《プリマヴェーラ》の描写と『祭暦』の記述との関係は19世紀末から指摘されていたことです。その5月2日の記述にこの絵の9人中6人が描かれています。ホーラの口からバラの息を出す記述はこの絵の描写を十分連想させてくれます。しかし、この絵の主役であるはずのヴィーナスがいないことや、完全な一致が見られないことなどから、ほんの少し参考にした程度で、出典そのものだとは考えられてきませんでした。
しかし、このように『祭暦』の記述を言葉遊びによって変換すると、この絵の描写を導き出すことができました。以前も花柄の服を着た女性が一人きりの季節女神ホーラであることを同様に『祭暦』の文章の言葉遊びから説明しました。
当然、他の記述もこの絵の描写に変換できないか考慮する価値があるでしょう。実のところ、ホーラが一人であると解釈した頃いろいろ挑戦してみましたが、そのときは難しすぎて解けませんでした。でもこの前の解釈で十分確信が持てたので、再度『祭暦』の5月2日の記述を解釈することにしてみました。
該当する部分は『祭暦』の第5巻213-228です。この部分が意味的に一つの段落になっていて、ゼフュロスから婚資に贈られた庭園の美しさを記述してあるところです。
saepe ego digestos volui numerare colores
nec potui: numero copia maior erat.
roscida cum primum foliis excussa pruina est,
et variae radiis intepuere comae,
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae
inque leves calathos munera nostra legunt.
protinus accedunt Charites nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.
prima per immensas sparsi nova semina gentes!
unius tellus ante coloris erat.
prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.
tu quoque nomen habes cultos, Narcisse, per hortos,
infelix, quod non alter et alter eras.
quid Crocon aut Attin referam Cinyraque creatum,
de quorum per me volnere surgit honor?
この部分の日本語での内容を高橋宏幸氏訳の国文社刊『祭暦』から引用すると次のようになります。
何度も私は、いったい何色あるのかと、並んだ花を数えたいと思いましたが、できませんでした。数が及ばないほどたくさんだったのです。朝露の滴が葉からこぼれ落ち、色とりどりの草花が日の光に暖められるや、ただちに彩り鮮やかな衣を身にまとった季節女神ホラたちが集まり、私からの贈り物を籠に摘んでゆきます。それにすぐさま優雅の女神カリスたちも加わって、冠を編み、編んだ冠を神々しい髪に結ぼうとします。私がはじめて数え切れないほど多くの民族のあいだに新しい種子を蒔き広めました。それ以前の大地にはただひとつの色しかありませんでした。テラプネの町の美少年の血から咲かせたのも私が最初です。それで嘆きの言葉が花びらに残っているのです。ナルキッススよ、あなたの名も丹精した庭に見られます、おまえ自身がおまえと別人でないおまえの相手となった不幸な者よ。クロコスやアッティス、それにキニュラスの息子のことをどうして語る必要があるでしょう。彼らの傷を讃える花は私の力で育つのです。
このままではカリスたち(三美神)ぐらいしかこの絵の描写に生かせる部分はないでしょう。
このラテン語を、この絵に合うように言葉遊びをして訳してみると次のように変換できます。以前訳した部分もありますが、それも少し修正しています。
度々私は撒き散らした物をひっくり返したので、
色を数えることができませんでした。大げさな大きな写しが不完全にあります。
まず複数の葉とともに露のある場所に白髪があります。
あらゆるcoma(髪、葉など)が枝によってぬるく(冷静に、冷たく)なりました。
ホーラの飾られた服に巻き付けられた物が集まっています。
彼ら(ホーラと胎児)は粗末な帯や急拵えの籠に私たちの贈物を集めています。
神聖な(空色の)comas(髪、葉、羽根飾りなど)にかぶさろう/混ぜ合わそうとしている物が、丸いものや散らばる物をくっつけています。
私は新しい若木を無数のつぼみとともに撒き散らしました。
一つの色で着色された表面が不完全にあります。
まず、メヒシバ(sanguine)のところでスパルタ人(ヒァキントス)の花を咲かせました。
そしてその葉のところには嘆きの言葉が残っています。
うぬぼれやさん!あなたもまた飾られた庭という名のものを持っています。
それは何も生み出しません。あなたはあなた以外の者ではありませんが、同時にあなた以外の者になっています。
私がクロッカスやアッティスから作り出したかもしれないもの(サフラン/クロッカス、スミレ)、そしてキュラニスの息子(アドニス/フクジュソウ)、
それらのめしべのところで尊敬する人は私とともに飛んでいます。
これだけではわかりにくいですが、こう訳すと絵の描写を説明できるようになります。詳しいことは後日書きますが、この中でとくに重要なものをいくつか上げておきます。
roscida cum primum foliis excussa pruina est
pruina は白霜のことですが、詩的表現では白髪という意味もあります。この絵の中で白髪の者はいません。しかしそれぞれの頭を見ていくと、クピドの目隠しの帯が頭の後ろで揺れていて白髪のように見えます。そして彼の顔の周りに露のような丸い小さな塊が描かれています。他の場所には白い小さなつぼみが描かれていますが、特にこの場所のものが球形になっていて、葉に付いている本物の露として描かれているように見えます。
この訳は次のようにしました。「まず複数の葉とともに露のある場所に白髪があります。」
inque leves calathos munera nostra legunt.
これは以前訳したものですが、主語を修正します。中央のマイアが妊娠しているという結論を先日導いたので、ホーラのお腹も無視することはできないでしょう。バラの蔦でできた帯も、裾をたくし上げて作った籠も出っ張ったお腹を使って花を支えています。この文の動詞は三人称複数なので、ホーラとお腹の子どもの二人を主語にするとうまく解釈できるようになります。
このように訳してみました。「彼ら(ホーラと胎児)は粗末な帯や急拵えの籠に私たちの贈物を集めています」。つまりお腹が大きく描かれている理由は、記述の通りに主語を複数にするためだということになります。
それにしても左肘の内側にこっそりある焦げ茶色の物体は何でしょう。もっと解像度の高い画像があれば判別できるかもしれませんがよく見えません。僕の説を裏付けるにはこの物体も言葉遊びで解決できなくてはいけないのですが、現時点では分かりません。
unius tellus ante coloris erat.
下の図はフローラの透明な服にある草の模様です。一見向こう側にある植物の影のように見えますが、ちゃんと見ると服に描かれている模様としか考えられません。ホーラの服に描かれているカラフルな模様とは対照的な存在です。存在さえ気付かれないかもしれません。さらによく見ると、右のふくらはぎの後ろに色の付いた花があります。これは隙間から地面にある花が見えてるだけかもしれませんが、未完了過去が示す不完全な描写だとみなしてもいいでしょう。訳は次のようにしました。「一つの色で着色された表面が不完全にあります。 」
prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.
この2行は、ヒァキントスの血から花のヒアシンスが生まれたという神話を踏まえた記述です。《プリマヴェーラ》には確かにヒヤシンスが描かれています。この絵に描かれている植物について研究した Mirella Levi D’Ancona の著作『BOTTICELLI’S PRIMAVERA : a botanical interpretation including astrology, alchemy and the medici』でも確かに指摘されています。下の図は花柄の服を着た女神の進んでいく足先にあるヒアシンスです。
この文の sanguine は sanguis の単数奪格で、sanguis の意味は「血」の意味です。この絵を見回して血らしい描写が見つからないので、この単語の別の意味となるかどうか調べてみると、イタリア語の辞書に sanguine という単語があり、その意味の一つとして雑草のメヒシバがあります。そう言われれば、花の周りにはたしかに雑草が描かれています。なおこの植物は先のD’Ancona の研究には指摘は無いようです。本来の訳ではこの奪格は起点の意味で訳されていますが、この絵では奪格の別の用法である処格的な場所を示す意味で使われたと考えることができます。
次の行は本来の解釈ではそのヒヤシンスの花びらに嘆きの言葉が刻まれているという内容の文です。ヒヤシンスの花びらに字を刻むのは読みにくいとは思いますが、そういう神話になっています。実際、この花を見ても何も描かれてはいません。でも葉を見ると何か白い模様があります。下の白いバラを描くときに、筆がすべった後のようにも見えます。folio は folium の単数奪格で、folium の意味には「葉」という意味もあるので、葉に文字があるという解釈も成り立ちます。
この2行は次のように訳しました。「まず、メヒシバ(sanguine)のところでそのスパルタ人(ヒァキントス)の花を咲かせました。 そしてその葉のところには嘆きの言葉が残っています。 」
ところで、この嘆きの言葉は何でしょう。ヒァキントスの物語は、オウディウスの『変身物語』10巻の162行から219行に記述がありますが、215行目にこの言葉が書かれています。
ipse suos gemitus foliis inscribit, et AI AI
つまり、ラテン語でその言葉は「AI AI」です。葉のシミを見ると丸いものと棒状のものが描かれています。棒状のものはアイ「i」に見えなくもないでしょう。丸いものは、Aの小文字というよりは、オー「O」のように見えます。そこでイタリア語で感嘆詞を調べると、辞書には「Oh」や「Ohi」がありますが、「Ohi」の別表記として、「Oi」というのもあります。もう少し解像度の高い画像があればきっとはっきりするでしょうが、これは「OI」が描かれていると考えて間違いないと思います。
とりあえず、こんなところです。最後に紹介したヒアシンスの嘆きの言葉は、この絵が言葉遊びで描かれていることの分かりやすい根拠になるでしょう。分かってしまえば、それ以外に考えることはできません。
以上のように、『祭暦』の上記の部分を別の解釈にすると、《プリマヴェーラ》のいくつかの描写を説明できるようになります。