2008年06月27日

冥王星はPlutoid

以前書いた、クローズアップ現代「さよなら冥王星」という記事にコメントをいただいた。2006年9月1日の記事だ。この記事に先立つ2006年8月24日、国際天文学連合(IAU)の総会で惑星の定義が決定され、冥王星が惑星という分類から外れ、dwarf planet (後日、日本名は準惑星と決まる)という新しい分類となった。この決定がなされる数日前からニュースやワイドショーで連日いろいろ取り上げられていた。そうして、一段落した8月31日に速報的なまとめとして、このNHKの番組が放送された。プラハで行われたこの国際天文学連合総会に出席した国立天文台の渡辺氏も、ゲストとして番組に出演した。

この頃はみんなもいろいろブログにこのことを書いて(当時の「冥王星」の注目度の推移 - Yahoo! Japan ブログ検索)、昔天文少年だった僕も喜んでいくつか記事を書いたのだけど、悲しいことに、日本中で書かれたたくさんの記事に紛れてほとんど誰も読んでくれなかった。それが今頃になって、コメントをもらうなんて。ちょっとうれしい。


さて、この機会に、冥王星のことをちょっと調べなおしたら、6月11日の次の記事を見つけた。コメントしてくれたおかげだ。二週間以上も遅れた話題になるけど、次の引用は国立天文台が発行している「アストロ・トピック」というメールニュースの過去ログより


2006年夏の国際天文学連合 (IAU) 総会で、太陽系の惑星の定義が採択されました。実は、そのときに同時に、「太陽系外縁天体 (注1) で、なおかつ準惑星」という新しい天体の分類を作ることも採択されました。しかし、この分類を新しく作ること自体は採択されたのですが、残念ながら、英語名については合意には至りませんでした。
 その後、日本国内では、日本学術会議 物理学委員会 IAU分科会の中に、「太陽系天体の名称等に関する検討小委員会」 (委員長:海部宣男 (かいふのりお)IAU日本代表、前国立天文台長) が設置され、太陽系天体の英語名に対応する推奨和名を決定しました。dwarf planet には準惑星、trans-Neptunian objectには太陽系外縁天体という和名が付けられました。上記の新しい分類の天体については英語名すらIAUで決まっていませんでしたが、委員会では様々な観点からの議論を総合して、冥王星という長い間親しまれた天体に敬意を表する意味合いを込めて、「冥王星型天体」という和名を推奨することにし、IAUにもその趣旨にそった名前を決めて欲しいという要望を提出しました。
  この要望を受けて、IAUで太陽系天体を扱う第三部会の中でも議論がすすみ、このたびノルウェーのオスロで開催されたIAU評議員会で、最終的に plutoidという英語名にすることが決定されました。冥王星の英語名である Pluto をもとにした、冥王星の仲間という意味での命名です。冥王星という名前を大事にする「冥王星型天体」という推奨和名とも相性のよい命名となりました。
 太陽系天体の名称等に関する検討小委員会の委員でもあり、今回のIAU評議員会に出席した岡村定矩 (おかむらさだのり) ・東京大学副学長は、「冥王星という天体に敬意を表するという方向性で決まった日本の推奨和名と、ほぼ同じニュアンスを持つ英語名に決まったことは、たいへんよかったと思っています」と述べています。

国立天文台:アストロ・トピックス(387)


つまり、海王星よりも外側を周っている準惑星の英語名を、冥王星Plutoからとって、Plutoidと呼ぶことに決まったという話。和名はすでに決めてあって、「冥王星型天体」。今のところ、冥王星型天体plutoidには、冥王星とエリスEris(2003UB313と呼ばれていたもの)が属している。

でも考えてみると、エリスは実は冥王星よりも大きい星なので(第二位の準惑星、冥王星)、もしかするとこのグループはerisoidと呼ばれることになったのかもしれない。でもそうはならなかった。その理由が「敬意を表して」ということなのだろう。これから、エリスのように大きな仲間が見つかって、冥王星の順位がどんどん下がっていったとしても、このグループは冥王星型天体と呼ばれ続ける。よかったね。プルート、君はこれからもグループを代表する天体だよ。



●用語の整理
海王星より外側にある天体を、太陽系外縁天体trans-Neptunian objectと呼ぶ。
準惑星の定義をみたす天体を、準惑星dwarf planetと呼ぶ。(定義は省略w)
ちなみに、現時点で準惑星と呼ばれる天体は、冥王星plutoとエリスErisとケレスCeres。

この二つの意味を合わせて、
つまり、太陽系外縁天体であり準惑星である天体のことを冥王星型天体plutoidと呼ぶ。

冥王星は、太陽系外縁天体であり、準惑星であり、その二つの条件を満たすことにより、冥王星型天体である。
同様に、エリスも太陽系外縁天体であり、準惑星であり、冥王星型天体である。

もちろん、海王星より内側にある準惑星は、冥王星型天体とは呼ばない。
そういうことで、ケレスは火星と木星の間にあるので、準惑星ではあるが、冥王星型天体ではない。

追記
冥王星族plutinoという用語もある。これは冥王星型天体plutoidとは別の分類で、冥王星の軌道ととてもよく似た特徴を持つ天体を指すものでである。これにはケレスもエリスも含まれない。


補足説明
太陽系外縁天体とは、海王星より外側の天体のことなのだけれど、冥王星は海王星より内側(太陽に近い位置)を回る期間がある。これは冥王星の軌道が偏った楕円であるために起きる現象。冥王星が惑星の一つだった頃、惑星の順序で並べて水金地火木土天海冥と呼ばれていたが、冥王星が海王星の軌道の内側に入り込んだおよそ二十年間、水金地火木土天冥海とも呼ばれていた。

太陽系外縁天体というのは、正確には、軌道長半径を比べて海王星よりも大きい天体のことらしい(上記引用のアストロトピックの脚注より)。この軌道長半径というのは、軌道の中心と一番その中心から離れている楕円上の点との距離のこと。


posted by takayan at 03:48 | Comment(0) | TrackBack(1) | 冥王星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月30日

「マトリックス・レボリューションズ」を見て

この前の金曜日、テレビで「マトリックス・レボリューションズ(The Matrix Revolutions)」をやっていた。マトリックス・シリーズの第三部。完結編だ。久しぶりに見たら、いろいろ考えたくなった。DVDを見直したり、英語の資料も含めていろいろ読んだりして、時間をかけて考えてみた。もちろんネタバレ。そして個人的な解釈。

以前ここで書いた「SANDWORM(DUNE)」という記事の中で、盲目の救世主という点で「砂の惑星」シリーズを思い起こした。マトリックスは様々な作品を思い起こさせる。その記事の中でも紹介しているが、デューンにインスパイアされたフィクションのリスト(英語)に他の作品とともに細かく指摘してある。




第三部の最後の方には、ネオが触手のようなケーブルで体を支えられるところや、王蟲を想起させる複数の赤い目をもった機械など、「ナウシカ」のパクリというよりは敬意を込めてのオマージュと呼ぶべきものがある。そしてその「ナウシカ」の場面を再現するくらいの監督が「ナウシカ」に影響を与えた「砂の惑星 (デューン)」シリーズを知らないわけはないので、この予知能力を持つ盲目の救世主は「砂の惑星」を意識したものだと考えてもおかしくないだろう。主人公が盲目になってからの目を使わずに世界を見るという描写はこの物語を思い出さずにはいられなかった。だからといってこの物語を使ってストーリーを読み解くヒントにするわけではない。ここにもオマージュがあるという指摘に過ぎない。



マトリックスの第二部「マトリックス・リローデッド」を映画館で見終わったときは、この世界は入れ子構造になっているに違いないと思った。根拠としては、ネオが現実世界でセンティネルを撃退できたことや、スミスがこの現実世界にやってこれたこと。これをうまく説明するには、現実世界として描かれている世界も何らかの仮想現実である必要があるだろうと。アーキテクトとの会話もそれを暗示しているように感じられなくもない。きっと第三部ではその秘密が明かされるのではとちょっと期待して見に行った。いい具合に期待を裏切られたけれど。



マトリックス第三部「マトリックス・レボリューションズ」を見るには、やはり金色に輝く光の意味を考えるのが一番の手がかりなのだろう。冒頭、おなじみの緑色の光で描かれたマトリックスを構成しているプログラムの世界の映像をどんどん拡大していくと、一瞬何もない真っ暗な世界となるが、その中心で爆発が起き、金色(オレンジ)の光があふ出してくる。これは緑色で描かれた機械的な構造ではなく、銀河のようなシダ植物のような構造のフラクタルfractalが現れる。自己相似のフラクタル図形は、拡大しても拡大しても果てはない、拡大してもそこにはまた似たような構造が現れる。画面はそれがフラクタルだと気づくとあきらめたように拡大が止まり、逆流し、緑の世界を通り過ぎて、あの緑の文字が降り注ぐマトリックスの画面が表示されたディスプレイとなり、見ているものを現実世界へと導いていく。(このフラクタルは、第三部だけかと思ったら、第二部の冒頭でも現れていた。ネオの予知夢のマトリックスコードの中で。このときは緑色のまま爆発もなくそれほど印象に残らなかった。)

第三部の冒頭のこの描写は、マトリックスの下部構造(もしくは上部構造)として金色の光で表した世界があることを示しているだろう。この金色で描かれたフラクタルとは何か。植物の形や雲など自然界にある拡大してもその構造が保存されるものは、再帰的に計算する数式として表現できる。このようなものをフラクタルと呼ぶ。逆にこの数式を用意することで、自然の構造物をCGとして描くことができる。この場面で使われているフラクタルは記号として使用されているのだろう。現実の世界と仮想の世界、そして生命と機械を結びつける役割を十分に果たす記号と解釈できる。つまり、プログラムでありながら生命と同等なもの。そしてこの冒頭のシーンは、金色の光で何を表すのかという記号の定義をしているではないだろうか。

それでは、物語の中で何が金色の光として表現されているのだろうか。この光で世界が描写されるのは、ネオが盲目になってからである。人間に寄生しているスミスの姿、発電所、マシンシティを守備する爆弾や、センティネル、そしてマシンシティも。マシンシティの上空からの姿はフラクタル図形そのものにも見える。

人間の中のスミスや、マシンシティの機械達が金色に見えるのは共通点がある。それはプログラムである。重要なのは、ネオには発電所が金色に見えるということだ。そこにはケーブルでつながれ仮想世界マトリックスで永遠の夢を見ている多くの人間たちがいる。発電所にも人間を管理するプログラムがいるのでその光とも思われるが、発電所にあるすべての建物が光に満ちて表現されるのは、やはりそこにいる人々も光として表現されていると考えるべきだろう。ただ盲目になってから常にそばにいるトリニティがネオによって金色の光で認識されるカットがないのは、実際に光として感じられないと考えた方がいいだろう。串刺しになったトリニティを手探りで探しているところからもそれがうかがえる。つまり、人間がマトリックスに進入しているときに限りその精神は、現実世界のスミスやマシンシティの機械達のプログラムと全く同等なものに変化していることを示しているだろう。

現実世界のネオはプログラムの存在を認識する能力を第二部の最後には身につけている。生身でセンティネルを感じることができ、さらに撃墜できた。オラクルとネオとの対話から、現実世界のネオがソースに直接接続が出来るようになったからだと分かる。そうなると、金色の光で表されているものがソースへの接続を通じて認識している対象ということになる。上でトリニティが光として見えていないとしたが、それはもちろんこのときトリニティはマトリックスにつながっていないのだからソースにもつながっていないからで、発電所につながれた人々が金色に見えるのは、彼らが常にマトリックスにつながっている状態だからである。金色の光がネオがソースを通して認識しているものを表しているならば、マトリックスコードを越えたところにある金色のものが、つまり映画冒頭で現れる緑色のマトリックスコードの先にあった金色のフラクタルこそがソースそのものを表していることもいえるのではないだろうか。

第三部の冒頭でネオが閉じこめられているのに気づく場所は「Mobil Ave」駅。機械とマトリックスとの中間の場所。ここでネオは人間と変わらない、子供への無償の愛を持ったプログラムの夫婦とその娘サティに出会う。これはネオたちが戦っている機械の本質を示すための出会いだったのだろう。この映画で描かれているプログラムは二種類あって、現実世界の機械を制御しているプログラムと、仮想世界マトリックスの現象を制御するプログラム。これはサティの存在により、同等なものだということが分かる。メロビジアンがトレインマンを使って行き来を制限しているだけである。さらに、スミスが現実世界の人間に寄生できるということは、機械達の精神であるプログラムが人間の精神と同質なものであることも示している。

第二部では初対面の時のセラフの姿も金色をした何かとして描かれている。これは第三部と同じ意味で使われているのかよく分からない。光り方が違うようにも思える。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。第三部の光の意味とは関係なく、マトリックス内のコードを認識できるネオにとって単に不可知な存在であることを示しているだけかもしれない。セラフの正体を示す重要な記号なのかもしれないけれど、他にマトリックス内部でオレンジの光として描かれたものがないので、どうともいえない。



アニマトリックスを見てマトリックス前史を知っていないと分からないが、機械が支配するマトリックスの世界の前に、知能を持った機械を人間が隷属させて暮らしている時代がある。その後機械の側が独立運動を起こし、やがて機械に対し脅威を持った人類側から機械に対し全面戦争が仕掛けられ、結局機械側の勝利に終わる。この前史はターミネータが描く未来世界や、鉄腕アトムのロボットの独立国の話を思い出させる。RURロボットの時代から何度となく描かれ続けるモチーフでもある。異質な存在や階層間の対立の分かりやすいメタファとも言える。ちなみに、「砂の惑星」はこのような思考する機械に対して完全勝利し排斥した後の歴史を描いている物語である。

第一部では、ネオは人類が電池にされているとモーフィアスに教えられる。しかしこれは本当なのか。もっと効率的なエネルギー源はいくらでもあるだろう。人間を機械に接続し、夢を見させてエネルギーを搾取し続けることに意味があるのだろうか。これは第一部から抱き続けている疑問だが、これはザイオンにいる人間側の勝手な思いこみではないのだろうか。

彼ら機械は人間を電池にする目的だけで機械につないでいるのではないだろう。彼らは彼らなりに人類に最善の奉仕を続けているだけではないのだろうか。実際人間を殺しているのだから、機械を支配しているプログラムはロボット三原則並の人を決して殺せないという厳格なものではない。しかし人間一人一人ではなく、大多数の人間に対して奉仕ができるようにプログラムされているのであったらどうだろう。この目的を邪魔する人間に対しては殺戮を行ってもかまわない、そういうルールの下に人類への奉仕を続けるための究極のシステムが発電所と呼ばれるものとマトリックスという仮想世界なのではないだろうか。

機械達にとって生きるということは、人類に奉仕するという目的と常に密接につながっていて、それ無しに存在そのものが成立しないのではないだろうか。人類の存在こそが彼らにとって生きる原動力になっているのではないだろうか。人類が自分たちに奉仕させる目的で設計した彼らは、知性を持った今でもすべての行動原理が人類という概念に従属しているため、機械の方から人類を滅ぼすことが不可能なのかもしれない。根源的な欲求として、知性を獲得した機械達は人類と共生したがっているのではないだろうか。しかし、人類は決して機械を対等な存在としてみなすことができない。自分たちより劣ったものとして差別するか、知性を持った彼らを自分たちの生存を脅かすものとして破壊の対象としてしか見なくなる。機械達が見つけ出した最良の解決策が、人類の肉体を機械に縛り付け、自分たちの愛情を強制的に受けさせるシステムなのではないだろうか。マトリックスという仮想世界を作り出すことでやっと機械達は人類と共生する理想の世界を手にいれることができたのではないか。


ネオとスミスの戦いが終わり、スミスが駆除され、マトリックスが第七世代にバージョンアップした。その中でオラクル達プログラムが集い、これから始まるマトリックスを語り合う。そこにサティがネオのために用意した輝かしい朝日が昇る。この輝きは、ネオが見えない目で目にしてきた輝きを連想させる。そしてこの空はトリニティが肉眼で見、美しいと呟いた空を思わせる。生まれ変わったマトリックスを光で満たした揺るぎない希望を抱かせるカットで終わることで、これから新しいマトリックスを通して機械と人間との真の共存が始まることを示唆しているのだろう。


posted by takayan at 02:30 | Comment(1) | TrackBack(0) | 映画・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする