2010年05月16日

小説「八日目の蝉」を読んだ

ドラマを見て原作を読むということはあまりやらないのだけど、今回は特別に読みたくなった。あるかなと滅多に行かないブックオフに寄ってみたら、しっかり一冊置いてあって、買って帰って、読んでみた。感想はというと、とても良かった。ほんと読んでよかった。ドラマの余韻も、いい意味で断ち切ることができた。小説を読んだ感想は、このドラマをとても適切に文章で表現しきっている。原作だから当然の話だけど、ドラマを先に見てしまうと、正直そういう感想を持ってしまった。NHKのドラマの方がもう頭の中にあるから、原作の展開は別のものとして見えてくる。

文章だけの小説と違って、映像と役者の演技で描かれるドラマでは、希和子の逃避行が物語の大部分になるだろう。そうなると必然的にこのドラマの主人公は希和子になってしまう。でも本当に小説でもドラマでも描かなければならないのは、恵理菜(薫)が失ったものを取り戻していく物語だろう。ドラマはそこを苦心し、そのために小説のいろんなものを削ぎ落とし、組み立てなおしている。その結果、北乃きいの力も手伝って、十分成功していると思う。もし原作を先に知っていたら、テレビで描かれていない部分も背景として知ってしまってテレビの物語を理解しただろうから、きっと今回ドラマを見た印象とはまた別の見え方がしただろう。そう思うと、NHKのドラマを先に知ってよかったのかなと思う。純粋にテレビドラマの物語を堪能できたのだと思う。

まだ小説を読んでいない人の楽しみを奪ってはいけないので、小説の内容はあまり詳しくは書かないけれど、いろんな点が違っていた。

ドラマでの、八日目の蝉は他の蝉が見られなかった景色が見られるという希和子の台詞は、希和子が心の中の薫に語りかける台詞として出てくるが、小説では少し違った内容で違う人物の言葉として出てくる。ドラマでは希和子 の台詞となるため、先日書いたときも八日目の解釈は希和子の人生に対してだけ考えていた。でも小説を読むとまた別なように考えることができる。

小説の構成は、まず三人称で書かれた短い第0章。そして希和子の一人称で書かれた第1章、これがこの小説の六割ぐらいある。第1章の終わりに大人になった恵理菜(薫)の独白のような文章があって、そこから第2章の恵理菜の視点の物語に切り替わる。そして第2章の最後にまた三人称の短い文章となり、物語が閉じられる。第1章は日付ごとに書かれていて、日にちが書かれ、そのあと希和子視点の文章が書かれる。それが逮捕の直前まで続く。その文章は、日記でも回顧録でもなく、彼女自身の視点によるそのときそのときの彼女が感じ話し聞いていることそのもの。それが逃避行に生々しさを与えてくれる。希和子と寄り添ってというより、希和子自身になって彼女の目で薫を見守り、逃げ続ける。一方、前半より少し短いが第2章は恵理菜視点になる。第1章の窮屈な視界から少し開放される。恵理菜の一人称は続くのだけれど、今の彼女の内面だったり、幼いときの記憶だったり、千草が集めた過去の事件の資料だったり、そして今の彼女に起きている現実だったり、いろいろ変わる。そういう彼女の心の周りにある様々なものに一緒に意識を向けて、一見冷静ではあるけれど確実にもがき苦しんでいる恵理菜の心をひしひしと感じながら話が進んでいく。

テレビドラマは見終わって、とても悲しくなった。それは希和子を中心に見てしまっているからだろう。彼女の心は満たされているかもしれないけれど、彼女の孤独な現実を思うと耐え切れなくなった。一方、小説の読後は、感動はしているのだけどあまり苦しくならなかった。ドラマでもちゃんと描かれていたけれど、過去を乗り越え未来に向かって生きていく恵理菜の姿が、小説ではまさにその中心にあるからだろう。小説の主人公は恵理菜だった。読み終えた後そう思った。

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posted by takayan at 03:21 | Comment(4) | TrackBack(0) | 映画・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする