2011年09月17日

《パラスとケンタウロス》 さらにもう一つの典拠

前回で全部そろったと思っていたら、さらにありました。

先日、この作品は紀元前四世紀の彫刻家スコパス(Scopas)に対抗して作られたのではないかと書いたのですが、調べてみると、もう一人アルテミスの関わる古代の彫刻家がいたことが分かりました。《クニドスのアフロディーテ》を作ったことで有名なプラクシテレス(Praxiteles)です。そう、あの「恥じらいのヴィーナス」の彫刻を一番最初に作った人です。彼のオリジナルは胸を隠してはいないのですが、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》に描かれている女神も、その系譜上にある、偉大な彫刻家です。

このプラクシテレスの作ったアルテミス像そのものは残っていないのですが、パウサニアス(Pausanias)が2世紀に書いた『ギリシア案内記』の10巻37章に、その記述があります。アンティキュラ市について書かれた文章の一節です。

馬場恵二氏の翻訳した文章を岩波文庫から引用すると:

同市の右側、市からせいぜい2スタンディオンほど行ったところに高い岩がそびえ立ち、その岩は山の一部なのだが、その岩の壁面にアルテミスの聖所が建立されている同女神の像はプラクシテレスの作品のひとつで、右手に松明を持ち、肩には矢筒を背負う。女神の左脇には一頭の犬がはべっている。この祭神像はとびきり背の高い女性を越す程度の背丈がある。

見るからに誤訳しがいのある文章です。

ギリシア語は次の文章です:

τῆς πόλεως δὲ ἐν δεξιᾷ δύο μάλιστα προελθόντι ἀπ᾽ αὐτῆς σταδίους, πέτρα τέ ἐστιν ὑψηλὴ−μοῖρα ὄρους ἡ πέτρα−καὶ ἱερὸν ἐπ᾽ αὐτῆς πεποιημένον ἐστὶν Ἀρτέμιδος: ἡ Ἄρτεμις ἔργων τῶν Πραξιτέλους, δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν, παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ: μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

岩の記述の部分も関係がありそうですが、それより重要なのは、アルテミスの描写の部分です。ここを細かく別の訳にしていきます。

δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ

δᾷδα は対格単数の女性名詞で、「松明」のことです。ἔχουσα は現在分詞の主格単数女性で、元の動詞ἔχωは「bear, carry, bring」の意味です。τῇ δεξιᾷ は与格単数の女性名詞で、「右手」のことです。

δᾷδα の主格単数はδαίς ですが、これを辞書で調べると、同じ綴りの言葉で別の意味の言葉があります。その意味は banquet,feast;food です。これは「宴会、食べ物」という意味でいいでしょう。

しかし、さらにここで banquet の意味を調べてみると、イタリア語の banchetto が出てきます。意味は同じ「宴会」なのですが、この語の元の意味を調べると、banco 机の縮小辞です。つまり、「小さな腰掛け、小さな机」となります。(ただし、この連想は δαίς が宴会の意味の banchetto だと書いてある当時の辞書の存在を仮定しています。)

τῇ δεξιᾷ を「右手に」ではなく、「右側に」と訳します。すると、こうなります。

小さな台を背負っている女性が右側にいます。

次。

καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν

καὶ は接続詞、τῶν ὤμων は属格複数の男性名詞で、意味は「肩」。この名詞は前置詞 ὑπὲρ の支配を受けて属格になっています。この前置詞は、「over,above,across」という意味になります。φαρέτραν は「矢筒」の意味で、対格単数の女性名詞です。

プラクシテレスの彫刻には矢筒を掛けられる肩を持っているのは女神だけですが、ボッティチェリの絵では、女神と半獣の二人です。ちょっとずるいですが、誰の肩かはっきり指定していないので、これは半獣の肩ということにします。

そして(半獣の)両肩の後ろには矢筒があります。

次。

παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ:

δὲ は接続詞。αὐτὴν の意味は「self」で、対格単数女性です。παρὰ は前置詞です。次に対格が続くので、意味は「beside」になります。κύων は主格単数の男性名詞です。意味は「dog,bitch;monster;」です。普通は「犬」と訳しますが、ここでは「怪物」とします。そしてἐν ἀριστερᾷ は「左側に」という意味です。

そして女性の左側に怪物がいます。

最後の文。

μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

δὲ は接続詞。μέγεθος は中性名詞の対数単数で、意味は「greatness, bulk, size; might, power, excellence; importance」です。μεγίστην は形容詞 μέγας 「large, great, big, grand」の最上級で、対格単数女性です。すぐ後の、γυναῖκα を修飾しています。これは対格単数の女性名詞で、意味は「女性」です。

ἄγαλμα は中性名詞の主格か対格で、意味は「ornament; splendid work; statue」です。通常はもちろん「彫像」と訳すのですが、今回はそうしません ここでは「宝石で飾られた者」と訳します。この名詞の輝いているイメージは動詞 ἀγάλλω (adorn,glorify)由来だと思われます。

宝石で飾られた者は、どんな女性よりも荘厳です。

 

文章としてつなぐと、ちょっとおかしくなるので、箇条書きにします。

・小さな台を背負っている女性が右側にいています。
・(誰かの)両肩の後ろには矢筒があります。
・女性の左側に怪物がいます。
・宝石で飾られた者は、どんな女性よりも荘厳です。

背負っている物は、原義としての banchetto ということになります。でも、波打つように曲がっていて、台にするにも、腰掛けにするにもちょっと使いにくそうですね。探せばボッティチェリの頃の家具に何か似たようなものがあるかもしれません。でも盾ではないことはこれで分かりました。

女神の服が宝石や指輪で飾られている理由も分かりました。彫像を意味する ἄγαλμα の別の解釈だったわけです。最上級をさらに越えているのですから、相当なものです。

 

このように、パウサニアスの文章から、人物の配置や、背負っている物が台であること、女神の服が宝飾品で散りばめられている理由が分かりましたが、何よりも重要なのは、これらの記述と絵との符合により、この作品がプラクシテレスが作った《アンティキュラのアルテミス》に対抗して描かれたと分かったことです。



posted by takayan at 09:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | パラスとケンタウロス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする