最終回は、檀れい演じる希和子視点ではなく、北乃きい演じる二十歳になった恵理菜(薫)の視点で描かれていく。そこが大きくドラマの雰囲気を変えている。先週までの逃避行の緊張感が無くなったせいもあって、別のドラマを見ているような感じさえしてしまう。
いままでも断片的だったが、成人した薫の場面は出てきていた。そして彼女は決して幸せではない生き方をしていることも分かっていた。不倫の子を宿し、現在の彼女は表情の乏しい女性となり、希和子を慕う感情も失っていた。この最終回は、薫が自分の生い立ちを受け入れ、これからの人生を歩んでいくための物語になっている。
希和子と引き裂かれ、実の両親の元で暮らすようになった薫は、幸せな少女時代を過ごすことはできなかった。実母にとってみれば、自分の娘なのに赤ん坊の頃から5年間半の長い逃避行の間に薫に染み付いた憎くて憎くてしょうがない女の影を見続けなくてはいけない日々なのだから、どんなに娘を愛していようとわだかまりが無いほうがおかしいだろう。薫にとってみれば、自分の自然な言動なのに、それに憎しみを向けてくる母に対し自分が愛されているという実感を心から抱くことはできなかっただろう。あの女さえいなければ、何事も無く幸せな母と子になれたのにという実母の痛切な想いは、やがて薫自身にも希和子を憎ませ、希和子に大切に愛されていた子供時代を心の奥底の見えないところに隠させてしまったのだろう。
薫は成人し、やがて皮肉にも希和子と同じように不倫の子を妊娠してしまう。そのことを母に告白し、さらに希和子と同じように堕胎するつもりだと伝える。その話を聞いているうちに母は激昂し、彼女を何度もひっぱたき、彼女の体を掴んで揺さぶりながら、なんで私を苦しめるのと嘆く。薫はそのとき、母の激しい言動に対しても、泣くことも無く、ただ無表情に受け止めることしかできない。これが現在の母と子の関係の象徴的な描写になっている。
薫が巻き込まれた誘拐事件の本を書きたいと現れたホームの頃の幼馴染マロン(千草)に連れられて、薫は小豆島へ向かう。薫はここに住んでいた頃の希和子の足跡をたどりながら、懐かしいその風景に接することで、断片的にだが、閉じ込めていた幼い頃の記憶をよみがえらせていく。二十四の瞳の分校で母と楽しくやった学校ごっこや、お遍路の道での蝉の抜け殻とともにあった記憶も思い出していく。写真館には、紛れも無く親子であったことを物語っている幸せそうに二人で写っている写真も置いてあった。
そして、偶然に海から帰ってきた、歳をとった文治と港で再会する。希和子が逃避行の間、たった一度だけ心を許した男性。岸谷五朗演じる文治は、希和子と薫の二人が互いを思いやる本当の親子であったことを証言してくれた。そして、薫がどうしても思い出せない逮捕のとき希和子が叫んでいた言葉を、薫に教えてくれた。その言葉をきいて、薫はその場から走り去り、二人から離れたところにしゃがみこむ。そして、お母さん、お母さんと言いながら泣き出してしまう。引き離されてからずっとこの十数年間閉じ込められていた薫の感情が、このときやっと溢れ出したのだろう。文治の存在は、この物語で肩身の狭い男性にとっても救いになる。
薫と幼馴染のマロンは、フェリーに乗って小豆島を後にする。あきらかに薫の表情が来るときと変わっている。失ってしまっていた全てのものを取り戻すことができたそういう表情だ。言葉も幼いときに実母に禁じられていたはずの方言に戻っている。そして、幼い頃からの美しい風景の話をしながら、このきれいな世界を見せてやりたいと、子供を産むことを決意する。そのとき、薫の名を呼びながら防波堤を走る人影に気づく。もちろんそれは文治だ。がんばりやと叫ぶ文治に、薫はしっかりと手を振り返す。自分の子供時代を知ってくれていた文治の想いにしっかりと応えることは、彼女が育ったこの場所と彼女を育ててくれた人たちへの感謝の気持ちも表しているのだと思う。子供を産む決意をしたとたんのこの文治からの応援は、彼女の成長を見守っていた私たちからの、その決断を応援したいと思っている気持ちの代弁でもあるように思う。
薫は船の上から母に電話をかける。子供を産むことを決意したことを伝えるために。母は泣きながら仕方がないとあきらめたように許してくれる。生まれてからずっとできていなかった実母との本当の和解になったと思う。母も恵理菜(薫)の出産を受け入れることで、いままでの苦しかった人生に救いを得ることができたのではないかと思う。このときの、全ての元凶である津田寛治の情けなくも娘を思いやる父親としての姿も地味にいい。
そして、いよいよ今回の大きな見せ場となるべき希和子との再会。このシーンでは薫の視点から希和子の視点に戻っている。希和子は、小豆島を海の向こうに臨む岡山の船着場で働いていた。7年間の服役の後、各地を転々とし、一度は小豆島に渡ろうとしたが、勇気が出ず渡ることができなかった。そして、この船着場で売店の店員になっていた。
フェリーを降りた薫とマロンの二人は、何も知らずにここで休憩をすることになる。妊娠している薫を気遣って、売店にはマロンが向かったので、希和子と薫が直接顔を合わせることにはならなかった。ただ希和子は席に座っている薫の姿を見つけ、幼い頃の薫に似ていることに気づく。でも、それは薫を探してしまういつもの癖が出ただけだと自分で打ち消してしまう。彼女たちが去り、置いていった空き缶の後片付けをしようとテーブルに近づくと、そこには空き缶だけでなく、蝉の抜け殻が置いてあった。そのとき、希和子はやはりあの女性が薫であることを確信し、あとを追いかけてしまう。
走っていくと希和子は二人の後姿を道路の向こうに見つける。そして立ち止まり思わず大きな声で薫の名を叫んでしまう。すると向こうにいる薫も希和子の方を振り返る。タイミングよく薫は振り返ったものの、すぐ近くを車が行き交っているし、一緒に歩いていた千草が振り向かなかったので、よく声が届いていなかったのかもしれない。薫の方から希和子を見ると、夕日のせいで、希和子の姿が光に包まれよく見えない。希和子も薫にもう一度声をかけるということはせずに、こちらを見つめている薫の顔をただ見つめるだけだった。お互いしばらく見つめあう形になったが、薫は向き直り、何事も無かったように歩いていった。この薫の仕草は、結局気のせいだと思ったのか、それとも分かっていて決別したのか、はっきりとはさせない演出だと思う。
薫は気付いたのか、いないのか、いろんな解釈ができるだろう。どちらにしても、希和子にとっては、夕日がまぶしくて自分の顔が薫によく分からなかったとは思いもよらないので、自分と決別し、薫が自分の道を歩いていくことを決めたように見えただろう。以前は力ずくで引き離されてしまった二人だったが、今回、薫は自分の足で希和子のそばから離れていく。彼女はそれを受け入れた。薫は大人となり自分を必要とはしなくなったのだと実感できたのではないだろうか。そう思えたのならばそれは希和子にとっても良かったんだと思う。
15年前の別れのまま、心のどこかで吹っ切れることなく今の薫に会いたいと思い続けることは、希和子にとっても苦しいことだったろう。希和子は成長した娘の歩んでいく姿を、優しく見守ってこの物語は終わる。本当の母ではない彼女にできることはここまでだろう。ドラマの中のいくつもの大切なシーンとともに、城南海が歌う「童神(わらびがみ)〜私の宝物〜」が流れてくる。この曲は、この物語を優しく包み込んでくれるほんとうに素晴らしい曲に思う。
最後に蝉について思ったこと。テーブルに置いてあった蝉の抜け殻はこの場面においては、彼女が大人となったことのメタファーでもあると思う。この物語では、蝉やその抜け殻は、胎児であったり、幼い頃の薫であったり、希和子の人生だったり、いろんなことを表しているのだろう。でもテーブルの上の抜け殻は人の親となることを決意した旅立ちの印だと思う。
希和子にとっては、愛人であった頃の自分は土の中にいた蝉で、薫の母となった短かかった日々は限られた7日間の蝉として生きた本当の人生であり、そして今の人生はその長く生きすぎた8日目の蝉なんだと思っているのだろう。15年前裁判で薫の両親に対しての謝罪を促されたとき、彼女は子育てをさせてもらったことの感謝を述べてしまう。正妻にとっては感情を逆なでする言葉以外のなにものでもないが、それでも彼女の本心はその感謝の気持ち以外にないだろう。
希和子が最後に独白するシーンの中に、海辺にある巨大な両の手を天に差し伸ばしたようなオブジェの間で、希和子が夕日の光に包まれた小豆島に手をさし伸ばし、その光を胸に大事に抱え込む象徴的な美しいシーンがあるのだが、彼女は短かったけれど薫とともに過ごした幸せだった日々を胸にこれからを生きていくのだろう。これから先、誰からも愛されない人生を生きることが希和子が犯してしまった罪の代償だとしても、彼女はこの大切な思い出とともに生きていくのだろう。
追記
このあと原作を読みました。
・小説「八日目の蝉」を読んだ 2010/05/16