まず、以前ルキアノスの記述の中に花嫁を祝福する神々とその真打ちとして現れたアフロディテの描写があると書いたが、物語のその場面の雰囲気をよく表した絵を見つけたので紹介する。ノエル=ニコラ・コワペルの『エウロペの略奪』だ。

この絵が直接ルキアノスの記述をそのまま描いたものかは分からないが、同じ場面、まさしく白い牡牛のゼウスとその背に乗ってエウロペが海を渡るのを神々が祝福する場面だ。集団の後ろの方にアフロディテがいる。他の女性とは貝殻で区別されている。ただこの絵では寝そべっていない。三叉の矛を持ったポセイドンと話をしている。花は舞っていない。
この時点では、この絵のように貝に載るアフロディテは、誕生を表すのではないと考えていた。
「ウェヌス・アナデュオメネ」という語句は、海から誕生するウェヌスを描く芸術作品の一つの形式を表している。日本語では「海から上がるヴィーナス」と訳されている。「ウェヌス・アナデュオメネ」を紹介するときよく例に出されるのは、次のポンペイの壁画。

ラテン語の単語 anadyomene は、元はギリシア語で、綴りは ἀαναδυομένη 。この形は文法的には中動態動詞の現在分詞女性主格。簡単に言うと、「〜〜している・・」の形。古典ギリシア語の辞書は持っていないので、参考までに現代ギリシア語辞典で αναδύομαι を調べると、意味は「emerge, break surface」とある。venus anadyomene の訳と比べて、現代もほとんど同じ意味で使われていると考えていいだろう。生まれる、現れるなどの意味がある。
何か情報はないかと、アフロディテの誕生について書いてある Theoi Project の STORIES OF APHRODITE 1 : Greek mythology を見てみると、文章で書いてある部分はほとんど知っていることだったが、載っている写真の中に初めて見るものがあった。二人の蟹頭のイクチオケンタウロスとアフロディテ、その上に二人のエロスたちが描かれている。イクチオケンタウロスというのは、名前から分かるように半人半馬のケンタウロスに似ていて、ただしその馬の体の後ろ半分が魚のしっぽになっていて、さらに頭の両側にロブスターのはさみのような角をもっている。この二人にはギリシア語で名前が添えられているモザイク画もあり、それにはアフロス(海の泡)とビュトス(海の深み)となっている。
そのページで紹介されている写真は、アペレスと同時代紀元前二世紀の赤像式の壺や、例のポンペイの壁画のヴィーナス、ローマ帝国時代のチュニジアのブラ・レジア遺跡にあるモザイク画、ローマ帝国時代のシリアのスウェイダ博物館にあるモザイク画。イクチオケンタウロスのページを開いてみると、さらに、トルコのガジアンテップ博物館にある壁画など、似たモチーフの絵が紹介されている。アペレスよりも先にトリトンとアフロディテのモチーフがあったのではないかと想像することはできるが、そこに提示されている画像はアペレスと同時代の物はあってもはっきりと古い物がないので、これだけの情報では断言できない。
トリトンとアフロディテのことを、さらに探すことにした。
イクチオケンタウロスのページでは、紀元前64年生まれの著作家ヒュギーヌスの作品(とされる)『神話集』が紹介されている。その第197節にvenusについての記述があり、今まで聞いたことがないウェヌスの誕生の話が書いてある。一般に知られているものとは別の魚座の由来とともに書かれている。
ラテン語原文
引用元:Hyginus: Fabulae
VENUSそして、参考までに英語訳
In Euphratem flumen de caelo ovum mira magnitudine cecidisse dicitur, quod pisces ad ripam evolverunt, super quod columbae consederunt et excalfactum exclusisse Venerem, quae postea dea Syria est appellata; ea iustitia et probitate cum ceteros exsuperasset, ab Iove optione data pisces in astrorum numerum relati sunt, et ob id Syri pisces et columbas ex deorum numero habentes non edunt
引用元:Classical E-Text: HYGINUS, FABULAE 150 - 199
Into the Euphrates River an egg of wonderful size is said to have fallen, which the fish rolled to the bank. Doves sat on it, and when it was heated, it hatched out Venus, who was later called the Syrian goddess. Since she excelled the rest in justice and uprightness, by a favour granted by Jove, the fish were put among the number of the stars, and because of this the Syrians do not eat fish or doves, considering them as gods.ラテン語原文から訳出してみると、次のようになる。
「天からユーフラテス川に驚くべき大きさの卵が落ちてきたと言われています。魚たちはその卵を岸に運び上げました。鳩たちはその卵を抱きました。温めることがウェヌスを卵から孵(かえ)しました。彼女はのちにシリアの女神と呼ばれました。女神は他の誰よりも正義と高潔さに優れていました。ジュピターの与えた選択により魚たちは星々の中に運ばれました。シリアの人たちは魚と鳩を神々だと考えているので食べることはありません。」
魚座の由来でよく言われているアフロディーテとエロスの親子が怪物テュポンに怯えて魚に身を変えて逃げたという話は、同じヒュギーヌスが書いたとされる『天文詩』の第2巻30節にある。この日本語訳はヒュギーノスの星座物語で公開されている。二つの話は内容が違うのだけど、物語の構成がとても似ていて成立に何らかの関係があることはすぐにわかる。
Theoi Project のイクチオケンタウロスの説明してあるページでは、イクチオケンタウロスとアフロディテは、この卵の物語と関係があるのではないかと示唆している。つまり、この魚とイクチオケンタウロスが対応する。岸に運ぶことが描かれている点で、アフロディテの誕生神話との関連を思わずにはいられない。ユーフラテス川やシリアという言葉があるので、メソポタミア由来の神話がもとになっているのは間違いないだろう。そこでシリアの女神を捜してみるとアタルガティス(Atargatis)という名前を見つけることができた。
女神アタルガティスについての神話は、Wikipedia に次の記事がある。
Atargatis mythology - Wikipedia, the free encyclopedia
日本語でも以下のページでいろいろな話が紹介されている。先に挙げた『天文詩』の中の魚座の物語もそうだが、ウェヌス(アタルガティス)にまつわる話で、構成要素と最後の文が同じで内容が違う物語がいくつか見つけることができる。
・魚座編・12星座の神話と由来
・うお座(2)、みなみのうお座 - 切手に見る星のギリシャ神話(3)
・Ktesias 断片集(2/7) [2,4]
人の顔に魚の形としても描かれるアタルガティスの存在が元になったと考えると、アフロディテ(ウェヌス)と海との深い結びつきも理解しやすくなるだろう。上掲の『エウロペの略奪』の絵も、アフロディテとともに、鳩の代わりとなるエロスたち、そして魚の代わりとなるトリトンやネレイスが描かれている。ポンペイの壁画も、エロスとトリトンが一人ずつだけれど、ちゃんとウェヌスの卵の物語につながるモチーフが使われている。ウェヌスが描かれている場面は、どれも誕生のモチーフを引き継いでいることになる。
ボッティチェッリの『ウェヌスの誕生』も(意図したわけではないだろうが)ウェヌスの卵の物語の変形と解釈することができるだろう。二人の有翼の風の神が、翼によって鳩を象りながら、女神を運ぶという魚の役割を演じている。体を温める役割がホーラたちの一人に受け継がれていると見ることもできる。
鳩が温める卵は「丸」い形をしていて「殻」がある。つまり「泡」にも「貝」にも置き換えることができる。様々な文化や時代、場所を経る毎にいろいろな言葉の置き換わりが起きたのだろう。『神話集』で書かれた「卵」自体、既に置き換わった物なのかもしれないが、卵という存在ほど誕生という場面にピッタリなものはない。