ボッティチェリの神話画の典拠についての独自の探求の続きです。今回は以前やった《ヴィーナスの誕生》の解釈(《ヴィーナスの誕生》 解答)の修正です。
次のリンクでとても細かな《ヴィーナスの誕生》を見ることができます。これを別に開きながら読むと少しはわかりやすいと思います。
The birth of Venus - google art project
去年、《ヴィーナスの誕生》と『アフロディテ讃歌』との関係を詳しく分析してみました(《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(1))。ゼピュロスと一緒に飛んでいる女性が勝利の女神ニケだということが分かったり、手を伸ばす木と手を伸ばしていない木が描かれていることにも気づいたり、《ヴィーナスの誕生》の左角にある異様な角の存在を指摘できたりと、なかなかの収穫がありました。
今回は、以前に解釈したもう一つの典拠と思われる、ルキアノスの『海神たちの会話』にあるヴィーナスが登場する次の一文についてです。
ἐπὶ πᾶσι δὲ τὴν Ἀφροδίτην δύο Τρίτωνες ἔφερον ἐπὶ κόγχης κατακειμένην, ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ.
これは、牡牛に化けたゼウスに誘拐されるエウロパの物語の一場面です。花嫁を祝福している海神の一団の最後に愛の女神ヴィーナスが現れた様子を描いた文です。訳すと、「そしてみんなの後に貝の上に寝そべったアフロディーテが二人のトリトンに運ばれてやって来ました。彼女は花嫁にたくさんの種類の花々をまき散らしました。」という意味になります。
この文には、「貝」と「花」という単語があるので、訳の仕方によっては、絵の描写になるんじゃないかと以前やってみたわけです。そのときは、δύοとΤρίτωνεςを分けるなど、文法をかなり無視し強引に絵に合わせてみました。今思うと、恥ずかしい限りですが、それでもこの着想はなかなかよかったと思います。
それでは、言葉遊びに再挑戦してみます。
δὲ は単純な接続詞として、「そして」と訳します。ἐπὶ πᾶσι は本来は祝福に現れたみんなに続いてという意味になりますが、この前置詞ἐπὶは文脈によっていろんな意味になります。現時点では主語がはっきりしないので、保留にしておきます。
トリトンが描かれていないため、以前Τρίτωνες (Τρίτων)を第三のものを意味すると訳しました。理由として、Τρίτωνという語が「第3の」という序数詞τρίτοςから派生した語だと考えられているからです。そのとき性数格を無視して、Τρίτωνες だけを主語にし強引に解釈し、右の花柄の女性がホーラたち姉妹の三番目であるとしました。でもやはりδύοとΤρίτωνεςを分ける解釈には無理がありました。
さて、序数を使った表現といえば、英語の分数表現があります。基数と序数を使ったあれです。この表現は英語特有のものではありません。イタリア語でも、古典ギリシア語でも見られる表現です。おそらく単位分数に由来する表現でしょう。このΤρίτων(三番目のもの)がτρίτον μέρος(第三部分)を表すと考えるわけです。
δύο Τρίτωνεςが分数表現だとすると、ギリシャ語ではδύο τρίταと同じ意味となり、英語で書けばtwo thirds、イタリア語で書けばdue terzi、つまり3分の2ということになります。ここに描かれている主語となり得る3つのものを探すと、アフロディーテ以外の人物です。この3人のうち2人がこの文章の主語となると解釈してみます。動詞がφέρω「運ぶ、連れて行く」なので、この意味に合う2人の組み合わせは、ゼピュロスが含まれる飛んでいる2人の可能性が高いでしょう。
ἔφερονの原形φέρωのイタリア語での意味を調べると、一般的にはportareです。ゼピュロスの運ぶ方法と言ったら、息を吹いて波を起こすしかありません。帆のある船ならばその帆に風を当てるという方法もあるでしょうが、この絵には規則的な波も描かれていますし、おそらく波でいいでしょう。本来の意味では二頭立ての馬車のように、2人のトリトンがアフロディーテの寝そべっている大きな貝を引いて現れるのですが、この絵を踏まえた解釈では飛んでいる2人が、2人といっても主にゼピュロスですが、後ろから風を起こして運んでいることになります。動詞の時制は未完了過去なので、「運んでいた。」となります。
ようやく保留していたἐπὶ πᾶσιの意味も分かります。前置詞ἐπὶ はイタリア語でsu、sopra、dopoなどに相当し、英語だとupon、afterなどの意味があります。πᾶσι はπᾶς「すべて」の与格です。ゼピュロスが風で後ろから押している訳ですから、この場合dopoが一番相応しいでしょう。「すべての後ろで」と訳します。
ἐπὶ κόγχης κατακειμένην は貝の上にいるアフロディーテを描写する現在分詞です。κατακειμένηνの原形はκατάκειμαιで「横たわっている」と訳されます。イタリア語だとgiacereです。意外にこの貝はアフロディーテの身長と同じくらいの横幅があるので、ちょっと窮屈かもしれないけれど、横になれなくもないでしょう。手足を伸ばし貝の外に投げ出してもかまいません。この現在分詞は未完了過去の主動詞と同じ頃の出来事を描写しているので、この絵の中に寝そべっている姿が描かれていなくても問題ありません。今は上陸するために立ち上がった姿が描かれていると解釈できます。
以前、κατάκειμαιのもう一つの意味イタリア語だとstare(いる、ある)を使って、この絵のアフロディーテがたたずんでいる様子を表現していると解釈しました。しかし文章の時制を考えると現在分詞κατακειμένην は、動詞ἔφερονと同時期の様子、つまり過去の出来事を描写していなくてはなりません。そのため今回は、この解釈は行いませんでした。
「ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ」は現在分詞からなる句ですが、この分詞は対格でありアフロディーテと同じ格になっていて、アフロディーテがこの分詞の動作の主語となります。κατακειμένηνからなる分詞句は形容詞的にはたらいていましたが、こちらは副詞的な役割になっています。「ἄνθη παντοῖα」は対格で、翼の2人の周りにある花々のことだと解釈できます。ただし、この花は多くの種類ではなく、バラだけなので、「たくさんの花々を」と訳します。
ἐπιπάττουσανはそのまま「撒き散らしている」と訳します。このとき撒き散らしている行為者は上記の通りアフロディテです。以前は翼の生えた女性を花の女神フローラだとしてしまったので、この動作の主語を文法を無視してフローラとしていました。ルクレティウスの『物の本質について』第5巻にある春の描写におけるゼピュロスとフローラの姿を念頭に置いた解釈でした。しかし今回この女性はフローラではないことが分かっていますから、文法が示すように撒き散らしているのはアフロディーテとします。
残りのτῇ νύμφῃは本来間接目的語の撒き散らされる対象の女性となります。しかし特別に翼の女神の周りだけに花があるわけではありません。花がまかれているのは翼の生えた2人の周りです。したがってこの絵だとτῇ νύμφῃを対象とは解釈すると無理が生じます。そこで別の解釈を探します。翼のある女性が花の女神ではないことが分かったので、花の出所が分からなくなりました。うまいことにホーラの腰にあるベルトにバラが咲いています。これが花の出所でしょう。与格には由来を表す用法があり、それを利用してτῇ νύμφῃはばらまかれている花がどこからやってきたのかを表現しているとします。
さて、この最後の句の解釈を踏まえて、この絵を見ると、アフロディーテの視線が、がらっと違って見えてきます。アフロディーテが翼のある2人に花を振りまいたのですから、彼女がこの男女に関心があることが分かります。そうすると自然と彼女の視線が二人の方に向かっているように見えてきます。つまり翼のある2人はアフロディーテの前にいます。二人の頭はアフロディーテの頭よりも少し大きく描かれているので、一度アフロディーテの彼らへの関心に気づいたら、もう位置関係はそうとしか見えなくなってしまいます。
今までは一般的な解釈の通り、翼のある二人はアフロディーテの後ろにいて、そこから彼女を風の息で押していると思っていました。ゼピュロスの息がアフロディーテを押しているように見えるので、二人がアフロディーテよりも前にいるなんて誰も考えません。いままでの見方だとアフロディーテは首を傾け虚ろに斜め前を見つめているだけでした。しかし、この最後の句の解釈を踏まえ、花を撒いたのがアフロディーテだと分かると、彼女の視線がはっきりと空中の二人で焦点を結びます。まさにアフロディテの優しい眼差しが彼ら2人に向けられていたのだと気がつきます。
しかしここで疑問が生じます。二つ目の分詞ἐπιπάττουσανも現在分詞なので、この主文と分詞句はほとんど同時期でなくてはなりません。しかしアフロディーテの後ろから風を送って進ませている行為と、絵に描かれているようにアフロディーテの前に出て花々をまとっている状態が同時期とは考えられません。本来の文章の意味ならばトリトンに引かれながら、寝そべりながら、花嫁に花を振りまく行為が同時に起こりえますが、今回の解釈ではそうはいきません。ゼピュロスたちに運ばれながら、アフロディーテが貝に寝そべることは過去の同時期であってもかまいませんが、アフロディーテがゼピュロスたちに花を撒く行為はそれより少し未来の出来事でなくてはいけません。現在分詞ἐπιπάττουσανを使っては残念ながら、その時間差を表現することが難しいのです。
ここまでギリシャ語の言葉遊びでこの絵を説明してこれたのですから、この時間差についても何か解決策があるはずです。ἐπιπάττουσανの原形ἐπιπάττωはアッティカ方言の綴りで、一般的な原形はἐπιπάσσωです。したがって現在語幹はἐπιπάσσとなります。この綴りを見てみると、語幹の最後にσがあることが分かります。ギリシャ語の未来分詞は未来語幹に現在分詞と同じ語尾をつけて作ります。その未来語幹は現在語幹にσを付けたものです。つまり本当は現在語幹として解釈されるべきἐπιπάσσは、最後にσがあるために語形の上では未来語幹に見えてしまいます。本来の未来語幹はἐπιπάσなので正しい形ではないのですが、あえて勘違いすれば、ἐπιπάττουσανは未来分詞となります。ἐπιπάττουσανが未来分詞となれば、この分詞句を使って、主文の動作より未来の出来事を表現できるようになります。つまり、アフロディーテは島まで運ばれてきた後に花を撒いたと解釈できます。
この絵ではゼピュロスたちはアフロディーテより前にいるので、彼らはアフロディーテを進ませるために息を吐いているのではありません。息で島へ運ぶ作業はもう既に終わっています。ではこの絵で紛らわしくゼピュロスと女神が息を出して何をしているのでしょうか。その理由はもう一つの典拠『アフロディーテ讃歌』の中にあります。「神々の欲望を引き起こす合唱」と訳せる部分χορὸν ἱμερόεντα θεῶνです。ゼピュロスが息を出しているのは彼が風の神であるからに他なりません。女神が息を出しているのは彼女が勝利の女神であるからです。勝利の女神は歌を歌う女神です。競い合うように2人は口から息を出しています。アフロディーテは恥ずかしくて乳房を手で隠そうとしているのではなく、その仕草で彼らの合唱に心を動かされたことを示しているように見えてきます。
以前分析したもう一つの典拠において、ギリシャ語のアオリストと未完了過去の時制の違いが描き方にも現れているとしました。中途半端な刺繍や、アフロディーテの隠された体の描写です。未完了過去時制の表現機能というよりは未完了imperfettoという言葉の意味が現れているとしました。今回も未完了過去ἔφερονが出てきますが、これも、島に完全に接岸していないのに、もうゼピュロスたちがアフロディーテを風で押すことをやめて前に出てきている描写に現れているといえます。
全体をまとめると、「そしてすべての後ろで3人のうちの2人が、貝の上に寝そべっているアフロディーテを押し動かしていた。そのあとアフロディーテが若い女性からのたくさんの花を撒き散らした。」と訳せます。
このように解釈すると、上に示したギリシア語の文を絵の描写の典拠にすることができます。去年やったもう一つの典拠の解釈とつじつまが合わなくなるところもありますが、きっと調整できるでしょう。他のボッティチェリの神話画と同じで、この絵も本当に不思議な絵です。突然、立体視のように有翼の2人がぐっと手前にせり出して見えたときは、衝撃的な転回でした。