ドラマの内での引用では実は詩の前半部分だけである。これだけでも十分槐多の心情を表していると思うが、折角なので全文を引用してみる。底本は「中央公論新社 日本の詩歌17」
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いのり
わが神はわれひとりの神なり
神よ、神よ
この夜を平安にすごさしめたまへ
われをしてこのまま
この腕のままこの心のまま
この夜を越させてください
あす一日このままに置いて下さい
描きかけの画をあすもづづけることの出来ますやうに。
神よ
いましばらく私を生かしておいて下さい
私は一日の生の為めに女に生涯ふれるなと言われればその言葉にもしたがひませう
生きて居ると云うその事だけでも
いかなるクレオパトラにもまさります
生きて居れば空が見られ木がみられ
画が描ける
あすもあの写生をつづけられる。
――― 十二月八日
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槐多は1919年2月20日に22歳で夭折した。つまりこの詩が書かれた1918年12月8日というのは死の2ヶ月ほど前になる。この年の四月に結核性肺炎で血を吐いて倒れ、その後療養するも喀血を繰り返した。この頃は自分の命と向き合いながら最後の創作活動をしていた時期である。
「槐多の歌へる」は彼の死後に集められた遺稿集である。槐多は生前画家として評価された人であるが、没後1年にこの詩集が出版されることで、詩人としても世間から評価を受けることになる。
この「いのり」のあとには二つの詩がある。最後の一つは日付的にはより以前のものらしいと脚注にある。読み比べてみれば分かるが、最晩年に最後の輝きを放つ詩はこの「いのり」だ。
8月31日の投稿のとき、ネットで情報を探してみたがドラマの言葉から聞き取ったものと違ったので、そこからは引用しなかった。またネット上には「いのり」と同じ文言を第三の遺書としたものもあった。ここにある「槐多の歌へる」の脚注で、遺書のことにも触れてあるが、それには第二の遺書のことまでしか書かれていない。また第二の遺書の日付は2月7日となっている。
僕にはまだこの詩の心境が自分のものとして分からない。