2011年04月25日

《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について 2

フィチーノが『愛について』で書いたラテン語の文章:

Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.  Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo; prout in mundum transiens ipsum rapit, amor; prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas. Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.

本来フィチーノのこの文章は哲学の言葉らしく抽象的な言葉で訳されるのですが、これを具象的に、つまり絵画的に翻訳すると上記のように「春」の三美神の描写になります。

「ゆえに、神からアクセサリーを付けた像、そしてアクセサリーを付けた像から神の間に同じ一つの輪があります。これは三つの名前で呼ばれます。神のそばで始め、神を引きつけている像は、美です。アクセサリーを付けた像を越えて、彼女から奪おうとしている像は、愛です。先導者の方へ後ずさりして、自分自身に彼の業物を押しつけようとしている像は、快楽です。愛は美から快楽の方へ服を脱いでいます。」

つまり、三美神の描写はラテン語の言葉遊びだったわけです。英語でも日本語でも、翻訳されてしまった文章をいくら研究しても分かりません。原語の意味の幅を考慮しなければ出てこない難易度の高い答えです。ラテン語は誰でも分かるわけではありませんから、この解釈で正しいことを信じてくれと言うのも難しいでしょう。

ラテン語の desino という動詞は「終える」という意味ですが、服を脱ぐ(leave off)という意味もあります。これもこの絵で具象化されているわけです。そしてこの服を脱ぐ描写を描くことが、セネカの描写に加えて、三美神が従来の作品と違って服を着ていることの理由の一つとすることにもなるわけです。

この服の脱ぎ方のニュアンスを言葉で表現するのが難しいのですが、右肩の方で落ちないように止まっていて、そのあたりから留め具が開き始め、左に行くに従って大きく開いていきます。左から脱いでいると見えなくもないですが、始まりの地点を右として描いているように思います。もちろん、そう解釈しないとこの文章にならないので困ります。

このとても短いラテン語の文章を絵画的に翻訳することによって次のことが説明できるようになります。三美神のぞれぞれ女神の名前と並び順、三美神が伝統的な裸婦像ではなく服を着ていること、中央の女神の服が脱げかかっていること、三美神の左隣にいる女神が三美神の右端の女神に手をかざしていること、左右の二人の女神だけがアクセサリーを付けていること、三美神にメルクリウスへの恋愛感情があるかのように見えること、左と中央の女神が対立しているように見えること、そして彼女たちが伝統的な形に横に並んでいるのではなく輪を作っているということ。これほどこの絵に情報を与えてくれる文章は他にはみつからないでしょう。

 

他に三美神の重要な描写としてあるのが、右と左の女神が中央の女神の頭上で手を合わせて彼女を讃えるように王冠を作っている仕草ですが、これはこのフィチーノの文章からではなくオウィディウスの『祭暦』の文章に由来する描写だと思います。

protinus accedunt Charites, nectuntque coronas sertaque caelestes implicitura comas.

「すぐにカリスたちが近くにやってきて、神々しい髪に結びつけるための花の冠や飾りを編んでいます。」

ここで出てくる花の冠 coronas ですが、以前ここでは彼女たちが輪になっている姿そのものを表す言葉として解釈しました。しかし、すでに上記のフィチーノの言葉で輪になっている様子は表されているので、言葉のまま冠を作っている描写として解釈することにします。ただ花ではなく、左右の女神が手のひらを使って作っている点が違います。

また、動詞sero(connect) 由来の serta は、詩の上では花をつなげた飾りとなりますが、この絵では三人の中の右端の一人の女神の髪にある真珠の髪飾りがこれに当たるでしょう。右横に立つ女神の手のひらで祝福されている美の女神の髪が、それを讃える手のひらの描写により、 caelestes comas (divinity hair 神々しい髪)となるわけです。そして残りの三美神たちも、美の女神に負けぬくらいそれぞれの個性に合った見事に結われた髪をしています。

 

ヴァールブルクが指摘しているアルベルティとセネカの三美神についての文章も書いておきます。これは三美神の衣装についての典拠です。

アルベルティの『絵画論』の第3巻にある第54節です。アペレスの《誹謗》の描写のすばらしさが書かれた後の節で、この三美神の描写と、画家は詩人や学者に親しむべきだという主張が書かれています。

この節で重要な三美神の描写が次の一節です。

Piacerebbe ancora vedere quelle tre sorelle a quali Esiodo pose nome Egle, Eufronesis e Talia, quali si dipignievano prese fra loro l'una l'altra per mano ridendo, con la vesta scinta et ben monda;

「Esiodo(ヘシオドス)が、Egle(アグライア)、Eufronesis(エウプロシュネ),Talia(タレイア)と名付けた三姉妹を見ることができたなら喜ぶことだろう。この三姉妹は、帯を取ったとても清潔な衣裳を着て、微笑みながらお互いの手を握って、描かれていた。」

帯のない服を着て三美神が手をつないで踊っている描写です。ボッティチェリは《アペレスの誹謗》を描きますが、この《プリマヴェーラ》も同じようにアルベルティの書いたこの助言に従って描いたのかもしれません。

調べれば調べるほど、ボッティチェリによるこの絵の三美神の描写に対して並々ならぬ配慮が見えてきます。この絵は三美神を中心に描かれているように思えます。三美神のまわりの三神が、三美神それぞれの個性を描写するために存在し、さらに画面の右側の三神は「祭暦」の描写に則って三美神の出現の必然性を描写しています。すべてが三美神のために構築されていると考えられます。《ウェヌスの誕生》と《アペレスの誹謗》が古代の絵画を再現するために描かれたものであるように、この《プリマヴェーラ》も古代の三美神を再現しようとした作品なのだと思います。

しかし、この服は清潔と言えば清潔なのですが、ちょっと違うように思います。少し調べていくと、これよりもぴったりな表現を見つけることができます。

アルベルティの三美神の表現が踏まえているとされるのが、セネカの 『De Beneficiis』 (恩恵論)の第一巻第三章です。ヴァールブルクの本によると、これはヤニチェク(Janitschek)の『Leone Battista Alberti's kleinere kunsttheoretische Schriften』(1877)という著作の注釈で指摘されたことです。

セネカの文章は既に具象的なものですから、余計な翻訳は必要ないでしょう。岩波書店のセネカ哲学全集2の小川正廣氏の訳を引用します。この文章を先に知ってしまうと、他の典拠なんて探そうとせずにもうこれで十分だと思ってしまうでしょう。

また、あのように女神たちが、手をつなぎ合って踊り、輪をなして元の場所に戻っていくのはなぜか。それは、恩恵は手から手へと順番に移り渡っていくが、それでも結局、最初に施す人に戻ってくるからである。そして、もしその順序がどこかで中断すると全体の美観は失われるが、順序がずっと維持されて交代の順番が保たれるなら、きわめて美しい物だからである。とはいえ、その輪舞の中でも、何か特別の敬意が、年長の女神に対して、ちょうど最初に恩恵を施す人に対するように払われている。女神たちの顔が明るくにこやかなのは、恩恵を与える人、あるいはそれを受ける人の顔がいつもそうであるからだ。彼女らが若々しいのは、恩恵の記憶が衰弱してはならないためであり、乙女であるのは、恩恵が純粋で混じりけがなく、あらゆる人にとって神聖なものだからである。また、この女神たちには、縛られたり制限されたりすることが何もないのがふさわしい。だから、彼女たちは、ゆるやかな衣を身に着けており、さらにそれが透き通っているのは、恩恵が人に見られることを望むためである。

ラテン語原文:

Quid ille consertis manibus in se redeuntium chorus? Ob hoc, quia ordo beneficii per manus transeuntis nihilo minus ad dantem revertitur et totius speciem perdit, si usquam interruptus est, pulcherrimus, si cohaeret et vices servat. In eo est aliqua tamen maioris dignatio, sicut pro-merentium. Vultus hilari sunt, quales solent esse, qui dant vel accipiunt beneficia ; iuvenes, quia non debet beneficiorum memoria senescere; virgines, quia incorrupta sunt et sincera et omnibus sancta; in quibus nihil esse adligati decet nec adstricti ; solutis itaque tunicis utuntur ; perlucidis autem, quia beneficia conspici volunt.

これを読めば、この文章を踏まえてボッティチェリが描いていると考えたくなります。三美神はまさに「ゆるやかで透き通った衣裳」を着ています。

セネカのこの文章があれば、誰もが三美神の典拠はこれだけで十分と思います。これだけのものがあれば、これ以外に探そうとは思いません。先述のフィチーノの文章を別な意味で読み解こうなどとも思わないでしょう。見えていたのによく見ようとしなかった理由もそこにあると思います。

セネカのこの表現が見つかれば、ボッティチェリはアルベルティとセネカの両方の表現を参考にして描いたと考えられるかもしれませんが、そう簡単ではありません。アルベルティはラテン語でも『絵画論』を書いています。当然ラテン語版の方がセネカの影響が分かりやすいです。該当部分を引用すると:

Quid tres illae iuvenculae sorores, quibus Hesiodus imposuit nomina Egle, Euphronesis atque Thalia, quas pinxere implexis inter se manibus ridentes, soluta et perlucida veste ornatas,

イタリア語の文章の方は普通に訳すと「帯を取ったとても清潔な衣裳を着て」となりますが、このラテン語版ではセネカの文章と同じ solutas と perlucidus という単語を使っていますので、「ゆったりとした透き通った衣装」と訳せます。つまり、ボッティチェリはアルベルティのラテン語の方の文章を知っていれば、セネカの文章を見なくても、あの透明な三美神の服を描けることになります。もちろん、ボッティチェリはさらにセネカを踏まえて描いたのかもしれません。右端の女神は他の二人に比べて長女然とした姿で描かれているようにも見えます。

このように見てみると、この作品は、アルベルティの『絵画論』の記述に触発されて、古代の三美神をボッティチェリなりに再現するために描かれた、三美神が主役の作品ではないかと思われます。「五月のフローラの庭園に現われる三美神」



posted by takayan at 03:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする