二月前、DVDでアニメーションの「時をかける少女」を見たので、その原作も読みたくなって文庫本を買った。テレビ放映のあとに書いた〔
アニメ映画「時をかける少女」〕もこの作品を読んで書いたものだ。
Amazon.co.jp(マウス重ねると...):
・文庫本:
時をかける少女 〈新装版〉
・DVD:
時をかける少女 通常版
以後、原作読んでいない人も、映画を見ていない人も読まないほうがいいです。
この文庫本の最後にある江藤茂博氏の解説によると、筒井康隆氏の作品「時をかける少女」は、学研の「中三コース」から「高一コース」の1965年11月号から1966年5月号まで掲載されている。四十年も前のものなので中高生向けの物語なのに「かぶりを振る」とか今となっては古めかしい表現もある。
いわゆるジュブナイル小説。表題作「時をかける少女」は意外に短く、僕が手にしている版では115ページまでしかない。残りは「悪夢の真相」、「果てしなき多元宇宙」の二編が収められている。
この残りの二つの作品も少女が主人公の物語で、「悪夢の真相」は自分の心の中にある闇と向き合う少女の物語、「果てしなき多元宇宙」の方は、全く違う常識が支配する平行宇宙に飛ばされてしまう少女の戸惑いを描いた作品となっている。特に「悪夢の真相」は良い作品だと思った。
幼なじみの少年とともに、少女が自分の忌避している過去の体験を乗り越え成長していく姿を、彼女が何を思いどう行動したか丁寧に描いていった物語である。脇に出てくる彼女の幼い弟の存在もなかなか重要で、彼女が客観的に弟の成長の様子を喜ぶことで、重ねて成長していく若者への賛美を表している。
さて表題作の話。
芳山和子は理科実験室でラベンダーの香りをかぎ、気を失う。このとき和子は自分でも気付かないうちにタイムリープする能力を身につける。翌日の通学中、友人の吾朗と和子は交通事故に遭い、和子は初めてタイムリープをしてしまう。
和子は悩む。理解を求め一夫と吾朗の二人の友人に相談する。話の分かる理科の先生にも三人で助言をもらいにいく。和子自身も冷静に状況を分析し、自分の身に起きた不思議なできことを理解していく。そして真相を求めてラベンダーの臭いのしたあの日の理科実験室へと向かう。
この小説ではタイムリープする力は、薬によって発現される。タイムリープ以外にも超能力と呼ばれるものは人間の潜在的に持っている埋もれた能力として、この物語ではとらえられている。未来では高度に科学が発達し薬を飲むことでそのような超能力が使えるようになっている。
このタイムリープの薬を開発していたのが未来人の一夫だった。まだ完全に完成しているわけではなく、その実験中のタイムリープによって偶然和子のいる時代に現れたのだ。
このとき帰りの分のタイムリープの薬を持ってこなかったため、未来に戻ることができなくなった。ただ材料さえそろえば、開発している本人なのだからまたその薬を調合することができる。
この薬を作り出すために重要な材料となるのが、この作品で強烈な印象を与えてくれるラベンダーであり、薬を作るのにこっそり借りていたのが理科実験室だった。
理科実験室に向かうと、同じように数日後の未来からやってきた一夫に会う。一夫は、二人だけの止まった時間を作りその中で真相を話してくれた。さらに一夫は自分が和子を愛していることも打ち明ける。唐突な告白に和子は戸惑ってしまう。
やがて一夫が未来に帰り、自分の記憶が消されることも知る。和子が持っていた小学生の頃からの一夫についての記憶は何もかも、すべて一ヶ月前に与えられた偽の記憶でしかなかった。その記憶も、この止まった時の中で話してくれた告白も、タイムリープの秘密も全て消し去られるという。
大切な記憶を消さないでほしいと和子は懇願するが受け入れられない。最後に一夫は和子に未来に戻り薬が完成したら必ず再び会いに来ることを約束するが、その約束さえも和子の記憶から消し、未来へと帰る。
この小説での和子のタイムリープの能力は、思春期の不安定な心の象徴なのだろう。今までとは違う存在となってしまう自分への戸惑いと、そしてそういう自分自身を理解していく姿を描いていく。
思い悩む若者を表すには物語的には少女が絵になる。少女に限らず少年もそうだけど、虚栄を張らない素な心では四十年前も今も本質的には変わるものではないだろう。大人へと続く思春期の心だけに、やはり恋愛というのが最後大きな問題になってくる。
話の展開はだいたい知っていたが、でも小説の中での告白は唐突すぎて、このあとどう和子の気持ちが動きうるのだろうかと思ってしまうほどだった。
それにしても、この物語はとても切ない。告白され気持ちが傾いていこうとするところで、彼に対する記憶が何もなかったこととして消されてしまう。ただ素敵な人に出会えるかもしれないという漠然とした想いだけが残る。
和子は何も感じていないのだろうが、読後に何とも言えない喪失感が残ってしまう。それを知らない和子本人が幸せに思えるし、同時にかわいそうに思えてつらくなる。
和子がこの後どんな出会いをするのかそれは読者の想像にまかせられている。当時このジュブナイルを読んだ読者それぞれが、自分はどんな人と恋をするのだろうかと、自分自身の人生で答えを出していったのだろう。
そしてアニメ版では一つの和子の人生が描かれた。この映画の和子像は、この小説を読んだ後でも僕には十分に受け入れられた。