このようにヴィーナスを二つに別ける考えは、プラトンに由来する。ボッティチェッリもメディチ家が開いていたプラトン・アカデミーに出入りして、新プラトン主義の影響を受けていると言われ、この二つの作品はその思想を体現したものだとされる。
この考えは、プラトンのどの著作から来ているのかを調べると、『饗宴 Συμπόσιον 』の中の言葉だとわかる。ペルセウスプロジェクトからその箇所の冒頭(古典ギリシア語原文は、引用元ページの Greek リンクをクリックすれば見られる)を引用すると、
(引用元:Plato, Parmenides, Philebus, Symposium, Phaedrus)
We are all aware that there is no Aphrodite or Love-passion without a Love. True, if that goddess were one, then Love would be one: but since there are two of her, there must needs be two Loves also. Does anyone doubt that she is double? Surely there is the elder, of no mother born, but daughter of Heaven, whence we name her Heavenly; while the younger was the child of Zeus and Dione, and her we call Popular.まさに天上のヴィーナス、世俗のヴィーナスとは何かが説明されるときにいつも語られる言葉そのものだ。ウラノス(天)の娘の方を天上のヴィーナス、ゼウスとディオネの娘の方を世俗のヴィーナスという。プラトン・アカデミーの中心人物マルシリオ・フィチーノは、プラトンの著作を翻訳した人だが、後世に大きな影響を与えた『饗宴』の注釈書も著している(未読)。ヴィーナスを描いたボッティチェッリが、この思想に触れていたのは、十分考えられることだ。”状況的”には問題ないだろう。最初から発注者に対になるように求められたものではないにしても、作者により一連の思想のもとに作られたという可能性まで否定する必要はないだろう。
それはそうと、一晩経って、パリスの審判の三人の女神と三美神の混同はないなと思った。雲のヘレネを出すぐらいなら、雲に化けた好色ユピテルのほうがよっぽどいいだろう。ただの思いつきならいくらでも説は作れる。メルクリウス(ヘルメス)が出てくる古典の一節とか、明確な根拠を示さないと意味がない。そしてそれは誰もが探し尽くして、それでも見つからないのだろう。