久しぶりの投稿です。ホーンの研究をヒントに今まで誰も分からなかった《アペレスの誹謗》の背景が描いているものを分析していこうという話の続きです。前回ここが奇妙な彫像の並ぶ不条理な世界であることを示しました。
実のところ解釈があまり進まず、続きが書けないでいました。ところが、ふと一週間ほど前おもしろいアイデアが浮かびました。裸の「真実」は、右手を頭上に掲げ、人差し指を天へと伸ばしています。とても意味ありげな仕草です。彼女は天を指さし何を伝えようとしているのでしょうか。その一つの説は以前ここでも紹介しました。今回はそのことではなく、もう一つ、この仕草が表す重要なことです。この指をよく見るとちょうど一つの彫像の頭を指しています。これは決して偶然ではなく意図的な配置でしょう。この彫像はきっと特別な人物に違いありません。今回は彼についての話です。
彼の顔ははっきりしませんし、前回紹介した正体の分かる彫像のようにわかりやすい記号も持っていないので、この人物が誰なのか特定するのはあきらめていました。でも先日おもしろいことに気がつきました。彼の腕の仕草です。これは「後悔」の腕と同じ仕草です。完全に同じというわけではないのですが、この絵の中でこの二人の腕の仕草は似ています。この発見がきっかけでした。
そう「似てる」のです。真似ているといった方がいいでしょう。この「真似ている」という言葉が、これまでこの絵を調べていてずっと引っかかっていたものに意味を与えてくれました。
去年の今頃、ルキアノスの古典ギリシア語原典と訳して内容の比較を行い、そして原典の内容こそが、奇妙ないろいろな仕草を含めて、その典拠となっていることを示しました。そのとき実はギリシア語の最後の一行と絵の対応は示していませんでした。この文です。
Οὕτως μὲν Ἀπελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.
本来の意味:
このように確かにアペレスは自分自身の危機を絵の中に描いた。
正直対応させるのを忘れていました。それに気がついたときも、この5節の文章は一つ残らずこの絵の中に描かれているのに、この最後の文だけが絵に具体的に描かれないのはおかしいとは思いつつも、原文の意味のままでいいやとそれ以上深く考えずに放置していました。どう考えてもそのときは原文以上の適訳が思い浮かばなかったからです。
しかし今回この絵を見て「真似ている」という言葉が頭に浮かぶと、この文もこの絵に描かれている可能性が出てきました。何故かというと、この文の動詞 μιμέομαι(ἐμιμήσατο)は、英語の mimic(真似る) の語源と関連のある言葉だからです。本来はこの文では「描いた」と訳すべきですが、この絵を踏まえれば「真似をした」と訳せるかもしれません。
それでは、この文を絵に合わせて訳してみましょう。
Ἀπελλῆς アペレスは主格です。当然、この彫像はアペレスとなります。この絵に並んでいる彫像は、斬首に関連する有名人だとわかりましたが、アペレスもここに並んで何の問題ない有名人です。なおドナテッロやボッティチェリも描かれていると前回指摘しましたが、ホロフェルネスとユーディットの作品を残している彼らもこの法則にちゃんと従っています。
τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνονはその動詞の直接目的語でそのまま「彼自身の危機を」となります。ἐπὶ τῆς γραφῆς は、本来は「その絵の上で」となりますが、今回は「その絵にくっついて」と、「真実」に頭を触れられている描写を表しているとします。
「真実」を振り返って見ている「後悔」の視線の先には、「真実」の右の人差し指がありますが、それは同時にアペレスの彫像へと向かいます。立体的に考えると、「後悔」がアペレスを見るのは不可能ですが、平面的に考えると確かに「後悔」はアペレスの方を見ています。一方アペレスの視線はというと、「後悔」へではなく、自分の前にあるダビデの方に向けています。つまり真似ているのは、「後悔」と考えていいでしょう。本当に真似ているかどうか関係ありません。真似ているように見える構図であればいいのです。
動詞も本来のἐμιμήσατοのままで、アオリストの三人称単数です。この動詞は受・中動態の形をしていますが、内容は能動態として訳すラテン語にもある能動態欠如動詞です。ただし今回は主語であるアペレスが真似られているので、受動態の意味で訳すことにします。まとめると、「このように確かに、その絵にくっついているアペレスは彼自身の危機を真似られていた。」となります。行為者は省略されていますが、当然「後悔」です。
ところで、アペレスの自分自身の危機とは何でしょう。「後悔」に真似られている危機、つまり腕を組んでいる仕草はどんな危機を表すのでしょうか。本来の文では危機とは、この絵を描くきっかけとなった、他人に陥れられ無実の罪に問われ、殺されそうになった事件のことです。そのことを思い出すと、この仕草に意味が見えてきます。
アペレスも「後悔」もよく見ると腕を組んでいるというより、自分の手首を合わせています。そう、「罪」という言葉を念頭にこの仕草を見ると、これは手首をくくられている罪人のポーズです。洋の東西を問わず、この仕草にはその意味があるのではないでしょうか。そうだとすると、この仕草はアペレスの体験した危機を確かに表せます。
「後悔」の手の仕草は、以前やった典拠からの解釈では導いていませんでした。今回、この訳をすることで、この仕草の理由が説明できました。彼女が手を重ねている理由はアペレスの彫像を真似ているからです。そしてそのアペレスは自分の陥れられた危機を腕の形で表しています。もちろん、この彫像もここに並んだいくつかの彫像のように間違った彫像です。なぜならアペレスは罪人ではなかったのですから。
ここで以前書いたことの修正をします。「後悔」を説明する言葉にοἶμαιがありました。以前はこれを本来の意味と絵に即した意味の両方で「彼女はまるで自ら身を投げ出しているかのようである。」とちょっと強引な訳をしていました。この単語をοἰμάω(危険に身を投げ出す、突撃する)の三人称単数現在と解釈していたからです。なおこのとき下書きのイオータをそのままの大きさで横に書いているとみなしています。
この絵に即した訳ではこの意味のままでいいと思いますが、本来の意味としては、οἶμαιはοἶομαι(思う)の1人称単数の短縮形でなくてはいけないでしょう。このとき著者ルキアノス本人が主語となります。そして彼が思っているその内容が、「Μετάνοια αὕτη ἐλέγετο」です。このἐλέγετοはλέγω(言う、名を呼ぶ)なので、本来の意味は「この女性が後悔という名であると思う。」となります。
さて、「後悔」の仕草が罪人を表すものだとすると、このあたりの絵に即した解釈は考え直さなくてはいけないでしょう。つまり、οἶμαιを身を投げ出すという解釈のまま使うにしても、それは「後悔」がその仕草で自ら罪人であると主張していると表せるからです。以前は、「誹謗」を飾る女が前のめりになっているの描写を、οἶμαιが表しているとしましたが、この女の姿勢は「誹謗」を押している記述προτρέπουσαι があるので必ずしも必要ありません。
古典ギリシア語やイタリア語のニュアンスで、οἶμαιが懺悔するという意味の記述になりえるかはっきり分りませんが、こちらの解釈の方がいいように思います。この場面で罪を告白することは、首を切られて死ぬことを意味しています。それを覚悟し、この場でこの仕草をすることは、危険に身を投げ出すという記述に合っているように思います。以前は「後悔」の手の仕草の意味が分からなかったので、そのように解釈することができませんでした。
「後悔」についての記述:
κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι,
本来の文はもう少し続きますが、あえてここで区切って考えます。κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένηを最初の文、μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαιを次の文とします。絵に合わせると次の意味に解釈できます。
そのあとに服を着た女が完全な喪に服して続いていた。黒い服をまとい、ずたずたになった「後悔」は身を投げ出していた。
特定できない残りの彫像にもモデルはいるでしょうが、今のところこれ以上分かりません。左端の側面にいる人物は杖をついています。これはおそらく彼が盲目であることの記号でしょう。古代ギリシアで有名な盲人といえばホメロスがまず思い浮かびますが、断定するほどの根拠はありません。彫像の解釈はとりあえずここまでにします。このあとはレリーフの内容を、やはり、ホーンの研究をもとに整理していく予定です。