2009年01月23日

「プリマヴェーラ」について

ボッティチェリの「プリマヴェーラ」に興味をもったので、ちょっと調べてみた。
去年書いたハートマークについての考察記事に、目隠しをしたキューピッドのことを書いたのだけど、そのとき、有名な例としてボッティチェリの「プリマヴェーラ」の中央上のキューピッドを挙げていた。そのときはこの絵の詳しい理解はなかったのだけど、先日、石山さんからコメントをいただいて、改めて考えてみるととても興味深い絵であることを再確認してしまった。そしていろいろ調べてみた。

とりあえず、日本語Wikipedia「プリマヴェーラ」英語Wikipedia「Primavera (painting)」を読んでみて、ちょっと疑問もあったので、そこで知った参考文献も読んでみた。いろいろ考えてみたことをちょっと書いてみる。

「プリマヴェーラ」の画像:
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a4/Sandro_Botticelli_038.jpg/800px-Sandro_Botticelli_038.jpg


まず、誰が描かれているかの説明。本来は画面の右側から説明すべきなのだろうけど、左から。

この絵の左端には、赤い布を右肩から左の腰にまとっている若者がいる。頭上に掲げた右手で、二匹の蛇の絡まった杖を持っている。左手は腰に当てて傾けた体を支えている。特徴的なとがったヘルメットをかぶっている。足元を見ると、踵に翼がはえた革製の靴を履いている。この杖と、この靴で、彼がマーキュリーだということが分かる。はっきりとした記号が描かれているので分かりやすい。彼は杖を使って、この庭園に入り込んでこようとしている雲を追い払おうとしている。隣の美しい女性達には目もくれず、彼はその杖の先を見つめている。

マーキュリーの右側では、三人の女性が手をつないで踊っている。彼女たちは三美神。僕たちに背中を向けている女性の視線の先には、マーキュリーがいる。また三人のなかで右側にいる女性もやはりマーキュリーを見つめているように見える。左側にいる女性はマーキュリーに背中を向ける位置にあるので、マーキュリーを直接見ることができないのだけど、マーキュリーの一番近くにいることを意識しているかのように見える。彼女の服にはマーキュリーの刀の鞘にあたっている。絵が重なっているというのは十分意図的なものだと思う。彼女たちはスケスケの服で身を包んで、美しい肉体を垣間見せてくれる。

その彼女たちに画面中央の上の方から狙いを付けているのが、目隠しをした有翼のキューピッド。この絵のキューピッドは幼児の体をしている。定規を当てて彼が狙っているのが三人の誰かを調べてみると、どうやら真ん中の女性である。この瞬間を描くのだから、きっとこの女性で決まりだろう。キューピッドは目隠しをして、さらに彼女たちはぐるぐると踊り続けているのだから、彼女に決まることは本当に偶然なのだろう。偶然であるということは、天に定められた運命でもあるのだろう。

さて、キューピッドの下には、一人の女性がいる。画面の中央でまるでこの絵の主役のように。彼女の後ろの茂みの様子も、緑の色はしているけれど、後光が差しているかのように描かれている。この女性はその他の登場人物よりも、数歩下がった位置に描かれ、皆を優しく見守っているように見える。彼女は愛と美の女神ヴィーナスだと言われている。頭上にいる息子のキューピッドがそれを示しているのだろう。彼女は透けていない白い服をきて、その上から、暗い裏地の赤い布を、右肩から左の腰にかけている。右手は三美神の方にかざして、マーキュリーと三美神の居る画面の左側に意識を向けている。左手は左の腰に当て、赤い布を支えている。このポーズはマーキュリーの姿ととても似ている。赤い布を身につけているという点でも、二人だけの共通点だ。足元を見てみると、彼女は紐状のサンダルを履いている。履き物を履いていると言う点でも、やはり二人だけ共通している。それも左足のつま先をまっすぐに向け、右の足を右に向けているという点でも。空を飛んでいるものは別として、他の登場人物にはすべて足に躍動的な動きがあるが、この二人は似たポーズで立ち止まっている。これらの類似性は十分に意味のあることのように思う。もしかすると彼女はマーキュリーの母、豊穣の神マイアではないだろうか。

中央の女性の隣には、花柄の服を来た女性がいる。すぐに彼女は花の女神フローラだと分かる。彼女の服は草花の絵がちりばめられ、頭には花の飾り、そして花の首飾りもしている。彼女は左手で服を腰の辺りでたぐりあげ、そこにたくさんの花々を抱えている。そして右手でその花々をつかんでいる。今にもその手で花々を地面に撒こうとしている。フローラの後ろを見ると、花々が群れて咲いている。この庭園の足下には至る所に、花々が咲いているのだけれど、フローラの後ろだけ特別である。今現在フローラは歩いている姿で描かれているが、どうやら花を撒きながらずっと歩いてきているようだ。

フローラの画面右隣には、一人の女性がいる。フローラに寄りかかるように描かれているが、フローラの服には触れられている描写はない。触れてはいないのに、ここまで重ねて描かれるというのはとても意味ありげだ。彼女の口を見ると、何か草をくわえているように見える。よく見てみると、彼女の右頬の方へ次々に花が落ちている。彼女は口から花々を吐いている。その落ちていく花は、フローラの服の模様となり、そして彼女が服をたくし上げ抱えている花々の山となっている。フローラの花の源が、この女性の口からこぼれる花だというのは、これ以上にないこの女性の説明だろう。つまり彼女は、ローマの花の神フローラの元になったギリシャ神話のニンフ・クロリスだ。

そして最後、クロリスの画面右にいて、彼女を抱えているのは西風の神ゼピュロス。すぐにも強い息を吹き出しそうな、ふくれっ面をしているので、すぐに分かる。風の神は四兄弟なのだけど、これは春の場面だから、神話の世界で春の前触れであるゼピュロスとなる。実はゼピュロスはフローラの夫である。そしてギリシャ神話のニンフだったクロリスを誘拐してローマ神話に連れてきたというエピソードを持っている。このゼピュロスは青白い身体をしている。翼を持ち空に浮かんで、クロリスを抱えている。クロリスを連れ去ろうとしているのか、降ろそうとしているのか判断に困るが、庭園に降ろすことで、彼女がニンフから花の女神になることを示していると見るべきだろう。今のゼピュロスの表情が、暴力的なものか反省しているものか、どちらに感じられるかということだろう。


次回はオウィディウスの『祭暦』について


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2009年01月24日

『ヴィーナスの誕生』を見てみると

昨晩は、頭の中に詰め込んだ知識を使って、勢いに任せ、絵を見て気づいたことを寝る間を惜しんで書いたのだけど、また新たな疑問を感じてしまった。ボッティチェッリの作品には、『プリマヴェーラ』よりも有名な『ヴィーナスの誕生』があるけれど、それを改めて眺めてみたら、昨晩の解釈でいいのだろうかと思えてきた。

『ヴィーナスの誕生』画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Botticelli_Venus.jpg

『ヴィーナスの誕生』は『プリマヴェーラ』の少し後の作品ということだが、この絵にはすぐにわかる共通点がある。画面左には『プリマヴェーラ』にも出てくるゼピュロスがいて、口から風を起こし、生まれたてのヴィーナスを岸へと運んでいる。彼の隣には有翼の女性がいる。しっかりとゼピュロスに抱きついて、彼よりも弱いけれどヴィーナスに息を吹きかけている。彼女が誰だかはっきりしない。いろいろ調べてみるとクロリスとするもの、フローラとするもの、そよ風の神アウラとするもの、いろいろある。ゼピュロスと彼女の周りには薔薇の花が舞っている。これは、ヴィーナスと共に生まれたとされる、天から舞ってきている薔薇だとする説もある。でも『プリマヴェーラ』を踏まえると、クロリスの薔薇の息の描写にも思えてくる。彼女に翼なんかあったかなと思わないでもないけれど。

画面の右側には、ヴィーナスを岸で待っている一人の女性がいる。裸のまま岸に向かっているヴィーナスに、彼女は花柄の赤い布を掛けようと待ちかまえている。岸で待つ彼女の服装は、『プリマヴェーラ』のフローラによく似ている。花の描かれた服、花の首飾り、昨日は書かなかったけれど、花のついた茎で作られている胸の下に巻いたベルトまで同じだ。この絵の女性は誰だか調べると、これには異説はなく季節の女神ホーラとなっている。根拠としては、アフロディーテ讃歌において、西風が運び、ホーラが出迎えると歌われているからだ。ホーラは三姉妹なのだけれど、この絵で花柄の服を着て、ヴィーナスに花柄の布を掛けようとしている彼女は、おそらく春、芽、花の女神、若者の守護者サローなのだろう。彼女が誰であるかを示す記号はこの花柄なのだけど、昨日は『プリマヴェーラ』でもまさしくその理由で花の女神フローラだと判断していた。ゼピュロスと一緒に息を吐いているの女性がフローラ(クロリス)であるならば、岸で待つ彼女がフローラであるはずもない。アフロディーテ讃歌の通り、季節の女神ホーラになるだろう。そうであるならば、似たような服装をしている『プリマヴェーラ』でフローラとされる女性は、『ヴィーナスの誕生』と同じく『プリマヴェーラ』においてもホーラだった可能性が出てくる。そうなると、クロリスからフローラへの変身という『プリマヴェーラ』の重要なテーマとなる解釈が間違っている可能性もあるということになる。

ボッティチェッリの二つの絵を比較した場合、このような疑問を感じるのは当然のように思う。僕は素人だから単純にそう思ってしまうのだろう。まあ、ブログだから、こういう疑問を正直に書きながら、いろいろ調べて、ものを書いていくのも許されるのではないだろうか。


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2009年01月25日

『アフロディーテ讃歌』と『ヴィーナスの誕生』

前回の記事を書くとき、この作品は『アフロディーテ讃歌』の描く光景に似ているらしいと知ったので、その部分を確認してから書いた。せっかくなので、そのとき調べたことを、ちょっと詳しく書いてみる。

『アフロディーテ讃歌』は『ホメロス風讃歌』の一部として収められている。『ホメロス風讃歌』は『ホメロス讃歌』とも呼ばれるが、古代ギリシアの詩人ホメロスの作品と同じ韻律やギリシア語方言が使われていることからそう呼ばれるらしい。

『ホメロス風讃歌』には33編の讃歌が収められていて、アフロディーテを讃美したものは3編ある。第一の部分は293行からなり、ここにアンキーセースとの恋の物語が書かれている。第二の部分が21行で、ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』と似た場面はここの冒頭にある。三番目の部分は6行で、短い言葉でアフロディーテの美しさを褒め称えている。

Wikipediaの『ホメーロス讃歌』
では英語訳の一つとして、ペルセウス・プロジェクト のページが紹介されている。

該当する二番目の編を引用すると:
To Aphrodite

[1] I will sing of stately Aphrodite, gold-crowned and beautiful, whose dominion is the walled cities of all sea-set Cyprus. There the moist breath of the western wind wafted her over the waves of the loud-moaning sea [5] in soft foam, and there the gold-filleted Hours welcomed her joyously. They clothed her with heavenly garments: on her head they put a fine, well-wrought crown of gold, and in her pierced ears they hung ornaments of orichalc and precious gold, [10] and adorned her with golden necklaces over her soft neck and snow-white breasts, jewels which the gold-filleted Hours wear themselves whenever they go to their father's house to join the lovely dances of the gods. And when they had fully decked her, [15] they brought her to the gods, who welcomed her when they saw her, giving her their hands. Each one of them prayed that he might lead her home to be his wedded wife, so greatly were they amazed at the beauty of violet-crowned Cytherea.

Hail, sweetly-winning, coy-eyed goddess! Grant that I may gain the victory in this contest, [20] and order you my song. And now I will remember you and another song also.
このページからギリシア語原文も開くことができる。Greek...とあるところをクリックすればいい。表示設定でギリシア文字表記か、読みやすいローマ字表記のどちらか選ぶことができる。表示されたギリシア語の単語にはそれぞれリンクが設定されていて、クリックすると単語の英語による説明と今の活用が何かなどが別窓で示される。さらに、*のリンクで注釈を表示してくれる。古典ギリシア語を勉強するのならば、このサイトはとても役に立つだろう。

ギリシア文字表記を引用したかったのだけどseesaaでは難しいみたいなのでギリシア語のローマ字表記の方を引用すると:
Eis Aphroditên

aidoiên, chrusostephanon, kalên Aphroditên
aisomai, hê pasês Kuprou krêdemna lelonchen
einaliês, hothi min Zephurou menos hugron aentos
êneiken kata kuma poluphloisboio thalassês
aphrôi eni malakôi: tên de chrusampukes Hôrai
dexant' aspasiôs, peri d' ambrota heimata hessan:
krati d' ep' athanatôi stephanên eutukton ethêkan
kalên, chruseiên: en de trêtoisi loboisin
anthem' oreichalkou chrusoio te timêentos:
deirêi d' amph' hapalêi kai stêthesin argupheoisin
hormoisi chruseoisin ekosmeon, hoisi per autai
Hôrai kosmeisthên chrusampukes, hoppot' ioien
es choron himeroenta theôn kai dômata patros.
autar epeidê panta peri chroï kosmon ethêkan,
êgon es athanatous: hoi d' êspazonto idontes
chersi t' edexioônto kai êrêsanto hekastos
einai kouridiên alochon kai oikad' agesthai,
eidos thaumazontes iostephanou Kuthereiês.

chair' helikoblephare, glukumeiliche: dos d' en agôni
nikên tôide pheresthai, emên d' entunon aoidên.
autar egô kai seio kai allês mnêsom' aoidês.
まあ、読めないけれど、ああ、これがホメーロス風なのかと思って眺めてみる。神々の名として Aphroditên、Zephurou、Hôrai とあるのが分かる。上記英文の[数字]はこの原文の行に対応している。

正式な日本語訳を読んだわけではないけれど、該当する部分「hothi min Zephurou menos hugron aentos/êneiken kata kuma poluphloisboio thalassês/aphrôi eni malakôi: tên de chrusampukes Hôrai/dexant' aspasiôs, peri d' ambrota heimata hessan:」の英訳「There the moist breath of the western wind wafted her over the waves of the loud-moaning sea in soft foam, and there the gold-filleted Hours welcomed her joyously. They clothed her with heavenly garments:」に書かれているのは、湿った西風(ゼピュロス)が激しい波を起こし柔らかな泡の中に入ったアフロディーテを運んだということ、金の飾りを付けた季節の女神ホーラたちがうれしそうにアフロディーテを出迎えたということ、ホーラたちは神々しい衣服をアフロディーテに着せたということ。

『アフロディーテ讃歌』の文章そのものは、アフロディー テ(=ヴィーナス)の誕生の場面を直接語ってはいない。しかし「泡の中」という部分で、彼女が誕生したばかりだということを暗示している。なぜなら、この讃歌の中には書かれていないが、アフロディーテAphroditêは、海の泡aphros から、もしくは切り落とされたウラヌスの男性器の周りにできた泡 から生まれたとされているから。絵では泡ではなく貝になっているので、誕生の記号が失われ分かりにくくなるが、この神々の配置とホーラが裸のアフロディーテに服を着せようとしている仕草だけで、ヴィーナスの誕生を十分に示すことができている。『ヴィーナスの誕生』という絵は、この文章そのものか、この文章が影響を受けたものか、もしくはこの文章が影響を与えたもの、そんなのが分かるわけはないけれど、この文章と同じ場面を、その文脈を利用して描こうとしているのは確かだろう。

ただしこの『アフロディーテ讃歌』には、ゼピュロスとアフロディーテ(=ヴィーナス)、そしてホーラしかいない。絵の中でゼピュロスと一緒にいる女性のことは 書かれていない。

『ホメロス風讃歌』の完全な日本語訳としては、ちくま学芸文庫『ホメーロスの諸神讚歌』がある。近いうちに手に入れて読もう。


参考資料:
ウィキペディアとペルセウス・プロジェクト


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2009年01月26日

『祭暦』と『プリマヴェーラ』

そういうわけで、やっとオウィディウスの『祭暦』について調べたことが書ける。

ボッティッチェッリの『プリマヴェーラ』のことを調べると、この絵がオウィディウスの『祭暦』に関連があるとよく書かれているので、どうしても読んでみたくなった。それで『プリマヴェーラ』についての文章を書いたときに、次は『祭暦』ことを書こうと思っていたのだけど、気になって『ヴィーナスの誕生』と『アフロディーテ讃歌』を調べているうちに、予定通りに行かなくなって、先にそちらの方を書くことになってしまった。ただこの寄り道はかえっていい結果になったと思う。

この『祭暦』(Fasti)というのは古代ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年生まれ)が、ローマの暦を詩の形式で書いたもの。星空の話やその季節に関連ある神々の話が書かれている。ラテン語。一巻に一つの月で、一月から六月まである。7月以降はない。それが元々あって失われてしまったのか、それとも未完に終わったのか分からない。ただ7月以降について引用している文献が無いので、最初から存在していないのではないかと見られている。オウィディウスは、この作品よりも、やはり神話を扱った詩集『変身物語』(Metamorphoses)の方がよく知られている。

『プリマヴェーラ』と関連があるのではないのかというのが5月を歌った第五巻の5月2日の記述。この中に絵の登場人物が何人か集まっている。春を題材にした絵だから、当たり前と言えば当たり前なのだけど、読んでみるといろいろ面白い発見がある。

5月2日の記述は、まず牡牛座にあるヒュアデスの短い話があり、そのあと花の女神フロラへのインタビューとなる。これは筆者オウィディウス自らが女神に訊いている。古代ローマではフロラ女神の祝祭フロラリアが4月28日から5月3日まで開催されていた。その祭りの主役であるフロラが直接自分のことを話してくれる。旦那との馴れ初め話や、自分の美しい庭園の話などいろいろと。ラテン語で200行以上あるこの日の記述のおよそ8割は、フロラの自らの言葉になっている。

以下第五巻の部分を示していく。ラテン語の部分は、Ovid: Fasti V からの引用。日本語の部分は、高橋宏幸訳の国文社刊『祭暦』からの引用。そして英語訳はOvid Fasti Book Vからの引用。ただしこのぞれぞれの訳の原文が、上のラテン語と全く同じ内容だったかまでは調べていない。英語訳は、一部しか見ていないが、わかりやすいように神々を形容だけで表す部分を直接名前に置き換えるなど、いくつか言葉を換えているようだ。日本人はやっぱり日本語で理解していくのだけど、引用は言葉をそのまま写しているだけなので、もっと詳しく知りたい人は日本語訳された『祭暦』を直接読むことをおすすめする。例えば訳注ではクロリスはフローラの誤記であるという説はオウィディウスの創作だと指摘してある。古典の書物というのは専門家の分かりやすい注釈を読みながら理解していくものだと思う。

さて、フロラが自分のことを語り出すと、「口からバラ」という『プリマヴェーラ』において特徴的な描写が現れる:

ラテン語(5巻194行目):
( dum loquitur, vernas effat ab ore rosas ):


日本語訳:
女神が話す口からは春の薔薇の息吹が洩れました。


英語訳:
(While she spoke, her lips breathed out vernal roses):



そしてバラの息を吐きながら次のような話を聞かせてくれる。話はもっと長いのだけど、『プリマヴェーラ』と関連と思われる部分だけ。

ラテン語(5巻195行目から212行目まで):
'Chloris eram quae Flora vocor: corrupta Latino
nominis est nostri littera Graeca sono.
Chloris eram, nymphe campi felicis, ubi audis
rem fortunatis ante fuisse viris.
quae fuerit mihi forma, grave est narrare modestae;
ver erat, errabam; Zephyrus conspexit, abibam;
insequitur, fugio: fortior ille fuit.
et dederat fratri Boreas ius omne rapinae,
ausus Erecthea praemia ferre domo.
vim tamen emendat dando mihi nomina nuptae,
inque meo non est ulla querella toro.
[vere fruor semper: semper nitidissimus annus,
arbor habet frondes, pabula semper humus.]
est mihi fecundus dotalibus hortus in agris;
aura fovet, liquidae fonte rigatur aquae:
hunc meus implevit generoso flore maritus,
atque ait "arbitrium tu, dea, floris habe."


日本語訳:
いまでこそフロラと呼ばれる私も、かつではクロリスと言っていました。ギリシア名であった私の名がラテンの呼び名に崩れてしまったのです。かつてクロリスと言っていたとき、私はかの幸福の野、おまえも聞いているでしょう、その昔に至福のひとびとの国があったという野のニンフでした。私の容姿がどのようであったかなど、おこがましくてとても話せませんが、母が神様の婿殿を見つけて下さったのはこの容姿のためでした。
春のこと、そぞろ歩きをしている私がゼピュルスの目に止まりました。私は引き返そうとしました。が、ゼピュルスは追いかけてきます。私は逃げます。けれども、あちらの力のほうが強いうえに、兄弟のボレアスの前例があるので、娘をさらうのは天下御免であったのです。ボレアスはなんとエレクテウスの家から獲物をもち去ったのでした。
とはいえ、力ずくでしたことの償いに、彼は私に正妻の名をくれました。いまこの結婚に私はなんの不平もありません。私はいつも春を謳歌しています。いつでも一年でもっとも輝かしい季節、木々には葉が繁り、大地はいつも牧草がおおいます。そして野には私の婚資である実り豊かな庭があります。そよ風が育み、泉から湧く澄み切った水が灌漑しています。私の夫はこの庭を優雅な花で満たし、『女神よ、花のことはおまえにすべて任せよう』と言ってくれました。


そして、英語訳の該当部分:
‘I, called Flora now, was Chloris: the first letter in Greek
Of my name, became corrupted in the Latin language.
I was Chloris, a nymph of those happy fields,
Where, as you’ve heard, fortunate men once lived.
It would be difficult to speak of my form, with modesty,
But it brought my mother a god as son-in-law.
It was spring, I wandered: Zephyrus saw me: I left.
He followed me: I fled: he was the stronger,
And Boreas had given his brother authority for rape
By daring to steal a prize from Erechtheus’ house.
Yet he made amends for his violence, by granting me
The name of bride, and I’ve nothing to complain of in bed.
I enjoy perpetual spring: the season’s always bright,
The trees have leaves: the ground is always green.
I’ve a fruitful garden in the fields that were my dower,
Fanned by the breeze, and watered by a flowing spring.
My husband stocked it with flowers, richly,
And said: “Goddess, be mistress of the flowers.”


最初、この部分を引用しようとしたときは、口からバラをこぼしながら話している女性の描写と、ゼピュルスによるフロラの誘拐が書かれていて、そしてフロラが花の女神としてゼピュルスが作ってくれた美しい庭で、花を司る女神となるエピソードが書かれているので、それが書かれている文章だという理由で書き出そうと思っていた。だけど、『ヴィーナスの誕生』を見て、それだけではないように思った。


彼女が庭園の女主人になった後、神話の神々がそこに集まってくる記述がある。それが次:

ラテン語(5巻213行目から220行目まで):
saepe ego digestos volui numerare colores,
nec potui: numero copia maior erat.
roscida cum primum foliis excussa pruina est
et variae radiis intepuere comae,
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;
protinus accedunt Charites, nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.


日本語訳:
何度も私は、いったい何色あるのかと、並んだ花を数えたいと思いましたが、できませんでした。数が及ばないほどたくさんだったのです。朝露の滴が葉からこぼれ落ち、色とりどりの草花が陽の光に暖められるや、ただちに彩り鮮やかな衣を身にまとった季節女神ホラたちが集まり、私からの贈り物を籠に摘んでゆきます。それにすぐさま優雅の女神カリスたちも加わって、冠を編み、編んだ冠を神々しい髪に結ぼうとします。


そして、英語訳の該当部分:
I often wished to tally the colours set there,
But I couldn’t, there were too many to count.
As soon as the frosted dew is shaken from the leaves,
And the varied foliage warmed by the sun’s rays,
The Hours gather dressed in colourful clothes,
And collect my gifts in slender baskets.
The Graces, straight away, draw near, and twine
Wreaths and garlands to bind their heavenly hair.


ここに出てくる季節女神ホラたちと優雅の女神カリスたちは、両方ともに三人組の女神。『ヴィーナスの誕生』でヴィーナスにローブを掛けようと待ちかまえている女性として描かれるのがホラの一人。そして『プリマヴェーラ』の三美神がカリスたち。

先日『ヴィーナスの誕生』のホーラと、『プリマヴェーラ』の右から三番目にいる女性の服装が似ていると指摘したけれど、そのことを踏まえると季節女神ホラたちに対して、「彩り鮮やかな衣を身にまとった」という形容が意味を持ってくるように思う。『プリマヴェーラ』では他の女性は無地なのに、柄のある服を着ているのはこの三番目の彼女だけだ。さらに、「私からの贈り物を籠に摘んでゆきます。」という文章が続くが、花の女神フローラからホラへの贈り物と言ったら、それは花しかないだろう。まさに『プリマヴェーラ』の描写として、右から二番目にいる女性の口からこぼれる花が三番目にいる女性の抱えている花々になることが、それを表しているのではないだろうか。前回は彼女は花を撒こうとしているように解釈したけれど、この手は花がこぼれないように押さえている仕草になるのだろう。そのあとに、カリスたちの記述がある。文章では花飾を作って髪に結びつけているはずなのに、絵では花など編まず、三人で踊っている。彼女たちの頭には花はない。でも問題はない。もう既にホラの神々しく結われた髪を飾っている。文章としてもそれで問題ない。この絵ではクロリスからフロラへの変身などはしておらず、二番目の女性がフロラ(クロリス)で、三番目の花柄の服を着ているのがホラということになる。

こう考えると、この絵の登場人物の九人中六人がこの5月2日についての記述として説明できる。ここまでできれば、ボッティチェッリが『祭暦』の影響を受けなかったというのは考えにくいだろう。この記述を直接読んだか間接的に知ったかは分からないが、この詩の世界が反映されていると十分考えることができる。あと残り三人。でもこの日の記述には残りの彼らのことは書かれていない。他の理由を考えなくてはいけない。

『祭暦』の記述として明確に載ってはいないのだけど、訳注などを調べると、古代ローマではメルクリウスの祭日が5月15日で、彼の母であるマイヤの祭日が 5月1日というのが分かる。先日、中央の女性がヴィーナスではなく、豊穣の女神マイヤでないかと書いたのはそういう理由もあった。ヴィーナスは自らが愛をおこなうものであり、自らがこの世の美の象徴であるのだから、この絵の中で一歩下がって他者の愛を見守るような描写はヴィーナスらしくないのではないだろうか。それよりも花で満ちたこの庭園の中央に立ち皆を守護するに相応しいのは、5月の神であり、かつ春と豊穣の女神マイヤではないだろうか。マイヤという女神は二人いて、本来メルクリウスの母はギリシア神話プレアデス七姉妹の長女である。もう一人のマイヤはローマ神話における豊穣の女神である。二人は別々の女神であったが、いつしか混同されてしまった。『祭暦』でも区別せずに呼んでいるようだ。5月(マイユル)の名前の由来は諸説あるが、『祭暦』の中では三つの説を紹介し、その一つとしてこの豊穣の女神マイヤの名前が由来だとする説を紹介している。

ヴィーナスが中央にいる場合、メルクリウスがここにいるのは彼がヴィーナスの庭の守護者であるからだとされる。しかしそれは絵の外の文学などに理由があるのではなく、そう皆が絵の設定を解釈しているに過ぎないだろう。ボッティチェッリがメルクリウスを描きたかったからしょうがないとしかいえない。でも彼が5月の神であることを理由にすれば、彼がここにいる理屈が通る。ローマ人が彼を5月15日に祀っていたからだと。『祭暦』では5月15日も含めメルクリウスが5月の記述の中にたびたび登場する。

『祭暦』を元にこのように考えてみると、キューピッド以外が、『プリマヴェーラ』に登場する神々がローマの五月に関連するということでまとめることができる。もちろんこの庭はヴィーナスの愛の庭ではなく、フロラの春の庭となる。しかし、どうしてもキューピッドだけが5月の神の仲間に入れることができない。彼だけが純粋に恋のきっかっけを与えるいたずら者の記号として描かれている。


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2009年01月28日

三美神について

前回書いたとき、『祭暦』での三美神の記述を『プリマヴェーラ』と結びつけるのに、ちょっとこじつけるような書き方をしてしまった。自分でもずるいと思った。あれから、ずっとそのことを考えていた。
protinus accedunt Charites, nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.
何か分かるのではないかと、自分でこの2行を訳してみることにした。素人の訳なので間違っている可能性も高いが、既に完成された日本語訳も英語訳もあるので、とても楽な翻訳でもあるけれど。

protinus が「すぐに」という副詞。accedunt が「加わる」という意味の動詞の能動態直説法現在の三人称複数。次の Charites というのが三美神カリスたちのことで、これが主語。ちゃんと主語と動詞の数が一致している。ここまでで、「すぐに三美神が加わる。」の意味となる。nectuntque というのは、動詞 nectunt に、接続詞 -que がくっついているもので、ラテン語では -que がくっついてる言葉がその前に接続していることを示す。nectunt は「編む」という意味で、さっきの動詞と同じ能動態直説法現在の三人称複数。目的語として、次の 名詞 coronas をとる。これは太陽のコロナの語源となる言葉で、王冠、花環、リースといった意味がある。活用は複数対格。対格というのは英語における直接目的語。ここまでで、「すぐに三美神が加わって、花冠を編む。」という意味になる。次に sertaque 。これにも 接続辞 -que がある。serta も、リースや、花環といった意味の名詞。この接続の仕方に小一時間悩んだ。前の-queと対になっているんじゃないだろうか、でもそれだと、品詞が違うもの同士で対になる。そんなことなんてあるのだろうか。単純に考えて、名詞 coronas と並列であるとし、これも nectunt の目的語だと考える。serta の語尾は対格の可能性もあるので、辻褄が合う。この場合 serta は、中性名詞 sertum の複数対格と見なす。原文二行目の単語の関係が分かりにくいので、このまま単語だけを調べていく。次の caelestes は「神々しい、神々の」という意味の形容詞か「神」という名詞。この語尾は複数で、主格か呼格か対格か。implicitura  は「包む、一緒にする」という意味の動詞の能動態未来分詞。格はこれもいくつかの可能性がある。最後の単語 comas は、この単語だけで考えるといろんな可能性があるけど、文脈から可能性が一番高いのは、女性名詞「coma 髪」の複数対格。二行目のそれぞれの単語の意味が分かったので、単語の関連を考えていく。implicitura  は格を対格と考えて問題ないが、性数は女性単数の場合と、中性複数の場合がある。それを踏まえて周りの名詞を見比べると、中性複数の serta を修飾し、女性複数の comas を目的語に取るのがわかる。残った caelestes はどうなるか。この格は対格と見なせるが、性は中性にも女性にも解釈できる。だから、中性名詞「sertum 冠」も女性名詞「coma 髪」も修飾できる。ここでは距離の近い前者にしてみる。coronas と serta のニュアンスの違いが分からないが、全体は「すぐに三美神が加わって冠を編む。髪に結いつける神々の花冠を編む。」となる。

訳しながら思いついた。corona という単語のイメージ。この冠を編む行動は、『プリマヴェーラ』では三美神のダンスが表しているんじゃないだろうか。つまり、花冠のダンス。三人が手をつないで輪になって踊っている様子で、花を編んでいることを比喩的に表しているのではないか。座り込んで実際に花を編む姿を描くよりも、いつものように踊っている三美神の姿のままでも表現できる。前回の解釈だと、季節女神ホラの記述が絵の描写を十分に表していた。でも、もう一方の三美神の記述は絵での描写を何も表していなかった。けれど、彼女たちが手をつないで輪を作っている姿そのものがこの文章を描写していると考えるとうまくいくように思う。



話は変わるけど、三美神の説明として、ヴィーナスの従者だということがよく書かれている。その根拠が分からなかった。で、探してみるとすぐに、英語版の三美神の記事の中にホメロスがそう書いてあるとあった。実際、イーリアスとオデュッセイアの英訳の中を検索してみたら、the Graces という三美神の英語名のそばに Venus と書かれている箇所がいくつかあって、ちゃんと従者らしい行動をしていた。通常、三美神は、フローラにではなくヴィーナスに結びつけられている。ホメロスの作品にそう書いてあるならば、それは一般的な常識としてはそうなるだろう。

関連資料:
The Iliad by Homer - Project Gutenberg
The Odyssey by Homer - Project Gutenberg


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2009年01月30日

『物の本質について』と『プリマヴェーラ』

ルクレティウスの『物の本質について』(De rerum natura)を調べてみた。英語版 Wikipedia の Primavera の記事で、この中の文章が『プリマヴェーラ』に影響を与えたのではないかという指摘がある。日本語版でも、おそらくその記述を元にした文章が載っている。

そこでは、次の文章を引用している:
Spring-time and Venus come,
And Venus' boy, the winged harbinger, steps on before,
And hard on Zephyr's foot-prints Mother Flora,
Sprinkling the ways before them, filleth all
With colours and with odours excellent.
この文章を指して、ヴィーナスとフロラの二人の女神をルクレウティスが賞賛していると指摘している。しかし僕は個人的に、それほどの意味はこの文章にはないのではないかと思っている。

これを書いたのは古代ローマの詩人であり、哲学者のルクレティウス。彼は紀元前55年になくなっているので、カエサルの時代に書かれた『祭暦』よりもこの書物が先に成立している。

この本の影響が知りたくて、日本語訳された岩波文庫刊、樋口勝彦訳『物の本質について』について読んでみた。読んだのはまだこれが書かれた前後の部分だけなのだけれど、読んでみた個人的な感想を言ってしまうと、この書物が『プリマヴェーラ』に与えた影響はほとんど無いだろう。この本のこの記述が与えた影響があるとすれば、『祭暦』の5月2日の記述の着想がこれにある可能性はゼロではないだろうとか、『物の本質について』や『祭暦』が成立した頃の古代ローマでは人々がこのような季節感を持っていたことがうかがえるとか、そういうことに過ぎないと思う。

『物の本質について』という作品は、叙事詩の形態を取りながら、エピクロス派の自然哲学を語ったもので、詩ではあるのだけど、絵になるような作品では全然無い。延々と世の中を理屈で説明していく。

上記の春についての引用が書かれているのは、第五巻。このあたりは、大地のことや、星の運行について述べられている。太陽はあんなに小さいのにどうしてこれほど大きな海や大地を暖めることができるのか、太陽の高度が季節でかわるのはどうしてか、夜はどうして暗いのか、夜明けの白みはどうして起きるのか、昼と夜の長さがどうして変わるのか、そういう話がずっと続いていく。そして月が順序通りの満ち欠けをし場所を移動していく現象を説明するとき、それは世の中の出来事には順序をもって進むものがあって、そういう現象を理屈で説明することはできない。それは季節が移り変わるという事実を受け入れるしかないように、と説いている。

その部分を例のごとくラテン語原文を、今度はDe rerum natura (Titus Lucretius Carus)/Liber V - Wikisourceから引用する:
denique cur nequeat semper nova luna creari
ordine formarum certo certisque figuris
inque dies privos aborisci quaeque creata
atque alia illius reparari in parte locoque,
difficilest ratione docere et vincere verbis,
ordine cum [videas] tam certo multa creari.
it Ver et Venus et Veneris praenuntius ante
pennatus graditur, Zephyri vestigia propter
Flora quibus mater praespargens ante viai
cuncta coloribus egregiis et odoribus opplet.
inde loci sequitur Calor aridus et comes una
pulverulenta Ceres [et] etesia flabra aquilonum.
inde Autumnus adit, graditur simul Euhius Euan.
inde aliae tempestates ventique secuntur,
altitonans Volturnus et Auster fulmine pollens.
tandem Bruma nives adfert pigrumque rigorem
reddit. Hiemps sequitur crepitans hanc dentibus algu.
quo minus est mirum, si certo tempore luna
gignitur et certo deletur tempore rusus,
cum fieri possint tam certo tempore multa.

そして英訳の該当部分をグーテンベルグの次のページOn the Nature of Things by Titus Lucretius Carus - Project Gutenbergから得られる情報から引用する:
Then, again,
Why a new moon might not forevermore
Created be with fixed successions there
Of shapes and with configurations fixed,
And why each day that bright created moon
Might not miscarry and another be,
In its stead and place, engendered anew,
'Tis hard to show by reason, or by words
To prove absurd--since, lo, so many things
Can be create with fixed successions:
Spring-time and Venus come, and Venus' boy,
The winged harbinger, steps on before,
And hard on Zephyr's foot-prints Mother Flora,
Sprinkling the ways before them, filleth all
With colours and with odours excellent;
Whereafter follows arid Heat, and he
Companioned is by Ceres, dusty one,
And by the Etesian Breezes of the north;
Then cometh Autumn on, and with him steps
Lord Bacchus, and then other Seasons too
And other Winds do follow--the high roar
Of great Volturnus, and the Southwind strong
With thunder-bolts. At last earth's Shortest-Day
Bears on to men the snows and brings again
The numbing cold. And Winter follows her,
His teeth with chills a-chatter. Therefore, 'tis
The less a marvel, if at fixed time
A moon is thus begotten and again
At fixed time destroyed, since things so many
Can come to being thus at fixed time.

そして日本語訳を、岩波文庫刊、樋口勝彦訳『物の本質について』から引用させてもらうと、
最後に、月が絶えず新しく、形の一定の順序をとって、種々特定の形に造り出されるのだと云うことは何故あり得ないか、又毎日毎日造り出された月が消え失せ、別な月が他の月の方向や位置に再び生み出されるということは何故あり得ないか、これは、幾多のものがかくも一定した順序をとって造られている以上、理論をたてて説くことも、言葉を以て立証することも困難である。春が来て、愛の神(ウエヌス)が、又春の先駆者(さきぶれ)なる翼を持った「暖風(ゼピユルス)」が進み、これらの足跡に接して母なる「花神(フローラ)」が前の途を悉く美しい色を撒きちらし香を充たす。それに続いて焦げつく「酷暑(カロル)」が仲間の埃っぽい「農神(ケーレス)」や北の季節風をつれ立って、やって来る。次には秋が、又同時にエウヒウス・エウアン〔酒神バッコス〕が進んでくる。やがて他の嵐や風や、高く雷鳴する「南東風(ヲルツルヌス)」。さては電光を振るう「南風(アウステル)」が続き、最後には「冬至」が雪をもたらし、冬がにぶらす寒気をもたらし、これに続いて、歯をがたがたさせて「霜(アルゴル)」が来る。多くの物事がかくも一定した時に起る以上は、月が一定の時に生まれ出で、一定の時に又消滅し去るとしても、一向異とするには当たらない。

英訳文、和訳文が上記のラテン語と同じ原典から訳されているかは分からないが、和訳と英訳で一カ所大きな違いが現れている。英訳でキューピッドとゼピュロスに別けて訳されているが、和訳ではすべてゼピュロスを説明する記述とされている。原典が違えばこういうことも起きるだろうが、僕には原典を比べるような深い分析もできないので理由はよく分からない。

it Ver et Venus et Veneris praenuntius ante
pennatus graditur, Zephyri vestigia propter
Flora quibus mater praespargens ante viai
cuncta coloribus egregiis et odoribus opplet.

この一文にヴィーナスとフローラが一緒にいるからといってボッティチェッリがインスピレーションを得てというのは、どうも考え難い。春が来て花が咲き、季節はこの順序で変化していますと、詩的に表現しているだけのように思える。



この春についての部分が英語訳と日本語訳の違っているのに疑問を持ったので、ちょっと自分で訳してみることにした。もちろん両者の原典が同じかどうかは分からないので、この分析は意味をなさないかもしれない。それでも、面白そうだったので、今までの知識を総動員して訳してみた。以下に訳の根拠を示すために訳出する過程を書いた。たった四行のことなのに、僕はこれ以上のことを考えて、訳している。


まず、it は動詞「eo」の能動態直説法現在三人称単数形。英語で、go,walk,come in などの意味。Ver は中性名詞「Ver 春」。単数で、主格、呼格、対格の可能性があるけれど、単純に単数主格と見ていいだろう。それで「春になる」となる。et は and に相当する接続詞。Venus は愛の女神ヴィーナス、女性名詞。この語尾は他の格の可能性もあるけれど、単純に単数主格でいいだろう。そしてまた et。Veneris は Venus の単数属格。英語でいう所有格。paraenuntius は「前兆となる」の形容詞、単数主格。ante は副詞か、対格支配の前置詞。英語の before にあたる。pennatus は、「翼の生えた」という意味の形容詞、男性単数主格。そして graditur は deponent 動詞「gradior」の直説法三人称単数現在。意味は step、walk。deponent 動詞は、形は受動態だが能動態の意味を持つ種類のもの。

さて、ここまでの単語を組み立てる。主語 Venus に対応する動詞がない。動詞「it」が省略されていると考える。次は主格の形容詞 praenuntius と、pennatus が離れて置かれているが、これが詩のため位置が動いていると勝手に解釈して、ひとまとめにして考える。それでもそれらが修飾する主格名詞がないので、形容詞の名詞化が行われているとする。この前に Venus の属格 Veneris があるので、「ヴィーナスの先触れたる有翼の者」ということになる。これはギリシア神話を知っていると、春の先触れとして吹く西風ゼピュロスだとわかる。キューピッドもヴィーナスのそばによくいるけれど今回は違う。西風が前兆かどうかは『ヴィーナスの誕生』を思い出すといい。次は、ante の周りを見回して、対格の名詞がないので、後方にある動詞 graditur に伴う副詞として訳す。ここまでで「春になると、ヴィーナスが来る、ヴィーナスの先触れたる有翼の者が先を進むと、」となる。

コンマの後の Zephyri は Zephyrus の単数所有格か、単数所格、複数主格か、複数呼格。ここでやっとヴィーナスの先触れの名前が出てくる。今まで出てきた、Veneris praenuntius も、pennatus も、彼に対する形容。英訳では 最初の行で Venus' boy とキューピッドを意識した訳にしてしまっているが、少なくともこの今訳している原典の訳としてはこれは間違いだろう。英訳は異本から訳出されているのかもしれない。Zephyri のあと、vestigia は「vestigium」という足跡、跡という意味の中性名詞の複数主格、呼格、対格。なぜ翼があるゼピュロスに足跡があるのだろうか?

propter は対格支配の前置詞もしくは副詞。意味はここでは英語の near。後ろの単語を見てみると、Flora があるけれど、これは対格ではない。対格と解釈できるのは前にある vestigia。ラテン語は語順は自由なのだけれど、詩ともなれば前置詞が後置されてもいいのかなと疑問に思いつつも、対格の受け入れ先も他に見つけられないので、これと組み合わせる。

Flora は花の女神、女性名詞、主格、呼格、奪格。その直後 quibus は関係代名詞、複数与格、奪格。関係代名詞は先行詞の性数と一致するはずなのに、数が一致しない。この関係代名詞の性数が一致する名詞を探すと、 vestigia しかない。そのため、本来のここの語順は、Flora propter Zephyri vestigia と勝手に解釈する。そうすれば関係代名詞と性数が一致する。ここの意味は「花の神フローラがゼピュロスの足跡を追う。」となる。動詞は適当に補った。

quibus のあとを訳す。mater は母を意味する女性名詞、主格か呼格。フローラはゼピュロスの妻なので、母とはせずに妻と訳す。praespargens は、英語 before の意味を持つ prae と撒くという意味の spargo の合成語、動詞「praespargo 前に撒く」の現在分詞、主格、呼格、対格。そう、彼女は口から花を撒くので進む方向にしか花を撒けない。ante が前置詞だとすると対格支配だが、やはりまわりにないので、これは副詞と決めつける。

viai は女性名詞「via 道」の単数属格か与格。cuncta は all の意味の名詞か形容詞。この形となるのは、単数女性のときか、複数中性のとき。複数中性といえば、先行詞の vestigia。つまり via は単数属格、cuncta は複数中性対格となる。

coloribus は男性名詞「color 色」の複数所格、与格、奪格。egregiis は形容詞「egregius 素晴らしい」の複数与格、奪格。そのあと 接続詞 et があって、中性名詞「odor」の複数所格、与格、奪格。opplet は動詞「oppleo 満たす、覆う」の能動態直説法現在三人称単数。つまりこの目的語になる color などは「与格」でいい。これらを組み合わせると、「妻が道のすべての足跡を美しい色と香りで覆う。」となる。つまり、ゼピュロスの足跡が花になるということ。

すべてをまとめると、「春が来て、ヴィーナスが来て、ヴィーナスの有翼の先触れが先を進むと、フローラがゼフィロスのすぐ跡を追い、前にまき散らす彼の妻が、ゼピュロスの通った道のすべての足跡を、美しい色と香りで覆う。」となる。これを唯物論者のルクレウティスを尊重して神々の名前を使わずに言い換えると、「春には、まずその前触れとなる西風が吹き、そのあとに花が咲き乱れ、街角には美しい色と香りが満ちあふれる。」となるのだろう。//



こうやって訳してみると、この詩は『プリマヴェーラ』よりも『ヴィーナスの誕生』の解釈に役に立つのではないかと思う。『プリマヴェーラ』の略奪の描写よりも、『ヴィーナスの誕生』のゼピュロスとフローラが一緒に空を飛んでいる様子がこの詩の部分に近いだろう。この四行に明確にはフローラに翼があるとは記述されていないようだけど。



ラテン語は面白いと思う。ただ、時間がかかる。一日ほんの少ししか訳せない。でもそれはとても有意義な時間だと思っている。僕は大学で専門の課程を経たわけではないし、ラテン語の勉強は趣味でやっているので、この解釈が妥当かどうかは分からない。信じない方が賢明だと思う。


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2009年02月05日

『プリマヴェーラ』のアーチについて

いままで数回にわたって、『プリマヴェーラ』について調べたことや考えたことを書いてきた。まだしばらく、不定期にこの話題は続く。
現時点、今までの考察により導き出したものは、次の事柄である:

* この絵の題材はすべて『祭暦』から取られている。
* クロリスからフローラへの変身は描かれていない。
* 花柄の女性はホーラである。
* 中央の女性は、ヴィーナスではなくメルクリウスの母、豊穣の神マイアである。

クロリスからフローラへの変身を否定するだけでもかなり異端な解釈なのだけれど、中央の女性がヴィーナスではないというのは、もう異常な主張のようにさえ思えるだろう。自分自身そう思っている。でも、そう導けてしまうのだ。また本来、この絵を解釈するには、当時のメディチ家とボッティチェッリとの関係などを考慮に入れないといけないのだけれど、そういうものを意図的に排除しながら考えを進めている。かえって、それが見えているものを蔑ろにし、解釈をゆがめると思っているから。

まずは、絵から分かる情報だけを元に、何が描かれているかを知ろうと心がけた。唇から花々をこぼす女性や、翼のサンダルを履き蛇の杖を持つ男性といったように神話の登場人物は、本人を示す明確な記号と共に描かれるものだ。登場人物を特定できないのは、それを知るための知識が足りないためだと考えた。すべての人物を特定する情報は絵の中に描き込まれているはずだ。

また、彼の作品は、神話的なものでも宗教的なものでも、はっきりとした題材を持っているものが多い。この絵に関しては『祭暦 fasti』の5月の記述である可能性が高い。そのことは既に様々なところで指摘されている。ただ、その引用はクロリスからフローラへの変身を納得させるためだけに利用されている。これをもっとよく読めば、ラテン語の原文は無理でも、英語訳や、日本語訳を読みさえすれば、重大なヒントがはっきり書いてあるというのに。


中央の女性を皆がヴィーナスであることと判断してきた記号は、おそらく、彼女の侍女である三美神がすぐそばにいることや、頭上にキューピッドがいることだろう。しかし、キューピッドはそれこそ神出鬼没のいたずら者で、必ずヴィーナスと共にいるとは言い切れない。三美神もそう。ヴィーナスの身の回りの世話をするのが仕事の彼女たちだけれど、楽しいことがあると、どこからともなく現れる習性を持っている。現に、『祭暦』のフローラの庭園にも現れていた。そういうわけで、彼らがそばにいるからといって、可能性は指摘できても、中央の女性がヴィーナスであるとは断定できない。

中央の彼女自身の描写はどうだろう。ヴィーナスらしい描写は何か無いだろうか。彼女の履いている靴はとても特徴的だ。彼女の着ているものはどうだろう。彼女の姿勢はどうだろう。そうやってみると、左端のメルクリウスとの類似性が見えてくる。まったく同じ色ではないが赤い布を身につけている。それだけでも十分注意をひいている。二人とも左手を掲げ、右手で服を押さえている。言葉で言うと同じだけれど、実際絵を見てその仕草がそっくりとは言えないだろう。でも何か意味ありげな似せ方だ。そこで、『祭暦』に書かれている5月は女神マイアから名付けられたという俗説と、彼女がこのメルクリウスの母であるという事実を知ると、この気づかれないように、こっそりと似せた意味が見えてくる。


メルクリウスは、ギリシア神話ではヘルメスといい、プレアデス姉妹の一人マイアと主神ゼウスとの子である。ゼウスには結婚の女神ヘラという嫉妬深さで有名な本妻がいる。彼女に知られてしまうと、愛人もその子供もただではすまない。『祭暦』では糸杉の茂れるキュレネの峰でメルクリウスを産んだとしか書かれていないが、以前の記事で『ヴィーナスの誕生』で関係があるのではないかと引用した『ホメーロス風讃歌』に含まれる『ヘルメス讃歌』には、詳しく彼女のことが書かれている。マイアは洞窟に住むとされる。ヘラが眠っている間に、気づかれぬようマイアは洞窟でゼウスと愛し合い、そしてメルクリウスを産んだ。さらに、この『ヘルメス讃歌』では、マイアは美しい靴を履いている(καλλιπέδιλον,neat-shod)とも描写されている。彼女は巻き毛であるとも形容される。メルクリウスの方ははっきりと立派な巻き毛が描写されているけれど、中央の女性は髪を布で覆っているので、よく分からない。隙間からのぞく髪は巻き毛のように見えないでもない。

そのギリシャ神話の背景を知って、この絵の中央に居る女性の背後を眺めてみよう。木の幹と枝でできた丸いアーチが、何かに見えてこないか。そう、洞窟だ。彼女の背後にあるのは、洞窟の中から外を眺めたときの外の光に見えないだろうか。ここが洞窟というわけではない、これは、彼女が誰であるかを示すための「洞窟」という記号である。この事実は、誰もそう簡単には気づくことができない。なぜなら、ヘラに気づかれてはいけないのだから。


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2009年02月06日

『プリマヴェーラ』を知るためのサイト

『プリマヴェーラ』を理解するためにとても役に立つサイトを書いておきます。
検索すれば、すぐに出てくるものばかりですが、目を通しておいた方がいいと思われるものを選びました。
もちろん、他にも役に立つサイトはいろいろありますので、検索して見つけてください。

ボッティチェリの春 = プリマヴェーラの謎
プリマヴェーラの謎に挑んでいるサイトです。ブログではプシュケーを中心に謎解きを進行中です。謎解きのための資料がいくつも集められています。一般的な解釈が書かれているページでは、その他の説も表にまとめてあって、その中で、花柄の服を着ている女性がホーラだとする説も紹介してました。

プリマヴェーラ 〜春〜 によせて
このサイトは、とても読みやすく、ボッティチェリの生涯をメディチ家などとの関係を中心にまとめています。プラトン・アカデミーとの関係はとても分かりやすかったです。

サンドロ・ボッティチェリ-主要作品の解説と画像・壁紙-
サルヴァスタイル美術館の、ボッティチェリのページ。彼の作品についての詳しい解説が載っています。もちろん作品の画像も見ることができます。解説しているサイトは、引用先が同じだったりで似てしまうのですが、ここにしか書いていない解説もあったりして役に立ちましました。


さて、継続して僕がやってる解釈の方ですが、イタリア語にぶつかってしまって、ちょっと足踏みしてしまっています。核心部分はもう書いてしまったので、一般的な解釈の根拠を再確認し、どうして主流の解釈が間違ったものになってしまったのかを指摘しつつ、まとめようと思っています。ただ、それがイタリア語で書かれているので、ちょっと苦しんでいます。苦労して訳してみたら、一般的な解釈に僕自身も納得してしまうなんてこともあるかもしれませんが。まあ、たぶん大丈夫でしょう。



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2009年02月09日

ヴァールブルクの本を読んでいる

いままでは主にネット上で簡単に手にはいる資料をもとに、自分自身の分析によっていろいろと解釈してきた。けれど、すでに先人たちがいろいろな分析をしているのに、それを知らずに考えを進めていくのは、単に、僕自身の推理をしたいという気持ちを満足させるだけでしかないことに気がついた。この推理はこれはこれで面白いものだったが、再発見を楽しむのはこれまでにしよう。

結局、僕の得ていた情報も、先人たちの研究が巡りめぐって断片化していた物に過ぎない。それを組み立てて元に戻して楽しんでいるだけだ。先入観がなかったせいで、僕はちょっと違うものを組み立ててしまったみたいだけど。


アビ・ヴァールブルクの研究を知らずに、この問題を語ってはいけない。今はとても反省している。ただこの本『サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》』の存在にたどり着くのはそう簡単ではなかった。この本に、これほど詳しい研究が載っているということは、本を開いてみるまで分からなかった。

頑張って翻訳していたイタリア語の文章も、この本でちゃんと日本語に翻訳されて引用されている。徒労感よりも感激の方が強い。いくつかの疑問はこれを手にしてすっきりした。ただ、これを読んでいても中央の人物についての自分の着想が間違っているとは思えない。





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2009年02月11日

『サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》』を読んだ

アビ・ヴァールブルク (Aby Warburg)の書いたボッティチェッリの作品についての論文読み終えた。

以下メモ

アビ・ヴァールブルクは1866-1923のドイツの美術史家。Wikipedia

『サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》−イタリア初期ルネサンスにおける古代表象に関する研究』
原書は、Sandro Botticellis "Geburt der Venus" und "Fruhling" (1893)、と Sandro Botticelli (1898)。

今回読んだ日本語版は、ありな書房からヴァールブルク著作集として出版されている七冊シリーズの第一巻。2003年出版。第一巻の厚みは200ページちょっとだけれど、内容はとても詰まっている。

序言にこの論文の目的が書かれているが、短く言うと、二つの絵を当時の詩などと関連づけることにより、この頃の芸術家が古代の作品の付帯物(衣服や髪)の描写に関心を持っていたことを明らかにしていく論考。

サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》
 第1章 《ウェヌスの誕生》
 付録 失われた《パラス》
 第2章 《春》
 第3章 絵画の外的原因 − ボッティチェッリとレオナルド
 四つのテーゼ
 ボッティチェッリの《パラス》について
サンドロ・ボッティチェッリ

第1章と第2章のそれぞれの冒頭では、1550年に出版されたヴァザーリの『ルネサンス画人伝』でヴィーナスの描かれた二つの作品についての文章が引用され、考察が始まっていく。登場人物が誰かというような謎解きが主目的ではないが、当時の文学作品の付帯物の記述に注意しながら影響を眺めていく。その過程で、根拠とある文章の引用を丁寧に示しながら、論理的に誰が描かれているかが紹介されていく。原注、補注には引用元や本文に入りきれない細かな情報が詰まっている。解題には、この日本語版の出版を含む世界的なヴァールブルクの著作の再評価の動き、ヴァールブルクの生涯、この本の要約、そしてこの著作以後の二つの作品に対する主だった説の紹介がある。

この論考で指摘されているボッティチェッリの二つの作品における他の作品の影響(主なもの):
  • ポリツィアーノの詩『馬上槍試合のためのスタンツェ』には、『ホメロース讃歌』「アフロディテ讃」に着想を得ていると考えられるウェヌス誕生の描写がある。ポリツィアーノの詩を分析すると、オウィディウスの『変身物語』と『祭暦』からも着想を得ているのがわかる。
  • ルクレティウスの『物の本質について』における春の到来の記述は、ボッティチェッリの作品およびポリツィアーノの詩『ルスティクス』に影響を見ることができる。
  • ゼピュロスとフローラの関係は『祭暦』に記述されているが、さらに『プリマヴェーラ』におけるこの二人の動的な描写は、『変身物語』のアポロンからのダプネの逃亡の記述に対応している。またも、ポリツィアーノの詩にこの記述の影響を見ることができる。
  • 1436年のアルベルティの『絵画論』で、セネカの引用として記述されている三美神の記述は『プリマヴェーラ』の三美神にとても似ている。このセネカの『恩恵論』には、古代の作品を指して三美神のそばにメルクリウスが立っているという記述もある。

そしてヴァールブルグが、この論考の中でとっている、それぞれの作品での神々について解釈は次のようになっている。関心があるものだけを箇条書きにすると、
『プリマヴェーラ』
  • ウェヌス、三美神(p48)、メルクリウス(p51,71)、アモル、ゼピュロスの人物特定は現在の一般的な解釈通り。
  • ゼピュロスに捕まれているのはフローラ(p48)。この描写はオウディウスの『祭暦』、『変身物語』の影響(p59)。
  • 花柄の服を着ているのは四季の女神ホーラたちの一人の春の女神(p48)。花の「帯」をしているのは、本来持つべき「籠cesto」の異訳のため(p138)。
  • 手をつないでいたり、透明で、帯のない服装の、三美神の姿は、セネカによる描写の影響(p48)。
  • この絵はポリツィアーノなどが描いている「ウェヌスの治国」が舞台になっている(p73)。
  • メルクリウスは、雲を払い除けている(p79)。

『ウェヌスの誕生』
  • この作品は、『ホメーロス讃歌』「アフロディテ讃」を踏まえたポリツィアーノの『馬上槍試合のためのスタンツェ』の一場面を元に描いている(p10)。
  • 右の岸で待ち受けているのは、季節女神ホーラたちの一人の春の女神(p32)。
  • 画面左にいるのは、二人のゼピュロス(p18)。

解題に書かれているヴァールブルク以後の主な研究:
(なお著者名、著作物名は、解題の記述のまま。和名だけど和訳本が出版されているということを示すものではない。)
  • チャールズ・デンプシー『愛の肖像−ボッティチェッリの《春》とロレンツォ・イル・マニーフィコの時代における人文主義的文化』1992、『〈春としてのメルクリウス〉−ボッティチェッリの《春》の典拠』1968
  • ホルスト・ブレーデカンプ『サンドロ・ボッティチェッリの《春》』1988
  • ミレッラ・レヴィー・ダンコナー『ボッティチェッリの《春》』1983,『』1992
  • ゴンブリッチ『ボッティチェッリの神話画−画家のサークルの新プラトン主義的象徴表現』1945
  • ピエール・フランカステル『一五世紀の神話的祝祭−文学表現と造形的視覚化』1952、『一五世紀の詩的・社会的神話−《春》』1957
  • エルヴィン・パノフスキー『西洋芸術におけるルネサンスとリナスンシズ』1960=和訳『ルネサンスの春』思索社刊
  • フェルオーロ「ボッティチェッリの神話学、フィチーノの『愛について』、ポリツィアーノの『馬上槍試合のためのスタンツェ』−彼らの愛のサークル」1955
  • リアナ・シェニーの『ボッティチェッリの神話画における一五世紀の新プラトン主義とメディチ家の人文主義』1985
  • ジョアン・スノー=スミス『サンドロ・ボッティチェッリ−新プラトン主義的解釈』1993
ミレッラ・レヴィー・ダンコナーの1992年の本がはっきりと解題中に書いてなかったが、おそらく『Due Quadri Del Botticelli Eseguiti Per Nascite in Casa Medici』のこと。

また、"On the Original Location of the Primavera," The Art Bulletin, 57 (1975), pp.31-40 などの報告によりヴァザーリによって記述されている二つの絵が飾られていた場所には、最初から置かれていたわけではなく、注文した人物が別々であることが分かってきた。『プリマヴェーラ』は、1482年のロレンツォ・ディ・ピエルフランツェスコの婚礼のさいに、彼の邸宅に置かれるために描かれたとされる。

基礎を学ぶことができた。
ヴァールブルクの論考を踏まえて、自分の考えを続けていこう。




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posted by takayan at 21:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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