現在、ボッティチェリの神話画についてここに書いてきたことを本にしようかと、こつこつまとめていますが、改めて調べれば調べるほど、新たな発見をしています。実のところプログラミングをするよりも楽しい時間を過ごしています。
《プリマヴェーラ》の右から三番目にいる女神を、僕は『祭暦』を典拠として春を担当する季節女神ホーラたちの一人だと特定しています。しかし、現在一般的な解釈では、何故かエドガー・ウィントの説が大勢を占めていて、この女性は、隣の口から花を落としているクロリスが変身した後のフローラだとされてしまっています。
僕が書いていることは、ラテン語や古典ギリシア語の知識が多少なくては読めませんから、誰かに理解してもらうのは簡単ではないのは分かっています。それも、かなりねじ曲がった訳し方ですから、もう誤訳なのか何なのか分からなくなることでしょう。それは仕方のないことです。それに数学の難問を解いているようなものですから、信じてもらうのではなく、論理的に納得してもらわなくてはいけません。でもそれに必要な知識は一般常識の範疇を超えています。
とにかく、五百年誰も書いてないことを思いついてしまったのですから、書き残し、まとめてしまうことが、今の僕のやるべきことだと思います。
さて、今回も面白いことが分かりました。この発見は、かなり重要なことだと思いますので、ここに書いておきます。
上に書いたとおり、僕は『祭暦』の一節を引用して、右から三番目の彼女はホーラたちの一人だとしています。しかし、『祭暦』を典拠とするならば、ホーラたちを、三美神のように三人もしくは四人を描くべきなのに、どうして一人しか描かれていないのかという疑問が生じます。三人も描いたら絵がごちゃごちゃしてしまうからなんて考えていましたが、いままで解釈してきた経験からボッティチェリがそんな根拠のないことで、三人を一人にしてしまうことはないでしょう。ちゃんと一人にする根拠があるはずです。
『祭暦』のホーラたちが記述されているラテン語の文章は、次の通りです。
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;
これを日本語に訳すと、「装飾された服を着たホーラたちが一緒にやってきて、彼女たちは小さな籠に私たちからの贈り物を摘んでいきます。」となります。
この文章はこの絵の通りに思えたので、ホーラたちの人数を一人に変えただけで、そのままこの文章が描かれていると解釈してきました。しかし、そうではありませんでした。この文章もボッティチェリは別の意味に解釈して絵に描いていました。
Horaeという綴りは主語にするならば複数形しか考えられないのですが、主語にしなければ、単数形の属格/与格と同形ですので、一人のホーラを表せます。つまり、このHoraeが与格単数か属格単数であるように訳した結果が、この絵の描写に合えば、この文章そのものをホーラが一人しか描かれていないことの根拠とすることができるはずです。
では、やってみます。
以下の内容は、次のリンク先の《プリマヴェーラ》の画像を拡大しながら、読んでみてください。
http://www.googleartproject.com/museums/uffizi/la-primavera-spring-67
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
vestibus は女性名詞 vestis(服)の奪格複数か与格複数です。ホーラが一人である意味の文章にしようとしているのですから、これが複数だと困ります。最初から難題です。絵をよく見ると、腕のところに何か鱗状の模様の布を巻いています。これが何かは分かりませんが、なんだかヒントみたいです。vestis の意味をイタリア語で詳しく調べていくと、veste、abito、coperta、tappeto、tela、spoglia、lanugineとあります。注目すべきは spoglia です。これにも服という意味もありますが、蛇や昆虫の抜け殻を表す言葉です。調べた辞書ではvestis のこの意味の例としてルクレティウスの『物の本質について』4巻での蛇の脱皮についての記述が紹介されています。この鱗模様の布はずっと謎だったのですが、これで答えが出ました。vestibus は服 vestis と蛇の抜け殻 vestis の二つを差し示し、複数形で書かれていると解釈できます。
この語を修飾している pictis ですが、これは pingo(塗る)の完了分詞、与格複数もしくは奪格複数なので、ちゃんとvetibusに合っています。pingo の意味を調べると、イタリア語の dipingere(描く)、ricamare(刺繍する)、ornare(飾る)が出てきます。絵を見ると服の方は花柄の刺繍がされているように見えます。しかし蛇の抜け殻には花の刺繍があるのではなく、美しく装飾されているように見えます。それぞれ別々の意味で修飾されていると考えます。
incinactae は incingo(巻きつける、まとう、身につける)の完了分詞、女性形の属格単数、与格単数、主格複数、呼格複数のどれかになります。ここでやっと主格になってくれる単語が現れました。これを名詞化します。この節の動詞は conveniunt は convenio(集まる、一緒に行く)の三人称複数現在です。本来はホーラたちが主語になりますが、これだと一人のホーラを表せなくなってしまうので、incinactae を主語にして解釈します。
そうすると、妙な文章ですが、こうなります。
刺繍された服や装飾された蛇の抜け殻とともにホーラに巻きついたものが集まっています。
意味が分かりにくいですが、鱗模様の布が紐でとめてあったり、蔓の帯があったり、刺繍がされた服も長い紐状の襞があったり、やたら何かが巻き付いた描写になっていることを表しているとします。
次の文の方が分かりやすいです。
inque leves calathos munera nostra legunt;
leves は価値が低いという意味の形容詞で、ここでは「取るに足らない、粗末な」と訳せます。calathos は小さな籠のことで、calathusの複数形です。この絵では服をたくし上げてそこにバラの花がたまっている様子が描かれているので、籠はこれのことを表していると考えていいでしょう。本物の籠ではなく服で作った急拵えのものなのでlevesという形容も納得がいきます。
しかしこの籠は複数形のはずなのに一つだけです。数が足りません。それを補うために、さっきのようにもう一つのcalathusを見つけなくてはいけません。そこでヴァールブルクの本に書いてあった籠のイタリア語cestoをラテン語のcestusと解釈したために帯が描かれているのでは、という注釈を思い出して、この知識を使います。彼女の胸の下あたりには、バラの花と蔓で作った帯があります。これもあまり立派なものには見えませんので、levesという形容がぴったりです。
これでcalathusが文章の通り複数になりました。この帯と籠に、同じようにバラが使われていることからも、この二つのものが組になっていることが分かります。ホーラは花冠と花の首飾りも身につけていますが、使われている花の構成が帯、籠とは違っています。
munera nostraは、私たちの贈り物という意味になります。これは本来の意味と同じですが、格を違うものとして解釈します。この語形は主格、対格、呼格の解釈ができます。本来の訳ではこれは対格つまり目的語として訳していますが、今回はこれを主格として訳してみます。leguntは動詞の三人称複数で、本来の訳では、「ホーラたち」を主語にして他動詞として解釈していますが、今回は「私たちの贈り物」を主語とする自動詞として解釈します。「私たちの贈り物」の「私たち」は誰のことを指しているのかというと、この文章はずっとフロラ自らがオウィディウスに語っている台詞なので、フロラを含んだ意味になります。複数形なのは、夫であるゼピュロスも含めているからです。絵をよく見ると、頬を膨らませたゼピュロスの口から白い線となって息が出ていますが、その延長線上に女神の口があって、そこからその方向に、葉の付いた花が落ちていきます。そしてさらにその落ちていく先に、ホーラの帯と、籠があります。夫婦で協力して贈り物をしているので、「私たちの」という表現で合っています。
そういうわけで、二番目の文章は次のようになります。
私たちの贈り物は粗末な帯と籠の中に集められています。
この訳を受け入れるならば、次のことが言えるでしょう。いまさらですが、ホーラの腕に縛り付けられている鱗模様の布はどう見たっておかしな物体です。まさしくこの解釈が唯一のこの描写への解答となるでしょう。またホーラとフロラとゼピュロスの配置に無理矢理感があるのは、この二番目の文章を再現し、贈り物を風に乗せて帯と籠に送る構図を作るためだったわけです。僕自身も間違っていましたが、この絵の中でゼピュロスがフロラを抱えているのは、彼女を略奪するためでも、ましてや略奪してきた彼女を地上に下ろすためでもなく、この文章を的確に再現するためだったことが分かります。
今回の解釈から分かることを簡潔にまとめると、次のようになります。
・ホーラが一人しかいないこと
・ホーラの腕の鱗模様の布がヘビの抜け殻であること
・ホーラの右にいるのがフロラたちであり、彼らが贈り物を贈るためにそこにいること
・フロラたちからの贈り物(花)が、帯と籠の中にあること