最近、この本を読んでいた。スティーヴン・グリーンブラット著『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』。2012年のピューリッツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞した作品。紀元前に書かれ、世界から失われていたはずの『物の本質について』の発見とそれがもたらした世界の変化を描いた物語。著者のスティーヴン・グリーンブラットはシェイクスピアおよびルネサンスの研究家。
『物の本質について』は、古代ギリシャのエピクロス派の世界観をラテンの語の詩の形で表した作品である。エピクロス学派は唯物論、原子論、快楽主義、死後の世界の否定などがその特徴である。キリスト教と完全に相反するためキリスト教化された西洋において、その思想は中世には完全に失われてしまっていた。ただ他の古典の中などでルクレティウスの名前が引用されており、知識人たちはそれが過去に存在していた重要な作品であることを知っていた。
その作品が、歴代のローマ教皇の秘書であり、人文学者であったポッジョ・ブラッチョリーによって1417年に発見された。この発見にまつわるで出来事を、この本は多面的に描き出している。ペトラルカのように古い写本を求めて修道院の図書館を訪ねる人々の話や、そのままでは朽ち果ててしまう書物を生きながらえさせるため各地の修道院が黙々と続けていた写本のシステム、ポッジョが属していたローマ教皇庁の内幕など、様々な情報を示しながら、どうして彼がこの本と出会えたのかを明らかにしていく。
それにしても、この日本語のタイトルは、やはり大げさな感じがする。解説にも解説なのにちょっと皮肉っぽく書かれている。一冊の本で世界は変わるわけはないだろう。しかし、『物の本質について』を中心に置いて、中世から近代への動きを眺めてみると、確かに今までとは違った見方ができるようになる。写本され、出版され、広がっていったこの本が手本になっていたとすると、画期的な思想で世界を変えてきた科学者や思想家、芸術家や文学者の言動が、納得できるようになっている。そういう情報の並べ方をしたのだから当然そう感じられるのだろうが、とても面白い切り口である。当時この詩にしかエピクロス学派の詳しい思想はなかったのだから、この詩の内容が人々に知られるようになったかどうか、これほど分かりやすい境界線は見つからない。
原題は『the swerve』である。本文中ではこの語は「逸脱」と訳されている。これをそのまま日本語のタイトルとして採用してしまっていたら、何の本だか分からなかっただろう。和訳本のタイトルの方が、大げさだがこの本の内容を確かに分かりやすく表していると思う。しかしこの語 swerve は、この本を読み解くためのとても重要なキーワードである。原書ではそれをタイトルにすることで、そのことを力強く強調している。そしてこの言葉が表すものを理解していくことがこの本を読む醍醐味だといえる。残念なことに和訳本はその問いそのものを放棄し、その楽しみを読者から奪ってしまっている。著者が長い序文の中に「したがってこれは、世界がいかにして新たな方向へ逸脱したかの物語である。」とさらっと書いていても、「逸脱」という言葉が本文中の重要な場所で何度も繰り返し出てくるのに、原題のタイトルの和訳がこの語であることに気づかなければ、この本が伝えているいくつかの情報を見落としてしまう。
swerve はルクレティウスの使った用語であるラテン語の clinamen の英訳である。clinamen (動詞として現れるときは declino) は『物の本質について』の原子論の中に出てくる重要な概念である。原子がただ単純に規則的に運動しているだけならば、衝突することもなく、結びつくこともなく、この世界では何事も起きはしない。しかしこの世界は事象と物質に満ちている。その理由こそが、clinamen である。これは原子にまれに起こる無秩序な「斜傾運動」(岩波文庫刊樋口勝彦訳)のことであり、これにより、原子はぶつかり、結合し、世界中のあらゆる事象と物質を形作るとされる。原子論といえばデモクリトスのものがよく知られているが、この swerve は、ルクレティウスが伝えるエピクロス派原子論の重要な特徴である。さらに面白いことに、原子の swerve は人の自由意思の源であるとされる。
swerve(逸脱) についての説明はグリーンブラットのこの本の中に詳しく書かれている。しかし swerve がこの本のキーワードであることが、この和訳ではわかりにくいため、これらの言葉が『物の本質について』の主要思想の単なる解説にしかなっていない。それが分かればそれで十分かもしれないが、swerveが原書のタイトルであり、その訳がこの本の中では「逸脱」であると分かっていれば、すぐにこう気付くだろう。swerve(逸脱) が、中世のキリスト教社会に突然現れた美しく逸脱した『物の本質について』という本そのものも表し、そしてさらにルネサンス期以降、この本に影響を受けたキリスト教的価値観にとらわれない人々の自由意志の源として見事になぞらえているということを。
最後の章の一つ前である第10章の日本語の章名が「逸脱」である。英語だと複数形の Swerves である。後もう少しで読了というところで、この章名に辿り着くと感慨一入となる。ポッジョが見つけ出した一冊の「逸脱」が、人々を刺激し増殖し、たくさんの「逸脱」を生み出し、私たちの今いる世界を形作り始める。具体的には、ポッジョの仇敵ロレンツォ・ヴァッラ、『ユートピア』で有名なトマス・モア、そしてジョルダーノ・ブルーノが紹介される。ルクレティウスが古代から伝えてくれた画期的な世界観をもとに、それと相反する千年以上かけて社会全体に空気のように浸透しているキリスト教由来の常識や、自分自身の倫理観との妥協点を見つけながら、そして異端者であるとみなされてしまう破滅を際どく避けながら、人々が新しい世界観を手に入れていく様子が描かれていく。その中でブルーノの火刑という悲劇も起きてしまった。それを受け「死後の世界AFTERLIVES」というこれまた、意味深な言葉の最終章へと続き、この詩に影響を受けた世界を変えた人々を描いていく。
正直、『物の本質について』の内容は、今の私たちにとっては陳腐であったり、理解しがたい間違ったものに思えてしまう。大地が世界の中心であるとし、またそれが球形とは考えていない点で、今の私たちにとっての完全な答えではない。しかし神秘を使わず論理を駆使して、世界の事象を説明しつくしていく姿に圧倒される。素朴な観察の積み重ねによって二千年前にここまで到達できていたことに驚かされる。キリスト教に配慮する必要もないため、ためらいもなく小気味よく世界の本質を語っていく。気象現象や宇宙の成り立ち、神々を用いない人類文明の起源、恋愛を中心に人の心の様々な動きまでも、あらゆるものを思考の対象とし客観的に見つめていく。これを読むことで中世の人々もその態度を獲得できただろう。
久しぶりに楽しい読書体験ができた。きっかけは、この本がボッティチェリの作品と『物の本質について』の関係について触れているのを知ったためであるが、読んでよかった。ボッティチェリの作品への影響については、残念ながら従来の考え方を超えるものはなかった。しかし確かにこの『物の本質について』は当時のフィレンツェでも入手可能な状況にあったことがはっきりした。それが分かれば十分だったが、この本は期待以上のものだった。