2007年07月19日

もうすぐ「時をかける少女」

見ていなかった人はこの機会にどうぞ。
いよいよ今度の土曜日に劇場版アニメーション「時をかける少女」がテレビで放送される。

この映画は去年上映されていたが結局見に行かなかった。それでもずっと気になってた。発売されるとすぐにDVDを買って見た。先月だったかBS2であってたアニメ夜話も見た。これには原作者の筒井康隆御大も登場してた。

どうしても昔の原田知世の劇場版の印象があって(でもまるで記憶を消されてしまったかのようにラベンダーと原田知世が出ていたことだけしか覚えていない)、お金を出して買っておきながら恐る恐る見始めたのだけど、十分に楽しめた。最初はヒロインに距離を感じてしまったけれど、いつのまにか展開に巻き込まれてしまっていた。

最近やっと原作も読んだし、ここに感想も書きたいところだけれど、せっかくテレビでもうすぐあるから、その後にもう一度この映画について書こうと思う。

初めて見るときに大切なのは、細かなところまで注意を向けながらも、それでいて些細な問題は気にしないで見ること。もう高校生じゃない人はついつい大人の目線で見始めてしまって(僕がそうだった)小言を言いたくなるかもしれない。見ている自分の気持ちも高校時代に戻して見るといいんじゃないかなと思う。

いつもだったら関連リンクを貼るのだけど、こういうのは何の予備知識もなく見るのが面白いので、何も貼らない。


放送予定:
フジテレビ系 7月21日(土)夜9時〜
劇場版アニメーション「時をかける少女」



後続記事:
アニメ映画「時をかける少女」
「時をかける少女」を読んで
アニメ映画「時をかける少女」 追加


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2007年07月28日

アニメ映画「時をかける少女」

先日の地上波での放送で、エンディングがカットされたのは残念だった。それに民放だからCMで切り刻まれるのは仕方がないとしても、最近のCMの入れ方にはどうしても不満が残る。結局DVDで見直した。やっと仕事も一段落して、ゆっくり文章が書けるようになったので、いまさらだけど書いてみよう。当然ネタバレがあって、勝手な解釈もある。その上長文である。

時を越えるというあり得ないことを扱うので、そこに矛盾が生じてしまうのはどうしようもないこと。以前「タイムマシン」の感想を書いたときもそんなことを書いていた。ただ過去に戻ってやり直せるならばという全ての人間がきっと一度は考えるだろう願いを描く物語は、どうしても興味を惹かれてしまう。

この物語にはいろいろな設定を用意してあるが、それを説明していないことが多いのではないかと思う。説明だらけ言い訳だらけの物語にしてしまうのを避けて、あえて主人公の感性に沿った理解だけでこの物語を描いてしまおうとしているのではないかと思う。描きたいものに焦点を合わせるために、主人公とともに些細なことは気にせずに勢いだけで物語が展開していくのだろう。ふと立ち止まって疑問を感じたときのために、整合性の取れるようなそれなりの言い訳は用意してはいるのだろうが。

主人公の真琴がお馬鹿設定というのが、全てを支えている物語。だって過去に戻れるならば万馬券買うでしょう、普通。無邪気にお小遣い日に戻ればいいと言う真琴は、もうかわいいと言うしかない。自分の身に起きたこんな重大なことを、日常レベルの思考のままで深く悩まず適応してしまうのが、この物語の良さ、真琴の彼女らしさなんだろう。プリンとか、カラオケとか、夕食のおかずとか、そういう問題意識でこの物語が進んでしまう。これは時間旅行という超能力を得た超人を描く物語ではなく、普通の女の子が、直面する現実に対してそんな彼女なりにしっかり自分自身で考え、向き合ったり、向き合わなかったりしながら、少し大人になっていく物語。

真琴は千昭からの告白をタイムリープで無かったことにしてしまう。不安なんだろうな。決して悪い未来では無いはずだけれど、今の幸せよりもずっといいかもしれないけれど、無かったことにできるのならば、そうしてしまうことかもしれない。相手が自分を好きだということほど、自分の意思ではコントロールできないことはないわけだから、自分にその気持ちがまだはっきりとしないのならば、その他者の意思を回避し続けるかもしれない。でも回避し続ける限り自分の気持ちと向き合う機会も失ってしまうわけで、もう後ろ向きに進むしかなくなってしまう。タイムリープがなかったら、相手の気持ちを引き受けて、あとからでも自分の気持ちも育てていけるのに、それができなくなってしまう。その結果が自分の友人と千昭が接近していくという現実を招いてしまう。その現実は結局リセットされてしまうが、真琴にはその現実そのものを変えようとした形跡はない。いつまでも真琴は自分の気持ちに向き合えないでいる。

千昭が見たがっていた絵は、未来人が過去で描いたものだろう。彼か彼女か分からないが、その未来人は何百年も前のその時代に行き、そして帰って来なかった。自分の意志なのか、それとも事故なのかは分からない。けれどその未来人はカウントがゼロになり、戻らなかった。そしてあの絵を描いた。そういうことなのかもしれない。そして千昭の時代、消えた未来人の存在を示す過去の研究がいろいろとされたのだろう。その研究により真琴のいたあの季節にその絵が復元されたという事実が分かったのだろう。絵を描いたその時代に飛んでいけるほど正確な情報が無く、真琴の時代だけがはっきりしていたのだろう。千昭はこの時代で過ごすうちにこの絵を残した作者と同じように自分も過去の時代に残ってもいいかもしれないと思っていたに違いない。その決意を示しているのが、真琴への告白であるように思う。千昭は最後のタイムリープを友のために使うことにした。未来に戻ってクルミを手に入れてその直前に戻ってくるという選択肢はなくはないが、それができない理由があるのか、それをあえて選択しなかったのだろう。

どうして千昭は最後のタイムリープで時を止めたのだろう。時を止める機能もこのチャージ式のタイムリープにはあるのだろうか。真琴は丁寧なマニュアルではなく力業でスイッチの入れ方を獲得したので知らないということだろうか。千昭は、真琴に気付かれずに過去に戻り、自転車を盗むだけで今まで通りの生き方をできたのに、どうして時を止めて、真琴に真実を話したのだろうか。

千昭自身の話からすると、千昭は功介が死んだ後、この現場に来て泣き喚く真琴の姿を見て、そしてそのあと過去へと向かっていることになる。三時三十分へ。功介から自転車を盗む。そこで止まった時を進めればいいのに、時を止めたまま真琴がそのときいる場所に現れる。タイムリープのチャージをした者は、止まった時の中を動くことができる能力も獲得しているのではないだろうか。それがその能力を確かめられる方法かもしれない。真琴は過去には行けても時を止められないから千昭に気付かれることもなかったのだろう。千昭はタイムリープできる者を見つけ出さないといけないので、どうしても止まった時の中で真琴に会って確かめざるを得ない。だから時を止めたまま、真琴の前に現れ、止まった時を動ける真琴がタイムリープができることを確認し、真琴に真実を話した。そんなふうに考えてみた。

もう一つ大きな疑問。何故真琴は自分がタイムリープのカウントを使い切っていたと誤解していたのだろうか。もちろんそれは見ている側も騙されているわけなんだけど。この錯覚が物語を盛り上げてくれるので、必要不可欠なことだけど、どうしてもこの真琴の錯覚の理由が分からない。親切なテントウムシさんが教えてくれるまで気付かないのはどうしてだろう。真琴の頭が悪いからでいいのだろうか。

真琴がアザだらけになり目をつぶって止まれ止まれと何度も叫んだあと、止まった時の中で気がつく演出はちょっとずるい。涙が残ってるようにもみえる。目を開けた後、観客と違ってこのときの真琴は功介の事故の記憶はないはず。そうじゃないとおかしい。今のおまえは知らないだろうがと、千昭が止まった時の中でそのことを指摘しているのだけど、観客は真琴がつまらないことに最後の1回を使い切った場面の印象を消せないし、そもそも千昭の行為がカウントに影響を与えることだとはこの段階では気付かない。でも真琴本人はどうだろう。この時点ではあと1回なのかもしれないという認識のはずなのに、どうしてゼロだったはずだと思ってしまったのだろうか。千昭と一緒に止まった時の中を過ごしたために錯覚をしてしまったのだろうか。クルミが砕けたのを見たせいだろうか。千昭の手首のゼロのカウントを見てしまったためだろうか。千昭が消えてしまって全てが終わったと思ってしまったのだろうか。それとも見ている人を騙すためにボケていただいたというのだろうか。真琴は功介の事故の記憶を持っていたとも取れるセリフを話している。それは単に観客をミスリードするためだけのセリフなんだろうか。

魔女おばさんは真琴とは正反対な生き方の女性なのだけど、真琴にとって素晴らしい助言者となっている。原沙知絵の声もよかった。真琴の叔母である魔女おばさんは、先代の時をかける少女の芳山和子。疑問なのは、小説では彼女は記憶を消されたはずなんだけど、今回の物語では忘れていないようにも取れる描写がある。彼女は博物館の自分の部屋の棚に、学生時代の写真とラベンダーを飾っている。この写真の中心には、このアニメ版が公開されたとき新装された小説の表紙絵と同じ顔立ちの少女が映っている。左右に背の高い男子と背の低い男子がいる。この場面を見たときに分からなくても、小説の表紙を見ればすぐに気づくだろう。でも考えてみると、小説で和子が時をかけたのは中学三年の出来事。魔女おばさんが真琴に語った初恋の話は、高校のときの思い出。和子はやっぱり時をかけた記憶は消えたままなのだと思う。この消えているはずの漠然とした記憶が高校の時の初恋を招いたのだろう。その恋もラベンダーに関わりがあって、その相手も正体を明かさない一夫本人か彼によく似た人なのだろう。でも飾ってある写真の制服は小説と同じものに見える。

BSマンガ夜話でプロデューサ自身が指摘していたんだけれど、タイムリープをするとき真琴は後ろ向きに転がって過去に現れる。でも最後のタイムリープの時だけは、正面を向いて時間の中を彼女は飛んでいく。これが分かりやすい彼女の意識の成長の描写となっている。この最後のタイムリープをするとき、自宅からの下り坂を一心に駆け下っていき跳躍する姿は、何度見ても感動する。そこに流れてくる挿入歌もとてもいい。これ以上ない素晴らしい時をかけているシーン。大切な人を想う気持ちがすごく表れているいいシーン。

そして、真琴は千昭に会いに行く。ブレーキの壊れた自転車というのも青春時代の一面を描く一つの象徴なんだろうな。だから最後の最後まで、壊れたままこの物語に関わってくるのだろう。彼女は自分で走って千昭の元に向かう。直前に功介に声をかけられる。前を見て走れと。彼女は全力で走って千昭に会いに行く。いままで不思議な力を使って時を超えていった彼女が、今度は自分の足を使ってその時へと向かっていく。一秒でも早く彼に会おうと。この駆けていくシーンも、まぎれもなく大切な時をかけているシーン。このひたむきさはとても美しい。

かけがえのないこの現実。理科室の黒板に書かれ、親友が真琴のためにつぶやいてくれる「Time waits for no one.」という言葉がこの物語のテーマの一つになっている。若いときは、有り余る可能性を無駄に浪費してしまう。通り過ぎてやっとそのことを後悔する。この何度でもできるタイムリープという設定は、はっきりとしたその青春の可能性の比喩に思う。でもそんな浪費の中で何か一つ大切なものを掴むことができれば、それで十分なのだと思う。

この物語では登場人物達をやさしく包んでいる美しい背景もとても印象的だ。止まっている時の中で描かれる風景も、一つ一つに意味がありそうで心に残る。でも一番印象に残るのが物語のいたる所で現れる空に浮かぶ入道雲。最後のほうで、青空の中にある大きな入道雲に向き合っている真琴の姿はとっても凛々しく見える。ボールを投げ、これから彼女がむかえる夏という象徴的な季節への、態度を表したとても清々しいラストシーンで終わる。

そしてエンディング。最後に流れるエンディングの歌詞が、千昭と別れたあとの真琴の気持ちを丁寧に伝えてくれる。物語が終わったあとに、その場面場面と一緒に流れるこの曲は、切ないけれどとてもいい余韻を残してくれる。


後続記事:
「時をかける少女」を読んで
アニメ映画「時をかける少女」 追加


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2007年08月01日

「時をかける少女」を読んで

二月前、DVDでアニメーションの「時をかける少女」を見たので、その原作も読みたくなって文庫本を買った。テレビ放映のあとに書いた〔アニメ映画「時をかける少女」〕もこの作品を読んで書いたものだ。


Amazon.co.jp(マウス重ねると...):
・文庫本:時をかける少女 〈新装版〉
・DVD:時をかける少女 通常版


以後、原作読んでいない人も、映画を見ていない人も読まないほうがいいです。

この文庫本の最後にある江藤茂博氏の解説によると、筒井康隆氏の作品「時をかける少女」は、学研の「中三コース」から「高一コース」の1965年11月号から1966年5月号まで掲載されている。四十年も前のものなので中高生向けの物語なのに「かぶりを振る」とか今となっては古めかしい表現もある。

いわゆるジュブナイル小説。表題作「時をかける少女」は意外に短く、僕が手にしている版では115ページまでしかない。残りは「悪夢の真相」、「果てしなき多元宇宙」の二編が収められている。

この残りの二つの作品も少女が主人公の物語で、「悪夢の真相」は自分の心の中にある闇と向き合う少女の物語、「果てしなき多元宇宙」の方は、全く違う常識が支配する平行宇宙に飛ばされてしまう少女の戸惑いを描いた作品となっている。特に「悪夢の真相」は良い作品だと思った。

幼なじみの少年とともに、少女が自分の忌避している過去の体験を乗り越え成長していく姿を、彼女が何を思いどう行動したか丁寧に描いていった物語である。脇に出てくる彼女の幼い弟の存在もなかなか重要で、彼女が客観的に弟の成長の様子を喜ぶことで、重ねて成長していく若者への賛美を表している。


さて表題作の話。

芳山和子は理科実験室でラベンダーの香りをかぎ、気を失う。このとき和子は自分でも気付かないうちにタイムリープする能力を身につける。翌日の通学中、友人の吾朗と和子は交通事故に遭い、和子は初めてタイムリープをしてしまう。

和子は悩む。理解を求め一夫と吾朗の二人の友人に相談する。話の分かる理科の先生にも三人で助言をもらいにいく。和子自身も冷静に状況を分析し、自分の身に起きた不思議なできことを理解していく。そして真相を求めてラベンダーの臭いのしたあの日の理科実験室へと向かう。



この小説ではタイムリープする力は、薬によって発現される。タイムリープ以外にも超能力と呼ばれるものは人間の潜在的に持っている埋もれた能力として、この物語ではとらえられている。未来では高度に科学が発達し薬を飲むことでそのような超能力が使えるようになっている。

このタイムリープの薬を開発していたのが未来人の一夫だった。まだ完全に完成しているわけではなく、その実験中のタイムリープによって偶然和子のいる時代に現れたのだ。

このとき帰りの分のタイムリープの薬を持ってこなかったため、未来に戻ることができなくなった。ただ材料さえそろえば、開発している本人なのだからまたその薬を調合することができる。

この薬を作り出すために重要な材料となるのが、この作品で強烈な印象を与えてくれるラベンダーであり、薬を作るのにこっそり借りていたのが理科実験室だった。



理科実験室に向かうと、同じように数日後の未来からやってきた一夫に会う。一夫は、二人だけの止まった時間を作りその中で真相を話してくれた。さらに一夫は自分が和子を愛していることも打ち明ける。唐突な告白に和子は戸惑ってしまう。

やがて一夫が未来に帰り、自分の記憶が消されることも知る。和子が持っていた小学生の頃からの一夫についての記憶は何もかも、すべて一ヶ月前に与えられた偽の記憶でしかなかった。その記憶も、この止まった時の中で話してくれた告白も、タイムリープの秘密も全て消し去られるという。

大切な記憶を消さないでほしいと和子は懇願するが受け入れられない。最後に一夫は和子に未来に戻り薬が完成したら必ず再び会いに来ることを約束するが、その約束さえも和子の記憶から消し、未来へと帰る。



この小説での和子のタイムリープの能力は、思春期の不安定な心の象徴なのだろう。今までとは違う存在となってしまう自分への戸惑いと、そしてそういう自分自身を理解していく姿を描いていく。

思い悩む若者を表すには物語的には少女が絵になる。少女に限らず少年もそうだけど、虚栄を張らない素な心では四十年前も今も本質的には変わるものではないだろう。大人へと続く思春期の心だけに、やはり恋愛というのが最後大きな問題になってくる。

話の展開はだいたい知っていたが、でも小説の中での告白は唐突すぎて、このあとどう和子の気持ちが動きうるのだろうかと思ってしまうほどだった。



それにしても、この物語はとても切ない。告白され気持ちが傾いていこうとするところで、彼に対する記憶が何もなかったこととして消されてしまう。ただ素敵な人に出会えるかもしれないという漠然とした想いだけが残る。

和子は何も感じていないのだろうが、読後に何とも言えない喪失感が残ってしまう。それを知らない和子本人が幸せに思えるし、同時にかわいそうに思えてつらくなる。

和子がこの後どんな出会いをするのかそれは読者の想像にまかせられている。当時このジュブナイルを読んだ読者それぞれが、自分はどんな人と恋をするのだろうかと、自分自身の人生で答えを出していったのだろう。


そしてアニメ版では一つの和子の人生が描かれた。この映画の和子像は、この小説を読んだ後でも僕には十分に受け入れられた。


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2007年08月02日

アニメ映画「時をかける少女」 追加

余韻の残る物語を、ああなのかな、こうだったのかなといろいろ考えてみるのがおもしろいので、「時をかける少女」の第三弾。前回の小説を踏まえて、アニメの方をもう一度考え直してみる。例によって、ネタバレや勝手な解釈あり。


この文庫本をまた読み直してみたら、和子が真琴に話した高校時代の思い出というのは、約束通り再び現れた一夫(仮名)との思い出に違いないと思えてきた。薬が完全に完成するためには多少時間がかかっても次の学年に現れることは問題ない。和子は何も知らずに、ただとても懐かしい感じを抱きながら、付き合うことになったのだろう。

しかし一夫はどこかに行ってしまう。おそらく時の向こう側。ただ同じように和子にとってすぐの時間に帰ってくるのは不可能ではないのだから、再び現れないのは、もう二度と一夫には会えないということだろう。一夫の身に何か起きてしまったのだろう。死んでしまったのか、ラベンダーの手に入らないような時代に行ってしまったのだろうか。


時間を止めることについて。小説では小さな装置を使って局所的に時間が止まったように見える空間を作ることで実現していた。この映画でも理屈が同じかどうか分からないが時間を止めることができる。

以前ちょっと書いたけれど、止まった時間の中を動ける能力は、タイムリープをチャージしている者だけが対象になるのだろうと考えてみた。そしてもう少し考えてみると、その時を止める者からの距離も関係しているだろうと思った。

なぜなら、そういう限定がなければ、誰かが時を止めてしまうと、その時間にいる他のチャージしている者も止まった時間の中に閉じこめられて、自分の意思に反してそこで過ごさないといけなくなってしまう。それではとても面倒なことになる。

だから止まった時の中での共存は範囲を限定して成り立つようにできているのではないかと思う。それを踏まえて、真琴が止まった時の中で振り向くと数メートル離れたところに千昭がいて、また人混みの中で千昭が姿を消し距離が離れてしまうと真琴の時が動き出してしまうという描写になるのだろう。


記憶について。一夫は周りの人々に偽の記憶を持たせることで、この時代の人間になりすました。和子が一夫を昔から知っていたという記憶は作られたものだった。では千昭はどうなのだろう。今回は記憶の操作については何も触れられていない。転入生という設定にしてあるから、過去の記憶を操作する必要もない。

真琴の最後の跳躍の中で、千昭との思い出のシーンがいくつも出てくるけれど、これは本物の記憶とみていいと思う。雨の場面で、跳んでいる真琴の顔にも雨粒が落ちてくるのは、あふれてくる感情を表す涙であると同時に、それが真琴の身に起きた本当の出来事であることを示す印だと思う。


物語が始まるまでの千昭の状況を少し考えてみる。一夫は帰る薬の研究しなければならないので、その時代の人間になりすまし、理科実験室を利用した。一方千昭がこの時代で暮らした理由はなんだろう。

絵を見るためという理由がある。開催日から展示されていないという情報が未来まで伝わっていなかったから、来てすぐ見ることができなかったのだろう。でもそれならば、着いてすぐに(予備のクルミをなくさないうちに)、その展示会の最終日を調べて跳べばよかったのではないか。本当に見たかったのならば、そう行動するはずだ。

ではどうして、そうしなかったのだろう。それはこの時代に来た目的が絵を見ることであり、それを済ませたら帰らなければならなくなるからではないだろうか。最大の目的だからこそ、それを猶予させることで、それまでの間この時代でやりたかったことを楽しもうと考えたのかもしれない。そして希望したとおり、高校に転入し、真琴や功介と友人になり、この時代の生活を楽しむことができたというわけだろう。

しかし予備のクルミを無くしてしまう。それに気付いた時には手首のカウントは残り一回であり、帰る分しか使えない。目的であった絵を見るために跳ぶこともできなくなったので、否が応でも展示されるまで自然な時の流れで待たなくてはならなくなったのではないだろうか。

ここでクルミを確実に持っていた頃に戻ればいいかもしれない。でもそれはしない。千昭は自然の時間の中で無くしたものを探している。その理由は、せっかく築いた二人との大切な友情をリセットしてしまうのをどうしても避けたかったからだと思う。


最後に、千昭が別れのシーンで、「未来で待ってる」と言った意味を考えてみた。未来と言っても幅がある。千昭が本来暮らしていた時代も未来だけど、真琴の明日だって未来には違いない。だから、こういう意味でも話は通る。「おまえに会いに、またやってくる。」

真琴が普通の時の流れの中でその再び出会う日をむかえるのに対し、タイムリープできる未来人の千昭からすれば、まるで先回りした感覚でその時間に現れるのであるから、「待っている」という表現でも間違いではないだろう。

再びクルミを手に入れることは難しいことかもしれないけれど、必ずもう一度真琴が暮らしている時代にやってくるという意味で「未来で待ってる」と真琴に言ったのではないかと思う。

一方真琴は、その言葉の意味をしっかり考えて答えたのではないだろうが、「すぐ行く。走って行く。」と答える。「待ってる」と言われれば、それが不可能な未来だろうとなんだろういちいち考えずに、とにかく行きたいと叫ぶのが、今の素直な真琴の気持ちだろう。

もちろん、この言葉は和子の真琴への助言を踏まえて僕たちに聞こえてくる。それは和子が真琴らしさだと言ってくれた言葉であり、真琴にはそういう人生を送ってほしいという願いでもあって、和子の生き方とはまるっきり違う人生を歩もうとしている真琴の未来を示す言葉でもある。

でもまた会うつもりならば、そもそも千昭は帰らないという選択をしてもいいわけだ。小説での一夫の場合は、薬を完全なものにするという明確な帰らざるを得ない目的がある。けれど千昭が自分の時代に帰るべき理由ははっきりとは描かれていない。

そこでセリフをいろいろ考え直してみると、止まった時の中での千昭の言葉に帰ることを先延ばしにしていたという事実がみえてくる。真琴が幸せなことだけタイムリープで繰り返し嫌な現実からは逃避していたように、実は千昭自身も真琴達との幸せな日々の中で現実に戻ることから逃避していたモラトリアムな共通項があるのがわかってくる。

未来に帰れるようにと、わざわざ未来から自分に会いに来てくれた真琴の気持ちが、千昭自身にも現実に向き合う決心をさせたのではないだろうか。だから千昭は、真琴と別れ帰っていくのだと思う。


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2008年07月06日

「時をかける少女」の予告でやっと気がついた。

7月25日の「時をかける少女 (Blu-ray)」の発売を記念してなのか、2008年7月19日(土)夜9時から、アニメ「時をかける少女」が今年も放送。来週は「ホームレス中学生」なので、お間違いなく。またこの「ホームレス中学生」は小池徹平版ではないので、さらにお間違いなく。あれは劇場版10月公開予定。来週あるのは著者そっくりな方。

意外に実写版「ゲゲゲの鬼太郎」面白いなと、9時からやってたのを見終わったら、「時をかける少女」の予告をやっていた。

そして、続けて「ハチワンダイバー」見る。土曜の映画の後時間にあるドラマ枠。賭将棋の人たちの物語。一分将棋面白かった。このドラマには重要な人物として、主人公を支えるというかぐいぐい引っ張るというか、メガネをかけた無表情の女将棋さしが出てくる。巨乳メイドというメガネを外した別の姿を持っていたり、謎の多い女性。その正体がようやく明らかになったところで次回に続く。前から、将棋指しの時の感情を殺した声が、コナンの声に聞こえてならなかった。

あれ、そういえばと、もう一つのこの子の正体が今頃分かった。この女の子だったのか。「時かけ」の主役の女の子も、最初コナン君の声の人かと間違うくらい声が似てた。名前までは覚えてなかったけれど、この子なのか。Wikipediaで確認。まさしくこの子だ。仲 里依紗。


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2008年07月21日

「時をかける少女」のこと

今年も「時をかける少女」を見てしまった。
土曜日の夜九時からは「監査法人」の最終回だったので、「時をかける少女」は録画して見た。DVD持ってるのに。

この物語はあまり深く考えずに、お馬鹿な主人公の彼女なりの成長と、芳山和子が歩んだ一つの未来の像である魔女おばさんを鑑賞すればいい。理屈ばかり考えてもこういうのはつまんなくなる。物語の中心はタイムリープではなく、あくまでも登場人物なのだから。それでも、登場人物の行動にちょっとした疑問を思ってしまうと、いろいろ分からないことだらけになってしまう。タイムリープというこの物語の法則のために、解釈が複雑になったり制限されてしまったりで、訳が分からなくなってしまう。

去年いろいろ書いてから今まで、アニメ版のコミックも読んだし、原田知世の「時をかける少女」も何年かぶりに見直した。それぞれの感想を簡単に書くとこんな感じだった。

アニメ版をコミックにしたものは、とてもシンプルにまとまっていて、想像するしかないところを言葉として表現していて、悩むことなく物語を楽しめた。映画の内容が頭に入っているから分かりやすかったのかもしれないけれど。
このコミックには魔女おばさんについての物語の結末もちょっと描かれているが、これは正直見なかったことにしたい。これってアニメ版と共通の公式設定なのだろうか。魔女おばさんの過去が、原作小説や大林監督の作品の設定ではなく、こんな感じの設定でないと細田監督の物語とはつじつまが合わなくなってしまうから仕方がないのかな。この和子の物語は小説も実写映画も今まで一度も見たことがない、これからも見ないだろう若い人向けという印象だった。

そして実写映画。いまさらだけど、原田知世のこの映画は素晴らしい。この時代を知らなければ古めかしくて受け付けられないかもしれないけれど、僕はこちらの世界がいい。この映画では小説の和子とはまた違って不安や戸惑いがより全面にあらわれてくるけれど、それもこの映画のよさだと思う。恋に落ちていく感じはかえってこの映画の方がどれよりも自然に感じる。和子の持っている二人のエンジェルがキスする小道具の効果は大きい。
それにしてもこの頃の原田知世の可愛らしさはいったい何だろう。今の彼女も十分素敵だけど、このときの輝きが映像としていつまでも残り続けることに感謝せずにはいられない。物語が終わって、唐突に始まるあの有名なエンディング、それぞれの場面を通して原田知世が主題歌を歌っていくこの姿を観ると、それだけで幸せな気持ちでこの映画を見終えられる。この歌がこの映画のメインであっても全くかまわない。


今回テレビを見てみて、アニメ版についてあらたにいろいろ気づいたこともあるけれど、自分の書いていたものとのつじつまが合うように簡単には修正できなさそうだから、書かないでおこう。


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2008年07月23日

「時をかける少女」について再度考えたこと

以前書いたものにつじつまが合わないところも気づいたのでちょっと書き足そうと思う。
前回は、基本的に限定版DVDの本編、付属物、そして原作小説をもとに書いていた。
今はさらに原田知世版の映画も見直したし、アニメのコミック版も読んでいる。

さらに、この細田版「時かけ」の原点だと言われる原田知世参加の おジャ魔女どれみドッカ〜ン!「 第40話 どれみと魔女をやめた魔女」までもダウンロード視聴してしまった。全然別な話だけれど、アニメ映画を思い起こさせてくれるシーンがあったり、「時かけ」とはまた別の切なさを感じさせてくれる。
楽天ダウンロード


ほんとは自分の考えだけで考え直したかったけれど、考察サイトもいろいろ読んで、一般的な解釈を踏まえて考えた方がいいだろうと思った。その中で、一番細かくまとめてあったのは、時をかける少女問答集だった。



こういう作品の脚本は多人数で議論して叩きながらできるだけ緻密な設定をしてあるはずだから、整合性のとれる設定をいろいろ考えてるんだろうなと去年は考えていた。特にここまで複雑な時間旅行ものは今がどのような過去を持つ時間なのかを常に把握しながら物語を作らないと、ちょっとの間違いでストーリーが破綻してしまうから、かなりきっちり作っているはずだと考えた。でも、監督がそんな緻密さを放棄して物語の方を優先していると考えた方が楽だったのは確かだ。でも懲りずに今回もいろいろ考えてしまったけれど。



まず、芳山和子は記憶を失ったままだという前提で考えていたが、それでいいのかどうか。コミック版では記憶を取り戻した上で真琴に助言していることになっていたが、アニメ映画もそれでいいのかどうか。

これは上記「問答集」の中で指摘されているが、細田監督がイベントでの質疑応答の中で、「本編でも原作準拠で、(和子が)昔あったことは覚えていないつもりで作品を作った。」と発言されたらしい。その証拠としてこの記事が示されている。
時を駆け巡る少女跡地の第十八話

そういうわけで、記憶を失っていたという解釈でも問題ないようだ。こちらが正解というよりも、どちらでも解釈可能だということだろう。でも、記憶を失ったままだというのならば、真琴に話した初恋の話は何だったのかということになる。それに対しては、正体を隠した深町君本人か、彼を漠然と思い起こすような似た誰かにすぐに出会って、二度目の初恋をしていると考えてもいいだろう。記憶を取り戻せないならその解釈しか思い浮かばない。

高校の時というその二度目の初恋は、物語での深町君との出会いが高校二年生の設定でも中学三年生の設定でも、どちらでも可能だろう。映画版では、数年後研究室の廊下で互いに記憶を失った二人が再会するという設定なので、このアニメにつなぐにはその設定を放棄する必要があるし、小説版では年代設定を1960年代から映画が公開された頃の1980年代前半に移さないといけないが、そのくらいの設定変更はわざわざ指摘するまでもないだろう。この和子の設定は、原作小説と原田知世版のほどよいブレンドか、アニメ版コミックの設定なのか、観客の好みに応じて考えてそれに合わせた解釈をすればいいと思う。でも一度、原田知世版を見てしまうと、この作品の比重がとても強くなってしまうのは避けがたい。



また未来人がいつから来たかはアニメ版ははっきりしていない。小説版の設定をアニメ版でも踏襲するかで、「未来で待ってる」の意味さえ変わってしまう。つまり真琴が生きて会えるくらいの未来なのかどうか。しかし、ここははっきりしないほうがいろんな未来を想像できるのでいいだろう。



功介の事故の前の坂道で、真琴が「久しぶりに話すね。」と言ったことは観客にとっては違和感がない言葉だが、よく考えると、千昭の記憶と真琴の記憶に食い違いがいつ起きたのかがはっきり描かれていない。

飛び込み台からのタイムリープで真琴は13日の朝にやってくる。一回目の13日と同様に寝坊して、あまりにあわててしまったので、あの危険な自転車に乗ってしまった。このとき一回目の13日の朝のような千昭との会話をしなかった可能性がある。試験が終わると、周りの誰とも話をせずすぐに未来方向へ小さなタイムリープをして校庭でのジャイアントスイング作戦を企てにいけば、試験以後の千昭との会話も避けられる。そうやれば真琴は千昭と話すことなく坂道に来られる。

この未来へのタイムリープの間、飛び越えた時間の間の真琴の存在はどのようになったのだろうか。小説のタイムリープの理論からすると、この間にも真琴は存在していなくてはいけない。そのときの真琴は上書きされる前の真琴になるのではないだろうか。この期間の真琴はタイムリープで未来に向かう前の記憶は持たない。そしてタイムリープで校庭に現れた瞬間に、この真琴は突然姿を消してしまう。このとき飛び込み台から13日の朝にタイムリープしてきた記憶を伴った真琴になる。未来へのタイムリープの間の上書きされていない真琴は千昭を意識していないので普通に千昭と会話をしているのだろう。千昭は覚えていても、タイムリープで少し前の過去からやってきた今の真琴はその記憶を持っていない。これが記憶に食い違いが生じた理屈だろう。

追記:これは記憶の食い違いなどなく、千昭がカマをかけたと考えた方がシンプルでいいかもしれない。上のような未来への短いタイムリープの間に起きたであろう出来事の推測では根拠としては弱すぎるし、この飛び越えた時間は調理の時間なのだけど、一回目のこの時間に千昭と会話している描写は元々ないから。カマをかけて、ここで真琴が話を合わせてきたら、それは千昭にとって動かぬ証拠であるし、そこまで確認してからでないと、重大な秘密であるタイムリープの話題は切り出せないだろう。



千昭はクルミをいつ見つけたか。以前の解釈では止まった時の中で、クルミを探してきたと考えた。今思うと、上記「問答集」に書いてあるように、理科実験室に真琴が入る前と考えた方がわかりやすいだろう。ジャイアントスイング作戦が成功したために、功介は怪我をした果穂に構わないといけなくなった。そのため千昭は功介と絡んだ行動をしないことになり、他の13日の放課後の行動と変わってきてしまう。千昭は一回目の13日よりも早く理科実験室にやってこれてたっぷりとその中を探すことができただろう。そして真琴がやってくる前に使用済みのクルミを見つけられたのだろう。

真琴よりも先にきているのにクルミが使用済みなのは、真琴が河原でのタイムリープでクルミに触れる前の時間に戻れたことからも分かるが、チャージした人間がそのチャージした前の時間に戻っても、その能力は失われないためである。当然クルミの使用不使用の状態も時間を超えて不可逆でなければならない。これができてしまうと記憶を失うことなく装置の無限使用が許されてしまう。これがチャージした者とは別の者のタイムリープだとどうなるかは分からない。千昭にタイムリープの余裕がありタイムリープでここに来たのならば、真琴のチャージそのものをなかったことにできたかもしれない。



止まれ止まれと叫んだあと時刻の帯が0:37の数字で止まる。はっきりと16:00:32と表示されているところに、真琴の叫ぶカットが入って、それから0:37と表示されるので、普通に見ているとそのまま16:00:37と思ってしまう。

でもこの16:00:37は千昭と真琴が過ごしている止まっている時刻とは違う。千昭の後ろにある時計は15:30頃になっている。千昭がこの現場に駆けつけてタイムリープを行った瞬間の時刻にしてもあまりにも早すぎて考え難い。たとえ千昭がテレポーテーションの能力を持っていたとしても、事故が起きた数十秒後にこの事故のことを知ってここに来ることは考えにくい。おそらく、この数字は15:30:37のことで、千昭と真琴だけ動ける時が止まっている時刻を表している。

黒背景の中に赤いデジタル表示の時間の帯は、コントロールできない本来の時間を表している。これは映画冒頭と、ここと、最後に出てくる。しかし、この場面ではコントロール不可能なのにどうして時間が止まるのだろうか。実はここは二つに別れていて、それぞれで表現が異なっている。黒背景なのは前者だけで、それは一貫して無情に流れ続けている。

タイムリープの中で現れるのは赤いデジタル表示の時間の帯の周りにさらに黒い帯状のものが取り囲んで、それが白背景の中に浮かんでいる。歯車のようなものもみえる。0:37という表示は黒の中に赤い数字で描かれているので、これは一見、黒背景の中の赤い数字のように見えるが、実際は白背景の中に浮かぶ黒い帯をアップにしているだけである。これは最初の踏切でのタイムリープについてもいえる。



あの千昭が見に来た絵は戻れなかった未来人の作品ではないかと去年は考えた。千昭にとって重要な人がどこか分からない過去から戻れなくなって、いろいろ調べたらこの時代にその人物が描いたらしい絵が発見されていたので見に来たと。

でも今思うと、あの絵の作者を未来人にしなくてもいい。他の未来人の存在を仮定してしまうと物語は何でもありになるから、よほどの証拠がない限り持ち出さない方がいいだろう。つまるところ、どんなに危険でもどこにあっても見たいものというのは、千昭をこの時代にやってこさせるための設定である。それをいうと身も蓋もなくなるが。

ただ、限定版DVDの特典映像の中では両側に並べてある二つの作品も千昭の置かれている立場を表しているということも語られていたし、この展覧会の名前も意味ありげだった。それもヒントになるのだろう。この絵についての魔女おばさんが語った言葉も、そのまま千昭がこの絵を見て感じたかったことそのものだろう。



「未来で待ってる」の解釈として、千昭がもう一度タイプリープしてきてもそれはどれも真琴にとっては未来だから、この台詞はもう一度帰ってくることも意味し得ると去年書いていた。今読むと自分でもこじつけっぽく感じてしまう。どちらにしても、過去の人物にタイムリープの秘密を知られたのだからクルミを手に入れる機会は永遠に失われると考えた方がいいだろう。

今回は、「未来で待ってる」は、君を忘れないで未来で生きるというニュアンスに感じた。もうこの時代には戻れないだろうが、未来に戻っても君のことは忘れない。そして、真琴が言ってくれたように、あの絵が残っていることを信じて帰ると。

真琴の方も、千昭が未来で待っていると言ってくれたことを、つまり未来から自分を思ってくれていることを幸せに感じているだろう。絵を未来に残すことは当然だけど、それ以上のものを真琴は千昭に伝えようとしているのだと思う。

未来にいる千昭は歴史の記録の中で真琴のその後を知る。真琴はそのことが分かったのだろう。自分の人生が残したものを見て、つっこんでくれたり、微笑んでくれたり、愛おしいと思ってくれたりする未来人千昭がいてくれる。つまり真琴の生きた人生そのものが、未来で待っていてくれる千昭へのメッセージになる。それを幸せだと感じたのだろう。これがラストで、とっても切ないはずなのに、未来に向かって生きようとしている清々しい真琴の表情の理由だと思う。


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posted by takayan at 03:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時をかける少女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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