2015年01月27日

《春》 典拠解釈の再開

再び《春(プリマヴェーラ)》についての典拠の解釈をやっていきます。断続的でしたが、《春》についての考察をし始めてもう6年です。もうそろそろ解釈を完成させたいと思います。わざわざ宣言してから再開しなくてもいいのですが、意識してスイッチを切り替えないと、なかなか集中力を高められないのです。

今までの考察によって次のことが分かってきました。この絵の典拠となるものは、『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』、Ovidiusの『祭暦』第五巻の一部分、そしてFicinoの『愛について』第二巻第二章の一部分だと思われます。それも、これらの文章をそのまま描いたのではなく、ラテン語や古典ギリシャ語の意味を言葉遊びで変化させて描いています。本来の解釈とは違う意味だからこそ、よく分からない描写がいくつもこの絵に現れているのであり、典拠となる文章がどうしてもはっきりしなかったわけです。このことはBotticelliの他の異教画についても言えます。去年の段階での他の作品を含めた要約は「ボッティチェリの神話画の解釈」に書いています。

典拠の解釈によって導き出されたこの絵の神々は、従来指摘されていたものと違ってきます。Vasariの記述を根拠に中央の女神はヴィーナス(ウェヌス)と信じられてきましたが、彼女はマーキュリー(メルクリウス)の母親マイアとなります。またEdgar Windが唱えてから有力な解釈とされてしまったクロリスからフローラへの変身は否定されるべきものです。口から花をこぼしている女神はフローラで、その花を服を寄せて作った急ごしらえの籠で受けている女神は季節女神ホーラの一人です。

このように神々の特定など、ほぼこの絵の解釈は完成しています。ただ断片的に考察を続けてきたので、整合性がとれていなかったり、全体像がつかみにくくなっています。去年の《ヴィーナスとマルス》の解釈でやったようなまとめをしばらくやってみようと思います。

それはそうと、去年の年末、《パラスとケンタウロス》が日本にやってきました。不思議なこの絵について関心を持った人が、ここを見てまだ完成していない僕の解釈が世の中に広まるか、ちょっと心配したのですが、そうはなりませんでした。20万人以上絵画展に行ってて、《春》と違って、《パラスとケンタウロス》は検索上位なのに、ここまで理解してもらえないのも、それはそれで相当へこんでしまいます。でもやはり今はそのほうが都合がいいです。訳が分からないことを書いていると思って無視してもらった方が集中できます。



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posted by takayan at 02:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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