2013年03月18日

《春(プリマヴェーラ)》 空色のゼフュロス

《プリマヴェーラ》を言葉遊びを使って解釈しようとするシリーズの続きです。今回はどうしてゼフュロスが青いのかについて考えてみました。

caelestes

きっとゼフュロスが青いのも何らかの言葉遊びに違いないと予想します。いろいろ「典拠」と思われるものを読んできて今まで気付かなかったので、これも本来とは違った意味を選ばないといけないのだと思います。

方針としては、まずイタリア語で青い意味の単語にどんなものがあるか調べて、さらにその語源となるラテン語が今まで出てきた「典拠」にないか調べてみます。見つからなければ、また別の方法を考えましょう。

google 翻訳では単語だけを入れると、必ずではありませんが、辞書代わりに使えます。入力側を日本語にしてそこに「青い」を入れて英語で出力すると、右の枠の下にいくつかblueとかunripeとか候補が出てきます。しかし、入力側を日本語のままにしてイタリア語を出力にすると枠の中は単にbluだけでしか出てきません。そこで入力を英語にして「blue」と打って、出力をイタリア語にすると、右枠の下に候補が次のように出てきました。

blue

blu,zaaurro,celeste,turchino,…

これは!この中に見覚えのある単語があります。正確に言うと見覚えのある単語に似たものがあります。

下のラテン語の文章は、『祭暦』の5月2日で、三美神(カリテス)が現れて、花冠を編み、神々しい頭に花冠を載せようとしている様子を記述した文章です。この文章を思い出しました。

protinus accedunt Charites nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.

ここにある caelestes (見出し語形 caelestis )です。celeste と caelestis とは綴りが微妙に違いますが、子音の配置がよく似ています。辞書で確認すると確かに語源です。羅伊辞典でも caelestis の最初の意味として celeste があります。

ラテン語では、「天空の、神の」といった意味だけで色としての用法はないようですが、イタリア語の celeste には名詞として「空色」、形容詞として「空色の」という意味があります。まさに、ここに描かれているゼフュロスの色です。風の神が空色をしていると考えれば、なんとか納得ができます。

ラテン語の文では形容詞として使われているので、ここでも形容詞として「空色の」と訳すことにします。しかしここを単純に置き換えて翻訳が可能かというと、そうはうまくいきません。この絵のゼフュロスの姿を見ても、花冠を空色の髪に結びつけている様子は描かれていません。この文章の他の単語も意味を置き換えていく必要があるでしょう。

caelestes のそばには implicitura ( 見出し語形 implico )があります。この語の意味は、包んだり、巻き付けたり、まぜあわせたりすることです。これはその未来分詞です。絵の中の空色のものを眺めてみると、この implico の意味が見えてきます。空色のマントはゼフュロスの体に巻き付いています。空色の肌のゼフュロス本人もフロラの体に手を巻き付けています。しかしなかなかいい発見だと思いましたが、それ以上訳を展開させていくことができません。そもそも未来分詞らしい表現になっていません。

今度はゼフュロスの髪を見てみます。棚引いているその髪の続きにちょうど翼が描かれています。見ようによっては、髪と羽がごっちゃになって描かれています。この空色の髪も翼も、混ぜ合わせるという implico の意味がここに描き込まれていると考えることができます。comas 単数主格coma) 「髪」のイタリア語訳 chioma の古い意味には兜などの「羽根飾り」があります。つまり髪としての comas がいつのまにか、羽根飾りとしての comas に入れ替わり、言葉としてごっちゃになっている様子が絵に描かれていると考えることもできます。さらに、coma の意味として植物の「葉」という意味もあります。この絵では、髪も翼も木々の葉が覆いかぶさって、ごちゃごちゃになっています。細かく見ると羽根が葉のように描かれたり、葉が空色になっていたり、この点においても混ぜ合わせるという意味での implico になっています。次の切り抜きはcomas(髪)とcomas(羽根飾り)とcomas(葉)が混ぜ合わさっていると解釈できるところです。

comas

しかし、やはりここで implicitura が未来分詞であることが問題になってきます。主動詞が現在形なので、これから起ころうとすることを表現しているはずなのですが、この混ぜ合わせていることは今起きてしまっています。他にどこか未来分詞らしい描写があるはずです。

それにしても、この解釈で分かった comas が羽根飾りと訳せることは素晴らしい発見でした。翼の先が、一枚一枚の羽根に分かれて描かれているのは、以前から奇異には思っていましたが、その理由が、翼ではなく飾りの羽根として描かれているのならば納得できます。ゼフュロスのこの翼の先はおかしいです。《ヴィーナスの誕生》の彼の翼と比べても分かります。先ほど、髪が羽根飾りにすり替わっているとした両者が接続された描写は、頭の飾りだと見せるためにそう描かれたと考えればいいでしょう。ただの翼では comas にはなりません。髪の後ろに立てるように描くことで、この翼は comas と呼べるようになります。もちろん、木々の葉が comas と呼べることも重要です。木々の葉はゼフュロスのところにだけあるわけではありませんが、わざわざ髪と翼の上に葉を描く理由が何かあるに違いありません。

ところで、この絵のほとんどの木には見事なオレンジ(黄金のリンゴ)が実っています。しかしゼフュロスがいる画面の右側、全体の四分一にはオレンジは見当たりません。何もないかというとそうではありません。暗い木の葉の茂みだけのように見えますが、くすんだ黄色の何かが描かれています。クルミの実のような丸いものが集まったものと杉の花のようなものが描かれています。どうしてこんなものがゼフュロスの周りにだけに描かれているのか、今まで理由はよく分かりませんでした。しかし、杉といえば、マイアの住んでいたキュレネーは『祭暦』においてcupressiferae Cyllenes 「糸杉の繁るキュレネー」と形容される場所でもあります。マイアがいるこの絵の中では、ゼフュロスの後ろにある木は当然、糸杉で、丸いものはその実、房状なのは花と考えていいでしょう。

ここの描写もまさに cupressiferae (見出し語形 cupressifer )が描かれています。 cupressifer は cupressus 「糸杉」と動詞 fero の合成語です。動詞 fero にはたくさんの意味があるので訳しにくいのですが(OLDだと39項目)、植物が対象であるときは英語だと bear の意味で考えてよく、「花が咲く、実をつける、葉をつける」という意味になります。つまり、cupressiferae Cyllenes は「糸杉が葉を茂らせ花と実をつけているキュレネー」となり、この絵の右上の描写になります。

(次の画像は細部がよく分かるように明るさを上げたものです。)coronasserta

ここで本来の解釈で花冠と訳されている corona と serta を詳しく調べてみます。corona は冠やリースのような円形の飾りです。serta は corona とほとんど同じで意味で使われていますが、語源の動詞 sero を意識すると、編んだり、つなぎ合せたりしてひと続きになっている飾りとなります。もちろん最初と最後を閉じて輪にしてしまえば花冠になるので、これは本来の解釈の意味に反しません。しかしさらに sero の意味を調べてみると、面白いものが見つかります。語源になった動詞 sero の意味は intrecciare 「編む」ですが、これとは別に現在形は同じ活用で、過去形などが違う活用をする別な動詞 sero があって、これは seminare 「種をまく」などの意味があります。比喩表現としては、spargere 「撒き散らす」があります。この意味は使えます。

この意味を踏まえます。円形をしている杉の実はすぐに corona を表している「丸いもの」と考えられます。そしてもう一方の杉の花は花粉をまき散らすものですから、わざと語源をもう一方の sero に間違えてると、serta を「撒き散らすもの」と考えることができます。こうすると、この絵の中にも coronas と serta が配置されていることになります。

さて、今度は未来分詞 implicitura について考えてみます。この分詞は本来の意味では熟語 sertis implicuisse comas 「頭に花冠を載せている」の一部です。本来は setum がこの句に含まれていますが、上記のように serta は coronas と一緒に使われていると考えられるので、従って意味のまとまりの可能性は caelestes implicitura comas もしくは implicitura comas もしくは caelestes implicitura となるでしょう。

今まで見てきたように、この絵のゼフュロスの回りには、動詞 implico を連想させる動きが繰り返し現れています。また comas と呼べるものも何種類か存在しています。後は implicitura の解釈です。動詞 implico の意味は先ほども書きましたが、巻き付ける、包む、混ぜ合わせるなどがあります。問題は未来分詞らしく表現されている箇所の存在です。一か所でもそのような描写があれば、かえって変化しつつある状況が表現されているとみなせるでしょう。

改めて、ゼフュロスの回りを詳しく観察してみます。

caelestes

絵を見てみると、空色のゼフュロスの手前にある、2本の月桂樹が極端に湾曲し倒れかかっています。フロラの視線も旦那にではなく、この木へ向けられていると考えるとより劇的になります。アポロンと結び付けられている月桂樹の葉も caelestes comas と呼ぶことができます。この2本の木を眺めてみると、この木々の葉が髪と翼に巻き付くように描かれているのが分かります。木々は明らかにゼフュロスの方へと曲がっています。この後さらに曲がっていけば、この木々の葉は髪にも翼にも巻き付き、絡みついてしまうでしょう。このように考えるとこの2本の木の描写は未来分詞 implicitura を踏まえたものであると解釈できます。またこの月桂樹の葉が caelestes comas であるならば、後ろにある糸杉の葉も caelestes comas と呼べるでしょう。なぜならこの絵ではマイアの住む場所として出てきますが、この木は同じくオリンポス12神の一人であるアルテミスの神木でもあります。この木の葉もぎっしりと描きこまれ混ぜ合わされた表現になっています。

さて、この文章の動詞はというと、nectunt ですが、これは necto の三人称複数現在形で、「つなぐ、くっつける」の意味です。本来ならば三美神が主語となるはずですが、この絵では違います。先に示したように、coronas と serta が杉の実と杉の花となるのならば、この主語は糸杉そのものとなるはずです。しかし、この文章の中に糸杉という言葉はありません。そこで、分詞句 caelestes implicitura comas を主語とみなします。implicitura は本来は奪格単数と解釈されていますが、ここでは同じ形の主格複数と考えれば可能です。つまり「神の葉を混ぜ合わせようとしているもの」と考えれば、糸杉を表せます。その代わり、手前の月桂樹の木々も主語になってしまいます。つまり、月桂樹にも coronas と serta が必要になります。この木にそんなものあったでしょうか。そこで、月桂樹の木も注意深く見てみると、丸い黒い実と、落ちそうな黄色い葉が描かれていることに気づきます。確かにこれも coronas と serta とみなすことができます。手前の月桂樹もこの文の主語となる資格をちゃんと持っていました。

この部分をまとめると、「空色の髪や空色の羽根飾りや神々しい葉を混ぜ合わせようとしているもの(糸杉と月桂樹)たちは、丸いものや撒き散らすものを(自分自身に)くっつけています。」となります。

最後になりましたが、後半の意味が分かったので、最初の部分をこの状況に合わせて解釈します。「protinus accedunt Charites」は本来は Charites が主格ですが、この絵では対格とします。そして主語は、この絵の中に追加された3人、ホーラ、クロリス、ゼフュロスとしまう。「彼らは続けて三美神に近づいています。」と解釈します。前の文で、ホーラ、クロリス、ゼフュロスの配置などの描写が記述されていましたが、この文で、さらに彼らの動きの方向を示しています。

今回対象になったラテン語全体を訳すと、「彼ら(ホーラ、クロリス、ゼフュロスの三人)は続けて三美神に近づき、空色の髪や空色の羽根飾りや神の葉を混ぜ合わせようとしているもの(糸杉と月桂樹)たちは、丸いものや撒き散らすものを(自分自身に)くっつけています。」となります。日本語では意味の分かりにくい文章ですが、ラテン語で書くと、簡潔な「protinus accedunt Charites nectuntque coronas sertaque caelestes implicitura comas」です。

たった9つの単語の解釈でしたが、内容を理解するのに恐ろしく多くの言葉が必要になりました。三美神の行動を表しているはずのラテン語の文が、ゼフュロスの描写を表しているなんて思ってもみませんでした。しかし、celeste が空色だと分かってしまうと、このゼフュロスの周りの描写は、この文を表しているとしか考えられなくなりました。ゼフュロスの後ろの木々にオレンジが無いのは、代わりに糸杉の花や実が描くためでした。糸杉の葉が必要以上に重なり合っていることも、ゼフュロスの髪と翼が空色であることも、手前の2本の月桂樹がゼフュロスの方へ湾曲していることも、月桂樹の実が存在を誇示していることも、月桂樹にわざわざ黄色い葉が描かれていることも説明できます。2本の月桂樹がそれぞれ髪と翼に触れようとしている理由はラテン語にはありませんが、この文の単語のイタリア語訳が髪と羽根飾りのどちらにも訳せるという解釈しか成り立ちません。ゼフュロスの翼の先がありえない形になっていて羽根を一つ一つ描かれているのは、これが羽根飾りとして描かれているとしか説明できません。これらの意味になるように選んで訳したのですから当然ですが、『祭暦』のこの場所にある9つの単語からこれだけの情報が導きだせることに重要な意味があります。

ゼフュロスの奇妙な色については、昔からいろんな解釈が試みられてきました。しかし、ここに深い暗示などありませんでした。これはゼフュロスの体にある comas に caelestes という属性を付加するために描かれたものにすぎませんでした。



posted by takayan at 12:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする