ボッティチェリの描いた《アペレスの誹謗》の元となったとされる文章を実際に翻訳して検証してみようというシリーズの第三回目です。
どうやらアルベルティの『絵画論』の記述よりもルキアノスの原典の方が影響を与えていそうです。それを確認するためにも、ルキアノスの古典ギリシア語の文章を翻訳してみます。
原文は、Wikisource Περί_του_μή_ραδίως_πιστεύειν_διαβολή にあるものを使います。
ἐν δεξιᾷ τις ἀνὴρ κάθηται τὰ ὦτα παμμεγέθη ἔχων μικροῦ δεῖν τοῖς τοῦ Μίδου προσεοικότα, τὴν χεῖρα προτείνων πόῤῥωθεν ἔτι προσιούσῃ τῇ Διαβολῇ. περὶ δὲ αὐτὸν ἑστᾶσι δύο γυναῖκες, ῎Αγνοιά μοι δοκεῖ καὶ ῾Υπόληψις・ ἑτέρωθεν δὲ προσέρχεται ἡ Διαβολή, γύναιον ἐς ὑπερβολὴν πάγκαλον, ὑπόθερμον δὲ καὶ παρακεκινημένον, οἷον δὴ τὴν λύτταν καὶ τὴν ὀργὴν δεικνύουσα, τῇ μὲν ἀριστερᾷ δᾷδα καιομένην ἔχουσα, τῇ ἑτέρᾳ δὲ νεανίαν τινὰ τῶν τριχῶν σύρουσα τὰς χεῖρας ο)ρέγοντα εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ μαρτυρόμενον τοὺς θεούς. ἡγεῖται δὲ ἀνὴρ ὠχρὸς καὶ ἄμορφος, ὀξὺ δεδορκὼς καὶ ἐοικὼς τοῖς ἐκ νόσου μακρᾶς κατεσκληκόσι. τοῦτον οὖν εἶναι τὸν Φθόνον ἄν τις εἰκάσειε. καὶ μὴν καὶ ἄλλαι τινὲς δύο παρομαρτοῦσι προτρέπουσαι καὶ περιστέλλουσαι καὶ κατακοσμοῦσαι τὴν Διαβολήν. ὡς δέ μοι καὶ ταύτας ἐμήνυσεν ὁ περιηγητὴς τῆς εἰκόνος, ἡ μέν τις ᾿Επιβουλὴ ἦν, ἡ δὲ ᾿Απάτη. κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι, αὕτη ἐλέγετο・ ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν. Οὕτως μὲν ᾿Απελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.
それでは、訳します。複文を複文のままに日本語に訳そうとすると、かえって意味が分かりにくくなるので、意味の流れを崩さないように単文に区切って訳してみます。なお過去形で書いてあるのは、ギリシア語でアオリストで書かれている部分です。
右には男が座っているようだ。彼はミダス王の耳に似ていて少し欠けた大きな耳をしている。彼は遠くからさらに近づいている誹謗へと手を伸ばしている。彼の周りには二人の女性が立っている。私が思うに無知と偏見である。誹謗が反対側から近くに来ている。少女は並外れて美しいが、熱狂していて、心をかき乱している。激怒と激情を表している者は、まさに左手に燃えさかる松明を持っていて、反対の手では髪を掴んで若い男を引きずっている。彼は両腕を天へと伸ばして、神に誓っている。そして蒼白く、醜く、鋭い眼差しの男が先導している。彼はまるで長患いから戻ってきたかのように痩せこけている。この男は確かに妬みであると誰もがきっと思うだろう。そしてまさに別の二人が同行している。彼女たちは誹謗を前へと進ませている。彼女たちは誹謗を飾っている。彼女たちは誹謗を整えている。絵の案内人が私に彼女たちのことを、確かに欺瞞と詐欺だと教えてくれた。その後ろをすかっり喪服を着ている者が続いている。彼女は黒い服を着ている。彼女はずたずたにされている。彼女は悔恨である。彼女はまるで自ら身を投げ出しているかのようである。彼女は自分自身を表している。涙を流している者はまさに後ろを振り返っている。彼女は確かに恥辱の中でそばにいる真実を横目で見ている。まさにこのようにアペレスは彼自身の苦難を絵に表した。
内容としては、リンクで結んであるだけあって以前のドイツ語訳のものと、完全ではありませんが近いですね。英語の二つの訳もこの内容を分かりやすくしたものに見えます。
やはりアルベルティのイタリア語訳とラテン語訳とは妬みや後悔の描写が違っています。このギリシア語でも妬みのそばに戦争を連想する言葉はないようですので、これはラテン語に訳すときに、aciesという言葉が出てきて、それがνόσου病いの別の意味である苦難と結びついて、戦争へと意味が変化したのではないかと思います。
もちろんこれらの翻訳は、時制のように、日本語に訳している時点で本来の言語での意味が失われている可能性があります。それはどうしようもありません。それでも単語の対応や、文の対応に関しては十分に語ることができるでしょう。
それでは、今度はボッティチェリの絵との関連について考えてみます。下の絵はクリックすると巨大な絵のあるWikipediaCommonのページに飛びます。以下の文章はそれを参考に読んでみてください。
右の男が座っている描写は接続法で書かれているので、「座っているようだ」という不確定な意味で訳してみました。実際、絵の中では、無理な中腰をしていると考えるよりも椅子に座っている可能性が高いので、おそらく座っているのでしょう。しかし、玉座の台座のような物はほんの少し描かれていますが、だからといって座っていると断定するほどはっきりとは描かれてはいません。この描写がまさに接続法による表現を絵にしたのではないかと思われます。
彼はミダス王の耳に似た大きな耳をしています。「王様の耳はロバの耳」の話はミダス王の話です。この男がミダス王がどうかは分かりませんが、彼は王冠もかぶっています。そして、大きなロバの耳をしています。
それから、文章では王の耳が欠けていると訳しましたが、どう見ても欠けているようには見えません。この描写はこの絵には採用されなかったのでしょうか?
そこで「μικροῦ δεῖν」の意味をもう一度確認してみます。μικρόςは小さいとか少しの意味の形容詞です。δεῖνはδέωの不定詞です。これには不足するという意味があるので、全体で「少し欠けている」と訳しました。しかし、このδεῖνには、他にも意味があって、その一つが「束縛する」です。この絵では王の耳は先の方だけ女性に掴まれています。この様子が「少し束縛されている」という意味で「μικροῦ δεῖν」を表していると考えることができます。
王の手は誹謗に向けられています。この時点では誹謗が少女として描かれていると分からないので、王に近い男の方に向けられていると思ってしまいます。しかし絵の描写をよく見ると、王は男の方にではなく、誹謗の方へと手を差し伸ばしているのが分かります。
彼の周りに二人の女性がいます。絵でもちゃんと描かれています。二人は一つずつロバのような耳を掴んで、王の耳に何かを吹き込んでいるようです。どちらが無知と偏見であるかはこれだけの情報では分かりません。
王のほうにやってきている、青いガウンを着た少女がこの絵の主役である誹謗です。しかし説明がなければ、決してこの少女が誹謗だとは気づかないでしょう。この少女は、過剰な美しさであるとルキアノスは、アペレスの絵の中の彼女を賞賛しているのですが、このボッティチェリの絵においては、あまり美しさが際立っていないように思います。しかしそれは《ヴィーナスの誕生》や《プリマヴェーラ》と比べてしまうからなのでしょう。彼女は実際、金色の首飾りを付け、花を飾りつけられています。
誹謗はこの文章によると激怒と激情を表しているのですが、それは顔の表情ではなく、やはり言葉による描写にあるように彼女が手に掴んでいるもので表しています。松明の炎で熱狂を、少年の乱れた髪や狂信的な態度で混乱をあわしているでしょう。原文にある言葉の対比を正確に汲み取らないと、意味の分からない絵の描写になると思います。
この引きずられている少年は、アペレスの文章によると両の手を天に伸ばしていることになっていますが、ボッティチェリの絵では、天に手を伸ばしているようには描かれていません。彼は手を合わせているだけです。しかし、これは手という言葉が、ギリシア語でも腕全体と手首から先の両方を意味をもっていることから説明が付くでしょう。彼は両の手のひらを合わせて、指をまっすぐ伸ばしています。そしてその指先は斜めですが上を向いているので、ちゃんと手を天に向けているわけです。
次は、妬みの描写です。先導しているという言葉は、誹謗の手首を掴んでいる描写で表されています。彼のやつれた様子は、戦場の苦難ではなく、大病を患った描写の方が的確だと思われます。肌もがさがさになっています。王の方を見つめている様子が鋭い眼差しを表しているとも言えなくもないですが、それほど強調されていません。
ところで、彼のまっすぐ伸ばした手は何を表しているのでしょうか?ここで『絵画論』での引用が役に立ちます。該当するギリシア語原文の部分は「ὀξὺ δεδορκὼς 」です。『絵画論』での訳により、ὀξὺ はラテン語ではaciesです。これは先端、鋭さ、戦闘などの意味があり、アルベルティの文章では戦闘の意味で訳され内容がかなり違うものになってしまいました。さて、この絵に合うように解釈するに、ここではaciesを先端と訳してみます。つまり指の先を表しているとするわけです。
次に、δεδορκὼς です。これは動詞δέρκομαι(見る)の完了分詞男性主格の形です。上記の翻訳では、これを意訳してわざと眼差しと訳しました。今回は完了分詞の受動表現を使ったものとし「見られている」と訳します。つまり全体を合わせると、「指の先を見られている」となります。その考えを踏まえて、この絵をよく見ると、王は誹謗へと手を伸ばしていますが、視線は目の前の妬みの指先を見つめているように見えます。そうです。ボッティチェリは「鋭い眼差し」ではなく、「指先を見られている」という描写を使って、「ὀξὺ δεδορκὼς」というギリシア語をこの絵の中に描いたと解釈することができます。
さて、次は、誹謗のそばにいる二人の女性ですが、彼女たちは、誹謗を前に進ませ、飾り、整えていると書かれています。実際、前のめりになっている左側の女性は左手で誹謗を軽く押しているように描かれています。その左の女性は、誹謗を花で飾り付け、右の女性は髪を整えています。女性を飾り付け、髪を整える女性たちを、欺瞞だとか詐欺だと言ったのはアペレスでもルキアノスでもなく、あくまでも無名の案内人ですから、誤解の無いように。まさに、そのための場違いなガイドの登場だと思われます。
その後は、悔恨の描写です。哀悼の意を表す服を着て、黒い服を着てと、服の描写が二重になっていますが、これはもっとうまい訳があるかもしれません。絵では黒い服を確かに着ています。ずたずたになっているという記述も、絵をよく見ると、ちゃんと袖のところが破れている描写があります。しかし、泣いている様子、恥ずかしがっている様子はあまりはっきりとしませんが、後ろを振り返って、そばの真実を横目で見ているという記述に関しては、文章の通りと言うことができます。
さて、真実です。真実は、ギリシア語で女性名詞なので女性に擬人化されていることは問題ありません。しかし彼女は《ヴィーナスの誕生》に出てくる女性と似たような構図の全裸の女性像なのに、ちっとも魅力的に感じません。アルベルティの文章にあるように彼女が少女だから、まだ女性らしく描かれていないと解釈できるかもしれません。しかし、そう考えなくてもこの描写の理由を説明できます。つまり彼女が魅力的ではないのは、誹謗がこの絵の中で一番美しくなければならないからです。
しかし、真実が何故恥じらいのヴィーナスのポーズを取っているのか、何故右腕を頭上に掲げているか、この絵の中で一番気になるそれらについて、今回訳した日本語訳にはありません。
そこで、パノフスキーの指摘です。アルベルティのイタリア語の文章において本来後悔の描写であるはずのもののいくつかが真実に置き換えられ、恥じらいが真実についての記述となっているために、ボッティチェリが恥じらいのヴィーナスのポーズで真実を描いたとする説です。
上記の分析により、ボッティチェリは直接ルキアノスのギリシア語を元に絵を描いていると考えられるので、『絵画論』における訳とは別に、独自にこの絵にあるような描写となる文章を訳出したのではないでしょうか。その過程で、『絵画論』での引用は参考になったでしょうが、それ以上のものを、ボッティチェリはギリシア語から導いていると思われます。
ここは重要なので詳しく説明していきます。
先ほど、妬みにおいて、涙を流している描写と、恥辱の中にいるという描写が見られないと指摘しましたが、そこがヒントになります。上記の、王の少し欠けた耳や、妬みの伸びた腕などの例により、ルキアノスの記述がそのまま見つからないときは、別な意味になっている可能性があります。
絵に描かれていない描写は、次の文の中にあります。
ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν.
ルキアノスの意図していただろう意味は次の訳です。
涙を流している者はまさに後ろを振り返っている。彼女は確かに恥辱の中でそばにいる真実を横目で見ている。
さて、この絵に合う別な意味を探してみましょう。
δακρύουσα は動詞δακρύωの現在分詞の女性主格です。本来、「涙を流す」という意味で訳しますが、他に「水がしたたる」という意味もあります。ここで絵を見直してみると、真実の体には後ろの方から右の脇を通って、股間を隠している手の下を通って、彼女の体の右下の方に流れていく細く柔らかそうな透明な帯があります。この帯は考えてみると不思議な存在です。これは体のどこに固定されているのでしょう。まさに水が流れているかのような描写があります。この描写を踏まえて、δακρύουσαを「流れるような物」と訳してみましょう。これに合わせて動詞ἐπεστρέφετοの意味も「巻き付いている」と変えてみます。「後ろの方へ」という言葉があるので、それに合うように方向を考えると、前半の節は「流れるような物が後ろの方へ巻き付いている。」となります。後半ですが、これは少しの変更で済みます。μετ᾿ αἰδοῦς を真実を修飾するものと解釈します。そうすると、「そばにいる恥じらっている真実を彼女は横目で見ている。」となります。後悔が振り返っている記述がなくなりますが、これは横目で見ているという記述で補えるでしょう。
まとめると、こうなります。
流れるような物が後ろの方へ巻き付いていて、そばにいる恥じらっている真実を彼女は横目で見ている。
ボッティチェリの表現に相応しい訳になりました。恥じらっている姿は、恥じらいのウェヌスと同じ姿に描くことで表現したわけです。そのために彼女は裸で描かれています。でも彼女の天へと伸ばした腕の説明がありません。そこでこの文章の一つ前の文章の意味を考えてみます。
αὕτη ἐλέγετο・
ἐλέγετο の原形は λέγω ですが、これは集めるとか、話すとかいろいろな意味のある言葉です。調べてみると、ここにある中動態での意味の一つとして「数える」があります。そうすると、この節の意味は次のようになります。もちろん彼女とは真実のことです。
彼女は数を数えている。
そうです。彼女の指は天を指さすために頭上に掲げているのではなく、ただ数を数えるためにまず一本の指を伸ばしていたのです。そう思って彼女の視線をよく見てみると、彼女は指が差している天ではなく、指そのものを見つめているように見えます。
これでこの作品に描かれている人々の描写を、ルキアノスの文章を元に説明することができました。
ボッティチェリ本人やその周辺の人々がどれだけの言語能力を持っていたかは分かりません。しかし、このようにギリシア語の記述で素直に表われている場面はもちろんそのままですが、残りのギリシア語の記述の通りに表われていない場面も、意味の選択を工夫すれば、ちゃんと絵の中にその記述を見いだすことができます。
ここまで的確に解釈できるのは、このギリシア語を元にして、このような意味で、ボッティチェリが描いたとしか言えないのではないでしょうか。もちろん、いままでこのブログで書いてきたボッティチェリの神話画の解釈でやってきたことも同じことが言えます。
この難問を解決できた幸運に感謝します。もっと早くたどり着ければ良かったのですが、本当に申し訳ありません。
2011.12.17追記:
妬みの「蒼白いὠχρὸς」は絵の解釈として用いるときは、「生気の無い」とすれば、青白いというよりは土色に描かれた妬みの肌の色も表すことができるでしょう。それから「醜いἄμορφος」は「形の欠けた」という意味があるので、これは彼のボロボロの服のことを意味していると考えることができます。また悔恨の記述としての「彼女はまるで自ら身を投げ出しているかのようである。」は、悔恨ではなく、前のめりになっている赤と黄色の服を着ている欺瞞か詐欺のどちらの女性のことを表していると解釈すれば、ルキアノスによるアペレスの絵について書かれた文章全てがこの絵の中に描かれていることになります。
2011.12.17更新:
日本語訳の、妬みの記述において「乾いた」を「痩せこけた」に変更。