それでは、ホーラがアフロディーテを飾り付ける続きの部分です。
ἐν δὲ τρητοῖσι λοβοῖσιν ἄνθεμ᾽ ὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντος:
δειρῇ δ᾽ ἀμφ᾽ ἁπαλῇ καὶ στήθεσιν ἀργυφέοισιν ὅρμοισι χρυσέοισιν ἐκόσμεον,
この文章の本来の解釈は次の通りです。
耳に開けた穴に、オリハルコンと貴重な黄金でできた花を付けた。
柔らかな首に、そして白銀の胸に、金のネックレスで彼女を飾り付けた。
やはり、この内容は絵には反映されていないようです。これらも解釈の仕方で、何とかしてみましょう。
最初の文は、花のピアスをアフロディーテに飾り付ける描写ですが、これもボッティチェリの絵には描かれていません。
ἐν δὲ τρητοῖσι λοβοῖσιν ἄνθεμ᾽ ὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντος:
この文の動詞はἐνで、これはεἰμίの三人称複数の未完了過去です。本来の主語はアフロディーテを飾り付けているホーラたちです。しかし、今回の解釈ではホーラは複数ではありませんので、他のものを主語にしなくてはいけません。
ここに並べられた単語の中で、主語となり得るのは本来の訳では対格としていたἄνθεμ᾽ です。これは主格としても解釈できます。ἄνθεμ᾽ は末尾を省略してある形ですが、動詞からの要請で、主格複数になるわけなので省略しない形はἄνθεμαとなります。意味は「花々が」です。
あとは、与格の形容詞と名詞からなるτρητοῖσι λοβοῖσινと、属格のὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντοςです。与格の部分はそのまま訳すと「耳たぶの穴」ですが、これはこの絵では誰もピアスをしていないので、採用しません。今のところは意味の特定は保留しておきます。属格の部分はこのまま材料を示していると解釈できそうです。オリハルコンは真鍮と訳してしまっていいようですが、折角なのでカタカナにします。χρυσοῖό は叙事詩体の名詞とも形容詞とも解釈できます。が、ここでは名詞としてみます。「貴重な金とオリハルコンで」となります。
さて、τρητοῖσι λοβοῖσινが別の意味にならないかの探求です。τρητόςの意味をイタリア語で調べると、「forato、traforate、cucito」となります。最初の二つの意味は「穴の開いた」の意味ですが、三番目は「縫った」です。この意味で解決策が見えてきます。花柄の布が描かれているので、これらを刺繍するためには縫う必要がありますから、この意味がこの絵で成立します。実際、アフロディーテに渡そうとしている衣装を見ると、いたる所に金色の装飾がされています。
τρητόςは分かったので、残りはλοβόςの意味です。これも植物の用語で調べてみると、「裂片」という意味が見つかります。花びらが一繋がりになっている花で、切れ目が入って別れているそれぞれのことを裂片と言います。葉やガクについても言います。カエデの葉っぱが一番分かりやすい例です。なおイタリア語ではギリシア語由来のloboという綴りをしています。
さて、ホーラが手に持っている衣装を見てみると、次のような部分が見つかります。
白い花は花びらが一つ一つはっきりと描かれていますが、金色の花は花びらが一つ一つ区切ってありません。まさに裂片として描かれています。しかしよく見ると、左上の株の花には塗り忘れがあります。塗り忘れはここだけではありません。でもこれも説明可能です。理由はこの文の動詞がアオリストではなく、未完了過去だからです。金の刺繍がまだ完了していない表現のため、白い花と違って、金色の花は描きかけになっているという細かな演出なのでしょう。
この文をまとめると、
オリハルコンと貴重な黄金で刺繍された裂片を持つ花々があった。
となります。
次です。これはアフロディーテの胸にネックレスが掛けられている記述ですが、これも直接この絵には描かれていません。
δειρῇ δ᾽ ἀμφ᾽ ἁπαλῇ καὶ στήθεσιν ἀργυφέοισιν ὅρμοισι χρυσέοισιν ἐκόσμεον,
この文の動詞はἐκόσμεονで、本来の解釈ではκοσμέω(飾る)の三人称複数未完了過去です。なおこれは一人称単数未完了過去とも同形になります。本来の主語は複数のホーラですが、やはりホーラを一人として解釈しているので、ここでは別の複数の主語を考えなくてはいけません。しかしそのときもし見つからなければ、誰かを一人称の主語として考えていいかもしれません。
この文の単語を見回してみると、δειρῇ、ἁπαλῇ、στήθεσιν、ἀργυφέοισιν、ὅρμοισι、χρυσέοισινはどれも与格になっています。前置詞ἀμφί(両側に、周りに)は与格、属格、対格支配をしますから、この前後の与格はこの前置詞の支配下の可能性が高いでしょう。そのほかは動詞のなんらかの補語になっているはずです。それぞれの単語のだいたいの意味は、δειρή(首)、ἁπαλός(柔らかい)、στῆθος(胸)、ἀργύφεος(白銀の、輝く)、ὅρμος(ネックレス、ひも)、χρύσεος(金色の)となっています。
δειρῇ ἁπαλῇ は前置詞ἀμφίの支配下にあるとします。これは本来の解釈と同じです。ἁπαλόςの意味は、イタリア語ではtenero、delicato、molleといった「柔らかい」という言葉で説明されているのですが、そのmolleの意味として他に「曲がりくねった」の意味が含まれています。そこでこの意味を採用し、「曲げた首のそばに」と解釈します。こうすると絵の中のアフロディーテの首を曲げた仕草を描写できます。
首の両側には金色の髪を束ねている白い紐が描かれています。この紐の色は、ただの白ではなく光沢のある白です。この紐の描写としてἀργύφεοςが使えそうです。ὅρμοςは本来の解釈ではネックレスとされていますが、鎖や紐の意味もあるので、これも使えます。したがって、ἀργυφέοισιν ὅρμοισιの二語で、髪を束ねている紐を表していると考えられます。本来はστήθεσινを修飾するために中性与格とみなしたἀργυφέοισινでしたが、これは男性与格とも同形なので、男性名詞ὅρμοισιをそのまま修飾すると考えても問題ありません。
χρυσέοισινは、「金色の」という形容詞ですが、ここでは女神の金色の髪を示す名詞として考えてみます。ἀμφίの「両側に」という意味を重要な物だと考えると、この髪も、対称ではありませんが、首の左右に分かれて描かれています。
残っているのは、στήθεσινですが、これはまさに右手によって隠しきれていないアフロディーテの両の乳房です。これもしっかりと紛れもなく、アフロディーテを美しく飾り付けている要素に違いありません。隠されてしまっていて完全には描かれていませんが、当然これも左右に描かれています。
こうして見ると、髪を束ねる紐、金髪、乳房と、アフロディーテの首を軸に両側に描かれているという共通点があります。アフロディーテ讃歌では、ホーラたちはアフロディーテをいろいろ飾り立てていますが、ボッティチェリは逆にたった三つの要素だけでアフロディーテを美しく飾っています。
さて、ここまで解釈してみて、三人称複数の主語となるものはどうもなさそうです。そうなると、1人称単数の主語になるのですが、その主語はボッティチェリ自身となります。なぜなら、そう解釈したほうが、私はいかにして美しく女神を描いたのかというボッティチェリの主張を読み取れるようになるからです。
私は、両の乳房と、曲げた首の両側にある白銀色の紐と、金色の髪で(アフロディーテを)飾った。
この文も前の文と同じように未完了過去の時制で書かれています。前の文と同じように、この時制を不完全な描写をあえてすることで表しているのならば、ここでもそう解釈できる描写があります。それはアフロディーテの風に乱れる彼女の髪です。白銀の帯は左右には描かれていますが、彼女の左肩の上のものは、真後ろのものが横からのぞいているだけです。右肩の上のように左側も束ねていれば、これほど激しく髪は乱れていないでしょう。つまり、この風に舞い乱れた髪の描写さえも、この文章から導かれる表現であるということです。