、そのまま「恩恵を施す人、恩人、後援者」です。この恩恵を施すというのが絵の中では分かりません。しかしこの綴りをよく見てみると bene と fattore に分けられることに気がつきます。bene は「善」で、fattore は「創作者、製作者、農地管理人」です。アルゴスからオレンジを守っているわけですから、「果樹園を立派に管理する者を!」となります。

ὃν τέκε Μαῖα,

ὃν は単数男性の関係代名詞で、対格です。先行詞は Ἑρμῆν です。関係節の動詞は τίκτω のアオリスト三人称単数です。関係節の意味は「マイアが(彼を)産んだ」となります。この主語のマイアを形容する付加語がしばらく続きます。

Ατλαντος θυγάτηρ,

これは、そのまま「アトラスの娘」と訳します。プレアデス姉妹の父はアトラスなので問題ありません。

Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,

マイアを説明する言葉が続きますが、これからは前回の内容の簡潔な言い換えになります。ここは第8歌と全く同じです。前回の考察を省略して結論だけを書くと、「愛の中で神を宿した」となります。

αἰδοίη:

これも第8歌と同じです。形容詞 αἰδοῖος の女性単数の主格です。「尊敬に値する」という意味とともに、「恥ずべき」とか、「内気な」という意味がありますが、威厳のあるローブをまっとっていることなどから、最初の意味で解釈します。他の神々から一歩引いている様子が「内気さ」を表していると言えなくもないですが、あまり明確な表現ではありません。

μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,

これは第8歌と動詞だけが違います。アオリストの ἠλεύαθ᾽ から未完了過去 ἀλέεινεν に変わっています。こちらの方が過去の習慣をあらわせるので、物語の表現としてはいいのですが、絵の表現の解釈としてはちょっと難しくなります。今までの解釈において、ボッティチェリの絵では、imperfetto 未完了過去は、字義通り不完全な描写で表している例をいくつも指摘してきました。これはちょっと難しいです。

今回も絵をよく観察して、一つ解決策を見つけました。中央の女神のマントの裾です。彼女が完全に神々を避けているのならば、裾も重ならないように描くでしょう。しかし絵では不完全 imperfetto です。これで未完了過去を表しています。完全に離れているべきなのに、右側の集団の連なりに中央の女神もつながってしまっています。まとめると、「幸福な神々の一つの集団を不完全に避けている。」となります。

throng

ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ:

この文では、動詞 ναίω がほとんど同じ意味の ναιετάω に変わっています。また場所を表している言葉が、前置詞句を使っていたものが、処格的与格の παλισκίῳ ἄντρῳ になっています。 「陰をなす空洞のところにいる」となります。

ἔνθα Κρονίων νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,

これは完全に第4歌にある文と一致します。これも時制は未完了過去です。本来の意味では、過去の習慣を表しいて、逢瀬を重ねたことを表していますが、やはり今回も絵の中では不完全な出来事を表していると考えられます。μίγνυμι は mescolare 「混ぜる」や unire 「結びつける」の意味です。この動詞が不完全だということになります。例えば、混ざり合うことなく胎児のように独立した姿でお腹の中にいると考えれば成立します。これはマイアが妊婦のように描かれることによって明確に描写されています。「その場所で真夜中にクロノスの息子は巻毛のニンフの中で不完全に混ざり合っていた。」となります。

次の文は Ἥρην の前で区切ります。

εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον:

ὄφρα から εὖτε に接続詞が変わっているだけです。こちらには whenever の意味があります。「甘い眠りが白い腕の者をとらえたときは」となります。上の主節が成り立つ条件です。

Ἥρην λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.

これは同じ動詞が分詞から未完了過去に変わっています。これも絵の中では不完全な描写のはずです。「9柱の不死なる神々だけでなく、死すべき人間たちにも不完全に気付かれなかった。」となるでしょう。つまり誰かに気付かれているわけですが、これは誰でしょう。今まで通り絵の中に描かれていると考えるのが自然でしょう。誰かがこうして謎を解いてしまったら、その解答を読んだ人も含めて、不完全が成立します。しかしそれはこの絵の中の時間ではありません。

では絵の中で誰が知っているでしょうか。それはマイア以外にいないでしょう。他の人物の視線や仕草を見てもはっきりと彼女のお腹に意識を向けている者は描かれていません。そうならば神を宿しているマイア本人以外に可能性は残っていません。マイアはとても壮麗なマントを身につけています。それも自分の体というよりは、お腹に対して巻いています。そのマントの色が表と裏で違っていることが2つのものが1つになっていることを示していると考えられます。それをマイアが自分の手で押さえ身につけているので、これで彼女がこの事実を知っているとみなせるでしょう。赤い面はマイア、青い面がユピテルを表していることになります。妊婦なのでお腹に意識を向けるのは当然かもしれませんが、ここまで注意深く描かれた絵の中でわざわざ裏表で色の違うマントを使う意味は一つしか考えられません。

ここから最後まで、ヘルメスを讃える内容に戻ります。

καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε,

これはそのままでヘルメスを讃えます。「そしてあなたに幸あれと願う!」。

Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:

これもまったくそのままでいいでしょう。「ゼウスとマイアの息子よ!」

σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.

「私はあなたの歌を始めましたが、次の歌に移りましょう。」という意味ですが、これではこの絵の描写にはなりません。似た文章は『アフロディーテ讃歌』にもありました。それでは ἄλλης ἀοιδῆς を奇妙な塗り方の角のことであると解釈しました。ἀοιδή のイタリア語訳 canto 「歌」に別の意味「角、片隅」 があったからです。ὕμνος はイタリア語だと inno 「賛歌、賛美歌」という訳になります。ὕμνος には他にlode 「賞賛、賛美」という訳もあります。このlode には古い用法に「手柄、勲功」という意味があります。これはまさに今回この讃歌の中に見つけた Ἀργειφόντην の奇妙な描写のことでしょう。

ἀρξάμενος は「先頭にいる、導く」といった意味の ἄρχω のアオリスト分詞で、属格を目的語に取ります。ここではヘルメスを示す属格人称代名詞の σεῦ を目的語に取り、「あなたを先頭に置きましたが、」となります。μεταβήσομαι は μεταβαίνω 未来形とみなすべきでしょうが、躊躇を表す接続法アオリストとして考えます。イタリア語の訳は trasportare とし、さらにその中の「翻訳する」とします。まとめると、「私はあなたを最初に置きましたが、そのとき奇妙な手柄に翻訳するか迷いました。」となります。最初の行に Ἀργειφόντην があることに合致します。

χαῖρ᾽.

先ほども出てきましたが、「幸あれ!」とします。その後に続く、ヘルメスを讃える言葉に対して発せられたものだと考えます。

Ἑρμῆ

これは本来は次の言葉と一緒に訳されますが、ここでは単独で訳します。呼格と考えて、「ヘルメスよ!」

χαριδῶτα,

これもヘルメスの称号の一つです。χαριδώτης はχαρά 「gioia」と δίδωμι 「dare」からなる言葉で、本来の意味ではイタリア語で「che da gioia」、日本語で「恵みを与える者」となります。しかし、これをもっとこの絵の描写に近づけた表現に変換してみます。χαρά には同じ形の違う意味の言葉があります。イタリア語ではcagna 「雌犬」ですが、ここではもちろん比喩表現とします。δίδωμι と接続法だと同じ形になる動詞にδίδημι、意味はlegare「結ぶ」があります。まとめると「尻軽女とつながっている者よ!」となります。絵の中では剣が二人を結びつけています。

legare

διάκτορε,

これは διάκτορος の呼格単数です。イタリア語で messaggero 「使者」という意味と、che assiste という意味があります。assistere はラテン語 assisto に由来する単語で「近くに立つ」という原義があります。これを使って、「寄り添っている者よ!」と解釈します。この絵でメルクリウスは三美神に寄り添うように立っているので、それを表す表現とします。

δῶτορ ἐάων.

δῶτορ は δώτωρ の呼格男性単数です。datore 「与える人」、dispensatore 「分配者、支配者」の意味があります。ἐάων は ἐύς の属格複数です。ἐύς の意味は buono です。したがって本来の意味だと「いくつもの良いものを与える者よ!」となります。しかしこれでは絵ではよく意味の分からない表現となります。ἐάων  は複数ですから「優しい者たち」と解釈してこの絵に描かれている三美神のことだとします。そしてdispensatore の意味を使って、まとめて「優しい者たちを支配する者よ!」とします。この絵でメルクリウスが三美神を誘導しているような描写やそれぞれの心を捕らえているような描写の根拠とします。

mercuriusandgraces

 

このように第18歌の言葉を全てこの絵の中に見出すことができました。未完了過去の文の変換などから、第4歌よりもこの短編をもとにしたほうが的確な描写になります。《ヴィーナスの誕生》も第6歌のすべての言葉を見出すことができたことから、《プリマヴェーラ》と《ヴィーナスの誕生》が特別な関係にある絵だと分かります。制作した時期までが同時期かどうかまでは分かりませんが、『ホメロス風讃歌』の歌を秘密裏に絵画化するという同じ目的で描かれた絵画です。

ボッティチェリと依頼人はこれらの絵の内容をはっきり知っていたのは当然でしょう。では他にその秘密は知っていた者はいるのでしょうか。ヴァザーリが『列伝』で報告していたように、この二つの絵は並べられて飾られていました。もしかすると、そこに集めた者は、この隠された事実を知っていて並べたのかもしれません。この二つの絵の関係は、近年研究が進むにつれて離れていってしまいました。ここでの分析でも一番重要な点だと考えられていたウェヌス(アフロディーテ)が描かれているという共通点を完全に否定してしまいました。しかしその結果、今まで見つからなかった、絵そのものが『ホメロス風讃歌』の歌を表すという明確な共通点が現れました。



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2013年03月10日

《春(プリマヴェーラ)》 女神の指輪

前回前々回の2回で、『ヘルメス讃歌』の古典ギリシア語を言葉を選びながら翻訳すると、《プリマヴェーラ》の中央の女神とメルクリウスの描写となることを示しました。

自分が書いたものを読み直してみると、新たに思いついたことがあるので補足しておきます。赤い文字が今回修正するところです。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον, Ἀργειφόντην,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
Ατλαντος θυγάτηρ, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ: ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην:
λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
χαῖρ᾽. Ἑρμῆ χαριδῶτα, διάκτορε, δῶτορ ἐάων.

Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα という分詞節ですが、この中に φιλότης 「愛」という言葉があるのにそれを活かさないのはもったいないことに気がつきました。案の定、辞書で調べてみると大文字化した φιλότης はエロス(クピド)のことも表します。そう、中央の女性のすぐそばにいる彼です。いままでは「愛の中で」という意味で解釈しましたが、ἐν を presso (at) の意味で解釈して、「エロスの近くで」と訳します。この節をまとめると「エロスの近くでゼウスと一つになっている」となります。

cupidandmaia

この節こそが、絵の中にクピド(エロス)が存在する理由となります。同時に、この女神がいる場所の目印としてクピドが描かれている根拠となります。通説では、クピドを従えていることが彼女がウェヌス(ヴィーナス)である数少ない根拠の一つでしたが、その根拠も否定できるようになりました。

以前、三美神の解釈のとき、三美神のAmor 「 愛」を指し示すためにクピドが存在するとしました。しかしクピド自身の存在に典拠があるのなら、それに越したことはありません。これですっきりします。この讃歌によりメルクリウスとマイアとユピテルとクピドがこの絵に登場し、それらの神々の存在を利用してフィチーノの三美神を配置していることになります。

 

次に、以前中央の女神が花嫁のような薄いベールを頭にしていると書いていましたが、その根拠となる言葉がこの中にありました。それは、νύμφη です。この言葉にはギリシャ神話に出てくる女性の精霊としてのニンフの意味の他に、fidanzata 婚約者、sposa 花嫁といった意味があります。中央の女神だけにベールが描かれているので、この言葉 νύμφη を表すためにベールを描いた可能性を言うことができるでしょう。

さらに、中央の女神の小指をよく見ると指輪があるのが分かります。グーグル・アート・プロジェクトは素晴らしいですね。

ring

小指が襞の中に隠れているので、気をつけて見ないと分からないでしょう。今回、花嫁というキーワードが見つかったので、念のために彼女の指を見てみたら、運良く見つけられました。左手の小指にしていることに意味があるかどうかは、当時のフィレンツェの風習を調べてみないと分かりません。それよりも見たままの、彼女が婚約指輪か結婚指輪をしているという事実で十分でしょう。指輪が見えにくいのも彼女の意思を描いていると考えていいでしょう。

彼女が花嫁ならば、αἰδοίη という言葉の解釈を変えなくてはいけません。この言葉には「尊敬に値する、恥ずべき、内気な」という意味があります。以前は装飾品から「尊敬に値する」という意味を選びましたが、花嫁でありながら、お腹が大きいというのならば、「恥ずべき」という意味が相応しいでしょう。しかし、このような意味になるように描いてはいますが、侮蔑する意図はないでしょう。

 

さらに読み直してみると、 νυκτὸς ἀμολγῷ の意味がちょっと物足りないのに気がつきました。これは未完了過去の文ですが、ボッティチェリの絵では、不完全な出来事を描いた絵の中のその時でなくてはいけません。真夜中というのはこの絵の場面ではありません。ですから、この言葉 νυκτὸς ἀμολγῷ も他の意味にできた方が美しくなります。

νυκτὸς  は νύξ 単数女性属格で普通は notte「夜」ですが、他に oscurita 「暗いこと、暗がり」、tenebra 「闇、謎」などの意味があります。ἀμολγῷ は ἀμολγός の単数男性与格で「牛乳の容器」という意味があります。中央の女神のそばで牛乳のようなもの、容器のようなものを探すと、頭上のクピドの弓のところにある白い細い雲が見つかります。これは弓と、その下の三角のシルエットと、注ぎ口のようなものなどいろいろ合わさった異様な容器からこぼれている牛乳に見えなくもないです。このあたりの葉っぱのシルエットをよく見ると、つじつまの合わない形がちらほら見えます。特に白い帯の上には、気付いてくれと言わんばかりに、他のどこにも接していないシルエットがあります。この黒いものは牛乳の流れに乗っているかのようです。ここには何か意味がありそうな奇妙なものがあります。tenebra の意味を使って、「謎の牛乳容器」と訳しましょう。ἀμολγῷ は与格なので、これを場所を示す処格的与格と解釈して、「謎の牛乳容器の近くで」とします。まとめると、「謎の牛乳容器が近くにあるそこで、クロノスの息子は巻毛で飾られた花嫁と不完全に一つになっていた。」となります。

secchia

 

この解釈では、この作品はマリアの受胎を連想させるものになっています。Zeus がギリシャ神話的にもキリスト教的にも解釈できる言葉であることを利用しています。一方マイアは長い方の『ヘルメス讃歌』では πότνια Μαῖα と呼ばれ、これはイタリア語で regina madre となり、イタリア語の聖書ではマリアの呼称の一つとなっています。典拠の言葉からもはっきりと異教の神々を使ってキリスト教の世界を描こうという意図のあることが分かります。異教の神々ですから、自由な表現は許されるのでしょうが、それでも信仰に関することですから、大っぴらにこの絵の意味を言えなかったであろうと考えられます。



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posted by takayan at 19:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月18日

《春(プリマヴェーラ)》 空色のゼフュロス

《プリマヴェーラ》を言葉遊びを使って解釈しようとするシリーズの続きです。今回はどうしてゼフュロスが青いのかについて考えてみました。

caelestes

きっとゼフュロスが青いのも何らかの言葉遊びに違いないと予想します。いろいろ「典拠」と思われるものを読んできて今まで気付かなかったので、これも本来とは違った意味を選ばないといけないのだと思います。

方針としては、まずイタリア語で青い意味の単語にどんなものがあるか調べて、さらにその語源となるラテン語が今まで出てきた「典拠」にないか調べてみます。見つからなければ、また別の方法を考えましょう。

google 翻訳では単語だけを入れると、必ずではありませんが、辞書代わりに使えます。入力側を日本語にしてそこに「青い」を入れて英語で出力すると、右の枠の下にいくつかblueとかunripeとか候補が出てきます。しかし、入力側を日本語のままにしてイタリア語を出力にすると枠の中は単にbluだけでしか出てきません。そこで入力を英語にして「blue」と打って、出力をイタリア語にすると、右枠の下に候補が次のように出てきました。

blue

blu,zaaurro,celeste,turchino,…

これは!この中に見覚えのある単語があります。正確に言うと見覚えのある単語に似たものがあります。

下のラテン語の文章は、『祭暦』の5月2日で、三美神(カリテス)が現れて、花冠を編み、神々しい頭に花冠を載せようとしている様子を記述した文章です。この文章を思い出しました。

protinus accedunt Charites nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.

ここにある caelestes (見出し語形 caelestis )です。celeste と caelestis とは綴りが微妙に違いますが、子音の配置がよく似ています。辞書で確認すると確かに語源です。羅伊辞典でも caelestis の最初の意味として celeste があります。

ラテン語では、「天空の、神の」といった意味だけで色としての用法はないようですが、イタリア語の celeste には名詞として「空色」、形容詞として「空色の」という意味があります。まさに、ここに描かれているゼフュロスの色です。風の神が空色をしていると考えれば、なんとか納得ができます。

ラテン語の文では形容詞として使われているので、ここでも形容詞として「空色の」と訳すことにします。しかしここを単純に置き換えて翻訳が可能かというと、そうはうまくいきません。この絵のゼフュロスの姿を見ても、花冠を空色の髪に結びつけている様子は描かれていません。この文章の他の単語も意味を置き換えていく必要があるでしょう。

caelestes のそばには implicitura ( 見出し語形 implico )があります。この語の意味は、包んだり、巻き付けたり、まぜあわせたりすることです。これはその未来分詞です。絵の中の空色のものを眺めてみると、この implico の意味が見えてきます。空色のマントはゼフュロスの体に巻き付いています。空色の肌のゼフュロス本人もフロラの体に手を巻き付けています。しかしなかなかいい発見だと思いましたが、それ以上訳を展開させていくことができません。そもそも未来分詞らしい表現になっていません。

今度はゼフュロスの髪を見てみます。棚引いているその髪の続きにちょうど翼が描かれています。見ようによっては、髪と羽がごっちゃになって描かれています。この空色の髪も翼も、混ぜ合わせるという implico の意味がここに描き込まれていると考えることができます。comas 単数主格coma) 「髪」のイタリア語訳 chioma の古い意味には兜などの「羽根飾り」があります。つまり髪としての comas がいつのまにか、羽根飾りとしての comas に入れ替わり、言葉としてごっちゃになっている様子が絵に描かれていると考えることもできます。さらに、coma の意味として植物の「葉」という意味もあります。この絵では、髪も翼も木々の葉が覆いかぶさって、ごちゃごちゃになっています。細かく見ると羽根が葉のように描かれたり、葉が空色になっていたり、この点においても混ぜ合わせるという意味での implico になっています。次の切り抜きはcomas(髪)とcomas(羽根飾り)とcomas(葉)が混ぜ合わさっていると解釈できるところです。

comas

しかし、やはりここで implicitura が未来分詞であることが問題になってきます。主動詞が現在形なので、これから起ころうとすることを表現しているはずなのですが、この混ぜ合わせていることは今起きてしまっています。他にどこか未来分詞らしい描写があるはずです。

それにしても、この解釈で分かった comas が羽根飾りと訳せることは素晴らしい発見でした。翼の先が、一枚一枚の羽根に分かれて描かれているのは、以前から奇異には思っていましたが、その理由が、翼ではなく飾りの羽根として描かれているのならば納得できます。ゼフュロスのこの翼の先はおかしいです。《ヴィーナスの誕生》の彼の翼と比べても分かります。先ほど、髪が羽根飾りにすり替わっているとした両者が接続された描写は、頭の飾りだと見せるためにそう描かれたと考えればいいでしょう。ただの翼では comas にはなりません。髪の後ろに立てるように描くことで、この翼は comas と呼べるようになります。もちろん、木々の葉が comas と呼べることも重要です。木々の葉はゼフュロスのところにだけあるわけではありませんが、わざわざ髪と翼の上に葉を描く理由が何かあるに違いありません。

ところで、この絵のほとんどの木には見事なオレンジ(黄金のリンゴ)が実っています。しかしゼフュロスがいる画面の右側、全体の四分一にはオレンジは見当たりません。何もないかというとそうではありません。暗い木の葉の茂みだけのように見えますが、くすんだ黄色の何かが描かれています。クルミの実のような丸いものが集まったものと杉の花のようなものが描かれています。どうしてこんなものがゼフュロスの周りにだけに描かれているのか、今まで理由はよく分かりませんでした。しかし、杉といえば、マイアの住んでいたキュレネーは『祭暦』においてcupressiferae Cyllenes 「糸杉の繁るキュレネー」と形容される場所でもあります。マイアがいるこの絵の中では、ゼフュロスの後ろにある木は当然、糸杉で、丸いものはその実、房状なのは花と考えていいでしょう。

ここの描写もまさに cupressiferae (見出し語形 cupressifer )が描かれています。 cupressifer は cupressus 「糸杉」と動詞 fero の合成語です。動詞 fero にはたくさんの意味があるので訳しにくいのですが(OLDだと39項目)、植物が対象であるときは英語だと bear の意味で考えてよく、「花が咲く、実をつける、葉をつける」という意味になります。つまり、cupressiferae Cyllenes は「糸杉が葉を茂らせ花と実をつけているキュレネー」となり、この絵の右上の描写になります。

(次の画像は細部がよく分かるように明るさを上げたものです。)coronasserta

ここで本来の解釈で花冠と訳されている corona と serta を詳しく調べてみます。corona は冠やリースのような円形の飾りです。serta は corona とほとんど同じで意味で使われていますが、語源の動詞 sero を意識すると、編んだり、つなぎ合せたりしてひと続きになっている飾りとなります。もちろん最初と最後を閉じて輪にしてしまえば花冠になるので、これは本来の解釈の意味に反しません。しかしさらに sero の意味を調べてみると、面白いものが見つかります。語源になった動詞 sero の意味は intrecciare 「編む」ですが、これとは別に現在形は同じ活用で、過去形などが違う活用をする別な動詞 sero があって、これは seminare 「種をまく」などの意味があります。比喩表現としては、spargere 「撒き散らす」があります。この意味は使えます。

この意味を踏まえます。円形をしている杉の実はすぐに corona を表している「丸いもの」と考えられます。そしてもう一方の杉の花は花粉をまき散らすものですから、わざと語源をもう一方の sero に間違えてると、serta を「撒き散らすもの」と考えることができます。こうすると、この絵の中にも coronas と serta が配置されていることになります。

さて、今度は未来分詞 implicitura について考えてみます。この分詞は本来の意味では熟語 sertis implicuisse comas 「頭に花冠を載せている」の一部です。本来は setum がこの句に含まれていますが、上記のように serta は coronas と一緒に使われていると考えられるので、従って意味のまとまりの可能性は caelestes implicitura comas もしくは implicitura comas もしくは caelestes implicitura となるでしょう。

今まで見てきたように、この絵のゼフュロスの回りには、動詞 implico を連想させる動きが繰り返し現れています。また comas と呼べるものも何種類か存在しています。後は implicitura の解釈です。動詞 implico の意味は先ほども書きましたが、巻き付ける、包む、混ぜ合わせるなどがあります。問題は未来分詞らしく表現されている箇所の存在です。一か所でもそのような描写があれば、かえって変化しつつある状況が表現されているとみなせるでしょう。

改めて、ゼフュロスの回りを詳しく観察してみます。

caelestes

絵を見てみると、空色のゼフュロスの手前にある、2本の月桂樹が極端に湾曲し倒れかかっています。フロラの視線も旦那にではなく、この木へ向けられていると考えるとより劇的になります。アポロンと結び付けられている月桂樹の葉も caelestes comas と呼ぶことができます。この2本の木を眺めてみると、この木々の葉が髪と翼に巻き付くように描かれているのが分かります。木々は明らかにゼフュロスの方へと曲がっています。この後さらに曲がっていけば、この木々の葉は髪にも翼にも巻き付き、絡みついてしまうでしょう。このように考えるとこの2本の木の描写は未来分詞 implicitura を踏まえたものであると解釈できます。またこの月桂樹の葉が caelestes comas であるならば、後ろにある糸杉の葉も caelestes comas と呼べるでしょう。なぜならこの絵ではマイアの住む場所として出てきますが、この木は同じくオリンポス12神の一人であるアルテミスの神木でもあります。この木の葉もぎっしりと描きこまれ混ぜ合わされた表現になっています。

さて、この文章の動詞はというと、nectunt ですが、これは necto の三人称複数現在形で、「つなぐ、くっつける」の意味です。本来ならば三美神が主語となるはずですが、この絵では違います。先に示したように、coronas と serta が杉の実と杉の花となるのならば、この主語は糸杉そのものとなるはずです。しかし、この文章の中に糸杉という言葉はありません。そこで、分詞句 caelestes implicitura comas を主語とみなします。implicitura は本来は奪格単数と解釈されていますが、ここでは同じ形の主格複数と考えれば可能です。つまり「神の葉を混ぜ合わせようとしているもの」と考えれば、糸杉を表せます。その代わり、手前の月桂樹の木々も主語になってしまいます。つまり、月桂樹にも coronas と serta が必要になります。この木にそんなものあったでしょうか。そこで、月桂樹の木も注意深く見てみると、丸い黒い実と、落ちそうな黄色い葉が描かれていることに気づきます。確かにこれも coronas と serta とみなすことができます。手前の月桂樹もこの文の主語となる資格をちゃんと持っていました。

この部分をまとめると、「空色の髪や空色の羽根飾りや神々しい葉を混ぜ合わせようとしているもの(糸杉と月桂樹)たちは、丸いものや撒き散らすものを(自分自身に)くっつけています。」となります。

最後になりましたが、後半の意味が分かったので、最初の部分をこの状況に合わせて解釈します。「protinus accedunt Charites」は本来は Charites が主格ですが、この絵では対格とします。そして主語は、この絵の中に追加された3人、ホーラ、クロリス、ゼフュロスとしまう。「彼らは続けて三美神に近づいています。」と解釈します。前の文で、ホーラ、クロリス、ゼフュロスの配置などの描写が記述されていましたが、この文で、さらに彼らの動きの方向を示しています。

今回対象になったラテン語全体を訳すと、「彼ら(ホーラ、クロリス、ゼフュロスの三人)は続けて三美神に近づき、空色の髪や空色の羽根飾りや神の葉を混ぜ合わせようとしているもの(糸杉と月桂樹)たちは、丸いものや撒き散らすものを(自分自身に)くっつけています。」となります。日本語では意味の分かりにくい文章ですが、ラテン語で書くと、簡潔な「protinus accedunt Charites nectuntque coronas sertaque caelestes implicitura comas」です。

たった9つの単語の解釈でしたが、内容を理解するのに恐ろしく多くの言葉が必要になりました。三美神の行動を表しているはずのラテン語の文が、ゼフュロスの描写を表しているなんて思ってもみませんでした。しかし、celeste が空色だと分かってしまうと、このゼフュロスの周りの描写は、この文を表しているとしか考えられなくなりました。ゼフュロスの後ろの木々にオレンジが無いのは、代わりに糸杉の花や実が描くためでした。糸杉の葉が必要以上に重なり合っていることも、ゼフュロスの髪と翼が空色であることも、手前の2本の月桂樹がゼフュロスの方へ湾曲していることも、月桂樹の実が存在を誇示していることも、月桂樹にわざわざ黄色い葉が描かれていることも説明できます。2本の月桂樹がそれぞれ髪と翼に触れようとしている理由はラテン語にはありませんが、この文の単語のイタリア語訳が髪と羽根飾りのどちらにも訳せるという解釈しか成り立ちません。ゼフュロスの翼の先がありえない形になっていて羽根を一つ一つ描かれているのは、これが羽根飾りとして描かれているとしか説明できません。これらの意味になるように選んで訳したのですから当然ですが、『祭暦』のこの場所にある9つの単語からこれだけの情報が導きだせることに重要な意味があります。

ゼフュロスの奇妙な色については、昔からいろんな解釈が試みられてきました。しかし、ここに深い暗示などありませんでした。これはゼフュロスの体にある comas に caelestes という属性を付加するために描かれたものにすぎませんでした。



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posted by takayan at 12:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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