そういうわけで、ボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》の中央の女神の描写は「ホメロス風讃歌」の第4歌『ヘルメス讃歌』のある部分の記述を元に描かれていることが明らかにできました。
しかし前回はマイアの描写だけを着目したので、『ヘルメス讃歌』4行目から解釈を始めましたが、あとから思うと冒頭3行にあるヘルメス(メルクリウス)を讃える言葉だって何らかの形でこの絵に描かれていたのかもしれません。それ以前に、読み返してみると長い『ヘルメス讃歌』の前回解釈した部分はまるまる短編の方の『ヘルメス讃歌』の内容でした。
マイアの解釈にだけ集中しすぎて単純なことに気がつきませんでした。冷静に考えて、『アフロディーテ讃歌』のときと同じで、一つの讃歌全体を絵にしていると考えた方が理にかなっています。
長い方はホメロス風讃歌の第4歌で、短い方は第18歌です。以下第18歌全文です。長いほうは580行もあるのですが、こちらは12行ととても短いです。
Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον, Ἀργειφόντην,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
Ατλαντος θυγάτηρ, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ: ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην:
λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
χαῖρ᾽. Ἑρμῆ χαριδῶτα, διάκτορε, δῶτορ ἐάων.
そして、日本語の意味を前回のと同じように、筑摩書房刊の沓掛良彦氏訳より引用します。
キューレーネー生れのヘルメースを、アルゴスの殺し手を歌おう、
キューレーネーと羊多いアルカディアを統べる神、
幸運もたらす神々の御使者を。アトラースの畏い娘マイアが、
ゼウスと愛の交わりをなしてこの神を生んだ。
マイアは浄福なる神々のまどいを避けて、
濃く蔭をなす洞窟の奥深く住まっていたのだが、
その中でクロノスの御子は、夜の帷の垂れこめるさなかに、
うるわしい巻毛のニンフと愛の交わりをなしたのだ。
それは腕白きヘーラーを甘い眠りがとらえていた折りのことで、
不死なる神々も死すべき身の人間も、気付きはしなかった。
ではこれにてさらば、ゼウスとマイアの御子よ、
あなたを歌うことから始めたが、他の讃歌に移ろう。
さらば、恵みの神ヘルメースよ、導きの神よ、よきことども与えたもう神よ。
内容は前回解釈した部分とほとんど同じです。文法的には動詞の法が変わっていたりしているのですが、マイアの部分に関してはほとんど前回の解釈を変更せずにいけそうです。問題は最初と最後。冒頭の固有名詞はそのままの形ではこの絵に描かれていなさそうだし、そうとうやっかいです。
Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον,
Ἑρμῆν は Ἑρμῆς の対格です。Κυλλήνη というのは、アルカディア地方にある山の名前で、マイアが住んでいたのはこの山の洞窟でした。つまりヘルメスの生まれた場所を表し、ヘルメスの称号の一つです。語形は対格で Ἑρμῆν を修飾しています。ἀείδω は動詞で、意味は「歌う、讃える」、形は1人称単数現在の直説法か接続法です。素直に訳すと「私はキュレネーのヘルメスを讃えよう!」となりますが、この絵にはキュレネー山らしきものも描かれていません。何か違う意味に置き換える必要があるようです。
Κυλλήνιος を辞書で調べると近くに形容詞 κυλλός があります。イタリア語での訳は monco、zoppo などがあります。これらの語の比喩表現を見ると、「不十分な、不完全な、つじつまの合わない」といった意味があります。これは使えそうです。何故かというと、ヘルメスの足首を見ると、左足のブーツに翼が見えません。角度的に見えていないだけかもしれませんが、確かに不十分な描写です。
しかし、この単語は κυλλήνιος であって κυλλός でありません。さあ、どうすれば変換できるでしょう。これは難易度がとても高かったです。思いつくのにちょっと時間がかかりました。κυλλήνιος と κυλλός の差は ήνι です。ήνι という語が実際にないか調べてみると、ἡνία という語があります。この語がエリジオンを起こすと、ἡνί᾽ という綴りになり得ます。そこで、ἡνία の意味はというと、briglia 「手綱」、cinghia 「ベルト」です。この絵だとすぐにヘルメスの肩から剣をぶら下げるためにかけてある紐のことを思い出します。当然ですが、このベルトは体やマントの後ろを通っているので完全には描かれていません。しかしそれはそうなのですが、重要なのは背中を通っている影がまるで塗り残しのように描かれていることです。これが不完全なベルトです。つまり、κυλλός と ἡνία が一緒になった κυλλήνιος となります。ベルトがそれ一つだけでこの単語を表せれば、不完全なブーツを使う必要はなくなりました。まとめると、「不完全なベルトを提げたヘルメスを讃えよう!」となります。
Ἀργειφόντην,
これはアルゴスという百目の怪物を退治したの武勇伝からくる彼の異名です。これも対格です。アルゴスはたくさんの目を持っているために死角のない怪物だったのですが、ヘルメスは笛を吹いてすべての目を眠らせ殺しました。この言葉の描写がこの絵の中にもあるわけです。しかしそのままの形ではおそらく見つからないでしょう。
ここで原義通り単語を分解します。ἀργος「アルゴス」 と φονεύς「殺人者」 です。ἀργοςの意味を調べると、いくつかの意味があって、その中に形容詞でsplendente「輝く」、lucente「光る」、rapido「素早い」、bianco「白い」というのがあります。メルクリウスのそばに何か白く輝いているものを探すと、頭上の雲状のものが見つかります。ハイライトがあって輝いています。雲が棚引いて見えるのもrapidoの意味も描かれているからでしょう。この形容詞ἀργοςを名詞化します。φονεύς の意味としてdistruttore 「破壊者」というのもあります。これは雲の形を壊していることになります。つまり、「白く輝くものを破壊する者を!」となります。
こう解釈すると、この絵の中にἈργειφόντην としてのメルクリウスが現れます。それが分かって、ヘルメスの顔を見ると、唇を心持ち突き出し口笛を吹いているように見えてきます。笛の代わりに口笛というわけです。ヘルメスが手に持っているのは笛ではなく、カドゥケウスですが、これも眠りに誘う機能がありますからアルゴスと戦うには正しい武器です。彼がこの場でカドゥケウスを持っている必然性がここに見つかりました。普段の彼の持ち物ではないヘルメットも剣も彼が実は彼が戦闘中であることを示していたことになります。左上にはオレンジを掴んで逃げようとしている怪物にも見えてきます。雲のようなものにたくさんの目が描かれておらず普通の雲に見えてしまうのは、カドゥケウスと口笛のせいで目をつむってしまっているからなのでしょう。
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
本来の意味は、「キュレネー山と羊の多いアルカディアの守護者を」なのですが、この内容も別の形で描かれているはずです。Κυλλήνης はさっきと同じように「不完全なベルトをした」とします。Ἀρκαδίης は属格です。そこでイタリア語の名詞 arcadia の形容詞形 arcadico の意味を調べます。すると、「アルカディアの」、「牧歌的な」、「アルカディア派の」という意味の次に、「気取った、技巧的な、わざとらしい」という意味があります。現代のイタリア語だと lezioso、 manierato の意味です。この語がヘルメスの不自然な姿勢を表す言葉であると解釈することにします。この絵が描かれた時点で manierato にこの意味があったかどうか微妙ですが、マニエリスムに通じる姿勢であることはあきらかでしょう。
πολυμήλου は「羊の多い」というアルカディアを形容する言葉ですが、この絵にはどう見ても羊はいないので、別の解釈をします。この語は πολυς 「多い」 と μήλον 「羊」 の合成語です。μήλον の他の意味を調べると、pomo、mela とあり、「リンゴ、リンゴのような果実」という意味です。まさにこの絵の中にはリンゴのように丸いオレンジがたくさん実っています。したがって、まとめると「不完全なベルトをした、わざとらしい、たくさんの果実のある場所の番人を!」と解釈できます。
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον,
本来の解釈では、対格単数の名詞 ἄγγελον 「伝令」、対格単数の形容詞 ἐριούνιον「恩恵をもたらす」、複数属格の ἀθανάτων 「神」は複数属格で、合わせて、「恩恵をもたらす神々の伝令を!」となります。これを絵の中に探してみましょう。
ἄγγελον には伝令や天使の意味がありますが、これは彼のブーツの翼が表しているとします。属格 ἀθανάτων とくっつけて、ここで区切って、「神々の伝令者を!」とします。ἐριούνιον はヘルメスの呼び名の一つで「恩恵を与えるもの」ですが、このイタリア語での意味は benefattore となります。意味はもちろん、そのまま「恩恵を施す人、恩人、後援者」です。この恩恵を施すというのが絵の中では分かりません。しかしこの綴りをよく見てみると bene と fattore に分けられることに気がつきます。bene は「善」で、fattore は「創作者、製作者、農地管理人」です。アルゴスからオレンジを守っているわけですから、「果樹園を立派に管理する者を!」となります。
ὃν τέκε Μαῖα,
ὃν は単数男性の関係代名詞で、対格です。先行詞は Ἑρμῆν です。関係節の動詞は τίκτω のアオリスト三人称単数です。関係節の意味は「マイアが(彼を)産んだ」となります。この主語のマイアを形容する付加語がしばらく続きます。
Ατλαντος θυγάτηρ,
これは、そのまま「アトラスの娘」と訳します。プレアデス姉妹の父はアトラスなので問題ありません。
Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
マイアを説明する言葉が続きますが、これからは前回の内容の簡潔な言い換えになります。ここは第8歌と全く同じです。前回の考察を省略して結論だけを書くと、「愛の中で神を宿した」となります。
αἰδοίη:
これも第8歌と同じです。形容詞 αἰδοῖος の女性単数の主格です。「尊敬に値する」という意味とともに、「恥ずべき」とか、「内気な」という意味がありますが、威厳のあるローブをまっとっていることなどから、最初の意味で解釈します。他の神々から一歩引いている様子が「内気さ」を表していると言えなくもないですが、あまり明確な表現ではありません。
μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
これは第8歌と動詞だけが違います。アオリストの ἠλεύαθ᾽ から未完了過去 ἀλέεινεν に変わっています。こちらの方が過去の習慣をあらわせるので、物語の表現としてはいいのですが、絵の表現の解釈としてはちょっと難しくなります。今までの解釈において、ボッティチェリの絵では、imperfetto 未完了過去は、字義通り不完全な描写で表している例をいくつも指摘してきました。これはちょっと難しいです。
今回も絵をよく観察して、一つ解決策を見つけました。中央の女神のマントの裾です。彼女が完全に神々を避けているのならば、裾も重ならないように描くでしょう。しかし絵では不完全 imperfetto です。これで未完了過去を表しています。完全に離れているべきなのに、右側の集団の連なりに中央の女神もつながってしまっています。まとめると、「幸福な神々の一つの集団を不完全に避けている。」となります。
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ:
この文では、動詞 ναίω がほとんど同じ意味の ναιετάω に変わっています。また場所を表している言葉が、前置詞句を使っていたものが、処格的与格の παλισκίῳ ἄντρῳ になっています。 「陰をなす空洞のところにいる」となります。
ἔνθα Κρονίων νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
これは完全に第4歌にある文と一致します。これも時制は未完了過去です。本来の意味では、過去の習慣を表しいて、逢瀬を重ねたことを表していますが、やはり今回も絵の中では不完全な出来事を表していると考えられます。μίγνυμι は mescolare 「混ぜる」や unire 「結びつける」の意味です。この動詞が不完全だということになります。例えば、混ざり合うことなく胎児のように独立した姿でお腹の中にいると考えれば成立します。これはマイアが妊婦のように描かれることによって明確に描写されています。「その場所で真夜中にクロノスの息子は巻毛のニンフの中で不完全に混ざり合っていた。」となります。
次の文は Ἥρην の前で区切ります。
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον:
ὄφρα から εὖτε に接続詞が変わっているだけです。こちらには whenever の意味があります。「甘い眠りが白い腕の者をとらえたときは」となります。上の主節が成り立つ条件です。
Ἥρην λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
これは同じ動詞が分詞から未完了過去に変わっています。これも絵の中では不完全な描写のはずです。「9柱の不死なる神々だけでなく、死すべき人間たちにも不完全に気付かれなかった。」となるでしょう。つまり誰かに気付かれているわけですが、これは誰でしょう。今まで通り絵の中に描かれていると考えるのが自然でしょう。誰かがこうして謎を解いてしまったら、その解答を読んだ人も含めて、不完全が成立します。しかしそれはこの絵の中の時間ではありません。
では絵の中で誰が知っているでしょうか。それはマイア以外にいないでしょう。他の人物の視線や仕草を見てもはっきりと彼女のお腹に意識を向けている者は描かれていません。そうならば神を宿しているマイア本人以外に可能性は残っていません。マイアはとても壮麗なマントを身につけています。それも自分の体というよりは、お腹に対して巻いています。そのマントの色が表と裏で違っていることが2つのものが1つになっていることを示していると考えられます。それをマイアが自分の手で押さえ身につけているので、これで彼女がこの事実を知っているとみなせるでしょう。赤い面はマイア、青い面がユピテルを表していることになります。妊婦なのでお腹に意識を向けるのは当然かもしれませんが、ここまで注意深く描かれた絵の中でわざわざ裏表で色の違うマントを使う意味は一つしか考えられません。
ここから最後まで、ヘルメスを讃える内容に戻ります。
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε,
これはそのままでヘルメスを讃えます。「そしてあなたに幸あれと願う!」。
Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
これもまったくそのままでいいでしょう。「ゼウスとマイアの息子よ!」
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
「私はあなたの歌を始めましたが、次の歌に移りましょう。」という意味ですが、これではこの絵の描写にはなりません。似た文章は『アフロディーテ讃歌』にもありました。それでは ἄλλης ἀοιδῆς を奇妙な塗り方の角のことであると解釈しました。ἀοιδή のイタリア語訳 canto 「歌」に別の意味「角、片隅」 があったからです。ὕμνος はイタリア語だと inno 「賛歌、賛美歌」という訳になります。ὕμνος には他にlode 「賞賛、賛美」という訳もあります。このlode には古い用法に「手柄、勲功」という意味があります。これはまさに今回この讃歌の中に見つけた Ἀργειφόντην の奇妙な描写のことでしょう。
ἀρξάμενος は「先頭にいる、導く」といった意味の ἄρχω のアオリスト分詞で、属格を目的語に取ります。ここではヘルメスを示す属格人称代名詞の σεῦ を目的語に取り、「あなたを先頭に置きましたが、」となります。μεταβήσομαι は μεταβαίνω 未来形とみなすべきでしょうが、躊躇を表す接続法アオリストとして考えます。イタリア語の訳は trasportare とし、さらにその中の「翻訳する」とします。まとめると、「私はあなたを最初に置きましたが、そのとき奇妙な手柄に翻訳するか迷いました。」となります。最初の行に Ἀργειφόντην があることに合致します。
χαῖρ᾽.
先ほども出てきましたが、「幸あれ!」とします。その後に続く、ヘルメスを讃える言葉に対して発せられたものだと考えます。
Ἑρμῆ
これは本来は次の言葉と一緒に訳されますが、ここでは単独で訳します。呼格と考えて、「ヘルメスよ!」
χαριδῶτα,
これもヘルメスの称号の一つです。χαριδώτης はχαρά 「gioia」と δίδωμι 「dare」からなる言葉で、本来の意味ではイタリア語で「che da gioia」、日本語で「恵みを与える者」となります。しかし、これをもっとこの絵の描写に近づけた表現に変換してみます。χαρά には同じ形の違う意味の言葉があります。イタリア語ではcagna 「雌犬」ですが、ここではもちろん比喩表現とします。δίδωμι と接続法だと同じ形になる動詞にδίδημι、意味はlegare「結ぶ」があります。まとめると「尻軽女とつながっている者よ!」となります。絵の中では剣が二人を結びつけています。
διάκτορε,
これは διάκτορος の呼格単数です。イタリア語で messaggero 「使者」という意味と、che assiste という意味があります。assistere はラテン語 assisto に由来する単語で「近くに立つ」という原義があります。これを使って、「寄り添っている者よ!」と解釈します。この絵でメルクリウスは三美神に寄り添うように立っているので、それを表す表現とします。
δῶτορ ἐάων.
δῶτορ は δώτωρ の呼格男性単数です。datore 「与える人」、dispensatore 「分配者、支配者」の意味があります。ἐάων は ἐύς の属格複数です。ἐύς の意味は buono です。したがって本来の意味だと「いくつもの良いものを与える者よ!」となります。しかしこれでは絵ではよく意味の分からない表現となります。ἐάων は複数ですから「優しい者たち」と解釈してこの絵に描かれている三美神のことだとします。そしてdispensatore の意味を使って、まとめて「優しい者たちを支配する者よ!」とします。この絵でメルクリウスが三美神を誘導しているような描写やそれぞれの心を捕らえているような描写の根拠とします。
このように第18歌の言葉を全てこの絵の中に見出すことができました。未完了過去の文の変換などから、第4歌よりもこの短編をもとにしたほうが的確な描写になります。《ヴィーナスの誕生》も第6歌のすべての言葉を見出すことができたことから、《プリマヴェーラ》と《ヴィーナスの誕生》が特別な関係にある絵だと分かります。制作した時期までが同時期かどうかまでは分かりませんが、『ホメロス風讃歌』の歌を秘密裏に絵画化するという同じ目的で描かれた絵画です。
ボッティチェリと依頼人はこれらの絵の内容をはっきり知っていたのは当然でしょう。では他にその秘密は知っていた者はいるのでしょうか。ヴァザーリが『列伝』で報告していたように、この二つの絵は並べられて飾られていました。もしかすると、そこに集めた者は、この隠された事実を知っていて並べたのかもしれません。この二つの絵の関係は、近年研究が進むにつれて離れていってしまいました。ここでの分析でも一番重要な点だと考えられていたウェヌス(アフロディーテ)が描かれているという共通点を完全に否定してしまいました。しかしその結果、今まで見つからなかった、絵そのものが『ホメロス風讃歌』の歌を表すという明確な共通点が現れました。