2009年01月12日

デューン 砂の惑星 中巻:呪われし砂漠の民

ミステリチャンネルで見た「デューン 砂の惑星」中巻のこと。
このシリーズはよくできていると思う。一度見ただけでは分からないところもあるけれど、丁寧に描写を見ていけば、原作を知らなくても、理解できるようにできている。かえって哲学的な原作を読むより、内容がつかみやすいかもしれない。原作の小難しさが好きなくせに、変な薦め方ではあるけれど。


中巻は、砂漠へ逃れたポールとジェシカが、砂漠の民フレーメン(ドラマではフレメン)に受け入れられて、二人がフレーメンの指導者となっていく話。ストイックで奇異な習俗を持つフレーメンと共に物語が進んでいく。それを補う形で、本筋とは違うところでイルーラン姫が密かに大活躍する。イルーランを通してこの世界の権力争いの裏側を分かりやすく示してくれたり、フレーメンと対極にある享楽的なハルコンネン家の描写を盛り上げたりしてくれる。

原作にイルーラン姫のこんな場面はあったかなと思ったが、Wikipediaによると、これはこのドラマ独自の展開らしい。イルーランは後の小説ではいろいろ暗躍し、かなり重要な役割を果たすことになるのだけど、原作小説ではほとんど出番がない。それを自然に描くために、監督が話を拡げたらしい。デューンシリーズの小説では、各章の頭にエピグラムとしてデューン世界の様々な文献からの引用が置かれている。イルーランの書いた文献が何度も使われている。そのため、小説を読んだ者にとっては、物語自体ではそれほど印象はなくても、存在感のある登場人物になっている。しかし、ドラマだとそうはいかない。ナレーションでエピグラムを読み上げるだけでなく、やっぱり物語の中でエピソードを積み重ねて描いてみせないと印象に残らない。いくら何でも皇帝の娘がそこまではしないだろうと思うような場面もあるけれど、イルーランだったら、若いときからこれくらいの行動力や情報収集能力は、あってもいいかもしれない。

日曜洋画劇場あたりは、映画の宣伝とは関係ないB級映画をときどき放送しているけど、B級映画を放送するぐらいならその枠でこのドラマシリーズを放送すればよかったのにと思う。上巻と中巻を見終わってそう思った。2000年のドラマなので今更ないだろうが、やってれば日本でもそれなりに評価されたんじゃないかと思った。ただ中巻は官能的な場面がいろいろ出てくる。このドラマがアトレイデ家の一族の物語なのでしっかり子作りの描写もあって、それ以外のサービスシーンもいろいろあって、今の日本の地上波では頻繁にカットされまくっただろうけど。


それはそうと、この中巻のタイトル「呪われし砂漠の民」は違うんじゃないかと思った。この砂漠の民とは、砂の惑星アラキスに住むフレーメン達のことなのだけど、原作読んでも実際このドラマを見ても彼らが呪われているなんて思わなかった。砂漠という過酷な環境を生きる彼らは畏敬の対象でこそあって、呪われたという言葉で形容するのは不適切に思う。なんでこんな言葉にしたのだろう。仲間の死体から水を絞りとったり、原始的な形に変質した信仰を持っているからなのだろうか。彼らの生き方が虐げられているように見えるからだろうか。この中巻のタイトルは、日本独自なのか、英語もそうなっているのだろうか。


posted by takayan at 23:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | DUNE | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする