先日の地上波での放送で、エンディングがカットされたのは残念だった。それに民放だからCMで切り刻まれるのは仕方がないとしても、最近のCMの入れ方にはどうしても不満が残る。結局DVDで見直した。やっと仕事も一段落して、ゆっくり文章が書けるようになったので、いまさらだけど書いてみよう。当然ネタバレがあって、勝手な解釈もある。その上長文である。
時を越えるというあり得ないことを扱うので、そこに矛盾が生じてしまうのはどうしようもないこと。以前「タイムマシン」の感想を書いたときもそんなことを書いていた。ただ過去に戻ってやり直せるならばという全ての人間がきっと一度は考えるだろう願いを描く物語は、どうしても興味を惹かれてしまう。
この物語にはいろいろな設定を用意してあるが、それを説明していないことが多いのではないかと思う。説明だらけ言い訳だらけの物語にしてしまうのを避けて、あえて主人公の感性に沿った理解だけでこの物語を描いてしまおうとしているのではないかと思う。描きたいものに焦点を合わせるために、主人公とともに些細なことは気にせずに勢いだけで物語が展開していくのだろう。ふと立ち止まって疑問を感じたときのために、整合性の取れるようなそれなりの言い訳は用意してはいるのだろうが。
主人公の真琴がお馬鹿設定というのが、全てを支えている物語。だって過去に戻れるならば万馬券買うでしょう、普通。無邪気にお小遣い日に戻ればいいと言う真琴は、もうかわいいと言うしかない。自分の身に起きたこんな重大なことを、日常レベルの思考のままで深く悩まず適応してしまうのが、この物語の良さ、真琴の彼女らしさなんだろう。プリンとか、カラオケとか、夕食のおかずとか、そういう問題意識でこの物語が進んでしまう。これは時間旅行という超能力を得た超人を描く物語ではなく、普通の女の子が、直面する現実に対してそんな彼女なりにしっかり自分自身で考え、向き合ったり、向き合わなかったりしながら、少し大人になっていく物語。
真琴は千昭からの告白をタイムリープで無かったことにしてしまう。不安なんだろうな。決して悪い未来では無いはずだけれど、今の幸せよりもずっといいかもしれないけれど、無かったことにできるのならば、そうしてしまうことかもしれない。相手が自分を好きだということほど、自分の意思ではコントロールできないことはないわけだから、自分にその気持ちがまだはっきりとしないのならば、その他者の意思を回避し続けるかもしれない。でも回避し続ける限り自分の気持ちと向き合う機会も失ってしまうわけで、もう後ろ向きに進むしかなくなってしまう。タイムリープがなかったら、相手の気持ちを引き受けて、あとからでも自分の気持ちも育てていけるのに、それができなくなってしまう。その結果が自分の友人と千昭が接近していくという現実を招いてしまう。その現実は結局リセットされてしまうが、真琴にはその現実そのものを変えようとした形跡はない。いつまでも真琴は自分の気持ちに向き合えないでいる。
千昭が見たがっていた絵は、未来人が過去で描いたものだろう。彼か彼女か分からないが、その未来人は何百年も前のその時代に行き、そして帰って来なかった。自分の意志なのか、それとも事故なのかは分からない。けれどその未来人はカウントがゼロになり、戻らなかった。そしてあの絵を描いた。そういうことなのかもしれない。そして千昭の時代、消えた未来人の存在を示す過去の研究がいろいろとされたのだろう。その研究により真琴のいたあの季節にその絵が復元されたという事実が分かったのだろう。絵を描いたその時代に飛んでいけるほど正確な情報が無く、真琴の時代だけがはっきりしていたのだろう。千昭はこの時代で過ごすうちにこの絵を残した作者と同じように自分も過去の時代に残ってもいいかもしれないと思っていたに違いない。その決意を示しているのが、真琴への告白であるように思う。千昭は最後のタイムリープを友のために使うことにした。未来に戻ってクルミを手に入れてその直前に戻ってくるという選択肢はなくはないが、それができない理由があるのか、それをあえて選択しなかったのだろう。
どうして千昭は最後のタイムリープで時を止めたのだろう。時を止める機能もこのチャージ式のタイムリープにはあるのだろうか。真琴は丁寧なマニュアルではなく力業でスイッチの入れ方を獲得したので知らないということだろうか。千昭は、真琴に気付かれずに過去に戻り、自転車を盗むだけで今まで通りの生き方をできたのに、どうして時を止めて、真琴に真実を話したのだろうか。
千昭自身の話からすると、千昭は功介が死んだ後、この現場に来て泣き喚く真琴の姿を見て、そしてそのあと過去へと向かっていることになる。三時三十分へ。功介から自転車を盗む。そこで止まった時を進めればいいのに、時を止めたまま真琴がそのときいる場所に現れる。タイムリープのチャージをした者は、止まった時の中を動くことができる能力も獲得しているのではないだろうか。それがその能力を確かめられる方法かもしれない。真琴は過去には行けても時を止められないから千昭に気付かれることもなかったのだろう。千昭はタイムリープできる者を見つけ出さないといけないので、どうしても止まった時の中で真琴に会って確かめざるを得ない。だから時を止めたまま、真琴の前に現れ、止まった時を動ける真琴がタイムリープができることを確認し、真琴に真実を話した。そんなふうに考えてみた。
もう一つ大きな疑問。何故真琴は自分がタイムリープのカウントを使い切っていたと誤解していたのだろうか。もちろんそれは見ている側も騙されているわけなんだけど。この錯覚が物語を盛り上げてくれるので、必要不可欠なことだけど、どうしてもこの真琴の錯覚の理由が分からない。親切なテントウムシさんが教えてくれるまで気付かないのはどうしてだろう。真琴の頭が悪いからでいいのだろうか。
真琴がアザだらけになり目をつぶって止まれ止まれと何度も叫んだあと、止まった時の中で気がつく演出はちょっとずるい。涙が残ってるようにもみえる。目を開けた後、観客と違ってこのときの真琴は功介の事故の記憶はないはず。そうじゃないとおかしい。今のおまえは知らないだろうがと、千昭が止まった時の中でそのことを指摘しているのだけど、観客は真琴がつまらないことに最後の1回を使い切った場面の印象を消せないし、そもそも千昭の行為がカウントに影響を与えることだとはこの段階では気付かない。でも真琴本人はどうだろう。この時点ではあと1回なのかもしれないという認識のはずなのに、どうしてゼロだったはずだと思ってしまったのだろうか。千昭と一緒に止まった時の中を過ごしたために錯覚をしてしまったのだろうか。クルミが砕けたのを見たせいだろうか。千昭の手首のゼロのカウントを見てしまったためだろうか。千昭が消えてしまって全てが終わったと思ってしまったのだろうか。それとも見ている人を騙すためにボケていただいたというのだろうか。真琴は功介の事故の記憶を持っていたとも取れるセリフを話している。それは単に観客をミスリードするためだけのセリフなんだろうか。
魔女おばさんは真琴とは正反対な生き方の女性なのだけど、真琴にとって素晴らしい助言者となっている。原沙知絵の声もよかった。真琴の叔母である魔女おばさんは、先代の時をかける少女の芳山和子。疑問なのは、小説では彼女は記憶を消されたはずなんだけど、今回の物語では忘れていないようにも取れる描写がある。彼女は博物館の自分の部屋の棚に、学生時代の写真とラベンダーを飾っている。この写真の中心には、このアニメ版が公開されたとき新装された小説の表紙絵と同じ顔立ちの少女が映っている。左右に背の高い男子と背の低い男子がいる。この場面を見たときに分からなくても、小説の表紙を見ればすぐに気づくだろう。でも考えてみると、小説で和子が時をかけたのは中学三年の出来事。魔女おばさんが真琴に語った初恋の話は、高校のときの思い出。和子はやっぱり時をかけた記憶は消えたままなのだと思う。この消えているはずの漠然とした記憶が高校の時の初恋を招いたのだろう。その恋もラベンダーに関わりがあって、その相手も正体を明かさない一夫本人か彼によく似た人なのだろう。でも飾ってある写真の制服は小説と同じものに見える。
BSマンガ夜話でプロデューサ自身が指摘していたんだけれど、タイムリープをするとき真琴は後ろ向きに転がって過去に現れる。でも最後のタイムリープの時だけは、正面を向いて時間の中を彼女は飛んでいく。これが分かりやすい彼女の意識の成長の描写となっている。この最後のタイムリープをするとき、自宅からの下り坂を一心に駆け下っていき跳躍する姿は、何度見ても感動する。そこに流れてくる挿入歌もとてもいい。これ以上ない素晴らしい時をかけているシーン。大切な人を想う気持ちがすごく表れているいいシーン。
そして、真琴は千昭に会いに行く。ブレーキの壊れた自転車というのも青春時代の一面を描く一つの象徴なんだろうな。だから最後の最後まで、壊れたままこの物語に関わってくるのだろう。彼女は自分で走って千昭の元に向かう。直前に功介に声をかけられる。前を見て走れと。彼女は全力で走って千昭に会いに行く。いままで不思議な力を使って時を超えていった彼女が、今度は自分の足を使ってその時へと向かっていく。一秒でも早く彼に会おうと。この駆けていくシーンも、まぎれもなく大切な時をかけているシーン。このひたむきさはとても美しい。
かけがえのないこの現実。理科室の黒板に書かれ、親友が真琴のためにつぶやいてくれる「Time waits for no one.」という言葉がこの物語のテーマの一つになっている。若いときは、有り余る可能性を無駄に浪費してしまう。通り過ぎてやっとそのことを後悔する。この何度でもできるタイムリープという設定は、はっきりとしたその青春の可能性の比喩に思う。でもそんな浪費の中で何か一つ大切なものを掴むことができれば、それで十分なのだと思う。
この物語では登場人物達をやさしく包んでいる美しい背景もとても印象的だ。止まっている時の中で描かれる風景も、一つ一つに意味がありそうで心に残る。でも一番印象に残るのが物語のいたる所で現れる空に浮かぶ入道雲。最後のほうで、青空の中にある大きな入道雲に向き合っている真琴の姿はとっても凛々しく見える。ボールを投げ、これから彼女がむかえる夏という象徴的な季節への、態度を表したとても清々しいラストシーンで終わる。
そしてエンディング。最後に流れるエンディングの歌詞が、千昭と別れたあとの真琴の気持ちを丁寧に伝えてくれる。物語が終わったあとに、その場面場面と一緒に流れるこの曲は、切ないけれどとてもいい余韻を残してくれる。
後続記事:
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「時をかける少女」を読んで・
アニメ映画「時をかける少女」 追加