後もう少し続きます。
οἳ δ᾽ ἠσπάζοντο ἰδόντες χερσί τ᾽ ἐδεξιόωντο καὶ ἠρήσαντο ἕκαστος εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι, εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης.
この本来の解釈はこんな感じです。
喜んで出迎えて彼女を見た者たちは、彼女に手を差し出し挨拶をした。スミレの王冠をしたキュテレイア(アフロディーテの異名)の美しさに驚嘆し、誰もが彼女を正統な妻として家に連れて行きたいと願った。
美しいアフロディーテの姿を見た神々は誰もが彼女を嫁にしたいと思ったというわけですが、この記述も《ヴィーナスの誕生》の描写にしてしまいましょう。
しかしこれは難しい。一番見通しが悪いです。当然アフロディーテはスミレ色の王冠は付けてはいませんし、それを出迎えている複数の神々もいません。ただこの絵のホーラの服にはスミレ色の花が描かれています。またホーラは右手をアフロディーテの方に差し出しています。この描写がヒントになりそうです。
それでは、ギリシア語を解釈していきます。
ἠσπάζοντοは動詞ἀσπάζομαι(喜んで出迎える)の中動態三人称複数未完了過去です。οἵはここでは関係代名詞の複数主格男性で、この節そのものが主語となっていて、それを動詞εἶδω(見る)のアオリスト分詞複数男性主格のἰδόντεςが修飾していると考えます。ここまでは本来の解釈と同じなのですが、ここで動詞ἀσπάζομαιの別の意味を持ち出します。
ἀσπάζομαιは、「優しく迎え入れる、喜んで迎え入れる」という意味が第一義にあるのですが、他に挨拶に関連して、「抱きしめる(イタリア語でabbracciare、英語でhug)」、「キスをする、そっと触れる(イタリア語でbaciare、英語でcaress)」という意味を持っています。これを利用します。このabbracciareという動詞は植物に関して使うと「巻き付く、絡み付く」という意味があります。そうです。この意味によりホーラの首と胸の下に絡み付いている植物の描写が説明できることに気付きます。
また、baciareの「そっと触れる」という意味を見て、ホーラに何かそっと触れている物はないかと考えてみると、確かにあります。風になびくアフロディーテの髪がそっとホーラの右手の指に触れています。
ἀσπάζομαιにあるabbracciareとbaciareの意味はどちらも捨てがたいです。とりあえず両方の意味を採用しておきましょう。矛盾が起きたら、そのとき対処します。
本来の解釈で中動態であるこの動詞は受動態とも解釈できます。したがってοἳ ἠσπάζοντο ἰδόντεςは「アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは(植物に)巻き付かれている、彼女を見ている者たち」と解釈できます。解釈としてはこれでいいでしょう。いいのですが、数が足りません。この語句は複数形なので、一人のホーラでは数が合いません。他にも誰か必要です。
アフロディーテの髪が触れているホーラの指先から少し視線を上に上げると、同じようにアフロディーテの髪が触れているものに気付きます。ホーラの向こう側にある木の葉にも、アフロディーテの髪が触れています。この木も擬人化してこの言葉に取り込んでしまいましょう。そうすれば、「アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは植物に巻き付かれている、彼女を見ている者たち」という言葉がこの絵でちゃんと成り立ちます。木々は物を見ることができませんが、物が見えるなら十分にアフロディーテを確認できる位置にあります。
この語句を主語として、χερσί ἐδεξιόωντοの語句があとに続きます。χερσίは女性名詞χείρ(手、腕)の複数与格です。ἐδεξιόωντοは動詞δεξιόομαι(手を差し出して迎え入れる)の中動態三人称単数未完了過去です。ホーラはまさにこの言葉通りに手をアフロディーテへと差し出しています。そして、ホーラの向こうにある木も、枝をその腕とみなすならば、ホーラの仕草を真似るように枝をアフロディーテの方に伸ばしています。ここまでまとめると、「アフロディーテの髪にそっと触れられている、植物に巻き付かれている、彼女を見ている者たちが、彼女の方に腕を伸ばしていた。」と解釈できます。やはり、ホーラと木を一緒にして考えるとうまく解釈できるようです。
さらに進みます。「ἠρήσαντο ἕκαστος εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι」は、本来の解釈では「彼らは彼女を正式な妻とすることを、そして自分の家に連れて行くことを願っていた。」となります。この意味をそのままこの絵の中に見いだすのは難しかったのですが、ホーラの後ろの木も主語になっていることを踏まえれば、この文章をどう解釈すればいいのか分かってきます。
木々にはあまり目立ちませんがいくつもの花が咲いています。花は受精することを期待して咲いている存在です。花々にとって、正統な妻とは何かと考えれば、受粉を介在してくれるミツバチなどの虫が挙げられます。ちなみに、ミツバチはギリシア語でもイタリア語でも女性名詞μέλισσα、apeですので、花嫁と呼んでも違和感はないでしょう。この文の動詞はἠρήσαντοで希求法ではありませんが、不定詞をともなって願望を表現している表現なので、いまここにミツバチが描かれている必要はありません。
これは木に対してだけでなく、ホーラに対しても言えなくてはいけません。なぜならἕκαστος(every)という言葉があるからです。ここで先ほどの花の付いた枝を巻き付けた描写が生きてきます。彼女の体には生きた花が咲いているので、木と同じようにこの花に花嫁としてのミツバチが来るのを望むことが可能になります。これにより、体に植物が巻き付いている描写も含めていいことがはっきりしました。
もう一つの願望として「οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι」があります。このοἴκαδ᾽(家へ、故郷へ)は末尾が後ろの母音のせいで消えていますが、本来はοἴκαδεという形になります。この二語で「家に連れて行くこと」と本来は意味します。この表現も絵の中では簡単には分かりませんでしたが、植物にとっての話だと気付けば理解できます。
植物にとっての故郷は根のある地面です。受粉が終われば果実が実り、種が地面に落ちます。本来の解釈と同じように最初の不定詞の目的語と共通にする必要もありませんから、この語句の目的語は花嫁ではなく種とします。つまり、「(種を)故郷に持って行くこと」となります。これもまだ実現されていないことなので、描写そのものはありませんが、生きた花を描けばそれは、そのような未来を予感させてくれます。もちろん、この描写も、体に花を咲かせているホーラにおいても成り立ちます。
そして、分詞句「εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης」です。Κυθερείηςはアフロディーテの異名です。これも地名に由来する名前ですが、他のものを意味していると解釈するのは難しいので、そのままこの絵のアフロディーテその人だと考えます。Κυθερείηςは女性名詞で、属格単数です。
その前にあるἰοστεφάνουは形容詞で属格単数で、後ろと一致します。この形容詞はスミレを意味するἴονと王冠や花飾りを意味するστέφανοςの合成語で、「スミレで作った花冠をした」を表しています。本来の解釈ではアフロディーテを形容して、「スミレの王冠をしたアフロディーテ」です。
本来の解釈ではこれがさらにεἶδοςを修飾しています。これは中性名詞で、主格単数もしくは対格単数です。意味は「見ること」ですが、「姿、美しさ」も意味します。このとき格は対格とします。したがって、「スミレの王冠をしたアフロディーテの美しさを」としました。
この絵の中にはスミレ色の花冠はありません。しかし、スミレ色のものはホーラの着ている服に描かれています。その花を見ていると、黒く丸い頭にスミレ色のトゲのある冠をかぶったような形で描かれています。これでスミレ色の王冠を描いていると考えます。この言葉の意味を拡張して、「スミレ色の王冠柄の服を着た者」と解釈します。
この単語の前にはθαυμάζοντεςがあり、これは動詞θαυμάζω(wonder、驚嘆する)の現在分詞の複数男性主格です。θαυμάζωの意味をもう少し調べてみると、まれな意味としてfavorireがあります。これには一般的な「助ける、支持する」という意味の他に、「与える、差し出す」という意味もあります。この意味は使えそうです。
この差し出している動作の主語としてホーラを意味するとした属格ἰοστεφάνουを考えます。他方残りの属格Κυθερείηςは動作の対象とします。そしてこのときεἶδοςは対格とします。意味は「bellezza、美しい物」とします。節全体を合わせると、「キュテレイアに美しい物をスミレ色の王冠柄の服を着た者が差し出している。」となります。まさにこの描写そのものの記述になります。
この分詞句は、本来は先行する節の理由を表すものとして解釈していますが、今回はこの現在分詞が時間的関係を示すものとして解釈します。
したがって、全体はこのようになります。
アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは(植物が)体に巻き付いている、アフロディーテを見ている者たち(ホーラと木)が、彼女の方に腕(/枝)を伸ばしていた。彼らは花嫁(となる蜜蜂)が来ることと、(種を)故郷(である地面)へ導くことを願っていた。それはキュテレイア(アフロディーテの異名)に美しい物をスミレ色の王冠柄の服を着た者(ホーラ)が差し出しているときだった。
以上のように、この文章はホーラとその向こう側にある木々の描写を示している記述であると考えます。さらに、この風景の中にある遠くの木々もこの文章の影響下にあると説明できます。つまり、アフロディーテが見える位置にある木は腕を伸ばしていますが、アフロディーテから離れている位置の木々は腕を伸ばしていません。
この文章はかなり技巧的な解釈が必要だったため、予想以上に時間がかかってしまいました。でも時間をかけた甲斐はありました。この記事を書く前は、髪が触れている描写や、θαυμάζωに「差し出す」という意味があることには気付いていませんでした。その収穫はとても大きかったと思います。
やっと次回で『アフロディーテ讃歌』の解釈は終わりです。