2008年07月21日

ナミアゲハ幼虫の帯糸くぐり

虫嫌いの人が、このブログを他の用事で訪れて偶然見てしまうかもしれないので、虫関連の記事の時は必ずタイトルにそれと分かるような言葉を入れている。そういうわけで今回もアゲハの幼虫。帯糸というのは、サナギになったとき体を支えている糸のこと。

アゲハチョウのサナギを見たことがある人はすぐに分かると思う。サナギになるとき、尾っぽの所でしっかりと面の所に接して、上の方ではその面の左右の二カ所に固定した輪を使って背中でもたれかかるように体を固定している。このときの糸を帯糸という。

今回、アゲハの幼虫がこれを紡ぎ、そしてそれをくぐってもたれかかる様子の動画が撮れたので、貼り付けてみる。

古いデジカメの動画撮影機能を使って撮ったので画像はあまりよくないが、映像として収めることができた。教育テレビの理科の時間で一度は見たことがあるのではないかと思う。

この動画の様子を説明すると次のようになる。今回の映像よりももっと前の段階から書いておく。

アゲハの幼虫は、自分がサナギになる場所を見つけると、しばらくそこで休んだ後、サナギになったときの自分の体を固定するための作業を開始する。まず体を上下反転し、ちょうど自分の体の端が来るところに念入りに糸を吐く。完成したら再び体をまっすぐにむけてそこにおしりをくっつける。それからしばらく寝て、今度は帯糸作り始める。幼虫の体には、長い腹の部分は吸盤のような足、胸の部分にはとがった細くて短い足が付いている。この細い足に糸をかけながら、丈夫な糸を紡いでいく。まず体を奇妙に折り曲げながら胸の所の高さの壁にしっかりと糸を貼り付ける。それから体をのけぞらせながら糸を吐いていく。頭を少しずつ揺らしながら少しずつ楕円を描くように体を反対の端の方に動かしていく。端まできたら、また逆に体を奇妙に折り曲げてさっきの端と同じ高さに糸を固定する。それが終わると、また体をのけぞらせて糸を吐き、これを逆の方向に繰り返す。これを何度も繰り返すことで、自分の体を支える丈夫な命綱を作り上げていく。

さて、ここで疑問が起きる。この帯糸ができても、どうやって自分の体をその中に入れるのだろう。幼虫は自分の前面の足に引っかけるかたちで糸を持っている。これを一旦放したら、どこに行くか分からない。絶対に放せない。幼虫の足はとても短いので引っかけておくだけで精一杯。さあ、どうするのだろう。



映像は、最後の端への固定の少し前から。申し訳ないが、ピントが完全でなく映像も荒い。でも、よく見てもらえると幼虫の胸のあたりに線上に光っている部分が見える。これが帯糸。幼虫が体を仰け反らせながら頭を動かしているその軌道をよく見ていると、見えない糸も見えてくると思う。

帯糸作りのあとは、幼虫は時間をかけて糸を固定している。それが終わると、頭を糸を固定している端の間に入れ込んで、体をぐいっとねじ込んで、そして一気に体を今まで以上に仰け反らせる。映像ではここできらっと糸が光る。思いっきり仰け反ることで帯糸を体の下の方にかかるようにしているのが分かる。帯糸がちゃんとかかると、体を起こし、しばらくそのまま体を休める。そして次第にからだがしぼんでいき、サナギになるための脱皮を待つ。



この幼虫は実は植木鉢で見つけたものではない。植木鉢のミカンの木から庭の木に移した幼虫が成長したものだった。気になって庭の木はときどき様子を見ていたが、体をしきりに伸ばしながら枝を這い回っている姿が見えた。幼虫がサナギになる場所を探すときはよくこういう動きをする。十年ぐらい前に飼ったときに分かった。幼虫がどうやってサナギになるスイッチが入るのか分からないが、サナギになる準備ができると、体の中にある食べたものを下痢のように全部出してしまう。体の中のものがなくなると、黄緑色ではあるけれど透き通ったようなとてもきれいな色になるのですぐにわかる。そして、このように体を懸命に伸ばして、動き回るようになる。

捕まえて、鉢のミカンの木に移してやった。ここでサナギになってもらうために。しばらくして様子を見に行くと鉢の枝をどこを探しても見つからなかった。10分ぐらいまわりを探したが見つからない。雑草が茂っているところにいったら二度と見つからないだろう。草むらに行かなくても、いろんな荷物が積んでいるからそこに紛れ込んだら絶対に分からない。あきらめられずに探していたら壁を這っているのを見つけた。ここまで来るのは相当いろんなものを越えて行っているはずだ。見えるところによく出てきてくれた。

鉢でサナギになってもらうのをあきらめて、以前にやっていた方法でやってみることにした。その方法というのは、空き箱などのボール紙で三角柱や四角柱を作る方法。ボール紙を簡単に折ってテープで一辺を閉じる。倒れたら困るので板状のものにテープで固定する。高さは二十センチぐらい。もう少し低くてもかまわないが、幼虫が下に降りていくときあまり短いと地面にすぐに着いてしまう。降りるのに時間がかかるとあきらめてまた上に上がってくれる。上辺は全部つながっているのでぐるぐる回って、やがて側面に降りてくる。ときには内側に入り込んでそこをサナギになる場所と決めることもあるが、そのときはそっと切り開いて表と裏を逆にすればいい。他にもいい方法があるかもしれないが、手軽なので以前はこうしていた。今回もうまく体を固定し始めた。


この帯糸作りの仕草を見ていると、あの小さな卵の中にすべてこの動作が記述されている事実に畏敬の念を抱かずにはいられない。とてもシンプルな動作を組み立てて、この動作全体ができあがっている。いつかは、ここに記述されていることはプログラミング言語に翻訳できるのだろうか。


posted by takayan at 16:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | アゲハチョウ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「時をかける少女」のこと

今年も「時をかける少女」を見てしまった。
土曜日の夜九時からは「監査法人」の最終回だったので、「時をかける少女」は録画して見た。DVD持ってるのに。

この物語はあまり深く考えずに、お馬鹿な主人公の彼女なりの成長と、芳山和子が歩んだ一つの未来の像である魔女おばさんを鑑賞すればいい。理屈ばかり考えてもこういうのはつまんなくなる。物語の中心はタイムリープではなく、あくまでも登場人物なのだから。それでも、登場人物の行動にちょっとした疑問を思ってしまうと、いろいろ分からないことだらけになってしまう。タイムリープというこの物語の法則のために、解釈が複雑になったり制限されてしまったりで、訳が分からなくなってしまう。

去年いろいろ書いてから今まで、アニメ版のコミックも読んだし、原田知世の「時をかける少女」も何年かぶりに見直した。それぞれの感想を簡単に書くとこんな感じだった。

アニメ版をコミックにしたものは、とてもシンプルにまとまっていて、想像するしかないところを言葉として表現していて、悩むことなく物語を楽しめた。映画の内容が頭に入っているから分かりやすかったのかもしれないけれど。
このコミックには魔女おばさんについての物語の結末もちょっと描かれているが、これは正直見なかったことにしたい。これってアニメ版と共通の公式設定なのだろうか。魔女おばさんの過去が、原作小説や大林監督の作品の設定ではなく、こんな感じの設定でないと細田監督の物語とはつじつまが合わなくなってしまうから仕方がないのかな。この和子の物語は小説も実写映画も今まで一度も見たことがない、これからも見ないだろう若い人向けという印象だった。

そして実写映画。いまさらだけど、原田知世のこの映画は素晴らしい。この時代を知らなければ古めかしくて受け付けられないかもしれないけれど、僕はこちらの世界がいい。この映画では小説の和子とはまた違って不安や戸惑いがより全面にあらわれてくるけれど、それもこの映画のよさだと思う。恋に落ちていく感じはかえってこの映画の方がどれよりも自然に感じる。和子の持っている二人のエンジェルがキスする小道具の効果は大きい。
それにしてもこの頃の原田知世の可愛らしさはいったい何だろう。今の彼女も十分素敵だけど、このときの輝きが映像としていつまでも残り続けることに感謝せずにはいられない。物語が終わって、唐突に始まるあの有名なエンディング、それぞれの場面を通して原田知世が主題歌を歌っていくこの姿を観ると、それだけで幸せな気持ちでこの映画を見終えられる。この歌がこの映画のメインであっても全くかまわない。


今回テレビを見てみて、アニメ版についてあらたにいろいろ気づいたこともあるけれど、自分の書いていたものとのつじつまが合うように簡単には修正できなさそうだから、書かないでおこう。


posted by takayan at 02:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時をかける少女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする