有名な美術研究家ライトボーンの本によると、1516年のメディチ家の所蔵品として、この絵とされるものがミネルヴァの名前で記録が残っています。ミネルヴァとはアテナ、つまりタイトルのパラスが表す女神です。しかしそれより前の1499年の財産目録では、同じものがカミラと呼ばれていると同じくライトボーンの本に書かれています。このカミラとは『アエネーイス』に出てくるアイネイアスの軍隊と戦った女戦士とされています。このことはこの絵に描かれている女神がミネルヴァであるとする従来の説を揺るがしかねない事実のはずですが、ライトボーンはこの名前の違いをアテナの持つ三面性を使って説明しようとしています。
しかし、この名前の違いは単純に、見たままの武装をした女性像から連想されるカミラやミネルヴァという名前でこの絵を呼んでいたに過ぎないのではないでしょうか。つまり、それぞれの時点で財産目録を作成していた者が、この絵に描かれている女性が真に誰なのか教えられていないか、知っていてもその答えを隠していたと考えます。この絵がここに述べているように『変身物語』の言葉遊びで描かれていたことが分かれば、それをヒントにその他の神話画の中に隠された背徳的な意味も人々に知られてしまいます。
それでは、解釈の続きです。今回は次の5行です。
Mons erat infectus variarum caede ferarum,
iamque dies medius rerum contraxerat umbras
et sol ex aequo meta distabat utraque,
cum iuvenis placido per devia lustra vagantes
participes operum conpellat Hyantius ore:
では、絵の描写に合わせたふざけた意味の解釈を行っていきます。
Mons erat infectus variarum caede ferarum,
monsは男性名詞の単数主格か呼格です。女神の左右の背景に山が描かれているので、このどちらかを表しているはずです。これがこの文の主語で、動詞はeratです。これは動詞sumの三人称単数未完了過去の形です。この二つで「一つの山がありました。」となります。infectusは形容詞、名詞、分詞の可能性がありますが、ここでは形容詞infectusの男性単数主格とし、主語のmonsを修飾しているとします。infectusの意味はいろいろありますが、これだけではどちらの山の形容か分からないので保留にします。
残りはvariarum caede ferarumです。構造としては、女性名詞caedesの単数奪格に、形容詞variusと女性名詞feraを合わせたものが複数属格となり、結びつきます。名詞feraは「野獣」という意味ですが、野獣と呼べるものはこの絵には、ケンタウロスしかいません。これでは複数にはなりません。そこで意味を少し広げて、「野生のもの」と考えます。そうすると、体に草を茂らせた女神もそう呼べるようになります。feraがこの二人を表すとして、形容詞variusの意味を考えると、イタリア語訳のdiversoの古い用法「奇妙な、珍妙な」というのが見つかります。つまり、varius feraは「奇妙な野生のものたち」となります。caedesは本来は「殺戮」と訳されますが、意味を決める前に、ここで絵をよく見直してみます。ケンタウロスと女神はよく見ると、女神の右手とケンタウロスの髪がつながっていて、さらにケンタウロスの馬の体が女神の緑の布とところで重なっていて、完全に閉じた領域を作っています。そのことを踏まえて、caedesの意味を調べてみると、都合よく「切断した部分」という意味があります。この部分をcaedeとみなせます。属格のvariarum ferarumはこの動作の主語として、主語的属格の用法で使われていると考えられます。そして奪格は場所を表していると考えると、確かにその領域には山が描かれています。こうしてvariarum caede ferarumを「奇妙な野生のものたちが切り取った部分に」と解釈すれば、前の部分とつながります。
これでmonsがどの山か特定できました。この山の描写を踏まえて、形容詞infectusの意味を考えると、non lavorato「加工されていない、耕作されていない」という意味が使えそうです。なぜなら、この山の左脇には、木か植物が植わっています。しかし山頂には何もありません。この山の横にあるものを耕作された作物と考えると、山は耕作されてはいないということになります。つまり、これでmons erat infectusは「耕作されていない山がありました。」となります。ここで、他のボッティチェリの作品の解釈では未完了過去は文法的な未完了過去ではなく、不完全な動作を表していたことを思い出すと、ここでもそれを使えそうです。作物がある部分もまだ斜面なので、これも山の一部となります。
したがって、この行をまとめると、「奇妙な野生のものたちが切り取った部分に、不完全に耕作されていない山がある。」となります。
iamque dies medius rerum contraxerat umbras
iamqueは副詞iam「今、既に」に接続辞がついている形です。diesは名詞diesの複数主格/呼格/与格か単数主格/呼格です。意味は「giorno、giornata、clima」などを表します。本来の解釈のように太陽としてもいいですが、ここでは「気候」と訳します。mediusは形容詞medius「centrale(中央の)」と解釈して、mediusを修飾しているとして、合わせて単数の主語「中央の気候」とします。中央の気候とは何かといえば、この絵の中央にある嵐の描写です。画面の中央にある女神が巻いている緑の布をよく見ると、分かりにくいですが、中央付近の空に見えるひび割れのような斜め線の嵐の描写が、この緑の布の所にも見られます。ここも局地的に嵐になっています。つまり、ここに雨が降り濡れた結果の出来事が記述されていると考えられます。
この文の動詞はcontraxeratで、動詞contrahoの三人称単数過去完了です。本来の文章では「縮める」の意味で使われています。この動詞の目的語はumbrasで、これは女性名詞umbraの複数対格です。rerumは女性名詞resの複数属格でumbraを修飾しています。この部分の本来の意味は、これらを合わせて「(中天の太陽が)物の影を縮めていた」となります。しかし、主語を太陽にしなかったので意味も変えなくてはいけません。動詞contrahoの意味はいろいろありますが、雨の降っている緑の布のあたりの描写としてはstringere「締め付ける」、corrugare「しわを寄せる」が良さそうです。umbraの意味もいろいろありますが、その中にparvenza「外観」、fdigura「姿」があります。つまり、この絵だとrerum umbrasは女神が身に着けている服のことになります。身に着けているのは複数なので数は一致しています。雨の降っている緑の部分も皺になっていますが、白い服の部分もそこから生えているツルに締め付けられ皺になっています。緑の布に水が与えられると、そこから生えている植物が成長し、体に巻き付き、そして服にしわを作っているわけです。
まとめると、「既に中央の気候が物の外観に皺を作っていた。」となります。
et sol ex aequo meta distabat utraque,
etは「そして」。solは男性名詞sol「太陽」の単数主格です。exは奪格支配の接続詞で、意味は「~から」。aequoは中性名詞aequumの単数の与格か奪格です。単純にこの単語がexの目的語になっていると考えて、格は奪格でいいでしょう。太陽はどう見てもここには描かれていないので、別の意味を考える必要がありますが、これだけではよくわかりません。sol ex aequeの意味は保留とします。
utraqueは形容詞uterque「英語のeach」の女性単数奪格です。metaは女性名詞の単数の主格/呼格/奪格で、「円錐、目的地」などの意味があり、本来の解釈ではutraqueに修飾されて、東西の日の出日の入りのそれぞれの地点とされています。しかしこの意味では使えません。他の意味を探してみます。uterとqueを分離して、uterには同じ綴りの男性名詞があります。意味は「革袋」です。この絵の中で袋を探していくと、ケンタウロスの後ろ脚の間にある陰嚢に気付きます。この文はその周囲の描写を表している可能性があります。それを踏まえて、あたりをよく見ると小さな三角形が少し下の方に描かれています。metaには糞という意味もありますが、少なくとも位置的に今落としたものではないでしょう。ここでは単に「円錐」とします。したがって先ほど分離したqueも使って、meta utaraqueは「円錐と革袋から」となります。
この陰嚢と円錐の間には、金色の点と金色の草があります。金色の草は地面のいたるところに描かれていますが、これは特別な形をしています。光の小さな玉があって、その輝きが周りを照らしているようにも見えます。これがsolということでしょう。solの意味にはsole(太陽)だけでなく、splendore(輝き)があります。aequumは中性名詞で、本来は「parita(同等)」の意味で、東と西から等距離であることを表す言葉になっていますが、ここでは「piano(平地)」と解釈します。こうすると輝きのある場所を表せます。distabatは動詞distoの三人称単数の未完了過去です。意味は本来と同じdistare(離れている)を使います。主語は「平地からの輝き」で、それが円錐と革袋の間に描かれています。確かに円錐からは離れています。しかし革袋には微妙に輝きが触れています。ここで、いつものボッティチェリの神話画に見られる未完了過去による不完全な描写が法則として使えます。つまり、革袋から不完全に離れていることで、未完了過去を表しています。
したがってこの行の意味は「平地からの輝きは円錐と革袋から不完全に離れている。」となります。
cum iuvenis placido per devia lustra vagantes participes operum conpellat Hyantius ore:
ここは二行まとめて解釈します。cumは本来の解釈では逆接の接続詞ですが、ここでは奪格支配の前置詞とみなします。残念ながらiuvenisは奪格ではありません。意味は「若い」で、単数の主格か属格です。この単語はとても離れていますがHyantiusと結びつきます。Hyantiusは男性単数主格で、「ボエオティア人」の古い表現となります。カドモスが開いたテーバイはこのボエオティアにあるので、若きボエオティア人とは、この話の上ではカドモスの孫、アクタイオンのこととなります。前回ツルの新芽のところに人の顔のようなものが描かれていると指摘しましたが、それがこの文の主語「若きボエオティア人」となります。placidoは形容詞placidusの男性か中性の単数の与格か奪格で、これも離れた単語oreと結びついています。oreは中性名詞osの単数の与格か奪格です。最初の前置詞cumはこれらと結びつきます。osには「口」という意味の他に「顔」の意味があるので、合わせて「穏やかな顔で」となります。
次は、per devia lustraです。perは対格支配の前置詞で、英語のthroughやbyに相当します。devia lustraはこの前置詞に支配されていると考えると、deviaは形容詞deviusの複数対格、lustraは中性名詞lustrumの複数対格となります。このdevius lustrumの解釈がとても難しかったのですが、調べていくうちによい意味が見つかりました。まず、lustrumには野獣の住処の意味があります。これはまさにケンタウロスの後ろにあるものです。岩場の中に洞穴があります。そしてこれを修飾するのにふさわしいdeviusの意味は、appartato(人里離れた)でしょう。このときのperはsopra(上に、接して)とすれば、このアクタイオンの顔がある場所を示せます。「人里離れた住処の表面で」となります。しかし、これだと単数になってしまいます。文章は複数です。そこで同じ語句per devia lustraに別の意味がないか考えます。lustraに綴りの近いイタリア語に形容詞lustroがあります。この意味は「光沢のある、輝く、光る」です。金色の指輪の飾りを身にまとった女神は確かに光り輝く存在です。これを名詞化して考えると、lustrumは「光り輝く者」と解釈できます。これに合うdeviusの意味はというと、「fuori della strada(道から外れている)」で、まさに女神の立ち位置です。アクタイオンの顔は女神の右手の下に描かれているので、これもperで示せます。そういうわけで、この語句は「道から外れた光り輝く者のそばで」とも解釈できます。これでdevia lustraの描写の意味を複数にできました。
今度は、vagantes participes operumの解釈です。まず構造だけを考えてみます。vagantesは動詞vagorの現在分詞複数の主格/呼格/対格です。participesは名詞particepsの複数の主格/呼格/対格です。operumは中性名詞opusの複数属格です。主語は上記の分析からおそらくアクタイオンになるので、vagantes participesの二つの単語は結びついて対格の目的語になるでしょう。属格のoperumもこの名詞句を修飾している可能性があります。本来の解釈では、vagantesは「歩き回っている」、participesは分かち合う者つまり「仲間」、そしてoperumは「仕事」ですが、アクタイオンは猟師ですからその仲間の仕事ですから、猟ということになります。まとめると、「歩き回っている猟の仲間たちを」という意味になります。しかし、このような描写はこの絵には見られないので、別の意味を考えます。
はっきり描かれている人物は女神とケンタウロスです。vagantes participes operumも複数形なので、おそらくこの二人を表しているはずなので、彼らの描写を踏まえて意味を考えてみます。分かり易いのはopusです。いろいろな意味のある言葉ですが、その中にstrumento(道具)があります。彼らはいくつかの武器や防具を持っています。少し先にarcus retentosという記述があります。二年前に解釈した部分です。この複数の弓をこの絵の中に見出すために一方を通常の「弛んだ弓」、他方を「背負った弓状に曲がったもの」と解釈して、二人に別々に持たせました。確かに二人は武装を分かち合っています。つまりparticipes operumがこの絵の中に描かれています。残るvagantesですが、vagorの意味にはvagare(さまよう)の他にestendersi(広がる、伸びる)という意味があります。まさに、ケンタウロスは髪や髭が伸び放題であり、女神の方も、体にまとった植物がいろんな方向に伸びています。まとめると、「伸びている、武装を分かち合う者たちを」と解釈できます。
最後に動詞conpellat です。これは「一緒に」という意味の接頭語のconと動詞pellatと分けて考えます。pellatは動詞pelloの接続法三人称単数現在です。この動詞にはいくつかの意味が考えられますが、意味の一つのcommuovereの古語表現には「心を乱す」という意味があります。conと合わせて、「一緒に心を乱す」となります。これはこの絵にぴったりです。本来の物語の中ではカドモスは孫の死に対して心を乱し、アルテミスは裸を見られた怒りで心を乱しています。ここで、この動詞が接続法であることも忘れてはいけません。ケンタウロスの顔は悲しんでいるように見えますが、女神からはあまり怒りを感じられません。この接続法は断定できない可能性を表しているとします。
したがって、この2行をまとめると、「人里離れた住処に接し、道から外れた光り輝く者(アルテミス)のそばにいる、優しい顔をした若きボエオティア人(アナクレオン)は(髪や髭が、体の植物が)伸びている、武装を分かち合っている者たちの心を乱しているのかもしれない。」となります。
今回はここまでです。時間がかかります。前回、二人が接している新芽のところにアクタイオンらしき顔をが見つかりました。「孫」の言葉遊びをして「新芽」と解釈したら、そこに孫らしき顔があったわけです。今回は実際その顔についての文章が出てきました。ここまで成り立ってくると偶然やこじつけでは説明できないと思います。今回の円錐形も素晴らしい言葉遊びです。円錐形を探そうとしない限り絶対に見つからない細かな描写です。この絵を作り出した知性は本当に驚異的だと思います。