2012年02月01日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(4)

それでは、続きをこの絵に合わせて翻訳していきます。今回はいきなりこの絵の核心部分の描写となります。なお、この一連の解釈には神話の世界の性的な表現があるので、ご注意ください。

ὅθι μιν Ζεφύρου μένος ὑγρὸν ἀέντος ἤνεικεν κατὰ κῦμα πολυφλοίσβοιο θαλάσσης ἀφρῷ ἔνι μαλακῷ:

この部分の、以前紹介した沓掛良彦氏の翻訳を引用すると次のようになります。

吹きわたる西風(ゼフュロス)の湿り気帯びた力が、やわらかな水泡(みなわ)に女神をそっと包んで、高鳴り轟く海の波間をわたって、この地へ運び来た。

このアフロディーテ讃歌のアフロディーテは『神統記』で語られる切り取られたウラノスの男性器から出た白い泡から生まれた女神です。上記の引用部分はこのことを踏まえています。アフロディーテにはゼウスとディオネの娘とする話がありますが、それとは違います。

この文には「泡」が出てきますが、この絵をいくらじっくり見つめても彼女を包んできた泡は見つかりません。この翻訳ではこの絵を説明することはできません。この日本語訳に間違いがあるのではなく、ボッティチェリの絵の方が特殊なのです。

泡と通常訳す単語 ἀφρός の解釈を変えれば、うまくいくかもしれません。この語は『神統記』の表現からウラノスの精液を暗示しているのですが、この絵を解釈するにはこれだけでは足りません。そこで手元のギリシア語-イタリア語辞書で調べると、この語には泡schiumaの他にbavaという言葉が書かれていました。この語の意味は「よだれ、ねばねばした液汁、蚕糸、波打ち際の水泡」とあります。この意味を知ると、より生々しく具体的にこの絵の中に ἀφρός を見いだせるようになります。

この文の動詞はἤνεικενで、不規則変化の動詞φέρω「運ぶ」のアオリスト三人称単数です。主語はμένος ὑγρὸν で「湿った力」です。他の言葉を主語にするのは難しそうです。この主語の意味を他の意味に解釈できないか調べてみると、ὑγρόςには他にも「曲げやすい、曲がっている」という意味もあります。またμένοςの意味を調べると、forza「力」などの他にspermaの意味もあります。通常はこの意味は見落としてもいいでしょうが、この絵を解釈するには、一番相応しい語に思えます。

先ほど、bavaの意味として「波打ち際の水泡」とありましたが、この絵には意味ありげに不自然な白い波が描かれています。遠近感がなく壁を降りているように見え、どれもが同じように曲がった形をしています。正直、なんて下手な波打ち際の描写だろうと思った人もいるでしょう。しかし、μένος ὑγρὸνが「曲がった精液」と解釈できると、状況は一変します。

μένος ὑγρὸνの周りの言葉は、この語を修飾しています。ἀέντος は「吹く」の分詞で、属格のΖεφύρουはその行為者を対格のμινアフロディーテで表し行為の方向を示していると解釈します。そして行為の対象が主語のμένος ὑγρὸνとします。主語の部分の訳をまとめると、ゼピュロスがアフロディテの方に吹くクロノスの曲がった精液(白い波)となります。

後半の動詞ἤνεικενの目的語の部分は、次のようになります。κατὰは前置詞ではなく、あえて副詞として解釈します。この語の意味は「下の方向へ」です。つまり、この絵で波が下に落ちているような描写をこの語の描写であると考えるわけです。そのあとにある波の意味を持つ対格のκῦμαは、この動詞の目的語としてぴったりのようですが、既に「白い波」を主語にしてしまっているので、今回は別な意味に解釈しなくていけません。

さて、この絵の中で白い波が運んでいるものは何でしょう。ホタテ貝のような形の巨大な貝です。この貝の波打つ形こそが、κῦμαが表している物と解釈します。そう「波状の物」です。

あとはこの目的語を修飾する単語です。ἀφρῷとμαλακῷは前置詞ἔνι(in,among)に支配されている与格の名詞と形容詞です。この「柔らかな泡」は貝の下で泡立っている波のことです。貝がこの泡の中にいるという表現は問題ないでしょう。πολυφλοίσβοιο θαλάσσηςはこの泡の材料を表す属格の形容詞と名詞で、「多く反響している海水」と訳せます。つまり、この目的語の部分をまとめると、「多く反響している海水からなる柔らかな泡の中の波状の物」となります。

この文全体をまとめると、

ゼピュロスが彼女(アフロディーテ)の方へと吹きやっている(クロノスの)曲がった精液(白い波)は、多く反響している海水からなる柔らかな泡の中の波状の物(貝)を下の方へ運んだ。

となります。

苦しい、実に苦しいですが、このように解釈すると、この絵の描写に合わせることができます。でも、不思議な波打ち際にいるアフロディテとゼピュロスの表現に対して、これほど得心がいくものは他にないでしょう。

この文章だけを提示してもきっと誰も理解してはくれないでしょう。ただの強引な辻褄合わせにしか見えないはずです。しかし、アフロディーテ讃歌の言葉は、余す所なくこの絵の中に描き込まれています。全部読めば、強引なのは、ボッティチェリの方だと分かってもらえるでしょう。



posted by takayan at 07:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月02日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(5)

次は、ホーラたちが出迎え、アフロディーテを飾り付ける場面の前半です。

τὴν δὲ χρυσάμπυκες Ὧραι δέξαντ᾽ ἀσπασίως,
περὶ δ᾽ ἄμβροτα εἵματα ἕσσαν:
κρατὶ δ᾽ ἐπ᾽ ἀθανάτῳ στεφάνην εὔτυκτον ἔθηκαν καλήν, χρυσείην:

これを本来の意味で訳すと次のようになります。

黄金の髪飾りをしたホーラたちが女神を喜び迎え、
彼女たちは神々しい服を彼女に特別に着せた。
不死なる頭に、装飾の施された、美しく、黄金でできた冠を、彼女たちは載せた。

絵との共通点を見ると、同じなのは神々しい服を与えようとしているところだけです。しかしそれも文章では服を着せてしまっているので、絵と文章とは厳密には違います。第一、このときのホーラの人数が違っています。

人数に関しては、《プリマヴェーラ》の解釈において、ラテン語のHoraの変化を使って、本来複数形で書かれている文を単数形で書かれているかのように解釈しました。ギリシア語で書かれたこの讃歌でも同じ手法でうまくいくかもしれません。

古典ギリシア語の名詞には、主格、属格、対格、与格、呼格の5つの格があります。ドイツ語を習ったことがある人は分かるでしょうが、英語では名詞においては格変化は失われてしまっていますので、ぴんとこない人もいるでしょう。分かりやすく言うと、英語の代名詞における3種類のhe-his-himのような文中での役割によって起きる変化が、全ての名詞において起き、それが5種類あるということです。この変化は名詞の数、つまり単数と複数においても、それぞれ行われます。さらに古典ギリシア語には、出てくる頻度は少ないですが、単数と複数の他に双数という二つ組になっているものを表す数もあり、さらに多くなります。

上記のὯραιの変化は、第1変化(α変化)と呼ばれるもので、規則的に変化すると考えると次のようになります。これを見ると、文中の形は二つとも主格複数であることが分かります。

  単数 sg 複数 pl
主格 nom

Ὧρα

Ὧραι
属格 gen

Ὧρας

Ὧρῶν
対格 acc

Ὧραν

Ὧρας
与格 dat

Ὧρᾳ

Ὧραις
呼格 voc

Ὧρα

Ὧραι

与格単数のαの下に付いているのは、発音されなくなった「ι」の記号で、与格単数の目印のようなものです。これを本来のὯραιとみなすと、上記の主格複数と同じ形になります。つまり、他の語句との関係が矛盾を引き起こさなければ、主語にはなれませんが、これで一人のホーラについての記述と考えることができます。

ホーラを一人として訳せるめどがたったので、文の内容について考えて行きます。

 

最初の文は、本来、ホーラたちが女神を迎え入れている場面のものです。

τὴν δὲ χρυσάμπυκες Ὧραι δέξαντ᾽ ἀσπασίως,

δέは単純な接続詞で、この讃歌に多用されている語です。

この文の動詞は、δέξαντ᾽ です。これはδέξαντοの省略形で、本来の訳では動詞δέχομαι(take, accept, receive)の中動態の三人称複数アオリストとなっています。しかし、ここでは同じ変化形を持つ動詞δείκνυμι(show, point out, exhibit)の中動態三人称複数アオリストとみなします。その後のἀσπασίωςは副詞で「うれしそうに、喜んで、快く」です。

Ὧραιを主格として扱わないので主語は、χρυσάμπυκεςだけになります。これはχρυσός(黄金)とἄμπυξの合成語で、「黄金の髪飾り」の意味があります。ここで、ἄμπυξの意味を調べておきます。すると「紐、額、正面、王冠、髪飾り、輪」とあります。

τὴνは対格単数女性ですが、これはアフロディーテのことです。そしてὯραιは、ここでは与格単数女性の一人のホーラです。

これらをまとめると、「正面が金色のものたちはホーラとともにアフロディーテに対してうれしそうに自分たちを誇示していた。」となります。なんだか分からない文章です。しかし、絵を眺めながら考えると理解できるでしょう。この絵の中の物は画面のこちら側が金色に輝いています。ホーラの後ろの木々は、丸い幹の一番こちら側の部分だけが金色になっています。ホーラの足下の草さえも、こちらの側だけ金色に輝いています。左下にあるガマの穂も前面が輝いています。ホーラにしても、こちら側に見せてる左腕に金色の紐を巻き付けて、こちら側を輝かせています。

 

次はこの文です。ホーラたちがアフロディーテに服を着せている場面です。これはこれでも良さそうですが、これも面白い意味になります。

περὶ δ᾽ ἄμβροτα εἵματα ἕσσαν:

この文の動詞はἕσσανで、本来の解釈ではἕννυμι(着せる)の三人称複数アオリストですが、他にἵζω(座る)の三人称複数アオリストの方言とも解釈できます。

περὶは対格支配の前置詞にもなりますが、ここではaround, exceedinglyといった意味の副詞と解釈します。本来の解釈では、このexceedinglyの意味を使っています。なお、δ᾽はδέのことです。

εἵματα は名詞εἵμαの複数中性の主格か対格です。その前のἄμβροταは形容詞ἄμβροτοςの複数中性の主格か対格で、性数格はちゃんと一致しています。本来は、この二つの語を対格と考え「神々しい服を」の意味となります。しかし、これでは面白くないので、他の意味を探してみます。

ἄμβροτοςの意味をいろいろ探していると、ピタゴラス学派の5の意味があることが分かります。この辞書によると西暦300年頃のネオプラトン主義の哲学者イアンブリコスの著者が出典のようです。次にεἵμαの意味を調べてみると、普通は「服」を表す言葉ですが、専門的な意味で植物の房の意味があります。つまり合わせて「5つの房」となり、植物の花の付き方を表す言葉になります。植物が主語となれば、それが根付いている様子は、動詞ἵζωの意味に合っています。

この絵の中で5つの花を探してみます。アフロディーテに着せようとしている赤い服を見ると、5つの花が咲く植物の絵があります。これを表しているのかもしれません。περὶという副詞の描写に相応しい感じで房が広がっています。

fivecluster

複数形で書かれているので、他にも株が必要です。この柄のすぐ下にも五房の株があります。さらにもっとよくこの絵の中を探してみると、暗くてはっきりしないのですが、きれいな配置の植物がホーラの足下に見つかります。

fivecluster2

これは地面に花々が広がって咲いています。こちらも房が広がっていますが、その配置は正五角形に近くなっています。ピタゴラス学派といえば、五芒星がシンボルですから、ぴったりです。5が重要な数だからこそ、「不死なるもの」が5だったりするのでしょうか。この形はとても特殊な用法であるピタゴラス学派の「5」の意味で使われたことを主張していると思われます。

そういうわけで、この文は「いくつかの五つの房の植物が広がって植わっていた。」となります。

 

次の文は、ホーラたちは美しい冠をアフロディーテに載せる描写です。もちろんこの記述はボッティチェリの絵にはそのまま描かれていません。

κρατὶ δ᾽ ἐπ᾽ ἀθανάτῳ στεφάνην εὔτυκτον ἔθηκαν καλήν, χρυσείην:

この文の動詞はἔθηκανで、τίθημι(置く)の三人称複数アオリストです。周りを見回しても主格の単語がないので、この動詞の主語は、この文には記述されていない、この絵の中の描かれた複数の何かとなります。

対格の名詞στεφάνηνは、単数女性で、冠や輪といった意味の言葉です。アフロディーテ讃歌の最初の方では、形容詞ですがχρυσοστέφανονという合成語の形で出ていました。このときは、黄金で頭を囲んでいる様子から「金髪をした」と解釈しました。今回はどう訳しましょう。

この名詞στεφάνηνには、性数格が同じことから3つの形容詞εὔτυκτον、καλήν、χρυσείηνが修飾しているのが分かります。それぞれ、装飾が施された、美しい、金色という意味です。冠の形容としてはどれもふさわしいものです。

しかしこの絵の中には冠は描かれていません。以前の翻訳の時のように金髪を表していると考えてみましょうか。三人の女神の中でホーラの髪はきれいに編まれているので、装飾が施されたという形容に適合します。もちろん美しいです。しかし、ホーラを主語とした場合、動詞が三人称複数であることを説明できなくなってしまいます。

では、この絵の中に冠と呼べる物は他にないでしょうか。そう思って見回すと、この絵にたくさんの花々が描かれていることがヒントであると気づきます。花びらの王冠状の集まりは花冠(collora)と呼ばれます。これです。金色の花びらの花はないかと探すと、ホーラが手に持っている衣装にちゃんといくつか描かれています。これは刺繍でしょうから、装飾が施されているという表現も合っています。この金色の花冠を持った植物が主語ならば、動詞が三人称複数であることも文法的に解決します。

golden

 

この文にはまだ解釈されていない言葉があります。κρατὶ ἐπ᾽ ἀθανάτῳです。短縮されているἐπ᾽はἐπίです。与格が周りを囲んでいるので、きっとこれらを支配しているのでしょう。本来の解釈では「不死なる頭に」となります。しかし、これでは花々を主語とする解釈では合いません。

そこで、ἀθάνατος(immortal)の意味をさらに調べてみると、名詞として使って植物のlicnide coronariaを意味するとあります。これはイタリア語で書かれたギリシア語辞書で調べたわけですからイタリア語名です。これのラテン語名を調べると、silene coronariaとあります。日本語名だとスイセンノウです。

この花をこの絵の中から探してみます。ἀθανάτῳが名詞であるならば、これは単数なので、おそらくこの衣装の中に一株だけあるはずです。

flower

該当するのは上の画像の植物だと思います。残念ながら、一株だけではありませんでした。これはスイセンノウの画像検索で出てくる物とは似ていませんが、カーネーションのようなガクと、ナデシコのような細い花弁のこの花だと思います。

ἀθανάτῳを花の名前とするので、κρατὶとἀθανάτῳは別々になってしまいます。つまり、前置詞ἐπ᾽の支配を受けるのはκρατὶ で、ἀθανάτῳは単独の与格とします。

まとめると次のようになります。

アタナトスと共にあるいくつかのものは頭に装飾が施された、美しい、金色の花冠を置いていた。

 

この絵にはいくつもの花が描かれていますが、その最大の理由は、ここで説明したようにアフロディーテ讃歌のギリシア語を、花に関連する意味に置き換えて描いているからです。



posted by takayan at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月03日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(6)

それでは、ホーラがアフロディーテを飾り付ける続きの部分です。

ἐν δὲ τρητοῖσι λοβοῖσιν ἄνθεμ᾽ ὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντος:
δειρῇ δ᾽ ἀμφ᾽ ἁπαλῇ καὶ στήθεσιν ἀργυφέοισιν ὅρμοισι χρυσέοισιν ἐκόσμεον,

この文章の本来の解釈は次の通りです。

耳に開けた穴に、オリハルコンと貴重な黄金でできた花を付けた。
柔らかな首に、そして白銀の胸に、金のネックレスで彼女を飾り付けた。

やはり、この内容は絵には反映されていないようです。これらも解釈の仕方で、何とかしてみましょう。

 

最初の文は、花のピアスをアフロディーテに飾り付ける描写ですが、これもボッティチェリの絵には描かれていません。

ἐν δὲ τρητοῖσι λοβοῖσιν ἄνθεμ᾽ ὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντος:

この文の動詞はἐνで、これはεἰμίの三人称複数の未完了過去です。本来の主語はアフロディーテを飾り付けているホーラたちです。しかし、今回の解釈ではホーラは複数ではありませんので、他のものを主語にしなくてはいけません。

ここに並べられた単語の中で、主語となり得るのは本来の訳では対格としていたἄνθεμ᾽ です。これは主格としても解釈できます。ἄνθεμ᾽ は末尾を省略してある形ですが、動詞からの要請で、主格複数になるわけなので省略しない形はἄνθεμαとなります。意味は「花々が」です。

あとは、与格の形容詞と名詞からなるτρητοῖσι λοβοῖσινと、属格のὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντοςです。与格の部分はそのまま訳すと「耳たぶの穴」ですが、これはこの絵では誰もピアスをしていないので、採用しません。今のところは意味の特定は保留しておきます。属格の部分はこのまま材料を示していると解釈できそうです。オリハルコンは真鍮と訳してしまっていいようですが、折角なのでカタカナにします。χρυσοῖό は叙事詩体の名詞とも形容詞とも解釈できます。が、ここでは名詞としてみます。「貴重な金とオリハルコンで」となります。

さて、τρητοῖσι λοβοῖσινが別の意味にならないかの探求です。τρητόςの意味をイタリア語で調べると、「forato、traforate、cucito」となります。最初の二つの意味は「穴の開いた」の意味ですが、三番目は「縫った」です。この意味で解決策が見えてきます。花柄の布が描かれているので、これらを刺繍するためには縫う必要がありますから、この意味がこの絵で成立します。実際、アフロディーテに渡そうとしている衣装を見ると、いたる所に金色の装飾がされています。

τρητόςは分かったので、残りはλοβόςの意味です。これも植物の用語で調べてみると、「裂片」という意味が見つかります。花びらが一繋がりになっている花で、切れ目が入って別れているそれぞれのことを裂片と言います。葉やガクについても言います。カエデの葉っぱが一番分かりやすい例です。なおイタリア語ではギリシア語由来のloboという綴りをしています。

さて、ホーラが手に持っている衣装を見てみると、次のような部分が見つかります。

lobe

白い花は花びらが一つ一つはっきりと描かれていますが、金色の花は花びらが一つ一つ区切ってありません。まさに裂片として描かれています。しかしよく見ると、左上の株の花には塗り忘れがあります。塗り忘れはここだけではありません。でもこれも説明可能です。理由はこの文の動詞がアオリストではなく、未完了過去だからです。金の刺繍がまだ完了していない表現のため、白い花と違って、金色の花は描きかけになっているという細かな演出なのでしょう。

この文をまとめると、

オリハルコンと貴重な黄金で刺繍された裂片を持つ花々があった。

となります。

 

次です。これはアフロディーテの胸にネックレスが掛けられている記述ですが、これも直接この絵には描かれていません。

δειρῇ δ᾽ ἀμφ᾽ ἁπαλῇ καὶ στήθεσιν ἀργυφέοισιν ὅρμοισι χρυσέοισιν ἐκόσμεον,

この文の動詞はἐκόσμεονで、本来の解釈ではκοσμέω(飾る)の三人称複数未完了過去です。なおこれは一人称単数未完了過去とも同形になります。本来の主語は複数のホーラですが、やはりホーラを一人として解釈しているので、ここでは別の複数の主語を考えなくてはいけません。しかしそのときもし見つからなければ、誰かを一人称の主語として考えていいかもしれません。

この文の単語を見回してみると、δειρῇ、ἁπαλῇ、στήθεσιν、ἀργυφέοισιν、ὅρμοισι、χρυσέοισινはどれも与格になっています。前置詞ἀμφί(両側に、周りに)は与格、属格、対格支配をしますから、この前後の与格はこの前置詞の支配下の可能性が高いでしょう。そのほかは動詞のなんらかの補語になっているはずです。それぞれの単語のだいたいの意味は、δειρή(首)、ἁπαλός(柔らかい)、στῆθος(胸)、ἀργύφεος(白銀の、輝く)、ὅρμος(ネックレス、ひも)、χρύσεος(金色の)となっています。

δειρῇ ἁπαλῇ は前置詞ἀμφίの支配下にあるとします。これは本来の解釈と同じです。ἁπαλόςの意味は、イタリア語ではtenero、delicato、molleといった「柔らかい」という言葉で説明されているのですが、そのmolleの意味として他に「曲がりくねった」の意味が含まれています。そこでこの意味を採用し、「曲げた首のそばに」と解釈します。こうすると絵の中のアフロディーテの首を曲げた仕草を描写できます。

首の両側には金色の髪を束ねている白い紐が描かれています。この紐の色は、ただの白ではなく光沢のある白です。この紐の描写としてἀργύφεοςが使えそうです。ὅρμοςは本来の解釈ではネックレスとされていますが、鎖や紐の意味もあるので、これも使えます。したがって、ἀργυφέοισιν ὅρμοισιの二語で、髪を束ねている紐を表していると考えられます。本来はστήθεσινを修飾するために中性与格とみなしたἀργυφέοισινでしたが、これは男性与格とも同形なので、男性名詞ὅρμοισιをそのまま修飾すると考えても問題ありません。

χρυσέοισινは、「金色の」という形容詞ですが、ここでは女神の金色の髪を示す名詞として考えてみます。ἀμφίの「両側に」という意味を重要な物だと考えると、この髪も、対称ではありませんが、首の左右に分かれて描かれています。

残っているのは、στήθεσινですが、これはまさに右手によって隠しきれていないアフロディーテの両の乳房です。これもしっかりと紛れもなく、アフロディーテを美しく飾り付けている要素に違いありません。隠されてしまっていて完全には描かれていませんが、当然これも左右に描かれています。

こうして見ると、髪を束ねる紐、金髪、乳房と、アフロディーテの首を軸に両側に描かれているという共通点があります。アフロディーテ讃歌では、ホーラたちはアフロディーテをいろいろ飾り立てていますが、ボッティチェリは逆にたった三つの要素だけでアフロディーテを美しく飾っています。

さて、ここまで解釈してみて、三人称複数の主語となるものはどうもなさそうです。そうなると、1人称単数の主語になるのですが、その主語はボッティチェリ自身となります。なぜなら、そう解釈したほうが、私はいかにして美しく女神を描いたのかというボッティチェリの主張を読み取れるようになるからです。

私は、両の乳房と、曲げた首の両側にある白銀色の紐と、金色の髪で(アフロディーテを)飾った。

この文も前の文と同じように未完了過去の時制で書かれています。前の文と同じように、この時制を不完全な描写をあえてすることで表しているのならば、ここでもそう解釈できる描写があります。それはアフロディーテの風に乱れる彼女の髪です。白銀の帯は左右には描かれていますが、彼女の左肩の上のものは、真後ろのものが横からのぞいているだけです。右肩の上のように左側も束ねていれば、これほど激しく髪は乱れていないでしょう。つまり、この風に舞い乱れた髪の描写さえも、この文章から導かれる表現であるということです。



posted by takayan at 23:57 | Comment(4) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月04日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(7)

ホーラがアフロディーテを飾る記述の最後の部分です。そして彼女たちは神々のところへとアフロディーテを連れて行きます。

οἷσί περ αὐταὶ Ὧραι κοσμείσθην χρυσάμπυκες,
ὁππότ᾽ ἴοιεν ἐς χορὸν ἱμερόεντα θεῶν καὶ δώματα πατρός.
αὐτὰρ ἐπειδὴ πάντα περὶ χροῒ κόσμον ἔθηκαν,
ἦγον ἐς ἀθανάτους:

本来の訳は次のようになります。

黄金の飾りを付けたホーラたちが自分自身を飾る物を、
神々の優美な舞や、父親の家に、彼女たちが向かうときに。
彼女たちは(女神の)体を完全に飾り付けて、
彼女たちは神々の方へと進んだ。

これも、そのままではボッティチェリの絵と意味が通じません。

 

最初の文は、本来の意味では、前述のネックレスについて説明する文です。

οἷσί περ αὐταὶ Ὧραι κοσμείσθην χρυσάμπυκες, ὁππότ᾽ ἴοιεν ἐς χορὸν ἱμερόεντα θεῶν καὶ δώματα πατρός.

これは、二つの節をまとめて解釈します。

最初の節にある動詞はκοσμείσθηνで、κοσμέω(飾る)の三人称双数現在希求法中動態とするのが本来の解釈です。この文には主格のὯραιがはっきりとあるのですが、ずっと言っているようにこれを単数形と解釈するために、主格ではなく与格と解釈します。なお、ここで双数で書かれていることから、本来の主語ホーラたちが二人であることを示しています。一般的なホーラたちは三人組か四人組ですが、このアフロディーテ讃歌におけるホーラたちは二人組の可能性があるということです。

では、何が主語となるかですが、本来の解釈でὯραι と並列して修飾している主格のχρυσάμπυκεςだけを主語とします。つまり、主語が「黄金の飾りを付けたホーラたちが」から、「いくつかの黄金の飾りが」もしくは「黄金の飾りを付けた者たちが」に変わるわけです。χρυσάμπυκεςはχρυσόςとἄμπυξの合成語です。前者は黄金で、後者は、王冠や額の飾りを意味します。ἄμπυξのイタリア語での意味はbenda、diadema、frontaleなどがあります。

ギリシア語では中動態と受動態が同じ形をしていることが多いのですが、この場合もこの動詞は受動態とも解釈できます。そうなると、物が主語となっても自然な文章が作れます。また動詞が双数形なので、この主語となる黄金の飾りも二つ組みになる可能性が出てきます。この受動態の行為者は与格で示されるので、飾られるのは一人のホーラとなります。つまり、この解釈が合っているかどうかを判断するには、ボッティチェリの絵のホーラに描かれている黄金の物を探せばいいということが分かります。

しかし、ホーラ自身としては複数になっている金色をしている物をもっていません。あるのは、左腕だけに結んだ金色の薄い帯だけです。先ほど調べたイタリア語での意味にはbendaつまり包帯や目隠しというのがあります。絵の様子では怪我をしているようには見えませんが、包帯もしくは単なる帯と考えればいいでしょう。

hora_gold

このように金色の物が2つあるべきなのに1つしかない訳ですが、この節の動詞が希求法で描かれていることを思い出すと、これもうまい具合に説明できます。つまり、現実には片方にしか飾りがありませんが、両方を飾れたらいいなあという希望を表していると考えればいいわけです。ここでは片方だけ描くことで物足りなさを演出しています。

つまり、この節の意味は、

二つの金の帯状の物が、ホーラ自身によって飾られればいいな。

となります。

次の節の動詞はἴοιενで、これはεἶμι(go、be)の能動態希求法三人称複数現在です。本来の主語は、明示されていませんが、ホーラたちです。ホーラたちの父親はアフロディーテと違ってゼウスなので、父親の家とは神々が集まるオリュンポスをイメージしているのではないかと思います。今回の解釈には関係ありませんが。

この節は、前置詞ἐςが支配している与格で表現された二つの目的が記述されています。この構造そのものを変えることは難しそうなので、つまりχορὸν ἱμερόεντα θεῶνとδώματα πατρόςについてこの絵に合った別の解釈ができないか考えるわけです。

χορόςにはダンスだけでなく、合唱の意味もあります。この絵の中で、踊っている者はいませんが、歌っているようにみえる者はいます。左の海の上を飛んでいるゼピュロスとその隣の女神です。彼らは共に口から息を出しています。息だけでなく声まで出ているかは分かりませんが、風はときには音を立てて吹きますから、この様子を歌うと描写することも可能でしょう。

coro

χορόςを修飾している形容詞ἱμερόειςですが、この意味は「欲望を引き起こす、優美な、愛らしい、うっとりする」などとなります。この絵の場合は「欲望を引き起こす」がぴったりでしょう。その後から修飾しているθεῶνは複数属格で、「神々の」となります。合わせると、「神々の欲望を引き起こす合唱」となります。

今度は、もう一つの前置詞の目的語δώματα πατρόςです。一般的な意味はδῶμαが家、πατήρが父ですが、これをどうにか別の意味に解釈してみます。δῶμαのイタリア語での意味を調べるとcasa、dinora、sala、camera principale、tempio などが出てきます。tempioは「神殿」を意味しますが、あとは「家」のいろいろなバリエーションです。ここで注目すべきは、salaという言葉です。この項目での意味は「かなり広い部屋」を意味しますが、同じ綴りの植物の「ガマ」を表す言葉があります。もちろんこの絵の左下に生えている植物のことです。

sala

運良くガマという言葉は出てきたのですが、それを修飾しているπατρόςが問題です。これは「父親の」とか「祖先の」という意味しかありません。このガマが誰の物かなんて分かりませんから、こういう表現はダメでしょう。ではどうすればいいのかと考えると、この蒲の穂の形です。これペニスと思いましょう。下の白い波は精液としましたが、その上に金色のペニスが並んでいるというすさまじい絵になってます。

アフロディーテはクロノスの切り落とされたペニスから出た泡から生まれたことになっています。ペニスは生殖にはなくてはならないものですが、アフロディーテにおいてはそういう衝撃的な出来事がある以上、より特別な存在になります。そういうわけで、イタリア語でsalaを意味するδώματαにπατήρ(父の)という修飾語が付けば、家を意味するsalaではなく、ペニスを思わせるガマのsalaを意味していると解釈できます。

この文章の複数の主語ですが、今までの内容から、翼のある二人の神々と考えていいでしょう。男の神の方はゼピュロスで問題ありませんが、女性の神の方は現時点では誰だか分かりません。全体の意味は次のようになります。

彼らが神々の欲望を引き起こす合唱をして、父なるガマのところにいるときは、(ホーラの)二つの金色の帯状の物がホーラ自身によって飾られればいいのにな。

相変わらず、妙な意味の文章ですが、ボッティチェリの絵に合わせて解釈すると、このような意味を導くことができてしまいます。

 

そして、ホーラたちがアフロディーテの飾り付けを終えて、神々のところへアフロディーテを導く場面です。

αὐτὰρ ἐπειδὴ πάντα περὶ χροῒ κόσμον ἔθηκαν, ἦγον ἐς ἀθανάτους:

それぞれの単語の意味を調べてみます。αὐτὰρ ἐπειδὴは接続詞で、意味は「そして」でいいです。πάνταは副詞とみなして「完全に、すっかり」とします。περὶは接続して後ろの与格を支配します。意味は「そのまわりに、近くに」という意味になります。χροῒ は中性名詞χρώς(皮、肌、身体)の与格単数です。その後にあるκόσμονは、男性名詞κόσμος(順序、飾り)は対格単数です。そして動詞ἔθηκανは、τίθημι(配置する)の三人称複数アオリストです。ἦγονは、動詞ἄγω(導く、運ぶ、進む)の三人称複数未完了過去です。ἐςは前置詞で、後ろの対格を支配していて、このときは英語の「to」に相当します。ἀθανάτουςは、形容詞ἀθάνατος(不死の)の複数女性対格ですが、ここでは名詞として「神々」とします。

最初の節ですが、本来の主語であるホーラは複数ではないので使えません。また本来の飾られる対象であるアフロディーテは周りの誰からも飾られていないので、すっかり飾られたなんて言えません。では誰が誰を飾っていることになるのでしょうか。「πάντα περὶ χροῒ 」とありますから、「身体の周りをすっかり」飾っている複数の人物ではないといけません。それを踏まえて絵を見れば、自ずとそれが翼のある二人であることが分かります。彼らの周りには、バラの花が舞って、彼らを飾っています。

これだけの情報でもいいのですが、ここでさらにτίθημιの意味を、もっとこの絵に合うようなものはないか探してみます。そうすると、英語のギリシャ語辞典にはmake、cause、createという意味が載っています。「飾りを配置する。」よりも「飾りを生じさせている。」とした方が花の由来も明示できていいでしょう。

次の節ですが、動詞ἦγονは三人称複数で、やはり翼のある二神のことになります。この場合は自動詞として訳さないといけないので「進む」と訳します。そして未完了過去なので、「進んでいた。」とします。目的地のἀθανάτουςは、以前出てきたようにホーラが手に持っている衣装に描かれている花の名前と解釈して「アタナトス」としてもよいでしょう。向いている方向にはその花が描かれている衣装があるのですから。しかし、そこには同時にアフロディテと一人のホーラがいて、書かれているように複数の神々もいますので、わざわざ植物の名前に置き換えなくてもいいかもしれません。

従って、この文は、次のようになります。

そして彼らは体の周りに飾りを生じさせて、神々の方へと進んでいた。



posted by takayan at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月07日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(8)

後もう少し続きます。

οἳ δ᾽ ἠσπάζοντο ἰδόντες χερσί τ᾽ ἐδεξιόωντο καὶ ἠρήσαντο ἕκαστος εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι, εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης.

この本来の解釈はこんな感じです。

喜んで出迎えて彼女を見た者たちは、彼女に手を差し出し挨拶をした。スミレの王冠をしたキュテレイア(アフロディーテの異名)の美しさに驚嘆し、誰もが彼女を正統な妻として家に連れて行きたいと願った。

美しいアフロディーテの姿を見た神々は誰もが彼女を嫁にしたいと思ったというわけですが、この記述も《ヴィーナスの誕生》の描写にしてしまいましょう。

しかしこれは難しい。一番見通しが悪いです。当然アフロディーテはスミレ色の王冠は付けてはいませんし、それを出迎えている複数の神々もいません。ただこの絵のホーラの服にはスミレ色の花が描かれています。またホーラは右手をアフロディーテの方に差し出しています。この描写がヒントになりそうです。

それでは、ギリシア語を解釈していきます。

ἠσπάζοντοは動詞ἀσπάζομαι(喜んで出迎える)の中動態三人称複数未完了過去です。οἵはここでは関係代名詞の複数主格男性で、この節そのものが主語となっていて、それを動詞εἶδω(見る)のアオリスト分詞複数男性主格のἰδόντεςが修飾していると考えます。ここまでは本来の解釈と同じなのですが、ここで動詞ἀσπάζομαιの別の意味を持ち出します。

ἀσπάζομαιは、「優しく迎え入れる、喜んで迎え入れる」という意味が第一義にあるのですが、他に挨拶に関連して、「抱きしめる(イタリア語でabbracciare、英語でhug)」、「キスをする、そっと触れる(イタリア語でbaciare、英語でcaress)」という意味を持っています。これを利用します。このabbracciareという動詞は植物に関して使うと「巻き付く、絡み付く」という意味があります。そうです。この意味によりホーラの首と胸の下に絡み付いている植物の描写が説明できることに気付きます。

abbracciare

また、baciareの「そっと触れる」という意味を見て、ホーラに何かそっと触れている物はないかと考えてみると、確かにあります。風になびくアフロディーテの髪がそっとホーラの右手の指に触れています。

baciare

ἀσπάζομαιにあるabbracciareとbaciareの意味はどちらも捨てがたいです。とりあえず両方の意味を採用しておきましょう。矛盾が起きたら、そのとき対処します。

本来の解釈で中動態であるこの動詞は受動態とも解釈できます。したがってοἳ ἠσπάζοντο ἰδόντεςは「アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは(植物に)巻き付かれている、彼女を見ている者たち」と解釈できます。解釈としてはこれでいいでしょう。いいのですが、数が足りません。この語句は複数形なので、一人のホーラでは数が合いません。他にも誰か必要です。

アフロディーテの髪が触れているホーラの指先から少し視線を上に上げると、同じようにアフロディーテの髪が触れているものに気付きます。ホーラの向こう側にある木の葉にも、アフロディーテの髪が触れています。この木も擬人化してこの言葉に取り込んでしまいましょう。そうすれば、「アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは植物に巻き付かれている、彼女を見ている者たち」という言葉がこの絵でちゃんと成り立ちます。木々は物を見ることができませんが、物が見えるなら十分にアフロディーテを確認できる位置にあります。

この語句を主語として、χερσί ἐδεξιόωντοの語句があとに続きます。χερσίは女性名詞χείρ(手、腕)の複数与格です。ἐδεξιόωντοは動詞δεξιόομαι(手を差し出して迎え入れる)の中動態三人称単数未完了過去です。ホーラはまさにこの言葉通りに手をアフロディーテへと差し出しています。そして、ホーラの向こうにある木も、枝をその腕とみなすならば、ホーラの仕草を真似るように枝をアフロディーテの方に伸ばしています。ここまでまとめると、「アフロディーテの髪にそっと触れられている、植物に巻き付かれている、彼女を見ている者たちが、彼女の方に腕を伸ばしていた。」と解釈できます。やはり、ホーラと木を一緒にして考えるとうまく解釈できるようです。

arm

さらに進みます。「ἠρήσαντο ἕκαστος εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι」は、本来の解釈では「彼らは彼女を正式な妻とすることを、そして自分の家に連れて行くことを願っていた。」となります。この意味をそのままこの絵の中に見いだすのは難しかったのですが、ホーラの後ろの木も主語になっていることを踏まえれば、この文章をどう解釈すればいいのか分かってきます。

木々にはあまり目立ちませんがいくつもの花が咲いています。花は受精することを期待して咲いている存在です。花々にとって、正統な妻とは何かと考えれば、受粉を介在してくれるミツバチなどの虫が挙げられます。ちなみに、ミツバチはギリシア語でもイタリア語でも女性名詞μέλισσα、apeですので、花嫁と呼んでも違和感はないでしょう。この文の動詞はἠρήσαντοで希求法ではありませんが、不定詞をともなって願望を表現している表現なので、いまここにミツバチが描かれている必要はありません。

tree_flower

これは木に対してだけでなく、ホーラに対しても言えなくてはいけません。なぜならἕκαστος(every)という言葉があるからです。ここで先ほどの花の付いた枝を巻き付けた描写が生きてきます。彼女の体には生きた花が咲いているので、木と同じようにこの花に花嫁としてのミツバチが来るのを望むことが可能になります。これにより、体に植物が巻き付いている描写も含めていいことがはっきりしました。

もう一つの願望として「οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι」があります。このοἴκαδ᾽(家へ、故郷へ)は末尾が後ろの母音のせいで消えていますが、本来はοἴκαδεという形になります。この二語で「家に連れて行くこと」と本来は意味します。この表現も絵の中では簡単には分かりませんでしたが、植物にとっての話だと気付けば理解できます。

植物にとっての故郷は根のある地面です。受粉が終われば果実が実り、種が地面に落ちます。本来の解釈と同じように最初の不定詞の目的語と共通にする必要もありませんから、この語句の目的語は花嫁ではなく種とします。つまり、「(種を)故郷に持って行くこと」となります。これもまだ実現されていないことなので、描写そのものはありませんが、生きた花を描けばそれは、そのような未来を予感させてくれます。もちろん、この描写も、体に花を咲かせているホーラにおいても成り立ちます。

そして、分詞句「εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης」です。Κυθερείηςはアフロディーテの異名です。これも地名に由来する名前ですが、他のものを意味していると解釈するのは難しいので、そのままこの絵のアフロディーテその人だと考えます。Κυθερείηςは女性名詞で、属格単数です。

その前にあるἰοστεφάνουは形容詞で属格単数で、後ろと一致します。この形容詞はスミレを意味するἴονと王冠や花飾りを意味するστέφανοςの合成語で、「スミレで作った花冠をした」を表しています。本来の解釈ではアフロディーテを形容して、「スミレの王冠をしたアフロディーテ」です。

本来の解釈ではこれがさらにεἶδοςを修飾しています。これは中性名詞で、主格単数もしくは対格単数です。意味は「見ること」ですが、「姿、美しさ」も意味します。このとき格は対格とします。したがって、「スミレの王冠をしたアフロディーテの美しさを」としました。

この絵の中にはスミレ色の花冠はありません。しかし、スミレ色のものはホーラの着ている服に描かれています。その花を見ていると、黒く丸い頭にスミレ色のトゲのある冠をかぶったような形で描かれています。これでスミレ色の王冠を描いていると考えます。この言葉の意味を拡張して、「スミレ色の王冠柄の服を着た者」と解釈します。

violet

この単語の前にはθαυμάζοντεςがあり、これは動詞θαυμάζω(wonder、驚嘆する)の現在分詞の複数男性主格です。θαυμάζωの意味をもう少し調べてみると、まれな意味としてfavorireがあります。これには一般的な「助ける、支持する」という意味の他に、「与える、差し出す」という意味もあります。この意味は使えそうです。

この差し出している動作の主語としてホーラを意味するとした属格ἰοστεφάνουを考えます。他方残りの属格Κυθερείηςは動作の対象とします。そしてこのときεἶδοςは対格とします。意味は「bellezza、美しい物」とします。節全体を合わせると、「キュテレイアに美しい物をスミレ色の王冠柄の服を着た者が差し出している。」となります。まさにこの描写そのものの記述になります。

この分詞句は、本来は先行する節の理由を表すものとして解釈していますが、今回はこの現在分詞が時間的関係を示すものとして解釈します。

したがって、全体はこのようになります。

アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは(植物が)体に巻き付いている、アフロディーテを見ている者たち(ホーラと木)が、彼女の方に腕(/枝)を伸ばしていた。彼らは花嫁(となる蜜蜂)が来ることと、(種を)故郷(である地面)へ導くことを願っていた。それはキュテレイア(アフロディーテの異名)に美しい物をスミレ色の王冠柄の服を着た者(ホーラ)が差し出しているときだった。

以上のように、この文章はホーラとその向こう側にある木々の描写を示している記述であると考えます。さらに、この風景の中にある遠くの木々もこの文章の影響下にあると説明できます。つまり、アフロディーテが見える位置にある木は腕を伸ばしていますが、アフロディーテから離れている位置の木々は腕を伸ばしていません。

trees

この文章はかなり技巧的な解釈が必要だったため、予想以上に時間がかかってしまいました。でも時間をかけた甲斐はありました。この記事を書く前は、髪が触れている描写や、θαυμάζωに「差し出す」という意味があることには気付いていませんでした。その収穫はとても大きかったと思います。

やっと次回で『アフロディーテ讃歌』の解釈は終わりです。



posted by takayan at 01:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月09日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(9)

最後の部分は讃歌の作者自身の締めの言葉です。

χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε:
δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.
αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.

本来の解釈は次のようになります。

恥じらいがちの目つきの者よ!甘いほほえみでうっとりとさせる者よ!万歳!
この争いの中で勝利を収めることを許したまえ! 私の歌を飾りたまえ!
では、私は、あなたを、そしてもう一つの歌を、思い出そう。

 

このギリシア語の文章も今までやってきたように、《ヴィーナスの誕生》に合うような解釈を考えてみます。

最初の文は命令文です。

χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε:

χαῖρ᾽ は動詞χαίρωの命令法二人称単数現在です。ここでは末尾が省略された形ですが、本来の形はχαῖρεです。意味は「喜ぶ、うれしがる」で、特に命令形では「万歳!、幸あれ!」の意味で使われます。その後の、ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχεは、どちらも形容詞の呼格単数女性です。

このἑλικοβλέφαρεの意味は、Perseusにある次の注釈19が参考になります。
Thomas W. Allen, E. E. Sikes, Commentary on the Homeric Hymns

つまり、本来の解釈では「with rolling eyes, quick glancing」という意味となっています。これは目の動きだけしか表していないので、どのようにもとれる表現です。目をきょろきょろ動かして動揺している様子なのかもしれませんし、活き活きとした目を表しているのかもしれません。目を意識的にぱちぱちさせて気を引こうとしている目つきかもしれません。上記の訳では、英語訳の「coy-eyed」を参考にして、「恥じらいがちな目つき」としました。

しかし、この絵ではそのような目の動きがある描写には思えません。そこで、この注釈で却下されている「with arched eyebrows」の方に着目しました。手元のギリシア語−イタリア語辞典で調べてみると「dalle palpebre sinuose o arcuate」となっています。sinuoseの意味は「曲がりくねった」、arcuateは「弓なりに曲がった、アーチ形の」です。

palpebre

この絵のアフロディーテのまぶたを見てみると、上下ともちゃんときれいな弓形をしています。恥ずかしがっている目にも、活発な目にも見えません。それよりもぼんやりと一点を見つめ物思いに耽っている表情に見えます。したがってこの絵においては「アーチ型のまぶたをした者よ」と解釈していると考えていいでしょう。

次に、γλυκυμείλιχοςですが、これはγλυκύςとμείλιχοςに分解できます。γλυκύςはグルコースの名前の由来にもなっている言葉で、「甘い」という意味があります。μείλιχοςの方も「甘い」という意味、「快い、心地よい」の意味があります。全体ではイタリア語で「dal dolce sorriso seducente」、つまり「人の心をとらえる甘いほほえみの」となります。

しかしこの表情もこの絵には描かれていないようです。絵の中の彼女の表情はほほえみには思えません。ではこの言葉は何を意味しているでしょうか。

γλυκύςの意味を調べていくと、植物リクイリツィア(liquirizia)という意味が出てきます。イタリア語でカンゾウ(甘草)のことです。唐突に植物の名前が出てくるのにはもう慣れました。きっと、この絵のどこかにリクイリツィアが描かれているはずです。

liquirizia

きっとそれは意味ありげにホーラの手の中で包まれているこの植物です。薔薇の葉にも見えますが、少し違うように見えます。また衣装の模様のようにも見えますが、よく見るとはみ出しています。イタリア語の辞書には、紫色の花を付けその根からジュースを抽出する植物とあります。

最初の行をまとめると、次のようになります。

弓形のまぶたをしたものよ!心地よきグルクスよ!万歳!

率直に言って、この文を元に描かれているホーラが手にしているのは、女性器の記号であり、この文はそれへの賛美です。性的な記号で満たされているこの絵で、それが隠されたままであるわけがないのです。

 

さて、次の文です。この絵の中でずっと正体不明だったゼピュロスの隣にいる女神の正体がその理由と共に書かれています。

δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.

この節の動詞はδὸςで、δίδωμιの命令法二人称単数アオリストです。後の方にある不定法を伴って丁寧な要求表現になっています。φέρεσθαιはφέρωの不定法中動態現在で、φέρωには「運ぶ、持つ」の意味があります。

ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε は前置詞ἐνに支配されてる与格のἀγῶνι τῷδεと、対格のνίκηνに分けられます。ἐν ἀγῶνι τῷδεの意味は、本来の意味では「コンテストの中で」と解釈されていますが、この絵ではコンテスト、競争といった描写があるようには見られませんので、他の意味を考えます。ここには神々が集まって描かれているのでriunione(集まり)でよさそうです。したがって、「ἐν ἀγῶνι τῷδε」は「集まりの中で」とします。

νίκηνは本来の文ではコンテストでの勝利の解釈されるものですが、ここでは勝利の女神ニケ(Νίκη)とします。翼のある女神で、竪琴を持ち、勝利の歌を歌います。つまりこの文は、ゼピュロスの隣にいて、口から息を出している翼のある女神のことを記述した文と考えます。

nike

女神ニケはルーブル美術館にある《サモトラケのニケ》が有名です。頭と両腕がありませんが、立派な翼を背中に持っています。なお《サモトラケのニケ》は19世紀に発見されたものなので、botticelliはこの像を見ていません。

《サモトラケのニケ》についてはルーブル美術館の以下のページを参照ください。
サモトラケのニケ | ルーヴル美術館 | パリ
ルーペで見る《サモトラケのニケ》

文章の解釈に戻ります。この文章がこの女神を表す言葉だと分かれば、「ἐν ἀγῶνι τῷδε」の意味も、この二人のことを示していることになります。そして、先ほど、この絵には競い合っている描写はないとしましたが、それも話が違ってきます。二人にはともに息が描き込まれています。つまりお互い競い合うように、ゼピュロスは風を起こし、ニケは歌を歌っているわけです。

φέρεσθαιは不定法の中動態で「連れて行く、同伴する」という意味があり、この意味で解釈してもこの変形した文章の意味は成り立つはずです。ただし不定詞の主語と命令文の主語は違ってきます。不定詞の主語はニケを連れて行くゼピュロスですが、命令文の主語はボッティチェリ自身です。ここの意味をまとめると「競争において(ゼピュロスが)ニケを連れて歩くことを許してください!」となります。

次の節の動詞はἔντυνονで、これは本来の解釈ではἐντύνωの命令法二人称単数アオリストですが、ここでは同形の一人称単数未完了過去とします。ἐντύνωの意味は「準備する、装備する、飾る」です。

ここで上の方でリンクしたホメロス風讃歌の英語注釈の[20]がヒントになりました。一人称単数の主語はもちろんボッティチェリです。補語は単数女性対格のἐμὴν ἀοιδήνとなります。ἐμὴνは「私の」で、ἀοιδήνは普通「歌」としますが、他に「神話、伝説」という意味もあります。したがって、この節は「私は私の神話を用意した。」となります。

この文をまとめると次のようになります。

競争において(ゼピュロスが)ニケを連れて歩くことを許してください!私は私の神話を用意したです。

そして最後の文です。

αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.

この文の動詞はμνήσομ᾽ です。末尾を補うと、μνήσομαιです。これはμιμνήσκωの中動態一人称単数未来です。この語の中動態での意味は「思いを巡らす、熟慮する、言及する」となります。

冒頭のαὐτὰρは接続詞です。ἐγὼは代名詞で一人称単数主格で、動詞とちゃんと一致しています。σεῖοも代名詞で二人称単数属格です。そして、動詞の周りにある二つの単語が性数格が単数女性対格で一致して、一つのまとまりになります。このἄλλοςは普通は「もう一つの」という意味で訳します。ἀοιδήは以前にも出てきた単語ですが、意味は「canto(歌)」になります。このようにσεῖοとἄλλης ἀοιδῆςの二つの属格のグループができていいて、それぞれが動詞の補語になっています。

ここまでの考えで訳すと、「私はあなたと、別の歌について熟慮させよう。」になります。しかしこの内容では形として描けないので、ボッティチェッリの絵を詳しく眺めて、この中に描かれているものを表せるように解釈を工夫してみます。

ἄλλοςの意味はイタリア語での訳語はaltroですが、他にdiversoがあります。このdiversoの意味には、「違う、異なる、異質の」などがあります。ここでは「異質の」とします。ἀοιδήのイタリア語の訳語はcanto(歌)ですが、このcantoには同じ綴りの別の言葉があって、その意味は「片隅、角」です。合わせると、「異質な片隅」となります。

まとめるとこうなります。

私はあなたに異質な片隅を熟慮させよう。

私というのはもちろん絵を描いたボッティチェリです。あなたというのは、ボッティチェッリが隠したこの絵の意味に気付き、ここまでたどり着けた、今この絵を見ている私たち一人一人です。そして異質な片隅というのは、次の画像の左隅にある何かです。

(追記始まり 2012/02/10 ここは飛躍しすぎていたので、改めることにした。)

私はあなた(アフロディーテ)と異質な片隅を思い出すだろう。

私というのはもちろん絵を描いたボッティチェリです。あなたは、アフロディーテとします。そして異質な片隅というのは、次の画像の左隅にある何かです。(追記終わり)

canto

もっと詳しくこの角を確認したい場合は、次のリンク先のグーグル・アートプロジェクトの画像で拡大して見てください。Google Art Projectがなければ、この異常な角の存在に気がつくことはできなかったでしょう。

The Birth of Venus (Sandro Botticelli) : Uffizi Gallery

時間はかかりましたが、ようやく『アフロディーテ讃歌』の特殊な翻訳が終わりました。ごらんの通り、この文章を通常とは違う解釈をすると、一語も無駄にせずに、この絵の描写が現れました。素晴らしいです。理解できてしまえば、こんなにあからさまに描かれていたものに対し、500年も正しい解釈がされてこなかったことが、信じられないくらいです。

なお、『アフロディーテ讃歌』だけではこの絵の表現にいくつか足りないものがありますが、それは以前解釈したルキアノスの短い文章:「ἐπὶ πᾶσι δὲ τὴν Ἀφροδίτην δύο Τρίτωνες ἔφερον ἐπὶ κόγχης κατακειμένην, ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ.」、この中に見いだせます。アフロディーテが貝の上に立っていること、この絵の中で花が散らばっていることは、こちらの文章から導き出されます。



posted by takayan at 02:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月13日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(1)

《ヴィーナスの誕生》の次は、《ヴィーナスとマルス》 です。この絵については去年まとめましたが、そのときアナクレオンの『蜂』という詞を元に描かれているとしました。この文章にはマルスの名前は一カ所も出てこないのですが、この絵がこれを元に描かれていることは今もなお強く確信を持っています。今回はそれとは別の、マルスの特定など以前解決できなかったことを的確に補える典拠の発見です。

『アフロディーテ讃歌』を解釈しているときに思い出したのは、ルクレティウスの『物の本質について』の冒頭部分にあるウェヌスを讃える言葉でした。そこで岩波文庫版の樋口勝彦氏の訳を読み直してみると、その一部分が《ヴィーナスとマルス》の場面に変化させられる描写であることに気付きました。

それは次の部分です。ラテン語原文を引用します。

nam tu sola potes tranquilla pace iuvare
mortalis, quoniam belli fera moenera Mavors
armipotens regit, in gremium qui saepe tuum se
reiicit aeterno devictus vulnere amoris,
atque ita suspiciens tereti cervice reposta
pascit amore avidos inhians in te, dea, visus
eque tuo pendet resupini spiritus ore.
hunc tu, diva, tuo recubantem corpore sancto
circum fusa super, suavis ex ore loquellas
funde petens placidam Romanis, incluta, pacem;

これを素直に翻訳すると次のようになります。自分で訳してみました。

(ウェヌスよ!)あなた一人だけが限りある命を持つ者たちを穏やかな平和で助けることができます。なぜなら、勇敢なるマルスが戦争の野蛮な役割を支配していますが、その彼は愛の永遠の痛みに打ちのめされて、いつもあなたの膝の上に自らを投げ出します。そして彼は、滑らかな首で上を見上げ、横たわって、女神、あなたをじっと見つめて、愛によって多くの物を糧にしています。したがって仰向けになった心の判断はあなたの口に頼っています。あなたの神聖なる体のそばで横たわっているこの者に、上から注ぎかける女神よ!ローマ人に穏やかな平和をもたらすように、輝ける者よ、甘き言葉の数々を注ぎたまえ!

これを、例の如く別の解釈にしてみます。この場合、「あなた」はマルスを指しています。ただし最後は、ウェヌスに対しての文となります。

ハルモニアに唯一気に入られた、静かで死人のようなあなたは、たくさん飲んでいるのでしょう。それに先立って、勇敢なるマルスは野生のヒナギクのところから太ももの方へ長いものを取り付けています。愛しき人の傷のところでぐったりしているあなたを、彼は生け垣から自分自身で撃退しています。そして、しなやかな首の下に置かれている上を見上げている者よ!彼は巨大な物を口にしています。クピドのそばで女神の方をじっと見つめている者よ!あなたを見ている者は上を向いている魂たちを顔からぶら下げています。あなたが周りに撒き散らした物の上で、まっすぐに伸びた幹に寄りかかっているとき、女神よ!ローマ秤(romano)とヒヤシンス(giacinto romano)のそばにいるハルモニアを穏やかであるようにと懇願するならば、高名な者よ!口から甘い言葉を発してください!

以前説明できなかったこの絵の中の小物についてもいろいろ分かりました。これはすごいです。ぞくっとします。この解釈の文法的な根拠、そしてこの解釈が《ヴィーナスとマルス》とどのように符合するのかの説明は、次回。



posted by takayan at 03:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月16日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(2)

それでは、ボッティチェリの作品《ヴィーナスとマルス》の描写を、ルクレティウスの『物の本質について』のある部分から導くことができることを示してみます。

前回の投稿の後、念のため確認してみると、前回指摘した部分よりも前の行も言葉遊びの対象になっていました。まずそこから始めます。まず本来の意味です。

quo magis aeternum da dictis, diva, leporem.
effice ut interea fera moenera militiai
per maria ac terras omnis sopita quiescant;

quoはいろいろ意味がありますが、ここでは「それゆえに」とします。magisは英語のmoreに相当する副詞です。そのあとの形容詞aeternum(永遠の、長く続く)を修飾していると考えます。この形容詞は中性単数の主格、呼格、対格、もしくは男性単数対格の形をしています。この文の中でこれのどれかに一致する名詞を探すと、一番後ろの名詞leporemが見つかります。つまり、男性単数対格だと分かります。このleporにはイタリア語で「grazia(優しさ)、garbo(魅力)」の意味があるので、合わせると「より長く続く魅力」となります。

daは動詞do(dare、donare、与える)の命令法二人称単数です。懇願を表している命令文で、頼んでいる相手は後の方にあるdiva(女神)です。すぐ後にあるdictisは名詞dictum(言葉)の複数与格もしくは複数奪格の形ですが、動詞doの目的語であることを考慮すると、複数与格だと分かります。先に分かった対格の語句と合わせると、全体で、「女神よ!より長く続く魅力を言葉に与えたまえ!」となります。

次の文です。efficeは動詞efficoの命令法二人称単数です。そのあとのutは接続詞ですが、後ろに接続法の動詞を伴って、目的などを示す節を作ります。確認すると、ちゃんと接続法の動詞quiescantが見つかります。全体で、「〜するのを達成せよ、〜するようにせよ」という意味になります。

intereaは副詞で「その間に」です。fera moenera militiai。perは接続詞で対格をとります。acは接続詞で、mariaとterrasは共に対格です。omnisは形容詞で、両方の名詞を修飾していると考えます。「per maria ac terras omnis」全体で、「全ての海と陸において」と訳せます。

sopitaは動詞sopio(眠らせる、鎮める)の完了分詞で、いくつかの格に解釈できますが、ここではquiescantの目的語になれるように、中性複数対格と考えます。つまり、対格である中性名詞moeneraが動詞sopioの目的語で、その分詞の対格がさらに動詞quiescantの目的語になっている構造です。時制が完了なので、相対的に分詞の動作の方が先に起きていることになります。

まとめると次のようになります。

それゆえに、女神よ!より長く続く魅力を言葉に与えたまえ!
その間に、すべての海と陸において、戦争の野蛮な出来事が鎮まり、停止しますように!

これが素直な訳です。この絵の場面を直接記述した文章ではないことがわかります。

 

それでは、これを屈折した意味になるように解釈してみます。

最初の文の解釈です。aeternumには「eterno(永遠の、長く続く)」という意味ですが、他に「indistruttibile(破壊できない、不滅の)」という意味もあります。magisはそれを修飾しているので、その意味を強めるために、「決して破壊できない〜」とします。

今回dictumはdettoの文語的な意味の「物語」と訳します。leporは「grazia(優雅)」の他に、「arguzia(言葉遊び)」、「piacevolezza(冗談)」という意味もあります。したがって、dictisは「物語に」、leporemは「言葉遊びを」とします。leporemはさらに「magis aeternum」に修飾されるので、言葉に合わせて「決して見破られない言葉遊びを」とします。動詞doは「与える」の意味ですが、「許す、了承する」という意味もあります。

女神よ!この物語に決して見破られない言葉遊びを許したまえ!

二番目の文です。feraはここでは名詞として考えます。ただし女性名詞feraとして考えると性数が合わなくなるので、形容詞ferusを名詞化したものとします。つまり、ferusの中性複数対格が名詞化されたものとしてのferaとします。意味は「野蛮な者たち」とします。そうすると、並んでいる三人のサテュロスの三人全員もしくは何人かを指し示すことができます。また、この絵の中で服を着ていないマルスも一括りにできます。なおヴィーナスと右下の女の子は服を着ているので、野蛮人ではありません。男たちが半獣の姿であることと、マルスが裸であること、女性たちが服を着て描かれていることの理由がこの言葉にあると言えます。

feraの後ろの対格をまとめて、前置詞perの目的語とします。つまり、per monera maria militiai を前置詞句として考えます。まず、名詞moeneraはufficio(世話)、dovere(義務)、funzione(機能)などの意味がありますが、他にprodotto(製品、生産物)という意味があります。これには同じ綴りで違う意味の言葉があります。そのprodottoの意味は、「伸びた、延された、拡張した、長い」です。これからmoeneraに「長い」という意味を与えます。この連想は我ながら強引だと思います。しかしとても効果的です。

前置詞perはここではイタリア語の前置詞con(持っている)の意味とします。mariaは中性名詞mare(海)の中性複数対格なのですが、形容詞mas(男の、勇敢な)の中性複数対格と同じ形ですのでそれとします。militiaiはそのまま女性名詞militia(戦争、軍隊)の単数属格です。合わせて考えると、「戦争の長い勇敢な物を持っている」となります。

戦争の長い勇敢な物というのは、紛れもなくこの絵に描かれている長い槍のことです。槍を持っているのは、兜をかぶっている子と、真ん中の子です。右の子は槍を掴んでいないので、この表現には含まれないと考えた方がいいようです。マルスも戦争の長い勇敢な物を持っています。彼の左手の指先にある細長い棒です。つまりマルスもこの語句の表現に含まれていることになります。

しかし、この解釈だと「terras」が残ってしまいます。この解決として、これを展開してterrasの前にもperがあると考えます。そしてこの時のperの意味を「attraverso(を横切って)」とします。本来の訳ではterrasは「陸」としましたが、今回は「田舎」と訳します。そうして、人物たちの後ろの画面の真ん中に広がっている何もない風景を示していると考えます。つまり、「田舎を横切って」とします。

槍を持っている二人のサテュロスは後ろの遠景を横切って並んでいます。したがって、この表現の通りになっていると考えられます。また、マルスは自らの体をこの遠景を横切って伸ばしています。やはりこの表現の通りに描写されていると考えることができます

残りです。形容詞omnis(すべての)は複数対格です。分詞sopita(眠らせる)も中性複数対格として一致していると考えます。しかしこの意味ではちょっと困ります。ここで技巧的なことをします。sopitaは動詞sopioの完了分詞ですが、ラテン語にはsopioという同じ綴りの名詞があります。意味はペニスです。残念ながらこのsopioは語形変化してsopitaになることはありませんが、意味だけを借用して考えます。こうすると、うまくいきます。

最後のquiescantは、動詞quiesoの接続法三人称複数現在で第一義で「休む、静かである」の意味ですが、調べていくと、「省く」という意味の「desistere、omettere」というのがあります。つまり、これを使うと「ペニスを省略する。」という意味になります。実際、このサテュロスたちには描かれていいはずの場所にペニスが描かれていません。古代ではサテュロスといえば立派なペニスと共に描かれる存在ですから、省略されていることをわざわざ記述することが意味を持ってきます。また、マルスについても、布を掛けることで、それを省略したことになりますから、この表現の通りだと言えます。この文が、子どもたちがサテュロスとして描かれている根拠、マルスの腰に布が掛けられている根拠の一つとなるでしょう。

全体をまとめるとこうなります。

「それゆえ、女神よ!この物語に決して見破られない言葉遊びを許したまえ!」
「そのときに、戦争の長い勇敢な物を持っている、田舎を横切っている野蛮な者たちが、ペニスを省略するように!」

最初の文は女神への懇願であり、二番目の文はその女神からの啓示と解釈すればいいでしょう。

 

今回はここまでです。前回新しい解釈をした部分で、いくつか形容詞の性数格の一致がうまくいっていなかった部分がありました。今後の説明の中で修正していきます。



posted by takayan at 23:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月19日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(3)

これからは、新しい解釈だけをしていきます。

nam tu sola potes tranquilla pace iuvare mortalis,

まず、この文にあるpaceの見出し語形はpaxですが、その意味を調べると、peace(平和)の意味だけでなく、concord、harmony(調和)の意味もあることが分かります。最初に見つけた典拠だけを用いた解釈では、右下で這っている蛇のような子どもが、晩年の姿から、マルスとヴィーナスの娘ハルモニア(Ἁρμονια)であるとしましたが、ἁρμονίαの英語での意味がまさにconcord、harmonyであることから、paxという言葉は女神ハルモニアを指し示せることになります。

namは接続詞です。ここでは「実のところ」とします。tu potes mortalisがひとまとまりになっているとし、potesは通常は、英語でcanに相当するpossumの二人称単数現在ですが、ここではpoto(飲む、酔っ払う)の接続法二人称単数現在と考えます。mortalisは形容詞で主格単数で、主語を修飾しているとします。つまり「死人のようなあなたは酔っ払っているのでしょう。」となります。接続法なのでこの場合可能性を示しているとします。

そしてsola tranquilla pace が一つにまとまっていると考えます。形容詞sola(一人)は奪格単数女性、形容詞tranquilla(静かに)も奪格単数女性とみなし、女性名詞paceの奪格を修飾しています。そしてこのまとまりで動作が行われている場所を表しているとします。これは、まさに他の三人の子どもたちとは隔離されて一人だけいるハルモニアの記述になります。絵では彼女は鎧の中に閉じ込められています。この理由ですが、彼女も三人の男の子たちと一緒で、その本性はやんちゃなのでしょう。それを鎧に閉じ込めることでtranquiioな状態にしている描写だと考えられます。

iuvareが残りますが、これはiuvo(支える、喜ばせる)の不定法現在で、これの処理が難しいです。今回は絵で左手で棒が倒れないようにしている様子だと考えます。ハルモニアが何かの実を押さえている仕草そのものも「支えている」と言えなくもないですが、paceの格では動作の主体を示すのことができないので、mortalisを修飾する形で、マルスの行為とします。

このように考えると、この行は全体で次のようになるでしょう。

実のところ、一人大人しくしているハルモニアのところで、(棒を)支えながら死人のようにしているあなたは酔っ払っているようです。

次の行は、本来とは違うところで区切ります。本来はregitの後ですが、これをgremiumの直後まで延します。

quoniam belli fera moenera Mavors armipotens regit in gremium,

接続詞quoniamは通常は理由を示すものですが、まれな使い方の「〜したあとに」という意味で訳します。

belliは本来は「戦争」を意味する中性名詞bellumの属格単数として解釈するのですが、ここでは「花、特にヒナギク」を意味する女性名詞bellisの奪格単数とします。そのあとの形容詞ferus(野蛮な、野生の)はこのbellisを修飾している単数女性奪格と考えてます。

次のmoeneraは中性名詞moenus(munus)の複数対格とします。これは義務や機能などの意味なのですが、これを前回出てきたように、技巧的に別な意味にします。つまり、イタリア語訳の一つであるprodottoのさらに別の解釈「伸びた、長い」とします。マルスの持っている長いものは、腰の布と、左手の先にある棒の二つです。ちゃんと複数です。

Mavors armipotensは本来の解釈と変えていません。ここは男性主格単数の名詞と形容詞で「勇敢なマルスが」という主語になります。regitは動詞regoの三人称単数現在で、いろいろな意味がありますが、ここではイタリア語訳のfissare(取り付ける)の意味で解釈します。つまり、ここまでの意味は、「勇敢なマルスが長いものを野生のヒナギクの所から取り付けている。」となります。

この絵をよく見ると、長いもの一つであるマルスが腰に掛けている布の端に、キク科の葉を持つ植物が描かれています。つまり「belli fera(野生のヒナギクから)」の描写となります。

bellis

この布の行き先ですが、この記述は最後にあるin gremiumにあります。gremiumは中性名詞gremiumの対格単数で、inの補語が対格になるので、inは方向を示します。gremiumの意味は「膝、胸、内部」などですが、この場合単に膝と考えます。この布の行き先を見るとマルスの右腕で隠れていますが、ちょうど右端のサテュロスの膝があるところへと向かっています。

gremium

長いものは複数です。もう一つについても説明できなくてはいけません。

棒はまっすぐに布の始まり付近に付けられて立っています。このくらいの距離ならばヒナギクの所と呼んでもいいでしょう。次にその上部がどこにあるかです。この棒の上部はマルスの左手の中指で支えられています。近くを見回しても誰の膝もありません。代わりにこの後ろには深淵が描かれています。マルスの体の下にある鎧があって、その上にバラ色の敷布が掛けられていますが、その布と鎧の隙間があるところにこの棒の上端があります。

harmonia

この棒は一見、完全な垂直となっているように見えますが、実はマルスの体の方に斜めに傾いています。どうして、このような分かりにくい描き方になっているのでしょう。おそらく、明確な矩形領域を描くことによって、強制的にハルモニアを大人しくさせていることを示すためではないかと思われます。

二番目の文をまとめると次のようになります。

それに先立って、勇敢なるマルスは野生のヒナギクのところからgremium(膝、入り込んだ所)へ伸びた(二つの)長いものを固定しています。

つづく



posted by takayan at 17:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月22日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(4)

いまさらですが、この絵の解釈において、神々の名前はギリシア神話の名前に統一します。ただ絵のタイトルはこれで通っているので、《ヴィーナスとマルス》のままです。

それでは、解釈を行います。最初に解釈したものから、かなり変わってしまいました。

qui saepe tuum se reiicit aeterno devictus vulnere amoris,
atque ita suspiciens tereti cervice reposta pascit amore avidos inhians in te,

上記の2行が長い文を作っていると解釈します。

quiは主格の関係代名詞で「qui saepe tuum se reiicit aeterno devictus vulnere amoris」までの節が主語となっていると解釈します。

saepeは本来の解釈では副詞で「しばしば」と訳すのですが、ここでは女性名詞saepesの奪格単数とします。saepesの意味は「生垣、塀」などです。形容詞tuumは単数中性対格と考え、名詞化して「あなたの体を」とします。代名詞seは奪格として「自分自身で」とします。reiicitは動詞rejictoの三人称単数現在で、「撃退する」と訳します。形容詞aeternoは後ろのvulnereを修飾していると考えます。devictusは同格と考えて「打ちのめした者」とします。

saepes

aeterno vulnere amorisはひとまとまりとします。形容詞aeternusの単数中性奪格、名詞vulnus(傷)の単数中性奪格、男性名詞amorの属格です。aeternusは普通は「永久の」の意味ですが、それだと都合が悪いので「長く続く」とします。amorは「愛」ですが、「最愛の人」その人も意味することができます。そして、vulnere を所格と考えて、まとめると「最愛の人の長く続く傷のところで」と解釈できます。この傷とは、去年解釈したときに突き止めたの足の傷です。

この関係節の中は「生け垣のそばで、最愛の人の長く残っている傷のために、あなたの体を自分自身で撃退している」となります。つまり、これはホラ貝を持っている一番右のサテュルスを記述していると考えます。実際、彼は右側の生け垣のそばにいます。最愛の人というのはアフロディーテのことです。彼にとってはアフロディーテは母親ですから、この表現で問題ないでしょう。この子はアフロディーテの傷がアレスによって付けられたと思っているので、アレスをやっつけているのでしょう。自分自身でという表現は、槍を二人で持っている二人のサテュロスとは違うことも意味しています。これ全体が主語になって次につながります。

次の節です。atqueは接続詞で「そして」、itaは副詞で「therefore」です。あわせて、「そういうわけで」とします。suspiciensは動詞suspicio(見上げる、尊敬する)の完了分詞の主格です。これも主語の同格となります。この動詞には他にイタリア語ではcontemplare(凝視する)という意味もあるので、「凝視している者」と解釈します。実際、ホラ貝を持っている子は、じっとホラ貝の方向を凝視しながら吹いているように見えるので、これで合っています。

tereti cervice repostaがひとまとまりになって、全て女性単数奪格と解釈できます。形容詞teresは「滑らかな」、女性名詞cervixは「首、肩」、repostaは動詞reponoの完了分詞と考えると「下にある」となります。これ全部で「下にある滑らかな首のところで」とします。このサテュロスのホラ貝のすぐ下にはアレスの首があります。

pascitはこの長い文の主動詞で、pasco(食べる)の三人称単数現在です。主語はもちろん、先ほどの関係節で右のサテュロスになります。このamoreは女性名詞amorの奪格として、ここでも最愛の人つまり母であるアフロディーテのこととし、「最愛の人(母アフロディーテ)のために」と解釈します。

その後ろのavidosは形容詞avidus(貪欲な)の男性複数の対格です。ここでこの形容詞を名詞化して考えます。つまり、貪欲な気持ちが具現化したような「大きい物」とします。そうするとそれをpasco(食べる)の対象にできます。この子の大きなホラ貝を口にくわえている様子が、大きな物を食べているように見えるからです。pasocoは主に動物が草を食む様子を表す言葉ですが、この子は野蛮な存在として描かれているのでその意味も合っています。つまり「大きな物(ホラ貝)をくわえている。」と解釈できます。

しかしここで問題です。avidosは複数形です。最低あと一つ「貪欲なもの」が必要になります。ここでpascoの意味をもっと調べてみると、「(牧場で動物を)監視する」という意味があります。この子の視線の先にあるものがホラ貝ではなく、その向こうのアレスであると考えるとうまくいきそうです。今回の解釈では、アレスも野蛮な存在だと記述されていますし、またお酒を飲んで酔っ払って寝ているようだと記述があったことからも、この絵のアレスは貪欲な存在だと言えます。神話のアフロディーテとアレスの関係も、二人が描かれているだけで性的な意味での貪欲さが暗示されるでしょう。つまり「貪欲な者(アレス)を監視している。」

このinhians in teは、主語を描写している言葉と解釈できます。teは「あなたを」という意味ですが、アレスを表しているとします。inhiansは動詞inhio(gaze、凝視する)の現在分詞で、単数主格と解釈できます。この動詞の意味からteは対格で、前置詞inは方向を意味しているのが分かります。「あなたを凝視している者」となります。意味としても、これも同格と考えます。

この長い文をまとめると、次のようになります。

生け垣のそばで、最愛の人(アフロディーテ)の長く残っている傷のために、あなたの体を自分自身で撃退している者(右端のサテュロス)は、打ちのめした者であり、そういうわけで、凝視している者でもあり、下にある滑らかな首のところで、最愛の人(母アフロディーテ)のために、大きな物(ホラ貝)をくわえ、貪欲な者(アレス)を監視している。彼はあなたを凝視する者である。

次の文です。

dea, visus eque tuo pendet resupini spiritus ore.

女性名詞deaは主格と解釈できます。その後ろに、visusがあって、そのあとに、equeがあります。equeは前置詞eに接続のqueが付いたものです。eは後ろに奪格をとる前置詞ですが、ちゃんと後ろのtuoは形容詞tuus(あなたの)の奪格として解釈できます。これも名詞化して、合わせて「あなた(の体、の目)から」とします。visusは動詞video(見る)の完了分詞の男性単数主格となります。これは受動表現として「あなたから見られていた者」として、主語deaの同格語と解釈できます。この絵の描写では、アレスはアフロディーテを見ていません。しかし二人は向き合っているので、彼が起きていたときはきっと彼は見ていたでしょうから、完了表現にしておけば問題ないでしょう。よってここまでで、「そして、あなたから見られていた女神は」となります。

pendetは動詞pendeo(吊す)の三人称単数現在です。その後のresupiniは最後のoreを修飾していると考えます。resupiniは形容詞resupinus(仰向けの)の属格と解釈しますが、名詞化されて「仰向けに寝ている者」を表すと考えます。oreは中性名詞osの与格、奪格、所格です。oreは通常「口」を意味しますが、さらに「顔、頭」を表すこともあります。したがって、動詞を考慮して、resupini oreで「仰向けになっている者の頭から」と訳せます。この絵の中に仰向けの者は二人いますが、何かを頭から提げている者はアフロディーテです。

残っているのは男性名詞spiritus(息、魂、生命)ですが、このように訳してくると、これがつり下げられている物を表す言葉であると推察されます。しかし、これがつり下げられるためには、対格でなくてはいけません。この語形のまま対格と解釈されるには、単数ではなく複数となります。絵を見るとアフロディーテがぶら下げている物は一つですが、複数の宝石からなっていることが分かるので、このそれぞれの宝石がspiritusを表しているのだと分かります。spiritusにどんな意味があるのか、このペンダントの画像をよくよく見てみると、それぞれの玉のハイライトとして見えていたものが目と口が描き込まれた顔のように見えてきます。特に右から下にかけてです。これを魂と解釈します。

spiritus

したがって、この文の意味は次のようになります。

そして、あなた(アレス)から見られていた女神(アフロディーテ)は、仰向けになっている者(アフロディーテ本人)の頭から、魂たちを提げている。

宝石に魂が描き込まれていると解釈しましたが、上の画像では断言できるほどはっきり見えてはいません。そう言われて見れば、そう見えるかもしれないという程度です。だから今まで知られていなかったのでしょう。このペンダントをもっとよく見ようとネット上を探してみましたが、これ以上の解像度のものは見つかりませんでした。はっきり確認できれば、このルクレティウスの文章を元に描かれているという解釈を、より確実なものにできるでしょう。ここに魂が描かれていることを論理的に説明できるのは、この文章の言葉遊び以外にないはずですから。

つづく



posted by takayan at 01:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。