2007年08月02日

アニメ映画「時をかける少女」 追加

余韻の残る物語を、ああなのかな、こうだったのかなといろいろ考えてみるのがおもしろいので、「時をかける少女」の第三弾。前回の小説を踏まえて、アニメの方をもう一度考え直してみる。例によって、ネタバレや勝手な解釈あり。


この文庫本をまた読み直してみたら、和子が真琴に話した高校時代の思い出というのは、約束通り再び現れた一夫(仮名)との思い出に違いないと思えてきた。薬が完全に完成するためには多少時間がかかっても次の学年に現れることは問題ない。和子は何も知らずに、ただとても懐かしい感じを抱きながら、付き合うことになったのだろう。

しかし一夫はどこかに行ってしまう。おそらく時の向こう側。ただ同じように和子にとってすぐの時間に帰ってくるのは不可能ではないのだから、再び現れないのは、もう二度と一夫には会えないということだろう。一夫の身に何か起きてしまったのだろう。死んでしまったのか、ラベンダーの手に入らないような時代に行ってしまったのだろうか。


時間を止めることについて。小説では小さな装置を使って局所的に時間が止まったように見える空間を作ることで実現していた。この映画でも理屈が同じかどうか分からないが時間を止めることができる。

以前ちょっと書いたけれど、止まった時間の中を動ける能力は、タイムリープをチャージしている者だけが対象になるのだろうと考えてみた。そしてもう少し考えてみると、その時を止める者からの距離も関係しているだろうと思った。

なぜなら、そういう限定がなければ、誰かが時を止めてしまうと、その時間にいる他のチャージしている者も止まった時間の中に閉じこめられて、自分の意思に反してそこで過ごさないといけなくなってしまう。それではとても面倒なことになる。

だから止まった時の中での共存は範囲を限定して成り立つようにできているのではないかと思う。それを踏まえて、真琴が止まった時の中で振り向くと数メートル離れたところに千昭がいて、また人混みの中で千昭が姿を消し距離が離れてしまうと真琴の時が動き出してしまうという描写になるのだろう。


記憶について。一夫は周りの人々に偽の記憶を持たせることで、この時代の人間になりすました。和子が一夫を昔から知っていたという記憶は作られたものだった。では千昭はどうなのだろう。今回は記憶の操作については何も触れられていない。転入生という設定にしてあるから、過去の記憶を操作する必要もない。

真琴の最後の跳躍の中で、千昭との思い出のシーンがいくつも出てくるけれど、これは本物の記憶とみていいと思う。雨の場面で、跳んでいる真琴の顔にも雨粒が落ちてくるのは、あふれてくる感情を表す涙であると同時に、それが真琴の身に起きた本当の出来事であることを示す印だと思う。


物語が始まるまでの千昭の状況を少し考えてみる。一夫は帰る薬の研究しなければならないので、その時代の人間になりすまし、理科実験室を利用した。一方千昭がこの時代で暮らした理由はなんだろう。

絵を見るためという理由がある。開催日から展示されていないという情報が未来まで伝わっていなかったから、来てすぐ見ることができなかったのだろう。でもそれならば、着いてすぐに(予備のクルミをなくさないうちに)、その展示会の最終日を調べて跳べばよかったのではないか。本当に見たかったのならば、そう行動するはずだ。

ではどうして、そうしなかったのだろう。それはこの時代に来た目的が絵を見ることであり、それを済ませたら帰らなければならなくなるからではないだろうか。最大の目的だからこそ、それを猶予させることで、それまでの間この時代でやりたかったことを楽しもうと考えたのかもしれない。そして希望したとおり、高校に転入し、真琴や功介と友人になり、この時代の生活を楽しむことができたというわけだろう。

しかし予備のクルミを無くしてしまう。それに気付いた時には手首のカウントは残り一回であり、帰る分しか使えない。目的であった絵を見るために跳ぶこともできなくなったので、否が応でも展示されるまで自然な時の流れで待たなくてはならなくなったのではないだろうか。

ここでクルミを確実に持っていた頃に戻ればいいかもしれない。でもそれはしない。千昭は自然の時間の中で無くしたものを探している。その理由は、せっかく築いた二人との大切な友情をリセットしてしまうのをどうしても避けたかったからだと思う。


最後に、千昭が別れのシーンで、「未来で待ってる」と言った意味を考えてみた。未来と言っても幅がある。千昭が本来暮らしていた時代も未来だけど、真琴の明日だって未来には違いない。だから、こういう意味でも話は通る。「おまえに会いに、またやってくる。」

真琴が普通の時の流れの中でその再び出会う日をむかえるのに対し、タイムリープできる未来人の千昭からすれば、まるで先回りした感覚でその時間に現れるのであるから、「待っている」という表現でも間違いではないだろう。

再びクルミを手に入れることは難しいことかもしれないけれど、必ずもう一度真琴が暮らしている時代にやってくるという意味で「未来で待ってる」と真琴に言ったのではないかと思う。

一方真琴は、その言葉の意味をしっかり考えて答えたのではないだろうが、「すぐ行く。走って行く。」と答える。「待ってる」と言われれば、それが不可能な未来だろうとなんだろういちいち考えずに、とにかく行きたいと叫ぶのが、今の素直な真琴の気持ちだろう。

もちろん、この言葉は和子の真琴への助言を踏まえて僕たちに聞こえてくる。それは和子が真琴らしさだと言ってくれた言葉であり、真琴にはそういう人生を送ってほしいという願いでもあって、和子の生き方とはまるっきり違う人生を歩もうとしている真琴の未来を示す言葉でもある。

でもまた会うつもりならば、そもそも千昭は帰らないという選択をしてもいいわけだ。小説での一夫の場合は、薬を完全なものにするという明確な帰らざるを得ない目的がある。けれど千昭が自分の時代に帰るべき理由ははっきりとは描かれていない。

そこでセリフをいろいろ考え直してみると、止まった時の中での千昭の言葉に帰ることを先延ばしにしていたという事実がみえてくる。真琴が幸せなことだけタイムリープで繰り返し嫌な現実からは逃避していたように、実は千昭自身も真琴達との幸せな日々の中で現実に戻ることから逃避していたモラトリアムな共通項があるのがわかってくる。

未来に帰れるようにと、わざわざ未来から自分に会いに来てくれた真琴の気持ちが、千昭自身にも現実に向き合う決心をさせたのではないだろうか。だから千昭は、真琴と別れ帰っていくのだと思う。


posted by takayan at 01:55 | Comment(6) | TrackBack(0) | 時をかける少女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。