2014年07月10日

『物の本質について』と《ヴィーナスとマルス》(1)

今から書くことは、去年Facebookに書いたものの転載です。思い立って書いてみたものの、そのときは続きを書けませんでした。 今回はうまくいくと思います。この解釈は以前示した、兜をした子供はクピド、鎧の中にいる子はハルモニア、残りの二人のサテュロスは、デイモス、フォボスであるということを前提にしています。

次の引用は『物の本質について』のラテン語冒頭です。

Aeneadum genitrix hominum divumque voluptas
Alma Venus: caeli subter labentia signa
Quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis
Concelebras: per te quoniam genus omne animantum
Concipitur. visitque exortum lumina solis.

それでは、ラテン語の『物の本質について』を言葉遊びで意味を変えて、《ヴィーナスとマルス》の絵の描写の説明をしてみましょう。様々な要素が描きこまれている絵に対して、それに合うように単語の意味の都合よく選んでいけば、こじつけでどこかにぴったりなものを見つけ出すことができるかもしれません。まあそうかもしれません。しかし、これから示すように数十行にわたって絵に合わせられるという事実は、ただの偶然やこじつけだけでは説明できないのではないかという話です。その中には言葉遊びでできあがる表現にしか、その奇妙な描写の理由を見つけられないようなものも見つかります。

Botticelli と依頼者は当時のフィレンツェの言葉で絵の意味を考えていたことでしょう。偉大なるダンテのおかげで現代イタリア語は古いトスカナの言葉が基礎になっています。したがって、ラテン語の意味を現代イタリア語に訳せば、この絵の描かれた当時の意味にかなり近似させることができます。当時の言葉の厳密な研究をすれば、もう少し正確な答えになるかもしれませんが、それは現代イタリア語を使った解釈が分かってからやれば十分でしょう。なお今回はイタリア語は単語の意味調べだけで、それを日本語に訳して文の意味を確定します。補足的に英語による解釈も添えておきます。

まず、最初の行です。

Aeneadum genitrix hominum divumque voluptas Alma Venus:

本来の意味は次のようになります。

アイネイアスの子孫(ローマ人)の母であり、人と神々の悦びである、命を育む女神ウェヌスよ!

Aeneadum は男性名詞Aeneadesの複数属格です。Aeneadesの複数形での意味はイタリア語でdiscendenti di Eneaです。Eneaというのがイタリア語でのアイネイアスのことで、つまりこの語はアイネイアスの子孫たちという意味になります。アイネイアスは、人間アンキセスと愛の女神ウェヌスとの間の子で、ローマ建国の英雄です。ローマ人はその子孫ということになりますから、Aedeadesという言葉はローマ人全体を表す呼び名として使われます。しかし、この絵にはローマ人もアイネイアスも描かれていません。この意味ではこの絵を作ることはできません。そこで Aedeadesの別の解釈を言葉遊びで考えなくてはいけません。しかしもしかするとこの変換がこの絵の中で一番難しい言葉遊びかもしれません。

ここでイタリア語でのこの語の意味を考えます。discendenti di Eneaです。このdi Eneaはラテン語ではAeneiusです。この言葉と近い綴りの言葉にaeneusがあります。「i」が一つ足りないだけの言葉です。この語の意味は di bronzo(ブロンズでできた)です。Aeneiusをわざとaeneusと間違えて、Aeneadesの意味をdiscendenti di bronzoと解釈し、「ブロンズでできた子孫たち」と変換します。なお、aeneusはブロンズだけでなく銅そのものや銅を含んだその他の合金を表すこともあります。

この絵の中には金属製の防具が描かれています。確実にブロンズ製かどうかははっきりしませんが、ブロンズは金属の比率でいろんな色になるので、どれもaeneusであると考えます。金属製の兜をかぶっているのはクピドで、画面右下で鎧の中に入っているのはハルモニアです。彼らは防具を身に着けているので、aeneusという形容に合っています。そして彼ら二人はともにウェヌスの子どもなので、彼女の直接の子孫であることに違いありません。したがって、discendenti di bronzoの意味で解釈したAedeadesの複数形は「ブロンズの子どもたち(ブロンズを身に着けた子どもたち)」という意味に変換できます。

ところでAeneiusをaeneusと綴りを間違えて描いたのだと考えながら、ハルモニアを見てみると一つ面白いことに気付きます。それはマルスの左手が支えている金属の棒です。その存在はもちろん以前から気付いていますが、aeneiusからaeneusへ変換を踏まえてみると、この棒がいままでと全く違って見えてきます。これは綴りから脱落した「I」そのものを表しているのではないでしょうか。この棒が不自然に直立して描かれている理由は、それが「I」を表していることを明確にするためではないでしょうか。背後にあるハルモニアの防具に重なるように描かれているのも意図的なものに思えます。この解釈を採用すると、aeneusであるハルモニアと棒を重ねることで、本来のAeneiusを表していることになります。では一方のクピドはどうかというと、そこには垂直な「I」はありませんが、ちゃんと「I」に見えるものがあります。それはクピドがしっかりと抱きかかえている槍です。水平になっていますが、これも確かに「I」の形をしています。同じようにaeneusで頭を包んだ彼と「I」を重ねることで、Aeneiusを表していることになります。

letter_i

「ブロンズの子どもたち」に変換されたAeneadumの複数属格がgenitrixを修飾することになりますが、ここにいるのは彼らの母親ウェヌスなので、意味的にも問題ありません。genitrixの格は主格か呼格となりますが、近くに動詞が見つからないので呼格とし、「ブロンズの子供たちの母親よ!」となります。

次はhominumです。意味は通常「人」という意味になりますが、この絵にはサテュロスと神ばかりで人は描かれていないようなので、別の意味を探す必要があります。探していくと、イタリア語でsoldati(軍人)やfanti(歩兵)の意味があることが分かります。確かにこの絵には兜をかぶったり、槍を抱えたり、勇ましくホラ貝を吹いたり、鎧の中に潜り込んでいる、かわいい子どもの兵士たちが描かれています。

次の単語はdivumqueです。後ろにくっついてるqueは接続詞で、前の語句と並列されていることを示しています。divumは通常は男性名詞 divusの主格か呼格か対格の単数ですが、詩的な表現ではその複数属格と扱われることがあります。本来の訳でもそのように複数属格と解釈されています。 volputasは女性名詞volputasの単数主格か呼格ですが、ここでは呼格と解釈します。hominum divumque volputasをまとめると「兵隊さんたちと神々の悦びよ!」となります。

問題はこの語句がこの絵で何を表しているかです。兵隊さんたちの悦びとは、おそらく無邪気な子どもたちの様子を表しています。クピドたちも本来は神々ですが、サテュロスの姿をしているため、この絵ではそうは呼べません。したがって子どもたちの様子は「兵隊さんの悦び」となります。実際に悦んでいる表情に見えるのは真ん中の男の子と、右下のハルモニアです。ちゃんと複数になっています。「神々の悦び」の方はというと、子どもたちは神として描かれていないので、必然的にウェヌスとマルスのことになります。ウェヌスの表情は笑顔に見えなくもないですが、マルスは眠っていて表情が分かりません。したがって二人に悦びがあるとすれば、それは二人の性的関係の暗示だと考えた方がいいでしょう。

残りは「Alma Venus」です。女性名詞Venusは単数主格か呼格です。それを修飾するalmaは形容詞almusの活用形ですが、確かに修飾する名詞と一致して女性単数の主格か呼格のなっています。この絵の中で彼女は自らの子どもたちに囲まれているので、形容詞almusの意味はイタリア語でche nutreと考えていいでしょう。つまり二つの単語からなる語句の意味は「子どもたちを育てるウェヌスよ!」となります。

この文章をまとめると、
        ブロンズの子どもたちの母親よ!兵隊さんたちと神々の悦びよ!子どもたちを育てるウェヌスよ!
となります。

英語だと
        The mother of children in bronze! Delight of the soldiers and Gods! Nursing Venus!

この絵を表す詩の意味としてはとてもよい出だしとなります。

次の文です。

caeli subter labentia signa quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis concelebras:

天の滑り行く星々の下、船の行く海を、実り豊かな大地をあなたは祝福したもう。

この文の意味をこの絵に合わせていきます。まず次の語句、「caeli subter labentia signa」を考えます。caeliは本来の解釈通り男性名詞caelumの単数属格とします。この語はイタリア語ではcieloになります。本来この詩では「空、天」の意味で使われますが、「神」という意味でもあるので、それを使います。labentiaは動詞laborの現在分詞で、signaは中性名詞signumです。前置詞subterの支配下にあるので、labentia signaは複数中性対格です。labentia signaの意味は、本来「滑るように進む星々」となりますが、この絵に合うような意味を探すと、laborはingannarsi「間違う、誤る」と意味、signumはsegno(記号)が見つかります。つまり「間違った象徴」です。caeliをこれらの語句を修飾すると考えると、「caeli subter labentia signa」の意味は「神の間違った象徴の下にいる」となります。この神をクピドだと考えると、目隠しの布の代わりの兜、矢の代わりの槍が、間違った象徴となります。

残りは「quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis concelebras:」です。この文は、動詞を共有した関係節と考えます。つまり、「quae mare navigerum concelebras」と「quae terras frugiferenteis concelebras」となります。concelebrasは動詞concelebroの二人称単数現在です。二人称なので主語はあなた、つまりウェヌスです。mareは本来「海」と訳しますが、ここでは名詞mas「男性」の単数奪格と考えます。navigerumは形容詞navigerの単数中性対格とし、名詞とみなします。つまり、mare navigerumは「男性のところにある航行可能な物を」とします。この言葉と絵との対応はちょっと苦しいです。マルスの下にあるバラ色の敷布は左足の先で引っ張られ、船の縁のように曲げられています。つまりこのバラ色の敷布全体を航行可能な物、つまり船とみなすことができます。これは今回の解釈の中で一番苦しい変換だと思います。次は動詞concelebroの意味です。この単語にはいろいろな意味がありますが、この場合はfrequentare「通う、しばしば会いに行く」が合っているでしょう。したがって「quae mare navigerum concelebras」の意味は「あなたは男のところにある航行可能な物(バラ色の敷布)に通っている。」となります。

次は「quae terras frugiferenteis concelebras」です。terrasは女性名詞terraの複数対格で意味は「大地」です。frugiferenteisは形容詞 frugiferensの複数対格です。意味はfruttifero「実りの多い、生産力のある、多産な」です。まずウェヌスの左の足首が置かれているぎっしりと草の茂った地面は、確かに「多産な大地」の意味に解釈できます。しかしこれでは複数形を表せません。そこで少し意味をひねります。この語をイタリア語でsuolo(地表)と訳します。さらにこの語suoloのトスカーナ方言にある「層状のもの」の意味を採用します。そうするとウェヌスの体の下にあるクッションがこの意味に解釈できることに気付きます。このクッションには金色の三つの層状の模様が描かれています。そして表面には花柄の金色の刺繍が施されています。たくさんの花があるということはつまり将来多くの実をつける多産なものです。次は、動詞concelebroの意味ですが、先ほどの「通う」では意味が通じないので別な訳popolare(住みつく)を使います。つまり「quae terras frugiferenteis concelebras」は「あなたは多産な層状のもの(クッション)に居ついている。」となります。

これらをまとめると、次のようになります。

神の間違った象徴の下で、あなた(ウェヌス)は男(マルス)のところにある航行可能な物(バラ色の敷布)にしばしば通い、多産な層状のもの(クッション)に居ついています。

この文章はそれほど直接的ではありませんが、性的な意味合いになっています。
英語だとおそらくこうなるでしょう。

under wrong symbols of God, you go often to the navigable near man, you populate on the fertile stratified thing and ground.

次の文です。

per te quoniam genus omne animantum concipitur.

あなたによって全ての種類の生命が妊娠させられます。

この絵に合わせてほんの少し意味を変えます。quoniamは接続詞か副詞で、ここでは英語のbecauseに相当する接続詞と考えます。この文の動詞は concipiturで、受動態の三人称単数現在です。本来の主語はgenus omneになりますが、この絵では代名詞が省略されていると考えます。したがって今回の解釈ではgenus omneは単数対格となります。animantumは形容詞もしくは名詞のanimans複数属格で、本来の解釈と同じでgenus omneを修飾しています。これらを絵の描写に合わせます。animansは本来、名詞だと「生命」、形容詞だと「生きている」になりますが、他に形容詞で「賑やかな」という意味があります。これはこの絵に描かれている子どもたちの様子にぴったりな言葉です。これを名詞化して「賑やかな者たち」とします。今度はこの語が修飾しているgenus omneを考えます。本来の詩の意味では「全ての種類」としていましたが、genusをnascita(誕生)と考えると、この絵に合います。つまり、 genus omne animantumを「賑やかにしている者たちの全ての誕生を」と解釈できます。

この絵に描かれている子どもたちは、クピドを除いて、デイモスとフォボスとハルモニアは三人ともマルスとウェヌスの間の子どもです。したがって今回の語句「genus omne」で示される子どもたちは「デイモス、フォボス、ハルモニア」でなくてはいけません。実際、クピドの顔が隠れていて表情から活発さがうかがえないことや、槍にしがみついているだけの仕草からも、彼がanimansに含まれない可能性を示しています。

なおクピドは一般にはウェヌスの子どもとされていますが、神話によってはウェヌスより先に存在した原始の神であり、ウェヌスの誕生とともにその従者となった存在です。クピドのお腹をよく見ると、体の向きのせいかもしれませんが、あるべきところにへそが描かれていません。似たような体の向きであるデイモスとフォボスのお腹を見てみると、しっかりとへそが描かれているので、クピドにへそがないのは体の向きなどではなく、女性から生まれていない属性を示していると推測できます。

したがって全体は次のようになります。

彼(マルス)は賑やかにしている者たちの全て(デイモス、フォボス、ハルモニア)の誕生をあなた(ウェヌス)によって得ています。

となります。英語だとこんな感じです。

he is received every birth of lively children by you.

次の文はこれです。

visitque exortum lumina solis.

そして彼らは生れ、太陽の輝きを目にします。

この文の意味を変えます。visitqueのqueは文をつなぐ接続詞です。visitは動詞viso(じっと見る)の現在時制か完了時制の三人称単数です。exortumは動詞exoriorの動詞状名詞supineか、完了分詞です。この動詞にはnascere「生まれる」の他にも様々な意味がありますが、ここではlaversi「起き上がる」とします。これを名詞化した単数主格と考えて、「起き上がった者」とします。この絵のウェヌスを表していると考えます。luminaは中性名詞lumen(光)の主格、呼格、対格の複数です。主格は既に決めたので、ここでは対格として考えます。

lumenにもいろいろ意味があるのですが、ウェヌスの視線の先にあるものと合致するものを探すと、occho(目)が見つかります。つまりウェヌスの方を見ているサテュロスの目ということになります。複数形なので、ちゃんと両目になります。ここまでで、「起き上がった者は両目を見詰めています。」。残るsolisですが、これは本来、男性名詞sol(太陽)の単数属格と解釈するのですが、今回は中性名詞solum(地面)の与格もしくは奪格の複数と考えます。奪格を処格として考えれば、ウェヌスの足は地面に触れているので「地面のところにいる」という意味で使えそうです。しかし、数が合いません。そこでもう一つ別の単語の活用形を考えてみます。それは中性名詞solium(椅子)の与格もしくは奪格の複数です。そしてウェヌスの体の下にあるクッションのことを指していると考え、これも奪格であるとします。意味は「玉座のところにいる」となります。しかしこれも数が合いません。ここで重要なのがウェヌスが両方に接していることです。地面とクッションの両方合わせて、複数とすれば、うまく数を合わせることができます。solumとsoliumは別の単語ですが、複数奪格のときは同じ形のsolisと表記できるので、このような言葉遊びが可能になります。いままでウェヌスに関する記述は二人称になっていたのですが、ここでは三人称の文で表記されています。

gaze

この文をまとめると、次の意味となります。

そして地面と玉座の上で起き上がった者は(サテュロスの)両目を見詰めています。

英語で示すと、次のようになるでしょうか。

and the person sitting up on the throne and the ground gazes at eyes.

 

まずは、5行訳してみました。所々苦しいところもありますが、言葉遊びによってこの絵の描写にすることができました。たった5行を説明するのにこれほどの言葉を尽くす必要がありますが、これだけ複雑だからこそ、今までこれが答えとして認識できなかったのだと思います。



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2014年07月07日

点字タイプソフト修正

以前公開した「点字タイプソフト」を修正しました。主な修正点は、以下の通りです。

・問題だった「や」を修正しました。
・入力する手の選択をタスクトレイのメニューが選べるようにしました。
・点字キーとスペースでいくつかのコマンドを入力できるようにしました(スペースキーのタイミングに注意)。
入力できるのは一般的なソフトに近い以下の通りです。以下の点字を入力して手を離す前に「スペース」を追加して、手を離せば実行できます。ただし右手入力のときは右側入力のときにスペースキーです。左手入力のときは右側の入力のときにスペースの代わりに無変換キーです。なお括弧内は一般的な機能です。
"100000" ... Enter
"010000" ... →
"110000" ... Ins
"000100" ... ←
"111100" ... PgDn
"000010" ... Del
"100010" ... Ctrl+End(文書末へ移動)
"010010" ... ↑
"101010" ... Tab
"011110" ... Ctrl+HOME(文書先頭へ移動)
"000001" ... Esc
"001001" ... ↓
"101001" ... PgUp
"111001" ... Home(行頭へ)
"111011" ... End(行末へ)
"111111" ... Alt+F4(ウィンドウを閉じる)

このソフトは知り合いの右手で点字入力をされている方のために作りました。WindowsXPから乗り換えるときに、いままで使っていたWinBRLが新しいパソコンで使えないことを知って、急遽作ったものです。10年位前にDelphiで同じ機能のソフトを作りかけたことがあったので、何をすればいいのかはよく分かっていました。とはいっても、その頃のソースはなくなっていて、アルゴリズムを最初から考え直さなくてはいけなかったので、少し苦労しましたが、とりあえず実用的なものが作れました。

今回、内部では漢点字の入力も可能なものに作り替えています。スペースキーを使った点字コマンドも、その仕組みを利用して7の点として実装しました。多少変則的なものになっているのはそのせいです。ただ単独の空白としてのスペースと、7の点としてのスペースの区別は、このように押すタイミングではっきりと区別した方が、人間にもコンピュータにも分かりやすく作れます。違和感を覚える方もいるかもしれませんが、そういう仕様だとご理解ください。

不具合が1つ見つかっています。それはPC-Talker/VDMWを使っている場合、マイサポート経由でUAC(ユーザーアカウント制御)を無効にすると、入力が二重になったり、読み上げなかったり、動作がおかしくなってしまいます。この原因は現在分かりません。両手入力の方はKTOSを使えばいいので、困るのは片手入力の方になります。PC-Talker/VDMWを使われている方はこのソフトの使用中はUACを無効にしないでください。



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2014年06月28日

《ヴィーナスとマルス》と『物の本質について』の既存の仮説

ここで僕はBotticelliの《ヴィーナスとマルス》という作品が、アナクレオンテアの「蜂」の詩と、Lucretiusの『物の本質について』の冒頭部分からなっていて、描かれている幼児のサテュロスたちはクピドをはじめとするウェヌスの子供たちを表しているとしました。今回からしばらくは『物の本質について』の解釈をより深めていきます。

《ヴィーナスとマルス》と『物の本質について』との関係は、2012年02月13日の「《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(1)」からしばらく書いていました。このときはウェヌスとマルスの描写がある前後数行が考察の対象でした。今回はさらに冒頭のウェヌスを讃美する文章すべてがこの絵の描写だったということを示そうと思います。

2012年の2月当時この部分が典拠らしいと思いついたのは、手元の『物の本質について』を眺めていて、偶然だったのですが、調べてみるとこの「ウェヌスの讃美」と《ヴィーナスとマルス》との関係はいくつかの場所で言及されていました。まず自説を述べる前に、これらを既存の説を整理しておきます。

Lucretiusの影響について調べるために読んでいたAlison Brownの『The Return of Lucretius to Renaissance Florence』(2010)の104ページに次のような記述を見つけました。

In describing the pagan sensuality of the goddess of love, however, it, too, must have been influenced by Lucretius's Hymn to Venus, like Botticelli's Mars and Venus, which reflects the twin themes of sexual pleasure and peace, as Mars reclines, "his shapely neck thrown back."

和訳するとこうなります。

しかし愛の女神の異教的な官能性の描写は、これもまたLucretiusの『ヴィーナスの讃歌』に影響を受けているに違いない。例えばBotticelliの《マルスとヴィーナス》である。これは性的な悦びと平和という対のテーマを反映している。マルスが「彼の格好のいい頸をのけぞらせて」横になっていることからこのことが言える。

『物の本質について』の冒頭にあるヴィーナスを讃えている部分の一節に、マルスが頸を仰け反らせている表現があります。これをもって《マルスとヴィーナス》(ちなみに発見当初はこの名前で呼ばれていた)との間に関連性があると言っているわけです。しかし、この詩の記述ではヴィーナスに膝枕をしてもらって彼女に顔を向けようと頸を仰け反らせているのですから、絵の描写とは完全に一致はしません。

Brownのこの記述についての注釈を見ると、『The Cambridge Companion to Lucretius』(2007)に寄稿しているValentina Prosperiの『Lucretius in the Italian Renaissance』を、Lucretiusと≪ヴィーナスとマルス≫の関係の根拠にしていることが分かります。そこには次のような指摘があります(kindle版なのでページが分からないが注釈24付近)。

The iconography of Botticelli's painting of Venus and Mars may derive immediately from an astrological interpretation of the myth by Marsilio Ficino, but the pose of Mars may be inspired by Lucretius' description of the  war-god's 'shapely neck thrown back'.

和訳するとこうです。

Botticelliの絵画≪ヴィーナスとマルス≫の図像は直ちにMarsilio Ficinoによる神話の占星術の解釈から導くことができるが、マルスの姿勢はLucretiusによる戦いの神の「仰け反っている形のよい頸」という記述に触発されたのかもしれない。

この部分にある注釈24にGombrich 1972:215 n.133.と書いてあり、この指摘の根拠がGombrichの論文であることが分かります。ただ確認してみると、Gombrich 1972とはBotticelliの神話画に関するとても有名な考察であるGombrichの「Botticelli's Mythologies」が載っている本を指すのですが、この参照は本文ではなく、注釈に対してのものでした。

まず、その注釈が何についてのものかを示すためにGombrichの本文の方を先に示します。この注釈が添えられている文章は≪マルスとヴィーナス≫(Gombrichもこの絵を発見当初の名前で呼んでいる)についての節の冒頭付近にあります。Nesca N. RobbによるFicinoの『愛について』と≪マルスとヴィーナス≫との関連性を指摘し、『愛について』の一節(後述)を引用した直後の文章です。

This is clearly a case when trait which has hitherto defied explanation would acquire coherence and meaning in the light of Ficino's doctrine.
The contrast between the deadly torpor of Mars and the  alert watchfulness of Venus has often been remarked.Neither the description of Mars and Venus in Poliziano's Giostra, nor its apparent model, the passage in Lucretius, accounts for it.

訳すとこうなります。

明らかにこれは、これまで解釈を受け付けなかった特徴がFicinoの教義に照らすことにより一貫性と意味が得られた事例である。マルスの死んだような無気力さとウェヌスの油断のない注意深さとの対比はたびたび指摘されてきた。しかしPolizianoの『ジョストラ』におけるマルスとウェヌスの描写だけでなく、その明白なモデルであるLucretiusの一節でも、これを説明はできない。

この文章の中のLucretiusの一節と≪ヴィーナスとマルス≫との関係を説明するためのものが注釈133というわけです。『Lucretius in the Italian Renaissance』の注釈にはGombrichと書いてあるだけなので、GombrichがLucretiusの一節とこの絵が関係あると主張していると勘違いしてしまいそうですが、Gombrich本人は既存の間違った解釈がどのようなものかを示すためにこの注釈を添えています。このことを確認したうえでGombrichのBotticelli's Mythologiesの注釈133の内容を見てみます。

この注釈は次のように始まります。「the passage in Lucretius, recently adduced by Panofsky, looks tempting enough.」(最近Panofskyによって提示されたLucretiusの一節は、十分に心をそそられる)。注釈されている本文を知っていれば、temptingが皮肉っぽく聞こえてくると思います。続けて『物の本質について』第一巻31行目以降の数行を、古い文体の英訳で引用しています。

Thou(Venus) alone canst delight mortals with quiet peace, since Mars, mighty in battle, rules the savage works of war, and often casts himself upon thy lap wholly vanquished by the ever living wound of love, and thus looking upward with shapely neck thrown back, feed his eager eyes with love, gaping upon thee, goddess, and as he lies back his breath hangs upon thy lips

この引用の中に例の「shapely neck thrown back」という記述があります。念のためPanofskyの本の該当箇所を見てみると、これもまた本文ではなく注釈でした。そしてそこにはこの英文ではなくラテン語原文が引用されていました。したがってGombrichの本の注釈にある英語のこの記述こそが、Valentina Prosperi、さらにそれをAlison Brownが引用しているLucretiusとBotticelliを結びつける「shapely neck thrown back」の出所ということになります。さらに英訳そのものが誰の訳であるかを調べてみると、手元にあるLoebのW.H.D.Rouseによる訳とほとんど同じでした。ただそれだと古風な単語は使われていません。おそらくその古い版からの引用なのでしょう。

Panofskyの本の該当箇所を見てわかったことがあります。これは正確にはBotticelliの《ヴィーナスとマルス》とよく比較されるPiero di Cosimoの作品に対する解説でした。その説明としての、Lucretiusの冒頭付近の引用でした。ただし、その引用の前でBotticelliの《ヴィーナスとマルス》のことを、Botticelli's  rendering of the same subject(同じ主題をBotticelliが描いたもの)と呼んでいるので、これを根拠にPanofskyがBotticelliのこの作品をLucretiusに関連するものだと考えていたと、Gombrichは判断したのでしょう。そういうちょっとした論理の飛躍がないと注釈133の内容は成り立ちません。それにしても参照をたどっていくと、誰も明確にBotticelliとLucretiusの関係を指摘していなかったことに驚きます。参照を経るごとにいつのまにか既成事実化されていった説だったわけです。

このLucretiusの引用の後、Gombrichは「shapely neck thrown back」という言葉は確かにBotticelliの絵の中で具現化されていると指摘しますが、それと同時にBotticelliの絵とLucretiusの詩ではマルスの体の位置が違うという大きな問題があることをはっきりと述べています。

そしてLucretiusの影響を受けたとみられるPoliziaoの『ジョストラ』でも、体の向きはLucretiusの詩と同じ向きであることを、該当箇所の『ジョストラ』第1巻の第122節前半をその英訳とともに引用して示しています。この詩は見るからにLucretiusの影響を受けています。直接なのか、参考にした古典の詩から影響を受けていたのか判断はつきませんが、Lucretiusのヴィーナスを讃えている部分を思い起こす内容になっています。

Trovolla assisa in letto fuor del lembo,
pur mo’ di Marte sciolta dalle braccia,
il qual roverso li giacea nel grembo,
pascendo gli occhi pur della sua faccia:
(He finds her sitting on the edge of the bed,
emerging from the embrace of Mars,
who was lying on his back in her lap,
feasting his eyes on her face.)

そして、『ジョストラ』と≪ヴィーナスとマルス≫が関係あるとする説の紹介として、G.F.Youngの『The Medici』第1巻226ページへの参照があります。これは1930年に書かれた、メディチ家の有名な人物を一人一人紹介している本です。その中の第8章Lorenzo the Magnificentの章の中で、Botticelliの作品のことが詳しく書かれています。Youngは、Botticelliの《ヴィーナスの誕生(Birth of Venus)》、《マルスとヴィーナス(Mars and Venus)》、《春(Return og Spring)》はLorenzo the Magnificentのために描かれ、それがPolizianoの『ジョストラ』と同じ内容だという説をとっています。なおこの記述の中には一言もLucretiusについての指摘はありません。

GombrichはYoungによる『ジョストラ』と≪ヴィーナスとマルス≫の関連性の指摘を次のように、これも皮肉っぽく語っています。Youngの書いたものは引用せず、この文章でこの注釈をしめています。

Through a strange confusion G.F.Young gives a description of the painting which is represented as a summary of the scene in Poliziano --- small wonder that the picture looks like an exact illustration of this imagined text.

訳すとこうです。

奇妙な混乱を通してG.F.YoungはPolizianoが書いた場面の要約として描かれているとその絵画の説明をしている。この絵がこの想像された文章の正確な挿絵のように見えても不思議ではない。

この混乱とは、一見、マルスの姿勢の違いを表しているように思えますが、実は違います。『The Medici』226ページにある《ヴィーナスとマルス》の説明を次に引用します。

Following this we have the second picture. The tournament is over; Giuliano has carried all before him and rests from his fatigues, basking in beauty's smiles. Politian, in his poem, alluding to Giuliano as the victor in the tournament, had told the story of Mars and Venus, and described Venus, reclining in a woodland glade, robed in gold-embroidered draperies, watching Mars with limbs relaxed lying asleep on the grass, while little goat-footed satyrs played with his armour. This scene Botticelli takes for his second picture, and as before follows closely Politian's words.

訳すと、

続いて二つ目の絵画である。槍試合は終わり、Giuliano は彼の前に全てを放り出して、疲れから休息している。そして美女の笑顔を浴びている。Polizianoは、彼の詩の中で、大会の勝者としてのGiuliano をほのめかしながら、マルスとヴィーナスの物語を語っている。そしてヴィーナスを説明している。彼女は森の中の空き地に横たわっている、金刺繍の服を着ている、そして手足を伸ばして芝生の上で寝ているマルスを見つめていると。一方でヤギの足をした小さなサテュロスたちが彼の鎧で遊んでいる。このシーンはBotticelliが二番目の絵として描いていて、前と同じようにPoliziaoの言葉をとてもよくまねている。

どう見ても、YoungはBotticelliの絵の描写の文章なのにそれをPolizianoの詩の内容の文章と間違えています。これを指してGombrichは「Through a strange confusion」という言葉を使っているようです。こんな内容だと「small wonder that the picture looks like an exact illustration of this imagined text.」という言葉が相当な毒気を持っているのが分かります。そりゃ正確な挿絵にしか思えないでしょうね。そりゃそうです。

このことからも、Gombrichのこの注釈133は、≪ヴィーナスとマルス≫のLucretiusもしくはPoliziano出典説を、そうとう馬鹿にしながら書いています。実際論拠となるべきものが論破するまでもない稚拙なものなのですから仕方がありません。

そういう論調の注釈133を論拠に、ProsperiがLucretius説の可能性を指摘するのも褒められたものではありません。Gombrichによる批判に対して多少の反論する文章を載せてから、このLucretius説の可能性を指摘すべきでしょう。先ほども書きましたが、この引用の仕方だと、Gombrichが多少なりともこの説に可能性を見出しているかのように見えてしまいますが、確かめてみると全く逆です。さらに、Prosperiの引用をBrownがより強い確信をもって引用してしまって、この本を読む限りこの説が既成事実化してしまっています。とにかく、この一連のLucretiusもしくはPoliziano出典説はまったく成り立ちません。

では、一方のGombrichが冒頭に書いているFicino出典説はどうかというとこれも残念ながら、成り立ちません。先ほど書いたように、GombrichはLucretiusやPolizianoの影響を否定する前に、Ficinoの『愛について』の一部分がこの絵の表現に似ていることを指摘しています。ここで引用されているのは第5巻第8章の一部です。

Mars is outstanding in strength among the planets, because he makes men stronger, but Venus masters him.... Venus, when in conjunction with Mars, in opposition to him, or in reception, or watching from sextile or trine aspect, as we say, often checks his malignance ... she seems to master and appease Mars, but Mars never masters Venus....

よく見ると分かるように、何カ所か省略されています。この英文の全文が手に入らなかったので、ラテン語原文の該当部分を示します。上記の引用に該当する部分を赤で示します。

Diis aliis, id est, planetis aliis Mars fortitudine prestat, quia fortiores homines efficit. Venus hunc domat. Quando enim Mars, in angulis celi vel secunda nativitatis domo vel octava constitutus, nascenti mala portendit, Venus sepe coniunctione sua vel oppositione vel receptione, aut aspectu sextili aut trino Martis, ut ita dicam, compescit malignitatem. Rursus quando Mars in ortu hominis dominatur, magnitudinem animi iracundiamque largitur. Si proxime Venus accesserit virtutem illam magni animi a Marte datam non impedit, sed vitium iracundie reprimit. Ubi clementiorem facere Martem et domare videtur. Mars autem Venerem numquam domat.

都合がいい部分を抜き出したという感じが否めません。ラテン語の意味がそう解釈できるのではなく、結論だけ言うと、選んだ英訳に誤訳があり、拾っていくとたまたまこう読み取れるというだけです。原語の言葉遊びでBotticelliの神話画の解釈をしている僕が言うのも変ですが、正しい意味ではもちろん、言葉遊びをしてもこの文章からはこの絵を導けません。

ここに、日本語訳である左近司祥子訳の『恋の形而上学』にある該当部分を引用します。

「他の神々以上に」すなわち、他の諸惑星と比べて火星(アレース)は強さという点でまさっている。なぜなら強い人を造るのが火星なのだから。しかし、その「火星をさえ金星(アプロディーテー)は抑えている」。というのは、火星が天宮の第二室とか第八室にある時生まれた人は、この火星のために悪運に取りつかれるはずである。しかし金星はこの悪運を逆転させることができる。たとえば、この時に金星が火星と合の位置にあったり、衝の位置にあったり、セキスタイル(座相六〇度)の位置を取ったり、トライン(座相一二〇度)だったりするとこの悪運は消え去る。また、火星の支配下に生まれた人は、雄大で荒々しい魂を火星から与えられるのだが、その時近くに金星が居ると、火星から与えられた魂の雄大さという美点はそのままで、荒々しさという欠点だけが是正されることになる。このことからも金星が火星を手なずけ、抑えているのが分かる。「しかし火星が金星を抑えることはない。」

上記の英訳の断片よりも的確な訳だと思います。元々占星術に関する記述なので火星や金星と書かれていますが、それをギリシア語名で読み仮名を振っています。これはこの本がギリシャ語で書かれたプラトンの『饗宴』の注釈だからという翻訳方針だそうです。金星、火星を分かりやすいようにヴィーナス、マルスと書き替えたところで、この絵の描写を思い浮かべることは難しいでしょう。翻訳する言語が変わっただけで意味が失われるというのでは、Ficinoの作品を典拠とする説は否定せざるを得ません。

以上のように、Lucretiusの『物の本質について』が出典であるとする説をたどっていきながら、《ヴィーナスとマルス》に関するいくつかの説を見てきました。これがすべてではありませんが、どれ一つまともなものがありません。信頼のありそうなBotticelliの他の神話画に関する論説も、実際原典を読んでみると、たいてい論理的に破綻しています。研究そのものはとても意味深いもので、その主張を書き残すのは大いに結構なことですが、他人の仮説をさも真実であるかのようにばらまいている解説には、うんざりします。

ところで、この「shapely neck thrown back」という表現を、全体としては否定的に扱いながらも、Gombrichがわざわざ抜き出して指摘したのも、この表現が確かに絵の中の描写を表していることを認めているからに他なりません。Prosperiが問題点を知りながらもわざわざ注釈の中から拾い上げたのも、そしてBrownが確信をもって伝えたのも、この表現が見過ごせないほどに魅力的に思えたからに他ならないでしょう。それもそのはずです。この絵はLucretiusの『物の本質について』の「ヴィーナスの讃歌」と呼ばれる冒頭部分そのものなのです。この表現がこの絵にぴったりなのは、Lucretiusの詩を言葉遊びで描きこんだこの絵の中に現れた、数少ない字義通りの描写だったからです。このことをゆっくり丁寧に説明していきます。



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2014年06月07日

「ウェヌスの治国」について 補足

2011/03/05に書いた「「ウェヌスの治国」について」という記事の補足です。ボッティチェリの《春》は「ヴィーナスの治国」や「ヴィーナスの王国」といった名前でも呼ばれています。これはイタリア語での「il regno di Venere」、ドイツ語では「das Reich der Venus」の日本語訳です。この記事はその呼び方の由来に関するGoogle Booksを使った探求でした。なおこのブログでは神々の名前の読みはラテン語読みで統一したかったので、ウェヌスと読んでいます。

このときHermann Ulmannが書いた『Sandro Botticelli』の全文が見られませんでした。ですが、久しぶりに探してみると簡単に見つかりました。以前も「インターネットアーカイブ」は探したのですが、2013年に電子化されたようです。以前書いたものの最後に、「Ulmannの内容が分かったら」と書いていたので、ここに追記します。

次のリンクからそれを読むことができます。
Sandro Botticelli (1893)

Ulmannの本ではボッティチェリの作品リストなどで「春の寓意」もくしくは「ウェヌスの治国」と併記しているところもありますが、84ページと85ページの間にある1ページを使った《春》そのものに対して、そのタイトルとして「das Reich der Venus」(ウェヌスの治国)と書いてあります。

Werburgの《ヴィーナスの誕生》と《春》についての本も、ここにあります。
Sandro Botticellis "Geburt der Venus" und "Frühling" : eine Untersuchung über die Vorstellungen von der Antike in der italienischen Frührenaissance (1893)

3年前はどちらの本が早かったのかがよく分かりませんでした。しかし以前読めなかったHermann Ulmannの『Sandro Botticelli』の中を調べてみると、Werburgの『Sandro Botticellis "Geburt der Venus" und "Frühling"』 への参照がp54の脚注に書いてありました(ただしここではヴァールブルクの本の出版年が1892年)。これでウルマンよりヴァールブルクの方が先だと言うことが分かりました。これで以前の疑問は解決しました。

もう少しこの本を詳しく見てみます。84ページに次の文章があります。

Vasaris Worten nach zu urteilen, scheint ihm der Sinn der Darstellung bereits nicht mehr ganz klar gewesen zu sein. Erst in allerneuester Zeit ist gleichzeitig von verschiedenen Seiten die richtige Deutung gegeben worden. Sandros Bild ist eine Illustration zu den Versen Polizians in der Giostra, wo il regno di Venere 》das Reich der Venus《  geschildert wird:
(そして、ウェヌスの治国の描写のあるジョストラの第64節が引用されます。)

日本語訳はこんな感じです。内容をはっきりと断定しています。

ヴァザーリの言葉によって判断することは、表現の意味をもう完全に明らかにしないと思われています。
やっとつい最近になって、同時に別々の面から正しい解釈がもたらされました。
サンドロの絵はジョストロにおけるポリツィアーノの詩に対する一つのイラストレーションであり、
そこにはウェヌスの治国(il regno di Venere / das Reich der Venus )が描かれています。

このページにはこの部分への脚注があって、そこにA.BayesdorferとA.Venturi、A. Warburgへの参照があります。最後のWarburgは前述の「ウェヌスの治国」を描いたと結論づけた本のことであり、最初のBayesdorferの文章とは、そのヴァールブルクの《春》の冒頭でヴァザーリの記述の問題点を示すために引用されている《春》の描写の簡単な解説のことです。つまり先ほどのドイツ語の最初の文の根拠となるものです。初めて見るのが、Venturiという名前です。調べてみると、これが異なった面からもたらされた正しい解釈の、ヴァールブルクとは別のもう一つのものになります。

Nuova antologia(1892年版)に収められているVenturiが書いた論文のタイトルは「La primavera nelle arti rappresentative」で、芸術で表現されている春についての考察が書かれています。タイトルの中にprimaveraという言葉がありますが、これはボッティチェリの絵の《春》を指すものではなく、単なる季節の春を意味します。この論文のボッティチェリの《春》について考察する部分で、ヴァールブルクと同じようにこの絵がポリツィアーノの「ウェヌスの治国」が描かれていることを示しています。さらに中央の女性をシモネッタとしています。

この文書はgoogle booksの次のリンクで読むことができます。

La primavera nelle arti rappresentative
ポリツィアーノの詩を引用してのボッティチェリの作品解説の途中、全体の46ページに「il regno di Venere」という言葉が出てきます。

このように1892年にポリツィアーノの詩と絡めてこの絵が《ウェヌスの治国》を描いたものだという解釈が成立しています。それと同時に、このポリツィアーノの詩の目的から類推して、ジュリアーノ・デ・メディチとシモネッタをこの絵の中に見いだそうという解釈も行われてきたわけです。



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posted by takayan at 02:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月31日

ボッティチェリの神話画の解釈

プログラミングなどいろいろ書きかけていますが、以前から止まったままのボッティチェリの神話画の典拠の探索を再開します。再開するにあたって、いままでの整理を試みます。

対象としているのは、従来次のように呼ばれてきた作品です。《春(プリマヴェーラ)》、《ヴィーナスの誕生》、《ヴィーナスとマルス》、《パラスとケンタウルス》、そして神話が題材ではありませんが、《アペレスの誹謗》もそれに加えます。なお《》で囲むのは芸術作品、『』で囲むのは文学作品・出版物、「」は言葉の引用や強調としています。

始まりは《春》の登場人物への疑問でした。調べてみると中央の女神がウェヌス(ヴィーナス)である根拠が明確ではありません。そして右から2番目のニンフが3番目の女神へと変身している、つまりクロリスからフローラへの変身という解釈に納得がいきませんでした。

ウェヌスでなければ、中央の女神は誰なのかと考えて、その答えをメルクリウスの母マイアと推定しました。当時読んだばかりの『ホメロス風讃歌』に収められている『ヘルメス讃歌』に出てくるマイアの描写が中央の女神の印象と重なったからです。《ヴィーナスの誕生》が『ホメロス風讃歌』にある『アフロディーテ讃歌』の影響を受けているという話はよく目にすることだったので、実際どれくらい受けているのかを調べるためにこの本を読んだのですが、ついでに《春》に描かれているメルクリウスを知るためにその中にある『ヘルメス讃歌』を読んでおいたのです。そこに描かれているマイアは、巻き毛で、控えめで、美しい靴を履いています。ベールの下の髪は巻き毛のようにも見えます。彼女はウェヌスらしからぬ控えめな印象を与えています。そして有名なアトリビュートである翼の生えた靴を履いているメルクリウスは別として、この絵の中で中央の女神だけが美しいサンダルを履いています。わずかな根拠でしたが、彼女をウェヌスとするよりも、マイアとした方がうまくこの絵が説明できるように思いました。

この頃読んだ本は『ホメロス風讃歌』だけではありません。クロリスからフローラへの変身の根拠となっているオウィディウスの『祭暦』の該当する部分(5月2日)を読んでみました。確かにクロリスからフローラと名前が変わったことは書いていて、そう解釈もできなくもないのですが、フローラの庭園に季節女神ホーラたちと三美神が現れるという記述の方が興味深く感じました。季節女神は神話によって様々な役割がありますが、その中にそれぞれの季節を象徴する女神として登場する神話も存在します。つまり彼女たちの一人の春の女神だけが描かれていると解釈することもできるのではないかと考えました。何故複数ではなく一人だけなのかという謎は残りますが、花柄の彼女を春の女神と考えると、この絵の登場人物が中央上空のクピドを除いて『祭暦』の5月に出てくる神々となり、彼らがどうしてここに集まっているのかが説明できそうでした。ホーラたちがどうして一人だけなのか、どうしてここにクピドがいるのか、解決できない謎は残りましたが、今までの通説よりも筋の通った解釈のように感じました。今思うとこの考えは穴ばかりですが、しかし今でも典拠も人物の特定も間違っていないと思っています。この絵に疑問を持った極めて初期にこのことに気づけたことが、何よりも幸運でした。

『ホメロス風讃歌』、オウィディウスの『祭暦』『変身物語』、ルクレティウスの『物の本質について』。これらの作品がボッティチェリの神話画に影響を与えたのではないかという指摘は、再発見され不思議な内容を理解しようと研究が始まった19世紀から既にあります。実際原文を確かめてみると、絵の描写を思わせる表現が出てきます。しかしどうしても一致しないところが必ず現れます。しかたなく研究者たちはこう考えました。断片的にそれらの作品を取り入れて、後は画家ボッティチェリが自由に創作したものであると。その独創性がボッティチェリの神話画の独特な突飛な描写を生み出したのだと。しかし、神話の原典にある一致する描写の周辺にある一致しない記述に現れる単語の意味を調べていくと、その言葉そのものが特異な描写と解釈できることが分かってきました。複数のはずの季節女神が一人だけだったり、ゼフュロスが青い色をしていたり、メルクリウスがカドュケウスでかき回す白い霞だったり、お腹の大きな女神の描写もです。意味の分からないそのような不思議な描写を表す記述とすることができました。ボッティチェリは断片的にではなく、一言一句何一つ残さずにこの絵の中に描き込もうとしていたと推測できます。この奇妙な描写と描かれていない記述との対応は《春》に限らず、《ヴィーナスの誕生》《パラスとケンタウロス》や《ヴィーナスとマルス》等にも見つけることができます。

この仮説の問題点は、描写の箇所との対応や言葉の意味の解釈が恣意的にできてしまうことです。本当にボッティチェリがそこをそう描いたのかもしれないし、偶然そういう意味にとれるように解釈できてしまったのかもしれません。これは当事者たちの制作方針が文書として残っていない以上、本当のところは誰にも分かりません。ただ言えることはただの偶然では片付けられないほど連続して大量に対応させることができたという事実です。

現時点で、それぞれの絵画の典拠と人物は次のように考えています。
《春》は『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』とオウィデイゥスの『祭暦』の5月2日の部分、そしてフィチーノの『愛について』の第2巻第2章にある神と人との間にある円環の三つの呼び名についての文章です。これらの文章は何十年も前からその影響を指摘されていたもので、特に目新しいものではありません。これまでの人々の研究が決して無駄ではなかったということです。登場人物はというと、左から、Mercurius(頭上にいるのはArgos)、三美神(Pulchritudo、Amor、Voluptas)、Maia(お腹にいるのはZeus)、彼女の頭上にいるのはCupid(ギリシャ語Φιλότηςの意味がイタリア語Amoreなので)、Hola(お腹にいるのはMars)、Flora、Zephyrusです。三美神の並びはウィントの説とも、高階氏の『ルネッサンスの光と闇』に書かれた説とも違います。この絵の創作のきっかけはアルベルティが推薦する三美神で間違いないでしょうが、もはやそれは絵の一部分でしかありません。

次に、《ヴィーナスの誕生》ですが、これは『ホメロス風讃歌』の『アフロディーテ讃歌』とルキアノスの『海神たちの会話』にあるアフロディーテが海上で姿を表す部分です。前者は確実だと思いますが、後者の方は短すぎるので意味の一致が偶然なのか判別はつきにくいです。ただこの引用は海に現れるウェヌスが主題であることを示すために必要だと考えています。人物は左から、Zephyrus、Nike(勝利の女神)、Venus、Holaです。単語の解釈を絵に合わせて変えていくと、ウェヌスは虚ろな目をしているのではなく、手前にいるニケたちを見つめ、彼女の歌う勝利の歌に感動し胸に手を当てていると解釈できます。

《ヴィーナスとマルス》ですが、これはルクレティウスの『物の本質について』の冒頭部分、ウェヌスを賛美する言葉をまるまる絵にしたものだと解釈できます。また『アナクレオンテア』にある怪我をしたクピドの詩も元にして描かれています。『物の本質について』があれば『アナクレオンテア』の詩は必要ないかもしれません。しかし、この詩には蜂、蜂の針、指を怪我するといった言葉があります。男性の頭がさす方向に蜂が描かれ、男性の左手の指がさしている突き棒はギリシャ語の蜂の針と同じ単語で、そして男性の右手の指がさしている方向に指の傷があります。これらは意図的な配置にしか思えません。人物の特定ですが、人の姿をした女性と男性はそれぞれVenusとMarsで問題はありません。問題なのは子供のサテュロスたちです。彼らはウェヌスの子供たちです。兜をしたサテュロスはCupid、中央で槍を持っているのとほら貝を吹いているのが、DeimosとPhobosです。二つの言葉はとても似た意味なのでそれぞれどちらかの特定は難しいです。ほら貝を吹いている方はPanicという語の語源との関連があるので、当時のイタリア語でPanicの意味に近いほうがほら貝を吹いている方だと考えられます。そして、右下の方で鎧の中にいるのが娘のHarmoniaです。フォボスとダイモス、そしてハルモニアはウェヌスとマルスの間の子供です。フォボスとダイモスは観念的な存在ですが、ハルモニアにはカドモス王との結婚という物語があります。クピドは彼の特徴である、目隠し、尖ったもの(ギリシャ語では矢には槍の意味もある)といった従来のクピド像と共通点を持っています。クピドつまりギリシャ神話でのエロスは、アフロディテ(ウェヌス)が誕生する前までは愛を司る神でしたが、アフロディテが現れた後は彼女の従者となりました。そののちエロスをアフロディテの子供として記述する神話も見られるようになり、一般的にはクピドは幼児化され二人は母と子とみなされるようになりました。この子の毛の色がほかのサテュロスよりもウェヌスの髪の色に近いことや、この子にへそが描かれていないことで、マルスと血縁がないことや、特別な出生であることを示していると考えられます。ただこの絵が対抗している古代の作品はまだはっきりしません。

《パラスとケンタウロス》の典拠はオウィデイゥスの『変身物語』の第三巻にあるアクタイオンの物語と、パウサニアスの『ギリシア案内記』の第10巻第37章にあるプラクシテレスの作ったアルテミス像の描写がもとになっていると考えられます。従来、この女神はパラスつまりアテナと解釈されていましたが、そう考えていてはこの不思議な絵について何の説明できません。この女神はディアナ(ギリシャ神話ではアルテミス)です。そしてこのケンタウロスとして描かれているのはアクタイオンの祖父カドモス王その人です。アクタイオン自身の顔も壁のシミに見せかけて描かれています。何故カドモス王がケンタウロスとして描かれているかですが、彼をケンタウロスとして描くと、うまくこの一枚の絵の中にアクタイオンの物語が描きこめてしまうからというしかないでしょう。ボッティチェリは今まで見てきたように古代の名作を新たに作り出してきているのですが、この作品のモデルであるプラクシテレスのアルテミスは傍らにけだものを従えているのでその形式を踏襲するためにも彼を半獣にする必要があったのだと考えられます。この絵をよく見ると女神の横に何かの人物像が描かれています。消し忘れの下書きのようでもありますが、これは泉の精Gargaphie(ガルガフィエ)と解釈できます。この語はアクタイオンの物語では単なる地名ですが、その名前の元となったニンフとみなすとこの線画の像をうまく説明できます。こんな感じで、特に不思議な描写で満ちているこの絵の説明は女神をディアナとすることによってのみ可能となります。

≪アペレスの誹謗≫に関しては人物も同じで、典拠も従来通りルキアノスの『誹謗』の第5節です。ただ登場人物たちの不思議な描写もすべてこの文章からのものだということと、この作品の背景も、例えばシンバルを叩く人など、『誹謗』の他の節との対応が見られます。

以上がこれまでの考察で分かってきたことです。根拠となる詳しい説明は今までの記事にありますが、試行錯誤の記録なので全体を把握するのは簡単にはできないでしょう。それにまだここに書いてなかったこともいくつかあります。



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posted by takayan at 23:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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