2013年10月01日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(3)

有名な美術研究家ライトボーンの本によると、1516年のメディチ家の所蔵品として、この絵とされるものがミネルヴァの名前で記録が残っています。ミネルヴァとはアテナ、つまりタイトルのパラスが表す女神です。しかしそれより前の1499年の財産目録では、同じものがカミラと呼ばれていると同じくライトボーンの本に書かれています。このカミラとは『アエネーイス』に出てくるアイネイアスの軍隊と戦った女戦士とされています。このことはこの絵に描かれている女神がミネルヴァであるとする従来の説を揺るがしかねない事実のはずですが、ライトボーンはこの名前の違いをアテナの持つ三面性を使って説明しようとしています。

しかし、この名前の違いは単純に、見たままの武装をした女性像から連想されるカミラやミネルヴァという名前でこの絵を呼んでいたに過ぎないのではないでしょうか。つまり、それぞれの時点で財産目録を作成していた者が、この絵に描かれている女性が真に誰なのか教えられていないか、知っていてもその答えを隠していたと考えます。この絵がここに述べているように『変身物語』の言葉遊びで描かれていたことが分かれば、それをヒントにその他の神話画の中に隠された背徳的な意味も人々に知られてしまいます。

 

それでは、解釈の続きです。今回は次の5行です。

Mons erat infectus variarum caede ferarum,
iamque dies medius rerum contraxerat umbras
et sol ex aequo meta distabat utraque,
cum iuvenis placido per devia lustra vagantes
participes operum conpellat Hyantius ore:

では、絵の描写に合わせたふざけた意味の解釈を行っていきます。

Mons erat infectus variarum caede ferarum,

monsは男性名詞の単数主格か呼格です。女神の左右の背景に山が描かれているので、このどちらかを表しているはずです。これがこの文の主語で、動詞はeratです。これは動詞sumの三人称単数未完了過去の形です。この二つで「一つの山がありました。」となります。infectusは形容詞、名詞、分詞の可能性がありますが、ここでは形容詞infectusの男性単数主格とし、主語のmonsを修飾しているとします。infectusの意味はいろいろありますが、これだけではどちらの山の形容か分からないので保留にします。

残りはvariarum caede ferarumです。構造としては、女性名詞caedesの単数奪格に、形容詞variusと女性名詞feraを合わせたものが複数属格となり、結びつきます。名詞feraは「野獣」という意味ですが、野獣と呼べるものはこの絵には、ケンタウロスしかいません。これでは複数にはなりません。そこで意味を少し広げて、「野生のもの」と考えます。そうすると、体に草を茂らせた女神もそう呼べるようになります。feraがこの二人を表すとして、形容詞variusの意味を考えると、イタリア語訳のdiversoの古い用法「奇妙な、珍妙な」というのが見つかります。つまり、varius feraは「奇妙な野生のものたち」となります。caedesは本来は「殺戮」と訳されますが、意味を決める前に、ここで絵をよく見直してみます。ケンタウロスと女神はよく見ると、女神の右手とケンタウロスの髪がつながっていて、さらにケンタウロスの馬の体が女神の緑の布とところで重なっていて、完全に閉じた領域を作っています。そのことを踏まえて、caedesの意味を調べてみると、都合よく「切断した部分」という意味があります。この部分をcaedeとみなせます。属格のvariarum ferarumはこの動作の主語として、主語的属格の用法で使われていると考えられます。そして奪格は場所を表していると考えると、確かにその領域には山が描かれています。こうしてvariarum caede ferarumを「奇妙な野生のものたちが切り取った部分に」と解釈すれば、前の部分とつながります。

caede

これでmonsがどの山か特定できました。この山の描写を踏まえて、形容詞infectusの意味を考えると、non lavorato「加工されていない、耕作されていない」という意味が使えそうです。なぜなら、この山の左脇には、木か植物が植わっています。しかし山頂には何もありません。この山の横にあるものを耕作された作物と考えると、山は耕作されてはいないということになります。つまり、これでmons erat infectusは「耕作されていない山がありました。」となります。ここで、他のボッティチェリの作品の解釈では未完了過去は文法的な未完了過去ではなく、不完全な動作を表していたことを思い出すと、ここでもそれを使えそうです。作物がある部分もまだ斜面なので、これも山の一部となります。

したがって、この行をまとめると、「奇妙な野生のものたちが切り取った部分に、不完全に耕作されていない山がある。」となります。

iamque dies medius rerum contraxerat umbras

iamqueは副詞iam「今、既に」に接続辞がついている形です。diesは名詞diesの複数主格/呼格/与格か単数主格/呼格です。意味は「giorno、giornata、clima」などを表します。本来の解釈のように太陽としてもいいですが、ここでは「気候」と訳します。mediusは形容詞medius「centrale(中央の)」と解釈して、mediusを修飾しているとして、合わせて単数の主語「中央の気候」とします。中央の気候とは何かといえば、この絵の中央にある嵐の描写です。画面の中央にある女神が巻いている緑の布をよく見ると、分かりにくいですが、中央付近の空に見えるひび割れのような斜め線の嵐の描写が、この緑の布の所にも見られます。ここも局地的に嵐になっています。つまり、ここに雨が降り濡れた結果の出来事が記述されていると考えられます。

diesmedius

この文の動詞はcontraxeratで、動詞contrahoの三人称単数過去完了です。本来の文章では「縮める」の意味で使われています。この動詞の目的語はumbrasで、これは女性名詞umbraの複数対格です。rerumは女性名詞resの複数属格でumbraを修飾しています。この部分の本来の意味は、これらを合わせて「(中天の太陽が)物の影を縮めていた」となります。しかし、主語を太陽にしなかったので意味も変えなくてはいけません。動詞contrahoの意味はいろいろありますが、雨の降っている緑の布のあたりの描写としてはstringere「締め付ける」、corrugare「しわを寄せる」が良さそうです。umbraの意味もいろいろありますが、その中にparvenza「外観」、fdigura「姿」があります。つまり、この絵だとrerum umbrasは女神が身に着けている服のことになります。身に着けているのは複数なので数は一致しています。雨の降っている緑の部分も皺になっていますが、白い服の部分もそこから生えているツルに締め付けられ皺になっています。緑の布に水が与えられると、そこから生えている植物が成長し、体に巻き付き、そして服にしわを作っているわけです。

まとめると、「既に中央の気候が物の外観に皺を作っていた。」となります。

et sol ex aequo meta distabat utraque,

etは「そして」。solは男性名詞sol「太陽」の単数主格です。exは奪格支配の接続詞で、意味は「~から」。aequoは中性名詞aequumの単数の与格か奪格です。単純にこの単語がexの目的語になっていると考えて、格は奪格でいいでしょう。太陽はどう見てもここには描かれていないので、別の意味を考える必要がありますが、これだけではよくわかりません。sol ex aequeの意味は保留とします。

utraqueは形容詞uterque「英語のeach」の女性単数奪格です。metaは女性名詞の単数の主格/呼格/奪格で、「円錐、目的地」などの意味があり、本来の解釈ではutraqueに修飾されて、東西の日の出日の入りのそれぞれの地点とされています。しかしこの意味では使えません。他の意味を探してみます。uterとqueを分離して、uterには同じ綴りの男性名詞があります。意味は「革袋」です。この絵の中で袋を探していくと、ケンタウロスの後ろ脚の間にある陰嚢に気付きます。この文はその周囲の描写を表している可能性があります。それを踏まえて、あたりをよく見ると小さな三角形が少し下の方に描かれています。metaには糞という意味もありますが、少なくとも位置的に今落としたものではないでしょう。ここでは単に「円錐」とします。したがって先ほど分離したqueも使って、meta utaraqueは「円錐と革袋から」となります。

metautraque

この陰嚢と円錐の間には、金色の点と金色の草があります。金色の草は地面のいたるところに描かれていますが、これは特別な形をしています。光の小さな玉があって、その輝きが周りを照らしているようにも見えます。これがsolということでしょう。solの意味にはsole(太陽)だけでなく、splendore(輝き)があります。aequumは中性名詞で、本来は「parita(同等)」の意味で、東と西から等距離であることを表す言葉になっていますが、ここでは「piano(平地)」と解釈します。こうすると輝きのある場所を表せます。distabatは動詞distoの三人称単数の未完了過去です。意味は本来と同じdistare(離れている)を使います。主語は「平地からの輝き」で、それが円錐と革袋の間に描かれています。確かに円錐からは離れています。しかし革袋には微妙に輝きが触れています。ここで、いつものボッティチェリの神話画に見られる未完了過去による不完全な描写が法則として使えます。つまり、革袋から不完全に離れていることで、未完了過去を表しています。

したがってこの行の意味は「平地からの輝きは円錐と革袋から不完全に離れている。」となります。

cum iuvenis placido per devia lustra vagantes participes operum conpellat Hyantius ore:

ここは二行まとめて解釈します。cumは本来の解釈では逆接の接続詞ですが、ここでは奪格支配の前置詞とみなします。残念ながらiuvenisは奪格ではありません。意味は「若い」で、単数の主格か属格です。この単語はとても離れていますがHyantiusと結びつきます。Hyantiusは男性単数主格で、「ボエオティア人」の古い表現となります。カドモスが開いたテーバイはこのボエオティアにあるので、若きボエオティア人とは、この話の上ではカドモスの孫、アクタイオンのこととなります。前回ツルの新芽のところに人の顔のようなものが描かれていると指摘しましたが、それがこの文の主語「若きボエオティア人」となります。placidoは形容詞placidusの男性か中性の単数の与格か奪格で、これも離れた単語oreと結びついています。oreは中性名詞osの単数の与格か奪格です。最初の前置詞cumはこれらと結びつきます。osには「口」という意味の他に「顔」の意味があるので、合わせて「穏やかな顔で」となります。

次は、per devia lustraです。perは対格支配の前置詞で、英語のthroughやbyに相当します。devia lustraはこの前置詞に支配されていると考えると、deviaは形容詞deviusの複数対格、lustraは中性名詞lustrumの複数対格となります。このdevius lustrumの解釈がとても難しかったのですが、調べていくうちによい意味が見つかりました。まず、lustrumには野獣の住処の意味があります。これはまさにケンタウロスの後ろにあるものです。岩場の中に洞穴があります。そしてこれを修飾するのにふさわしいdeviusの意味は、appartato(人里離れた)でしょう。このときのperはsopra(上に、接して)とすれば、このアクタイオンの顔がある場所を示せます。「人里離れた住処の表面で」となります。しかし、これだと単数になってしまいます。文章は複数です。そこで同じ語句per devia lustraに別の意味がないか考えます。lustraに綴りの近いイタリア語に形容詞lustroがあります。この意味は「光沢のある、輝く、光る」です。金色の指輪の飾りを身にまとった女神は確かに光り輝く存在です。これを名詞化して考えると、lustrumは「光り輝く者」と解釈できます。これに合うdeviusの意味はというと、「fuori della strada(道から外れている)」で、まさに女神の立ち位置です。アクタイオンの顔は女神の右手の下に描かれているので、これもperで示せます。そういうわけで、この語句は「道から外れた光り輝く者のそばで」とも解釈できます。これでdevia lustraの描写の意味を複数にできました。

今度は、vagantes participes operumの解釈です。まず構造だけを考えてみます。vagantesは動詞vagorの現在分詞複数の主格/呼格/対格です。participesは名詞particepsの複数の主格/呼格/対格です。operumは中性名詞opusの複数属格です。主語は上記の分析からおそらくアクタイオンになるので、vagantes participesの二つの単語は結びついて対格の目的語になるでしょう。属格のoperumもこの名詞句を修飾している可能性があります。本来の解釈では、vagantesは「歩き回っている」、participesは分かち合う者つまり「仲間」、そしてoperumは「仕事」ですが、アクタイオンは猟師ですからその仲間の仕事ですから、猟ということになります。まとめると、「歩き回っている猟の仲間たちを」という意味になります。しかし、このような描写はこの絵には見られないので、別の意味を考えます。

はっきり描かれている人物は女神とケンタウロスです。vagantes participes operumも複数形なので、おそらくこの二人を表しているはずなので、彼らの描写を踏まえて意味を考えてみます。分かり易いのはopusです。いろいろな意味のある言葉ですが、その中にstrumento(道具)があります。彼らはいくつかの武器や防具を持っています。少し先にarcus retentosという記述があります。二年前に解釈した部分です。この複数の弓をこの絵の中に見出すために一方を通常の「弛んだ弓」、他方を「背負った弓状に曲がったもの」と解釈して、二人に別々に持たせました。確かに二人は武装を分かち合っています。つまりparticipes operumがこの絵の中に描かれています。残るvagantesですが、vagorの意味にはvagare(さまよう)の他にestendersi(広がる、伸びる)という意味があります。まさに、ケンタウロスは髪や髭が伸び放題であり、女神の方も、体にまとった植物がいろんな方向に伸びています。まとめると、「伸びている、武装を分かち合う者たちを」と解釈できます。

最後に動詞conpellat です。これは「一緒に」という意味の接頭語のconと動詞pellatと分けて考えます。pellatは動詞pelloの接続法三人称単数現在です。この動詞にはいくつかの意味が考えられますが、意味の一つのcommuovereの古語表現には「心を乱す」という意味があります。conと合わせて、「一緒に心を乱す」となります。これはこの絵にぴったりです。本来の物語の中ではカドモスは孫の死に対して心を乱し、アルテミスは裸を見られた怒りで心を乱しています。ここで、この動詞が接続法であることも忘れてはいけません。ケンタウロスの顔は悲しんでいるように見えますが、女神からはあまり怒りを感じられません。この接続法は断定できない可能性を表しているとします。

したがって、この2行をまとめると、「人里離れた住処に接し、道から外れた光り輝く者(アルテミス)のそばにいる、優しい顔をした若きボエオティア人(アナクレオン)は(髪や髭が、体の植物が)伸びている、武装を分かち合っている者たちの心を乱しているのかもしれない。」となります。

 

今回はここまでです。時間がかかります。前回、二人が接している新芽のところにアクタイオンらしき顔をが見つかりました。「孫」の言葉遊びをして「新芽」と解釈したら、そこに孫らしき顔があったわけです。今回は実際その顔についての文章が出てきました。ここまで成り立ってくると偶然やこじつけでは説明できないと思います。今回の円錐形も素晴らしい言葉遊びです。円錐形を探そうとしない限り絶対に見つからない細かな描写です。この絵を作り出した知性は本当に驚異的だと思います。



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posted by takayan at 12:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | パラスとケンタウロス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月19日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(2)

オウィディウスの『変身物語』で、アクタイオンの物語が書かれているのは、3巻の138行から252行です。以下に引用します。

Prima nepos inter tot res tibi, Cadme, secundas
causa fuit luctus, alienaque cornua fronti
addita, vosque, canes satiatae sanguine erili.
at bene si quaeras, Fortunae crimen in illo,
non scelus invenies; quod enim scelus error habebat?
Mons erat infectus variarum caede ferarum,
iamque dies medius rerum contraxerat umbras
et sol ex aequo meta distabat utraque,
cum iuvenis placido per devia lustra vagantes
participes operum conpellat Hyantius ore:
'lina madent, comites, ferrumque cruore ferarum,
fortunaeque dies habuit satis; altera lucem
cum croceis invecta rotis Aurora reducet,
propositum repetemus opus: nunc Phoebus utraque
distat idem meta finditque vaporibus arva.
sistite opus praesens nodosaque tollite lina!'
iussa viri faciunt intermittuntque laborem.
Vallis erat piceis et acuta densa cupressu,
nomine Gargaphie succinctae sacra Dianae,
cuius in extremo est antrum nemorale recessu
arte laboratum nulla: simulaverat artem
ingenio natura suo; nam pumice vivo
et levibus tofis nativum duxerat arcum;
fons sonat a dextra tenui perlucidus unda,
margine gramineo patulos incinctus hiatus.
hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos,
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;
nam doctior illis
Ismenis Crocale sparsos per colla capillos
colligit in nodum, quamvis erat ipsa solutis.
excipiunt laticem Nepheleque Hyaleque Rhanisque
et Psecas et Phiale funduntque capacibus urnis.
dumque ibi perluitur solita Titania lympha,
ecce nepos Cadmi dilata parte laborum
per nemus ignotum non certis passibus errans
pervenit in lucum: sic illum fata ferebant.
qui simul intravit rorantia fontibus antra,
sicut erant, nudae viso sua pectora nymphae
percussere viro subitisque ululatibus omne
inplevere nemus circumfusaeque Dianam
corporibus texere suis; tamen altior illis
ipsa dea est colloque tenus supereminet omnis.
qui color infectis adversi solis ab ictu
nubibus esse solet aut purpureae Aurorae,
is fuit in vultu visae sine veste Dianae.
quae, quamquam comitum turba est stipata suarum,
in latus obliquum tamen adstitit oraque retro
flexit et, ut vellet promptas habuisse sagittas,
quas habuit sic hausit aquas vultumque virilem
perfudit spargensque comas ultricibus undis
addidit haec cladis praenuntia verba futurae:
'nunc tibi me posito visam velamine narres,
sit poteris narrare, licet!' nec plura minata
dat sparso capiti vivacis cornua cervi,
dat spatium collo summasque cacuminat aures
cum pedibusque manus, cum longis bracchia mutat
cruribus et velat maculoso vellere corpus;
additus et pavor est: fugit Autonoeius heros
et se tam celerem cursu miratur in ipso.
ut vero vultus et cornua vidit in unda,
'me miserum!' dicturus erat: vox nulla secuta est!
ingemuit: vox illa fuit, lacrimaeque per ora
non sua fluxerunt; mens tantum pristina mansit.
quid faciat? repetatne domum et regalia tecta
an lateat silvis? pudor hoc, timor inpedit illud.
Dum dubitat, videre canes, primique Melampus
Ichnobatesque sagax latratu signa dedere,
Cnosius Ichnobates, Spartana gente Melampus.
inde ruunt alii rapida velocius aura,
Pamphagos et Dorceus et Oribasos, Arcades omnes,
Nebrophonosque valens et trux cum Laelape Theron
et pedibus Pterelas et naribus utilis Agre
Hylaeusque ferox nuper percussus ab apro
deque lupo concepta Nape pecudesque secuta
Poemenis et natis comitata Harpyia duobus
et substricta gerens Sicyonius ilia Ladon
et Dromas et Canache Sticteque et Tigris et Alce
et niveis Leucon et villis Asbolos atris
praevalidusque Lacon et cursu fortis Aello
et Thoos et Cyprio velox cum fratre Lycisce
et nigram medio frontem distinctus ab albo
Harpalos et Melaneus hirsutaque corpore Lachne
et patre Dictaeo, sed matre Laconide nati
Labros et Argiodus et acutae vocis Hylactor
quosque referre mora est: ea turba cupidine praedae
per rupes scopulosque adituque carenti+a saxa,
quaque est difficilis quaque est via nulla, sequuntur.
ille fugit per quae fuerat loca saepe secutus,
heu! famulos fugit ipse suos. clamare libebat:
'Actaeon ego sum: dominum cognoscite vestrum!'
verba animo desunt; resonat latratibus aether.
prima Melanchaetes in tergo vulnera fecit,
proxima Theridamas, Oresitrophos haesit in armo:
tardius exierant, sed per conpendia montis
anticipata via est; dominum retinentibus illis,
cetera turba coit confertque in corpore dentes.
iam loca vulneribus desunt; gemit ille sonumque,
etsi non hominis, quem non tamen edere possit
cervus, habet maestisque replet iuga nota querellis
et genibus pronis supplex similisque roganti
circumfert tacitos tamquam sua bracchia vultus.
at comites rapidum solitis hortatibus agmen
ignari instigant oculisque Actaeona quaerunt
et velut absentem certatim Actaeona clamant
(ad nomen caput ille refert) et abesse queruntur
nec capere oblatae segnem spectacula praedae.
vellet abesse quidem, sed adest; velletque videre,
non etiam sentire canum fera facta suorum.
undique circumstant, mersisque in corpore rostris
dilacerant falsi dominum sub imagine cervi,
nec nisi finita per plurima vulnera vita
ira pharetratae fertur satiata Dianae.

115行になります。以前言葉遊びをした部分(赤で着色)は6行ですから、それと比べてもこれは相当な量になります。これが全部この絵に描きこまれているとすれば、かなりの情報量の絵となるのですが、見た感じ、全然そうは思えません。さあ、最後まで飽きずに続けられるでしょうか。

それでは始めます。カドモスがテーバイの都を作り、ハルモニアを娶った話に続いて、彼の孫であるアクタイオンの悲劇の物語が描かれます。

Prima nepos inter tot res tibi, Cadme, secundas causa fuit luctus,

最初の行にCadmeという言葉がありますが、これはカドモスを表すCadmusの単数呼格です。カドモスは晩年蛇に変えられてしまいますが、馬やケンタウロスに変えられてしまう話は聞きません。でもこの絵のケンタウロスをカドモスとしてしまいます。そうすると何故か解釈がうまくいきます。

prima は形容詞primusの単数女性奪格として、少し離れたところにあるcausaに結びつけます。このときcausaは女性名詞causa「原因」の単数奪格です。luctusは男性名詞luctus「悲嘆」の単数属格として、このcausaを修飾していると考えます。つまり、prima causa luctusは「悲嘆の最初の原因から」となります。カドモスの孫アクタイオンは、女神アルテミス(ディアナ)の裸を見てしまい、彼女によって鹿に変えられ自分の猟犬に食われて死んでしまうわけですから、この絵の女性をアルテミスとすれば「最初の原因」とはこの女神自身を示していると考えられます。

primaの次のneposは男性もしくは女性名詞のnepos「孫」ですが、ここにはカドモスの孫のアクタイオンは描かれていないようです。他の意味を探す必要があります。とりあえず保留にして次へ。interは対格支配の前置詞で、意味は「〜の中」です。この前置詞に支配されている語句は、tot resそしてsecundasと考えます。totは不変形の数詞で「とてもたくさんの」という意味です。resは女性名詞res「もの、出来事」の複数対格です。そしてsecundasはいろいろな意味に解釈できる言葉ですが、ここでは形容詞secundus「次の、続いている」の女性複数対格とみなして、resを修飾していると考えます。したがって、inter tot res secundasは「たくさんの続いているものの中」と解釈できます。この絵の中で続いているものと言ったら、女神の体の周りを巡っている葉のたくさん付いたツルということになるでしょう。

さてneposです。本来アクタイオンを示す「孫」と訳される言葉ですが、ここでは違う意味になります。調べてみると、この語は植物について使われるときgermoglio「芽、新芽」という意味があります。この場合ツルや枝の先にある新しい葉のことになるでしょう。これがこの文の主語となります。残りの単語はtibiとfuitです。tibiは代名詞tu「あなた」の単数与格です。Cadmeという呼びかけが含まれている文なので、おそらくあなたとはカドモス、つまりこの絵のケンタウロスを指しているでしょう。fuitは動詞sum「ある」の三人称単数完了過去です。これがこの文の動詞になります。ここまでをまとめると、「カドモスよ!たくさんの続いているものの中の新芽が、悲嘆の最初の原因(アルテミス)からあなたにあった。」となります。

これが描かれているのは、どこでしょう。女神の周りの植物で一番新芽らしく見えるのは腰のあたりから柔らかく垂れ下がりながら伸びている部分でしょう。しかしそれではなくケンタウロスと女神の間、女神の手首の下にある葉がいいでしょう。もう既に成長してしまっていますが、ツルの先端の葉のことを新芽と呼んでもいいでしょう。もう既に新芽ではなくなっていることで、完了時制を表していると解釈します。この葉はちょうどケンタウロスの髪に触れているので、tibiの言葉を満たしています。彼のところにある葉は確かにこれだけです。ケンタウロスも孫が変換されたその葉の方を向き、悲嘆にくれながら見詰めているようです。さらにちょっとびっくりするかもしれませんが、この葉の下には人の顔のように見えるものがちゃんと描かれています。

germoglio

alienaque cornua fronti addita, vosque,

alienaque cornua fronti additaは本来、額に生えたアナクレオンの鹿の角を指しています。alienaqueの末尾にあるqueは接続詞です。alienaは形容詞alienum「別の、奇妙な」の複数中性の主格/呼格/対格です。cornuaは中性名詞cornu「角」の主格/呼格/対格の複数です。frontiは女性名詞frons「額」の単数与格です。additaは動詞addo「加える」の完了分詞で、複数中性の主格/呼格/対格か単数女性の主格/呼格/奪格です。この絵では確かに女性の額のところに角のような尖った宝石が描かれていますが、そこには一つしかありません。語句通りに複数にするには、女性の乳首のところにある似たような宝石も含める必要があるでしょう。そこも正面ではあるので、fronsの意味に合うことは合います。しかしfronsの意味を調べると、もっとこの絵にふさわしい意味が出てきます。fronsには同じ綴りの別の言葉があって、その意味はfogliame、foglie、つまり「葉」です。特にfogliameは葉を使った装飾の意味もあります。よってcornu fronti additaは「葉の飾りにくっついていた角状のもの」という意味になります。

alienacornuafrontiaddita

この解釈が成り立つと、女神の周りにいろいろなものが見えてきます。先に示した女神の額にあるもの、両方の乳房の上にあるものだけでなく、胸やお腹の中央にあるツルを通している指輪も葉の装飾の台座の上に尖った宝石が載っています。腕にいくつかあるツルが交差している部分にある指輪もそうです。服の上に張り付いている複数の指輪を組み合わせたものも、小さいですがよく見ると葉のような台座と尖った宝石が載っているとようです。そして彼女の持っている槍の先端にある尖ったものにもしっかりと葉の飾りの台座が付いています。alienaque cornua fronti additaはこれらの飾り全てを指していると考えられます。結局、複数呼格で「葉の飾りにくっついた奇妙な尖ったものたちよ!」となります。vosqueはvosに接続詞queが付いたものです。複数形なので、絵に描かれている女神とケンタウロスの二人とします。主格/呼格/対格の可能性がありますが、この場合は呼格で、「あなたがたよ!」となります。

canes satiatae sanguine erili.

sanguineは「血」を意味するsanguisの単数男性奪格、eriliは形容詞erilis「(女)主人の」の単数与格か奪格です。これは単純に前にあるsanguineを修飾していると考えます。しかし、血がこの絵に見当たらないので、sanguisを別な意味にする必要があります。sanguisには血に由来する様々な意味がありますが、その中にaveri「財産」があります。つまりsanguine eriliを女主人の財産ということにします。服についてる指輪などがまさに彼女の財産となるでしょう。sanguineは単数ですが、それで財産全体を示しているとします。satiataeは動詞satio「満腹にさせる」の完了分詞です。しかしここで、わざと同じ綴りの名詞satio「種をまくこと、植物」と誤訳します。数と格は分詞のものをそのまま使って単数属格とします。ここに描かれている女性は、体に植物をまとっているので、この様子からsatiataeはeriliと結び付けると、合わせて「植物の女主人」となります。これはディアナ(アルテミス)の属性ともこの絵の描写とも合致します。satiatae sanguine eriliをまとめると、「植物の女主人の財産」となり、先ほどでてきたalienaque cornua fronti additaと同じものを表していると解釈できます。

canesは本来は複数の犬のことで、アクタイオンの連れていた猟犬を意味します。しかし犬はここにはいないので別の意味を考えます。この綴りを動詞とみなすと二人称単数現在で、biancheggiare「白くなる」という意味があります。さらにこの単語はbiondeggiare「黄ばむ、黄金色になる、金髪になる」という意味で使われることがあります。例えば同じ『変身物語』第1巻110行で、実った穀物の穂によって色づく平原の描写に使われています。二人称単数のcanesの主語は、ケンタウロスとします。前の文に出てきたtibiと同じです。金色になるという言葉を念頭に置いて、この絵を改めて見てみると、カドモスの引っ込めた左前足から胴のあたりが光に照らされています。これは上空の右後ろにあるはずの太陽とは違う光によるものに見えます。上半身の肌の色もこの光によるものだと考えていいでしょう。光源となるものは何かというと、satiatae sanguine erili「植物の女主人の財産」です。これらの金色に輝く宝石によって照らされていると考えると、奪格のsanguineは原因を表していると考えればうまく解釈できます。この部分をまとめると、「あなた(カドモス)は植物の女主人の財産によって輝いている。」となります。

at bene si quaeras, Fortunae crimen in illo, non scelus invenies;

atは逆説の接続詞、beneは副詞「よく、とても」、siは英語のifに相当する接続詞、quaerasは動詞quaero「探す」の接続法二人称単数。ここまでで「しかしもしあなたが十分に探すならば」となります。この場合の「あなた」は誰のことなのか、これだけでは分からないので、ここでは保留します。このあとはちょっと複雑な文になっていて、一つの動詞inveniesが、二つの語句fortunae crimen in illoとnon scelus inveniesを目的語としています。まず動詞inveniesの意味ですが、invenio「合う、見つける」の二人称単数未来です。主語はここでも2人称ですが、これも保留します。この動詞の意味は、具象的なのでそのままでいけそうです。

では最初の目的語から。fortunaeは本来の訳では女性名詞fortuna「運」の単数属格です。しかし「運」という抽象概念は絵の中には描きにくいので、この単語に他の意味はないか探すと、文学的表現で「嵐、暴風雨」があります。指示通りこの絵をよく見てみると、女神とケンタウロスの間に、絵の表面のヒビのような斜線が何本も引かれているのに気付きます。これを使って解釈できるかもしれません。次に進みます。crimenは中性名詞crimen「告発」の単数の主格/呼格/対格です。これも本来の意味では使えないので、他の意味を調べると、イタリア語でcolpa、「罪、過失」という意味が見つかります。属格のfortunaeがこれに結びついて、「嵐の過失」となります。他の風景からしてもこの絵に嵐を描くのはやはり場違いに思われるので、これは間違った描写となりますので、この意味でいいでしょう。in illoは代名詞illus「かれら」の奪格なので、「彼らの中に」となります。嵐が描写されているのは、確かに女神とケンタウロスの姿が作っている閉じた領域の中なので、問題ありません。ここまでくると2人称が誰なのか分かります。これは絵を見ている私たちのことです。したがって、最初の目的語が作る文は、「(絵を見ている)あなたは彼らの中に嵐の過失を見つけるだろう。」となります。

fortuna

そして二番目の目的語です。nonは否定の副詞です。scelusは中性名詞scelus「罪、災難、悪党」の単数主格/呼格/対格です。ここで絵にできそうなのは「悪党」です。ケンタウロスは、一見野蛮な容姿をしていて『変身物語』の典拠を知らなければそのまま彼を悪党と思ってしまうでしょう。しかしこの典拠によれば、彼は英雄カドモスですから悪党などではありません。したがって、後半は「あなたは悪党を見つけられないだろう。」となります。全体は、「しかしもし(絵を見ている)あなたが十分に探すならば、あなたは彼らの中に嵐の過失を見つけるだろう、そしてあなたは悪党を見つけないだろう。」です。

quod enim scelus error habebat?

これは直前の節を説明している文です。quodは疑問代名詞quiの中性単数の主格か対格です。enimは接続詞で「なぜなら、確かに」です。scelusは前の説にも出てきた言葉で、そのまま「悪党」で、ケンタウロスを表しているとします。この文の動詞はhabebatです。動詞habeo「持つ」の三人称単数の未完了過去です。errorは中性名詞errorの単数主格か呼格です。主語はおそらくこれになります。意味は「往来をさまよう者、道の外に出た者、誤り、凶器、罪」などの意味があります。scelusがケンタウロスを表すならば、おそらくerrorは女神を表しているはずです。女神はケンタウロスの髪を掴んでいるので、動詞habebatの主語としても相応しいです。

あとはerrorが女神を表すように意味を考えるだけです。いろいろ悩んでみると、面白いアイデアが浮かびました。ケンタウロスが立っているところは、女神よりも一段下に描かれています。この一段下の場所は、もしかすると道なのかもしれません。そんな感じで後ろの方に続いています。道は人々が通ることで削られ、踏み固められ低くなってしまうでしょう。そう考え、これを道だとすると、女神は道の外に立っているので、道を外れた者つまりerrorと解釈できるようになります。未完了過去は、いままでのボッティチェリの絵の解釈の経験により、不完全な描写で描いていると考えられます。したがって、この絵では、ケンタウロスの体ではなく、髪の毛を柔らかく掴んでいる様子でそれを描写していると考えます。この文をまとめると、「なぜなら、道から外れた者(女神)がどんな悪党を掴んでいたというのだろうか?」となります。

今回は以上です。このペースだと残り20回ほどになってしまいます。



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2013年09月15日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(1) これまでのこと

いろいろ書きかけばかりですが、今回からしばらくルネサンス期フィレンツェのボッティチェリ(Botticelli)が描いた《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)と呼ばれている絵と、二千年前の詩人オウィディウス(Ovidius)の『変身物語』(Metamorphoses)との関係についてまとめていこうと思います。

ボッティチェリの神話画は不思議な描写ばかりで、これらはどうやら古典ギリシャ語やラテン語の言葉遊びで描いているためのようだと、このブログで以前から指摘しています。今回は《パラスとケンタウロス》の解釈を完成させたいと思います。

この絵は2年ほど前に一度考察しました。まず、この女性がパラスつまりアテナには思えなかったので、ケンタウロスと結びつきのある女神を探し、アルテミス(Artemis/Diana)ではないかと考えました。ケンタウロスが野蛮なケンタウロス族ではなく彼女の師匠であるケイロンだとしました。さらに彼女にはヨモギの葉がいくつか飾られています。ヨモギのラテン名はアルテミスに由来するアルテミシアです。これも彼女がアルテミスであることを示す記号ではないかと考えました。

そして最初に見つけた典拠となる文章が、ウェルギリウスの牧歌詩の一節でした。この詩の解釈を工夫すると、アルテミスとケイロンのことを描いているように思えました。ケンタウロスが苦悶の表情で足を曲げている様子や彼の乱れた髪、女神の額の飾りやツタで飾られた描写が、この絵の元になった文章であるように思えました。ここで女神がアルテミスであると確信をもったことで、今となってみればその確信は偽物であったのですが、とても重要な次の文章を見つけるきっかけとなりました。

二番目の典拠は、オウィディウスの『変身物語』にあるアクタイオン(Actaeon)の話です。その中にあるディアナ(アルテミス)の姿の描写の部分です。

Hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
Quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos;
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;

ここには珍しく槍をもったアルテミスが登場します。アルテミスは水浴びをするために身に着けているものを、侍女の手を借りて外していくのですが、その描写を言葉遊びで変換していくと、この絵の女神とケンタウロスの描写に近づけていくことができました。水の滴が女神の体を伝う描写のラテン語は流れるようなローズマリーと訳すことができ、この絵の不思議なツタの絡まった女神の描写に変換できます。他にも枝が生えているローブ、ゆるんだ弓と背負われた弓状の物なども『変身物語』から導くことができました。言葉遊びで変換されたこれらの言葉は、まさにこの絵の描写そのものになりました。

さらにもう一つ文章を見つけました。それは2世紀に書かれたパウサニアス(Pausanias)によるギリシャの観光案内『ギリシア案内記』(Ἑλλάδος περιήγησις)に記述されたプラクシテレスの作ったアルテミス像の紹介部分です。

τῆς πόλεως δὲ ἐν δεξιᾷ δύο μάλιστα προελθόντι ἀπ᾽ αὐτῆς σταδίους, πέτρα τέ ἐστιν ὑψηλὴ−μοῖρα ὄρους ἡ πέτρα−καὶ ἱερὸν ἐπ᾽ αὐτῆς πεποιημένον ἐστὶν Ἀρτέμιδος: ἡ Ἄρτεμις ἔργων τῶν Πραξιτέλους,
δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν, παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ: μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

彼女が全身を宝石で飾られていることなど、この部分を言葉遊びで変換したものもこの絵に表れてきます。これにより、一連の作品と同じように、古典の文書の中にしか残っていない古代の偉大な作品を当時のフィレンツェに甦らせることを、この絵を描いた目的の一つとしていたと考えることができます。

2年前はここまでが限界でした。これだけの記述があれば、十分だと思っていました。他は分からないので、残りは画家本人が考えた描写であるとしました。しかし、その後、《ヴィーナスの誕生》や《春(プリマヴェーラ)》のように詩全体が細かく絵の中に描かれていると解釈できることが分かってくると、この絵についてもその可能性があるかもしれないと思えてきました。この部分だけを選択し描写したと考えるよりも、アクタイオンの物語全体を絵にしたと考えた方が合理的でしょう。

まだ現時点では完全には解釈が終わっていませんが、今終わっている部分だけでも面白い結果が出てきました。ケンタウロスの表情は昔からラオコーン像に似ていることが指摘されていますが、その根拠と言える部分も見つかりました。またこの絵全体は薄く茶色に汚れて見えます。しかし、これは忠実に言葉遊びによる表現を描こうとしたためだと解釈できます。以前提示したケンタウロスがケイロンで後ろに見える船がアルゴ船だとする説は間違いだったと認めなくてはいけないでしょう。

同様に《ヴィーナスとマルス》(Venus and Mars)も以前ここで示した部分だけでなく、『物の本質について』(de rerum natura)の冒頭にあるヴィーナスを讃える文章全体を基に描かれているようです。これについてもある程度解釈はできていますが、《パラスとケンタウロス》の解釈が終わった後にここに書くことにします。



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2013年08月30日

地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」について(1)

先日見た番組の感想。

番組名:
地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」
ナレーター:渡辺徹
2012 BBC制作
チャンネル:Eテレ
放送時間:
8月17日土曜日午後7時00分〜午後7時45分
8月26日月曜日午前0時00分〜午前0時45分(再)
番組サイト:地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」 – NHK

この番組は楽しみにしていた。このブログでアゲハチョウの変態について書いたりするくらい、興味がある分野である。さらに番組の中では、オウィディウスの『変身物語』にも触れている。これもこのブログで扱っている。そういうこともあって、なかなか楽しく見ることができた。しかし話が進むにつれて、何か論点が違うんじゃないかという思いを沸々と沸き上がってきた。これって生物の「変態」を詳しく説明する番組ではなかったのか。最後の考察部分では、まるっきり人間について語っているじゃないか。この違和感はどうして起きるのか?

まず、「変態」という言葉である。この番組のタイトルに出てくる単語であり、番組の中でしつこいくらい連呼され続ける言葉である。日本語で変態といえば、生物が形を変える現象を表す用語としての変態か、異常な性行動を示す変態のどちらかである。調べればさらに他の意味もあるが、性的な意味でのインパクトが強いせいで、生物の用語という文脈が無ければ、通常は性的に異常な人やその行動を表してしまう。この番組でも、45分の間、何度も出てくる「変態」が、ふとその意味で聞こえて失笑してしまう。この番組ではもちろん、生物が形を変える現象の意味で間違いない。そしてさらに番組を通してこの概念を拡大していく。しかし、明確な現象を表している用語の定義を変えることに強引さを否めない。どうしても番組内のこの言葉に違和感を覚えずにはいられない。

結局、この違和感は、このドキュメンタリーのテーマが、日本語の「変態」ではなく、原語である英語の「metamorphosis」であることからくるものだ。つまり、我々日本人からはこの番組は日本語の「変態」について考察しているふうに見えてしまうが、実はこれは英語の「metamorphosis」について考察している番組なのである。BBCが作った番組なのだから、確かにそうである。日本語の「変態」を対象にしていると思ってしまうと、その用語で呼ばれている生物の形を変える現象だけが重要な番組のテーマだと感じてしまう。そこに文学における「変身」の解説が出てきても、とても場違いな挿入にしか感じられない。しかし文学における「変身」も英語では「metamorphosis」であり、オウィディウスの『変身物語』も『Metamorphoses』(metamorphosisの複数形)という名前であり、カフカの『変身』も英語では『The Metamorphosis』というタイトルであることを知れば、この文学における「変身」の解説も、このドキュメンタリー内で一貫した「metamorphosis」という概念の解説であることがはっきりする。そして番組を通してみると、この文学における「metamorphosis」は、生物における「metamorphosis」と同等もしくはそれ以上に重要なものとして扱われていることが分かる。番組の中でも、ちゃんと「変態という概念には、二つの意味があると思います。生物学的な意味と小説などにみられる隠喩的な意味です。」と変態の定義が述べられている。しかし、どうしても日本語の「変態」に隠喩的な方の意味を乗せることができず、番組内でも変身や変化という言葉で言い換えてしまう。せっかく二つの意味があるとしたのに、「変態」という言葉が出てくるたびに、生物の用語としての意味に引き戻されてしまう。

日本語版のタイトルにも問題がある。「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」。この言葉に誘導されて番組を見れば、生物の様々な変態を扱った番組だと先入観を持ってしまう。確かに、これは今まで見たこともない美しい映像で詳しく変態の様子を見せてくれる番組である。しかし全体を見終われば主旨はそれを超えた深いものであることが分かる。生物の変態に関する取材は、文学における「変身」とともに、最後の考察を導くための準備に過ぎない。この番組が最終的に言いたいのは、metamorphosisという概念を通して見た「人類とはいかなる存在なのか」である。

そもそも、このドキュメンタリーの主張そのものを日本語版が伝えようとしていない節がある。NHKのサイトにあるこの番組案内は次の言葉である。

地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」

チョウやカエルなど、同じ生きものが成長の過程で全く違う姿に変わる“変態”。過酷な環境で生き残るための重要な戦略だ。変態がどのように起きるのか、最新科学でひも解く

毛虫からチョウへの変態。サナギの中をX線で観察すると、羽や足だけでなく、呼吸器などあらゆる組織がダイナミックに変化することがわかる。この大変身の背景には子孫を残すための重大な戦略が…。オタマジャクシは、より生き残る確率が高くなるよう、自ら変態するタイミングを決めるという。バッタの大群が畑を襲い、農作物を食べつくすのも変態のなせる技。さらに人間も“変態”する…!?(2013年イギリス)

完全に生物の用語としての「変態」についてだけ語られた番組案内である。タイトルだけでもそうだが、これでは実際見た内容の構成に違和感を覚えてもしょうがない。

ただ、これはBSでやっているドキュメンタリーではなく、子どもたちでも興味を持ってみることができるドキュメンタリー枠の番組である。最後の考察は哲学者の解説まで引用されるちょっと難易度の高いものである。だから、すっぱり生物の「変態」だけに限定し、分かる者だけ分かればいいと割り切る必要があったかもしれない。最新科学が映し出す様々な変態の映像は見る価値がある。実際、感動する。それだけでも心に刻まれれば、向学心の大きな糧になるだろう。内容に違和感を覚えてそれに疑問を持った者だけ、僕のように自分で調べて、その先を見ればいいのかもしれない。

BBCのサイトにあるこの番組の案内文を引用する。
BBC Four - Metamorphosis: The Science of Change

Metamorphosis seems like the ultimate evolutionary magic trick - the amazing transformation of one creature into a totally different being: one life, two bodies.

From Ovid to Kafka to X-Men, tales of metamorphosis richly permeate human culture. The myth of transformation is so common that it seems almost pre-programmed into our imagination. But is the scientific fact of metamorphosis just as strange as fiction or... even stranger?

Filmmaker David Malone explores the science behind metamorphosis. How does it happen and why? And might it even, in some way, happen to us?

しっかりと、文学におけるmetamorphosisについての説明があり、生物のmetamorphosisだけでなく、広い意味でmetamorphosisという概念を考察する内容であることがうかがえる。



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2013年06月17日

『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』を読んで

最近、この本を読んでいた。スティーヴン・グリーンブラット著『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』。2012年のピューリッツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞した作品。紀元前に書かれ、世界から失われていたはずの『物の本質について』の発見とそれがもたらした世界の変化を描いた物語。著者のスティーヴン・グリーンブラットはシェイクスピアおよびルネサンスの研究家。

『物の本質について』は、古代ギリシャのエピクロス派の世界観をラテンの語の詩の形で表した作品である。エピクロス学派は唯物論、原子論、快楽主義、死後の世界の否定などがその特徴である。キリスト教と完全に相反するためキリスト教化された西洋において、その思想は中世には完全に失われてしまっていた。ただ他の古典の中などでルクレティウスの名前が引用されており、知識人たちはそれが過去に存在していた重要な作品であることを知っていた。

その作品が、歴代のローマ教皇の秘書であり、人文学者であったポッジョ・ブラッチョリーによって1417年に発見された。この発見にまつわるで出来事を、この本は多面的に描き出している。ペトラルカのように古い写本を求めて修道院の図書館を訪ねる人々の話や、そのままでは朽ち果ててしまう書物を生きながらえさせるため各地の修道院が黙々と続けていた写本のシステム、ポッジョが属していたローマ教皇庁の内幕など、様々な情報を示しながら、どうして彼がこの本と出会えたのかを明らかにしていく。

それにしても、この日本語のタイトルは、やはり大げさな感じがする。解説にも解説なのにちょっと皮肉っぽく書かれている。一冊の本で世界は変わるわけはないだろう。しかし、『物の本質について』を中心に置いて、中世から近代への動きを眺めてみると、確かに今までとは違った見方ができるようになる。写本され、出版され、広がっていったこの本が手本になっていたとすると、画期的な思想で世界を変えてきた科学者や思想家、芸術家や文学者の言動が、納得できるようになっている。そういう情報の並べ方をしたのだから当然そう感じられるのだろうが、とても面白い切り口である。当時この詩にしかエピクロス学派の詳しい思想はなかったのだから、この詩の内容が人々に知られるようになったかどうか、これほど分かりやすい境界線は見つからない。

原題は『the swerve』である。本文中ではこの語は「逸脱」と訳されている。これをそのまま日本語のタイトルとして採用してしまっていたら、何の本だか分からなかっただろう。和訳本のタイトルの方が、大げさだがこの本の内容を確かに分かりやすく表していると思う。しかしこの語 swerve は、この本を読み解くためのとても重要なキーワードである。原書ではそれをタイトルにすることで、そのことを力強く強調している。そしてこの言葉が表すものを理解していくことがこの本を読む醍醐味だといえる。残念なことに和訳本はその問いそのものを放棄し、その楽しみを読者から奪ってしまっている。著者が長い序文の中に「したがってこれは、世界がいかにして新たな方向へ逸脱したかの物語である。」とさらっと書いていても、「逸脱」という言葉が本文中の重要な場所で何度も繰り返し出てくるのに、原題のタイトルの和訳がこの語であることに気づかなければ、この本が伝えているいくつかの情報を見落としてしまう。

swerve はルクレティウスの使った用語であるラテン語の clinamen の英訳である。clinamen (動詞として現れるときは declino) は『物の本質について』の原子論の中に出てくる重要な概念である。原子がただ単純に規則的に運動しているだけならば、衝突することもなく、結びつくこともなく、この世界では何事も起きはしない。しかしこの世界は事象と物質に満ちている。その理由こそが、clinamen である。これは原子にまれに起こる無秩序な「斜傾運動」(岩波文庫刊樋口勝彦訳)のことであり、これにより、原子はぶつかり、結合し、世界中のあらゆる事象と物質を形作るとされる。原子論といえばデモクリトスのものがよく知られているが、この swerve は、ルクレティウスが伝えるエピクロス派原子論の重要な特徴である。さらに面白いことに、原子の swerve は人の自由意思の源であるとされる。

swerve(逸脱) についての説明はグリーンブラットのこの本の中に詳しく書かれている。しかし swerve がこの本のキーワードであることが、この和訳ではわかりにくいため、これらの言葉が『物の本質について』の主要思想の単なる解説にしかなっていない。それが分かればそれで十分かもしれないが、swerveが原書のタイトルであり、その訳がこの本の中では「逸脱」であると分かっていれば、すぐにこう気付くだろう。swerve(逸脱) が、中世のキリスト教社会に突然現れた美しく逸脱した『物の本質について』という本そのものも表し、そしてさらにルネサンス期以降、この本に影響を受けたキリスト教的価値観にとらわれない人々の自由意志の源として見事になぞらえているということを。

最後の章の一つ前である第10章の日本語の章名が「逸脱」である。英語だと複数形の Swerves である。後もう少しで読了というところで、この章名に辿り着くと感慨一入となる。ポッジョが見つけ出した一冊の「逸脱」が、人々を刺激し増殖し、たくさんの「逸脱」を生み出し、私たちの今いる世界を形作り始める。具体的には、ポッジョの仇敵ロレンツォ・ヴァッラ、『ユートピア』で有名なトマス・モア、そしてジョルダーノ・ブルーノが紹介される。ルクレティウスが古代から伝えてくれた画期的な世界観をもとに、それと相反する千年以上かけて社会全体に空気のように浸透しているキリスト教由来の常識や、自分自身の倫理観との妥協点を見つけながら、そして異端者であるとみなされてしまう破滅を際どく避けながら、人々が新しい世界観を手に入れていく様子が描かれていく。その中でブルーノの火刑という悲劇も起きてしまった。それを受け「死後の世界AFTERLIVES」というこれまた、意味深な言葉の最終章へと続き、この詩に影響を受けた世界を変えた人々を描いていく。

正直、『物の本質について』の内容は、今の私たちにとっては陳腐であったり、理解しがたい間違ったものに思えてしまう。大地が世界の中心であるとし、またそれが球形とは考えていない点で、今の私たちにとっての完全な答えではない。しかし神秘を使わず論理を駆使して、世界の事象を説明しつくしていく姿に圧倒される。素朴な観察の積み重ねによって二千年前にここまで到達できていたことに驚かされる。キリスト教に配慮する必要もないため、ためらいもなく小気味よく世界の本質を語っていく。気象現象や宇宙の成り立ち、神々を用いない人類文明の起源、恋愛を中心に人の心の様々な動きまでも、あらゆるものを思考の対象とし客観的に見つめていく。これを読むことで中世の人々もその態度を獲得できただろう。

久しぶりに楽しい読書体験ができた。きっかけは、この本がボッティチェリの作品と『物の本質について』の関係について触れているのを知ったためであるが、読んでよかった。ボッティチェリの作品への影響については、残念ながら従来の考え方を超えるものはなかった。しかし確かにこの『物の本質について』は当時のフィレンツェでも入手可能な状況にあったことがはっきりした。それが分かれば十分だったが、この本は期待以上のものだった。



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posted by takayan at 02:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本・漫画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする