《プリマヴェーラ》(Primavera)、《ヴィーナスの誕生》(The Birth of Venus)、《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)とボッティチェリ(Botticelli)の神話画について独自の解釈を行ってきました。今回は残っていた《ヴィーナスとマルス》(Venus and Mars)です。いままでと同じ手法で解釈してみることで、以前示した《プリマヴェーラ》の解釈が何も特別なものでなかったことを明らかにしようと思います。ボッティチェリであっても神話画の基本は、やはり文章の記述そのものだったということを示そうと思います。
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Venus and Mars (Botticelli) - Wikipedia, the free encyclopedia
以前書いた《プリマヴェーラ》や《パラスとケンタウロス》の解釈では、従来の解釈とは女神が違っていると結論付けましたが、この絵においては女神が違っているとは言いません。彼女は愛の女神アフロディーテ(ヴィーナス)で、相手は軍神アレス(マルス)であることは否定しません。しかし、内容は違います。見てすぐ誰だか分かってしまうので、この絵をわざわざ調べようと思わなかったのですが、改めてこの絵も調べてみると、他のボッティチェリと神話画と同じくらい、とても興味深い絵だということが分かりました。登場する神々は一般的な解釈と同じですが、ここに描かれているのは従来とはまったく違ったものになります。
本題に入る前に、まず神々の呼び名を決めておきます。今回は、解釈の都合上、ギリシャ神話の呼び名で話を進めていきます。つまり、アフロディーテとアレスと呼ぶことにします。ローマ式とヴィーナスやマルスと呼んでもいいのですが、あとで引用する予定のギリシャ語との兼ね合いから、初めからアフロディーテと呼んでおきます。そのほうが分かりやすくなると思います。
ちなみに、ヴィーナスという名前はラテン語由来の Venus という言葉の英語読みのカタカナ化です。同じようにラテン語での読みをカタカナ化したものがウェヌスとなります。そしてギリシャ神話の名前はアフロディーテ(Ἀφροδίτη)となります。ラテン語で書かれたローマ神話が元になった話でヴィーナスを語る場合には、ウェヌスもしくはヴィーナスと呼ぶのが適切だと思いますが、ギリシャ語で書かれた物語が出典ならば、イタリア人の描く絵でもギリシャ語で名前を呼んだ方がしっくりくるでしょう。今回はそう書かせてもらいます。
それでは、絵の説明です。これは横長の絵です。向かって左側にアフロディーテがいます。足をゆったりと画面の右の方に伸ばしています。アフロディーテは普通は裸でいることで自分が何者であるかを誇示しているのですが、今回は金色の縁で飾られた白い服を着て、全身をそれで覆い隠してしまっています。胸元には、宝石の飾りがあります。中央に大きく透明な水晶のような丸い石があって、その周りを八個の小さな丸い真珠のような銀色の石がとり囲んでいます。他には髪にも装飾品はありません。アフロディーテは、画面左下にある金色の刺繍の入った薄赤いクッションに右ひじを乗せ体を支えています。左手は、長く伸ばした左足のひざのあたりに乗せています。伸ばした左足はずっと服の下にあるのですが、足首から先は裾から出ていて、なまめかしく草の上に置かれています。右足は服の下でよく見えないのですが、よく見ると左足の下をくぐっていて、左足のふくらはぎの向こう側に服に隠れた足先があります。彼女は向こうのアレスを見つめながら、何か物想いをしているようです。
アフロディーテの向かいには、アレスがいます。彼はバラ色の布の上で、口を半開きにしてぐったりと眠っています。戦いが終わって疲れ果てているのでしょう。アレスはアフロディーテと対照的に服は着ておらず、あるのは腰にかけてある白い布だけです。そしてアフロディテとは逆向きに、画面の右側に頭があって、左の方向に足を伸ばしています。アレスの背中にある布の下には鎧があります。アレスの上半身は、この鎧に背中と左ひじを乗せ、奥の大きな木に頭をもたれかけた姿勢になっています。右腕はだらりとして、右手は左ももの上に力なく乗っていてます。右手の人差し指はゆるく指をさすような形になっていて、その先にはアフロディーテの裸の足の甲があります。左に伸びているアレスの足はアフロディーテの太ももの近くまで伸びていますが、彼女の体には触れていないようです。右足の膝は立ててあり、その下を左足が通っています。左足のつま先には、薄赤い敷布の縁が包むようにかかっています。この薄赤の布はアレスだけのもののようで、アフロディーテの体は乗っているように見えません。
この絵にはアフロディテとアレスのほかに、4人のかわいらしい子供のサテュロス(Satyrus)がいます。額に白く短い2本の曲がった角があり、山羊のような蹄のある茶色の毛で覆われた動物の足をしています。ふつうアフロディテのそばにいる子供といえば、背中に羽のあるエロス(キューピッド)のはずですがここに彼はいません。子供のサテュロスたちはそれぞれ思い思いの子供っぽい無邪気な仕草をしています。
アフロディーテとアレスの体のすぐ向こう側には体を右に向けている3人のサテュロスが並んでいます。その中のアフロディーテのすぐそばにいるサテュロスはアレスの方に向かって、アレスの持ち物だと思われる大きな兜をかぶって、それから馬に乗って使うような大きな金色の槍を構えています。兜も槍も子供の彼にはとても大きすぎます。兜は大きいので顔が完全に隠れてしまって、彼自身槍をどこに向けて狙っているのか分かっていないでしょう。一番左の彼は一生懸命両手で槍の柄を抱えているのですが、小さな彼には持ち切れないので、途中をもう一人のサテュロスが抱えています。
槍の中ほどを抱え込んでいる真ん中のサテュロスは、大またで尻尾を跳ね上げ、その槍で突撃していくかのような勢いで描かれています。前が見えない後ろのサテュロスに代わって、この真ん中のサテュロスが目標を見ているのかというと、そうでもありません。彼は振り返ってアフロディーテの顔を見つめています。
もう一人のサテュロスがさらにその右に描かれています。このサテュロスは、一見大きな槍を一緒に抱えているかのように並んで描かれているのですが、よく見ると違います。彼は槍のこちら側にいて、ホラ貝を両手で支えて吹いています。貝はアレスの耳元にあり、アレスを大きな音でびっくりさせてやろうとしているのでしょうが、アレスには起きる気配がまったくありません。
もう一人のサテュロスは三人とは全く違うところにいます。アレスの体の下にある鎧の中です。鎧の中に入っていて、やっとその中から這い出してきたばかりといった様子です。鎧の頭や腕を出す穴から体を出しているので、その鎧を着ているような感じになっていますが、小さなこの子には鎧は大きすぎて、左手は頭が出るところから一緒に出てきています。そういう描写がいちいち子供っぽいです。このサテュロスは一人だけ別なところにいて特異な存在ですが、薄い服を着ている点でも他の三人とは違っています。もしかすると女の子かもしれません。
この絵にはいくつか妙なところがあります。まず一つはアレスの頭が寄りかかっている木にある蜂の巣です。この蜂の巣は、しっかり見ないと見つからないくらい、わざと目立たないように描かれています。おそらく絵の中に描かれているどの人物もその存在が見えていないでしょう。この蜂はいかにも何かの象徴的なものにみえるのですが、よくわかりません。もうひとつ、アレスの左手の下にある鉄の棒のようなものです。何かの武器なのかもしれませんが、これもよくわかりません。
背景ですが、絵の向かって左側アフロディーテの上半身、そして絵の右側アレスの上半身があるところは、木の枝がぎっしりと上まで茂っています。左右の茂みの間の、絵の横幅の三割弱にあたる中央部分がひらけて、向こう側の景色が見えています。地平線まで草原が広がっていて、地平線の右側には緩やかな山が見えていて、それから青空が広がっています。
この絵は一般的には、字義通り、愛は武力よりも強いことを表していると解釈されます。さらに新プラトン主義的な解釈によると、官能的な愛ではなく、理性的な愛の勝利となります。戦いの神のアレスが裸でぐったり倒れているのに、着衣のアフロディーテがしっかり起きており、それが新プラトン主義の愛を体現するこのアフロディーテの勝利を意味しているというわけです。また蜂はヴェスプッチ家の紋章であり、これは依頼者を示すものだと言われます。この絵に関しても、新プラトン主義やフィレンツェの人間関係といった、《プリマヴェーラ》や《パラスとケンタウロス》の一般的な解釈で行われているものと同じ手法で解釈されています。
もちろん、今回もこの解釈は採用しません。新プラトン主義とメディチ家を中心としたフィレンツェの人間関係は、ボッティチェリの神話画を読み解くのに必要ありません。これは僕の解釈で一貫しているものです。
この絵を詳しく眺めてみて疑問に思うのは次の点です。(つまり今回わかったことです。)
- どうして、いつもと違ってアフロディーテは裸ではないのか?
- どうして、アレスは眠っているのか?
- それぞれのサテュロスはいったい何をしているのか?
- 右端の暗がりにいる蜂にはどんな意味があるのか?
- アレスの右手の下にある棒は何なのか?
- どうして、子供がエロス(クピド)ではなくサテュロスなのか?
- そして、アフロディーテは何を思っているのか?
次回は、この絵の元となったと思われる文章を引用しながら、これらの問いへの答えと、絵に描かれている物語の新しい解釈を示していこうと思います。なお上に書いたこの絵の描写の解説は、それを踏まえた、解釈しやすい表現になっています。