2008年07月23日

「時をかける少女」について再度考えたこと

以前書いたものにつじつまが合わないところも気づいたのでちょっと書き足そうと思う。
前回は、基本的に限定版DVDの本編、付属物、そして原作小説をもとに書いていた。
今はさらに原田知世版の映画も見直したし、アニメのコミック版も読んでいる。

さらに、この細田版「時かけ」の原点だと言われる原田知世参加の おジャ魔女どれみドッカ〜ン!「 第40話 どれみと魔女をやめた魔女」までもダウンロード視聴してしまった。全然別な話だけれど、アニメ映画を思い起こさせてくれるシーンがあったり、「時かけ」とはまた別の切なさを感じさせてくれる。
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ほんとは自分の考えだけで考え直したかったけれど、考察サイトもいろいろ読んで、一般的な解釈を踏まえて考えた方がいいだろうと思った。その中で、一番細かくまとめてあったのは、時をかける少女問答集だった。



こういう作品の脚本は多人数で議論して叩きながらできるだけ緻密な設定をしてあるはずだから、整合性のとれる設定をいろいろ考えてるんだろうなと去年は考えていた。特にここまで複雑な時間旅行ものは今がどのような過去を持つ時間なのかを常に把握しながら物語を作らないと、ちょっとの間違いでストーリーが破綻してしまうから、かなりきっちり作っているはずだと考えた。でも、監督がそんな緻密さを放棄して物語の方を優先していると考えた方が楽だったのは確かだ。でも懲りずに今回もいろいろ考えてしまったけれど。



まず、芳山和子は記憶を失ったままだという前提で考えていたが、それでいいのかどうか。コミック版では記憶を取り戻した上で真琴に助言していることになっていたが、アニメ映画もそれでいいのかどうか。

これは上記「問答集」の中で指摘されているが、細田監督がイベントでの質疑応答の中で、「本編でも原作準拠で、(和子が)昔あったことは覚えていないつもりで作品を作った。」と発言されたらしい。その証拠としてこの記事が示されている。
時を駆け巡る少女跡地の第十八話

そういうわけで、記憶を失っていたという解釈でも問題ないようだ。こちらが正解というよりも、どちらでも解釈可能だということだろう。でも、記憶を失ったままだというのならば、真琴に話した初恋の話は何だったのかということになる。それに対しては、正体を隠した深町君本人か、彼を漠然と思い起こすような似た誰かにすぐに出会って、二度目の初恋をしていると考えてもいいだろう。記憶を取り戻せないならその解釈しか思い浮かばない。

高校の時というその二度目の初恋は、物語での深町君との出会いが高校二年生の設定でも中学三年生の設定でも、どちらでも可能だろう。映画版では、数年後研究室の廊下で互いに記憶を失った二人が再会するという設定なので、このアニメにつなぐにはその設定を放棄する必要があるし、小説版では年代設定を1960年代から映画が公開された頃の1980年代前半に移さないといけないが、そのくらいの設定変更はわざわざ指摘するまでもないだろう。この和子の設定は、原作小説と原田知世版のほどよいブレンドか、アニメ版コミックの設定なのか、観客の好みに応じて考えてそれに合わせた解釈をすればいいと思う。でも一度、原田知世版を見てしまうと、この作品の比重がとても強くなってしまうのは避けがたい。



また未来人がいつから来たかはアニメ版ははっきりしていない。小説版の設定をアニメ版でも踏襲するかで、「未来で待ってる」の意味さえ変わってしまう。つまり真琴が生きて会えるくらいの未来なのかどうか。しかし、ここははっきりしないほうがいろんな未来を想像できるのでいいだろう。



功介の事故の前の坂道で、真琴が「久しぶりに話すね。」と言ったことは観客にとっては違和感がない言葉だが、よく考えると、千昭の記憶と真琴の記憶に食い違いがいつ起きたのかがはっきり描かれていない。

飛び込み台からのタイムリープで真琴は13日の朝にやってくる。一回目の13日と同様に寝坊して、あまりにあわててしまったので、あの危険な自転車に乗ってしまった。このとき一回目の13日の朝のような千昭との会話をしなかった可能性がある。試験が終わると、周りの誰とも話をせずすぐに未来方向へ小さなタイムリープをして校庭でのジャイアントスイング作戦を企てにいけば、試験以後の千昭との会話も避けられる。そうやれば真琴は千昭と話すことなく坂道に来られる。

この未来へのタイムリープの間、飛び越えた時間の間の真琴の存在はどのようになったのだろうか。小説のタイムリープの理論からすると、この間にも真琴は存在していなくてはいけない。そのときの真琴は上書きされる前の真琴になるのではないだろうか。この期間の真琴はタイムリープで未来に向かう前の記憶は持たない。そしてタイムリープで校庭に現れた瞬間に、この真琴は突然姿を消してしまう。このとき飛び込み台から13日の朝にタイムリープしてきた記憶を伴った真琴になる。未来へのタイムリープの間の上書きされていない真琴は千昭を意識していないので普通に千昭と会話をしているのだろう。千昭は覚えていても、タイムリープで少し前の過去からやってきた今の真琴はその記憶を持っていない。これが記憶に食い違いが生じた理屈だろう。

追記:これは記憶の食い違いなどなく、千昭がカマをかけたと考えた方がシンプルでいいかもしれない。上のような未来への短いタイムリープの間に起きたであろう出来事の推測では根拠としては弱すぎるし、この飛び越えた時間は調理の時間なのだけど、一回目のこの時間に千昭と会話している描写は元々ないから。カマをかけて、ここで真琴が話を合わせてきたら、それは千昭にとって動かぬ証拠であるし、そこまで確認してからでないと、重大な秘密であるタイムリープの話題は切り出せないだろう。



千昭はクルミをいつ見つけたか。以前の解釈では止まった時の中で、クルミを探してきたと考えた。今思うと、上記「問答集」に書いてあるように、理科実験室に真琴が入る前と考えた方がわかりやすいだろう。ジャイアントスイング作戦が成功したために、功介は怪我をした果穂に構わないといけなくなった。そのため千昭は功介と絡んだ行動をしないことになり、他の13日の放課後の行動と変わってきてしまう。千昭は一回目の13日よりも早く理科実験室にやってこれてたっぷりとその中を探すことができただろう。そして真琴がやってくる前に使用済みのクルミを見つけられたのだろう。

真琴よりも先にきているのにクルミが使用済みなのは、真琴が河原でのタイムリープでクルミに触れる前の時間に戻れたことからも分かるが、チャージした人間がそのチャージした前の時間に戻っても、その能力は失われないためである。当然クルミの使用不使用の状態も時間を超えて不可逆でなければならない。これができてしまうと記憶を失うことなく装置の無限使用が許されてしまう。これがチャージした者とは別の者のタイムリープだとどうなるかは分からない。千昭にタイムリープの余裕がありタイムリープでここに来たのならば、真琴のチャージそのものをなかったことにできたかもしれない。



止まれ止まれと叫んだあと時刻の帯が0:37の数字で止まる。はっきりと16:00:32と表示されているところに、真琴の叫ぶカットが入って、それから0:37と表示されるので、普通に見ているとそのまま16:00:37と思ってしまう。

でもこの16:00:37は千昭と真琴が過ごしている止まっている時刻とは違う。千昭の後ろにある時計は15:30頃になっている。千昭がこの現場に駆けつけてタイムリープを行った瞬間の時刻にしてもあまりにも早すぎて考え難い。たとえ千昭がテレポーテーションの能力を持っていたとしても、事故が起きた数十秒後にこの事故のことを知ってここに来ることは考えにくい。おそらく、この数字は15:30:37のことで、千昭と真琴だけ動ける時が止まっている時刻を表している。

黒背景の中に赤いデジタル表示の時間の帯は、コントロールできない本来の時間を表している。これは映画冒頭と、ここと、最後に出てくる。しかし、この場面ではコントロール不可能なのにどうして時間が止まるのだろうか。実はここは二つに別れていて、それぞれで表現が異なっている。黒背景なのは前者だけで、それは一貫して無情に流れ続けている。

タイムリープの中で現れるのは赤いデジタル表示の時間の帯の周りにさらに黒い帯状のものが取り囲んで、それが白背景の中に浮かんでいる。歯車のようなものもみえる。0:37という表示は黒の中に赤い数字で描かれているので、これは一見、黒背景の中の赤い数字のように見えるが、実際は白背景の中に浮かぶ黒い帯をアップにしているだけである。これは最初の踏切でのタイムリープについてもいえる。



あの千昭が見に来た絵は戻れなかった未来人の作品ではないかと去年は考えた。千昭にとって重要な人がどこか分からない過去から戻れなくなって、いろいろ調べたらこの時代にその人物が描いたらしい絵が発見されていたので見に来たと。

でも今思うと、あの絵の作者を未来人にしなくてもいい。他の未来人の存在を仮定してしまうと物語は何でもありになるから、よほどの証拠がない限り持ち出さない方がいいだろう。つまるところ、どんなに危険でもどこにあっても見たいものというのは、千昭をこの時代にやってこさせるための設定である。それをいうと身も蓋もなくなるが。

ただ、限定版DVDの特典映像の中では両側に並べてある二つの作品も千昭の置かれている立場を表しているということも語られていたし、この展覧会の名前も意味ありげだった。それもヒントになるのだろう。この絵についての魔女おばさんが語った言葉も、そのまま千昭がこの絵を見て感じたかったことそのものだろう。



「未来で待ってる」の解釈として、千昭がもう一度タイプリープしてきてもそれはどれも真琴にとっては未来だから、この台詞はもう一度帰ってくることも意味し得ると去年書いていた。今読むと自分でもこじつけっぽく感じてしまう。どちらにしても、過去の人物にタイムリープの秘密を知られたのだからクルミを手に入れる機会は永遠に失われると考えた方がいいだろう。

今回は、「未来で待ってる」は、君を忘れないで未来で生きるというニュアンスに感じた。もうこの時代には戻れないだろうが、未来に戻っても君のことは忘れない。そして、真琴が言ってくれたように、あの絵が残っていることを信じて帰ると。

真琴の方も、千昭が未来で待っていると言ってくれたことを、つまり未来から自分を思ってくれていることを幸せに感じているだろう。絵を未来に残すことは当然だけど、それ以上のものを真琴は千昭に伝えようとしているのだと思う。

未来にいる千昭は歴史の記録の中で真琴のその後を知る。真琴はそのことが分かったのだろう。自分の人生が残したものを見て、つっこんでくれたり、微笑んでくれたり、愛おしいと思ってくれたりする未来人千昭がいてくれる。つまり真琴の生きた人生そのものが、未来で待っていてくれる千昭へのメッセージになる。それを幸せだと感じたのだろう。これがラストで、とっても切ないはずなのに、未来に向かって生きようとしている清々しい真琴の表情の理由だと思う。


posted by takayan at 03:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 時をかける少女 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする