いろいろ書きかけばかりですが、今回からしばらくルネサンス期フィレンツェのボッティチェリ(Botticelli)が描いた《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)と呼ばれている絵と、二千年前の詩人オウィディウス(Ovidius)の『変身物語』(Metamorphoses)との関係についてまとめていこうと思います。
ボッティチェリの神話画は不思議な描写ばかりで、これらはどうやら古典ギリシャ語やラテン語の言葉遊びで描いているためのようだと、このブログで以前から指摘しています。今回は《パラスとケンタウロス》の解釈を完成させたいと思います。
この絵は2年ほど前に一度考察しました。まず、この女性がパラスつまりアテナには思えなかったので、ケンタウロスと結びつきのある女神を探し、アルテミス(Artemis/Diana)ではないかと考えました。ケンタウロスが野蛮なケンタウロス族ではなく彼女の師匠であるケイロンだとしました。さらに彼女にはヨモギの葉がいくつか飾られています。ヨモギのラテン名はアルテミスに由来するアルテミシアです。これも彼女がアルテミスであることを示す記号ではないかと考えました。
そして最初に見つけた典拠となる文章が、ウェルギリウスの牧歌詩の一節でした。この詩の解釈を工夫すると、アルテミスとケイロンのことを描いているように思えました。ケンタウロスが苦悶の表情で足を曲げている様子や彼の乱れた髪、女神の額の飾りやツタで飾られた描写が、この絵の元になった文章であるように思えました。ここで女神がアルテミスであると確信をもったことで、今となってみればその確信は偽物であったのですが、とても重要な次の文章を見つけるきっかけとなりました。
二番目の典拠は、オウィディウスの『変身物語』にあるアクタイオン(Actaeon)の話です。その中にあるディアナ(アルテミス)の姿の描写の部分です。
Hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
Quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos;
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;
ここには珍しく槍をもったアルテミスが登場します。アルテミスは水浴びをするために身に着けているものを、侍女の手を借りて外していくのですが、その描写を言葉遊びで変換していくと、この絵の女神とケンタウロスの描写に近づけていくことができました。水の滴が女神の体を伝う描写のラテン語は流れるようなローズマリーと訳すことができ、この絵の不思議なツタの絡まった女神の描写に変換できます。他にも枝が生えているローブ、ゆるんだ弓と背負われた弓状の物なども『変身物語』から導くことができました。言葉遊びで変換されたこれらの言葉は、まさにこの絵の描写そのものになりました。
さらにもう一つ文章を見つけました。それは2世紀に書かれたパウサニアス(Pausanias)によるギリシャの観光案内『ギリシア案内記』(Ἑλλάδος περιήγησις)に記述されたプラクシテレスの作ったアルテミス像の紹介部分です。
τῆς πόλεως δὲ ἐν δεξιᾷ δύο μάλιστα προελθόντι ἀπ᾽ αὐτῆς σταδίους, πέτρα τέ ἐστιν ὑψηλὴ−μοῖρα ὄρους ἡ πέτρα−καὶ ἱερὸν ἐπ᾽ αὐτῆς πεποιημένον ἐστὶν Ἀρτέμιδος: ἡ Ἄρτεμις ἔργων τῶν Πραξιτέλους,
δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν, παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ: μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.
彼女が全身を宝石で飾られていることなど、この部分を言葉遊びで変換したものもこの絵に表れてきます。これにより、一連の作品と同じように、古典の文書の中にしか残っていない古代の偉大な作品を当時のフィレンツェに甦らせることを、この絵を描いた目的の一つとしていたと考えることができます。
2年前はここまでが限界でした。これだけの記述があれば、十分だと思っていました。他は分からないので、残りは画家本人が考えた描写であるとしました。しかし、その後、《ヴィーナスの誕生》や《春(プリマヴェーラ)》のように詩全体が細かく絵の中に描かれていると解釈できることが分かってくると、この絵についてもその可能性があるかもしれないと思えてきました。この部分だけを選択し描写したと考えるよりも、アクタイオンの物語全体を絵にしたと考えた方が合理的でしょう。
まだ現時点では完全には解釈が終わっていませんが、今終わっている部分だけでも面白い結果が出てきました。ケンタウロスの表情は昔からラオコーン像に似ていることが指摘されていますが、その根拠と言える部分も見つかりました。またこの絵全体は薄く茶色に汚れて見えます。しかし、これは忠実に言葉遊びによる表現を描こうとしたためだと解釈できます。以前提示したケンタウロスがケイロンで後ろに見える船がアルゴ船だとする説は間違いだったと認めなくてはいけないでしょう。
同様に《ヴィーナスとマルス》(Venus and Mars)も以前ここで示した部分だけでなく、『物の本質について』(de rerum natura)の冒頭にあるヴィーナスを讃える文章全体を基に描かれているようです。これについてもある程度解釈はできていますが、《パラスとケンタウロス》の解釈が終わった後にここに書くことにします。