最後の部分は讃歌の作者自身の締めの言葉です。
χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε:
δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.
αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.
本来の解釈は次のようになります。
恥じらいがちの目つきの者よ!甘いほほえみでうっとりとさせる者よ!万歳!
この争いの中で勝利を収めることを許したまえ! 私の歌を飾りたまえ!
では、私は、あなたを、そしてもう一つの歌を、思い出そう。
このギリシア語の文章も今までやってきたように、《ヴィーナスの誕生》に合うような解釈を考えてみます。
最初の文は命令文です。
χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε:
χαῖρ᾽ は動詞χαίρωの命令法二人称単数現在です。ここでは末尾が省略された形ですが、本来の形はχαῖρεです。意味は「喜ぶ、うれしがる」で、特に命令形では「万歳!、幸あれ!」の意味で使われます。その後の、ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχεは、どちらも形容詞の呼格単数女性です。
このἑλικοβλέφαρεの意味は、Perseusにある次の注釈19が参考になります。
Thomas W. Allen, E. E. Sikes, Commentary on the Homeric Hymns
つまり、本来の解釈では「with rolling eyes, quick glancing」という意味となっています。これは目の動きだけしか表していないので、どのようにもとれる表現です。目をきょろきょろ動かして動揺している様子なのかもしれませんし、活き活きとした目を表しているのかもしれません。目を意識的にぱちぱちさせて気を引こうとしている目つきかもしれません。上記の訳では、英語訳の「coy-eyed」を参考にして、「恥じらいがちな目つき」としました。
しかし、この絵ではそのような目の動きがある描写には思えません。そこで、この注釈で却下されている「with arched eyebrows」の方に着目しました。手元のギリシア語−イタリア語辞典で調べてみると「dalle palpebre sinuose o arcuate」となっています。sinuoseの意味は「曲がりくねった」、arcuateは「弓なりに曲がった、アーチ形の」です。
この絵のアフロディーテのまぶたを見てみると、上下ともちゃんときれいな弓形をしています。恥ずかしがっている目にも、活発な目にも見えません。それよりもぼんやりと一点を見つめ物思いに耽っている表情に見えます。したがってこの絵においては「アーチ型のまぶたをした者よ」と解釈していると考えていいでしょう。
次に、γλυκυμείλιχοςですが、これはγλυκύςとμείλιχοςに分解できます。γλυκύςはグルコースの名前の由来にもなっている言葉で、「甘い」という意味があります。μείλιχοςの方も「甘い」という意味、「快い、心地よい」の意味があります。全体ではイタリア語で「dal dolce sorriso seducente」、つまり「人の心をとらえる甘いほほえみの」となります。
しかしこの表情もこの絵には描かれていないようです。絵の中の彼女の表情はほほえみには思えません。ではこの言葉は何を意味しているでしょうか。
γλυκύςの意味を調べていくと、植物リクイリツィア(liquirizia)という意味が出てきます。イタリア語でカンゾウ(甘草)のことです。唐突に植物の名前が出てくるのにはもう慣れました。きっと、この絵のどこかにリクイリツィアが描かれているはずです。
きっとそれは意味ありげにホーラの手の中で包まれているこの植物です。薔薇の葉にも見えますが、少し違うように見えます。また衣装の模様のようにも見えますが、よく見るとはみ出しています。イタリア語の辞書には、紫色の花を付けその根からジュースを抽出する植物とあります。
最初の行をまとめると、次のようになります。
弓形のまぶたをしたものよ!心地よきグルクスよ!万歳!
率直に言って、この文を元に描かれているホーラが手にしているのは、女性器の記号であり、この文はそれへの賛美です。性的な記号で満たされているこの絵で、それが隠されたままであるわけがないのです。
さて、次の文です。この絵の中でずっと正体不明だったゼピュロスの隣にいる女神の正体がその理由と共に書かれています。
δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.
この節の動詞はδὸςで、δίδωμιの命令法二人称単数アオリストです。後の方にある不定法を伴って丁寧な要求表現になっています。φέρεσθαιはφέρωの不定法中動態現在で、φέρωには「運ぶ、持つ」の意味があります。
ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε は前置詞ἐνに支配されてる与格のἀγῶνι τῷδεと、対格のνίκηνに分けられます。ἐν ἀγῶνι τῷδεの意味は、本来の意味では「コンテストの中で」と解釈されていますが、この絵ではコンテスト、競争といった描写があるようには見られませんので、他の意味を考えます。ここには神々が集まって描かれているのでriunione(集まり)でよさそうです。したがって、「ἐν ἀγῶνι τῷδε」は「集まりの中で」とします。
νίκηνは本来の文ではコンテストでの勝利の解釈されるものですが、ここでは勝利の女神ニケ(Νίκη)とします。翼のある女神で、竪琴を持ち、勝利の歌を歌います。つまりこの文は、ゼピュロスの隣にいて、口から息を出している翼のある女神のことを記述した文と考えます。
女神ニケはルーブル美術館にある《サモトラケのニケ》が有名です。頭と両腕がありませんが、立派な翼を背中に持っています。なお《サモトラケのニケ》は19世紀に発見されたものなので、botticelliはこの像を見ていません。
《サモトラケのニケ》についてはルーブル美術館の以下のページを参照ください。
・サモトラケのニケ | ルーヴル美術館 | パリ
・ルーペで見る《サモトラケのニケ》
文章の解釈に戻ります。この文章がこの女神を表す言葉だと分かれば、「ἐν ἀγῶνι τῷδε」の意味も、この二人のことを示していることになります。そして、先ほど、この絵には競い合っている描写はないとしましたが、それも話が違ってきます。二人にはともに息が描き込まれています。つまりお互い競い合うように、ゼピュロスは風を起こし、ニケは歌を歌っているわけです。
φέρεσθαιは不定法の中動態で「連れて行く、同伴する」という意味があり、この意味で解釈してもこの変形した文章の意味は成り立つはずです。ただし不定詞の主語と命令文の主語は違ってきます。不定詞の主語はニケを連れて行くゼピュロスですが、命令文の主語はボッティチェリ自身です。ここの意味をまとめると「競争において(ゼピュロスが)ニケを連れて歩くことを許してください!」となります。
次の節の動詞はἔντυνονで、これは本来の解釈ではἐντύνωの命令法二人称単数アオリストですが、ここでは同形の一人称単数未完了過去とします。ἐντύνωの意味は「準備する、装備する、飾る」です。
ここで上の方でリンクしたホメロス風讃歌の英語注釈の[20]がヒントになりました。一人称単数の主語はもちろんボッティチェリです。補語は単数女性対格のἐμὴν ἀοιδήνとなります。ἐμὴνは「私の」で、ἀοιδήνは普通「歌」としますが、他に「神話、伝説」という意味もあります。したがって、この節は「私は私の神話を用意した。」となります。
この文をまとめると次のようになります。
競争において(ゼピュロスが)ニケを連れて歩くことを許してください!私は私の神話を用意したです。
そして最後の文です。
αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.
この文の動詞はμνήσομ᾽ です。末尾を補うと、μνήσομαιです。これはμιμνήσκωの中動態一人称単数未来です。この語の中動態での意味は「思いを巡らす、熟慮する、言及する」となります。
冒頭のαὐτὰρは接続詞です。ἐγὼは代名詞で一人称単数主格で、動詞とちゃんと一致しています。σεῖοも代名詞で二人称単数属格です。そして、動詞の周りにある二つの単語が性数格が単数女性対格で一致して、一つのまとまりになります。このἄλλοςは普通は「もう一つの」という意味で訳します。ἀοιδήは以前にも出てきた単語ですが、意味は「canto(歌)」になります。このようにσεῖοとἄλλης ἀοιδῆςの二つの属格のグループができていいて、それぞれが動詞の補語になっています。
ここまでの考えで訳すと、「私はあなたと、別の歌について熟慮させよう。」になります。しかしこの内容では形として描けないので、ボッティチェッリの絵を詳しく眺めて、この中に描かれているものを表せるように解釈を工夫してみます。
ἄλλοςの意味はイタリア語での訳語はaltroですが、他にdiversoがあります。このdiversoの意味には、「違う、異なる、異質の」などがあります。ここでは「異質の」とします。ἀοιδήのイタリア語の訳語はcanto(歌)ですが、このcantoには同じ綴りの別の言葉があって、その意味は「片隅、角」です。合わせると、「異質な片隅」となります。
まとめるとこうなります。
私はあなたに異質な片隅を熟慮させよう。
私というのはもちろん絵を描いたボッティチェリです。あなたというのは、ボッティチェッリが隠したこの絵の意味に気付き、ここまでたどり着けた、今この絵を見ている私たち一人一人です。そして異質な片隅というのは、次の画像の左隅にある何かです。
(追記始まり 2012/02/10 ここは飛躍しすぎていたので、改めることにした。)
私はあなた(アフロディーテ)と異質な片隅を思い出すだろう。
私というのはもちろん絵を描いたボッティチェリです。あなたは、アフロディーテとします。そして異質な片隅というのは、次の画像の左隅にある何かです。(追記終わり)
もっと詳しくこの角を確認したい場合は、次のリンク先のグーグル・アートプロジェクトの画像で拡大して見てください。Google Art Projectがなければ、この異常な角の存在に気がつくことはできなかったでしょう。
The Birth of Venus (Sandro Botticelli) : Uffizi Gallery
時間はかかりましたが、ようやく『アフロディーテ讃歌』の特殊な翻訳が終わりました。ごらんの通り、この文章を通常とは違う解釈をすると、一語も無駄にせずに、この絵の描写が現れました。素晴らしいです。理解できてしまえば、こんなにあからさまに描かれていたものに対し、500年も正しい解釈がされてこなかったことが、信じられないくらいです。
なお、『アフロディーテ讃歌』だけではこの絵の表現にいくつか足りないものがありますが、それは以前解釈したルキアノスの短い文章:「ἐπὶ πᾶσι δὲ τὴν Ἀφροδίτην δύο Τρίτωνες ἔφερον ἐπὶ κόγχης κατακειμένην, ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ.」、この中に見いだせます。アフロディーテが貝の上に立っていること、この絵の中で花が散らばっていることは、こちらの文章から導き出されます。