プログラミングなどいろいろ書きかけていますが、以前から止まったままのボッティチェリの神話画の典拠の探索を再開します。再開するにあたって、いままでの整理を試みます。
対象としているのは、従来次のように呼ばれてきた作品です。《春(プリマヴェーラ)》、《ヴィーナスの誕生》、《ヴィーナスとマルス》、《パラスとケンタウルス》、そして神話が題材ではありませんが、《アペレスの誹謗》もそれに加えます。なお《》で囲むのは芸術作品、『』で囲むのは文学作品・出版物、「」は言葉の引用や強調としています。
始まりは《春》の登場人物への疑問でした。調べてみると中央の女神がウェヌス(ヴィーナス)である根拠が明確ではありません。そして右から2番目のニンフが3番目の女神へと変身している、つまりクロリスからフローラへの変身という解釈に納得がいきませんでした。
ウェヌスでなければ、中央の女神は誰なのかと考えて、その答えをメルクリウスの母マイアと推定しました。当時読んだばかりの『ホメロス風讃歌』に収められている『ヘルメス讃歌』に出てくるマイアの描写が中央の女神の印象と重なったからです。《ヴィーナスの誕生》が『ホメロス風讃歌』にある『アフロディーテ讃歌』の影響を受けているという話はよく目にすることだったので、実際どれくらい受けているのかを調べるためにこの本を読んだのですが、ついでに《春》に描かれているメルクリウスを知るためにその中にある『ヘルメス讃歌』を読んでおいたのです。そこに描かれているマイアは、巻き毛で、控えめで、美しい靴を履いています。ベールの下の髪は巻き毛のようにも見えます。彼女はウェヌスらしからぬ控えめな印象を与えています。そして有名なアトリビュートである翼の生えた靴を履いているメルクリウスは別として、この絵の中で中央の女神だけが美しいサンダルを履いています。わずかな根拠でしたが、彼女をウェヌスとするよりも、マイアとした方がうまくこの絵が説明できるように思いました。
この頃読んだ本は『ホメロス風讃歌』だけではありません。クロリスからフローラへの変身の根拠となっているオウィディウスの『祭暦』の該当する部分(5月2日)を読んでみました。確かにクロリスからフローラと名前が変わったことは書いていて、そう解釈もできなくもないのですが、フローラの庭園に季節女神ホーラたちと三美神が現れるという記述の方が興味深く感じました。季節女神は神話によって様々な役割がありますが、その中にそれぞれの季節を象徴する女神として登場する神話も存在します。つまり彼女たちの一人の春の女神だけが描かれていると解釈することもできるのではないかと考えました。何故複数ではなく一人だけなのかという謎は残りますが、花柄の彼女を春の女神と考えると、この絵の登場人物が中央上空のクピドを除いて『祭暦』の5月に出てくる神々となり、彼らがどうしてここに集まっているのかが説明できそうでした。ホーラたちがどうして一人だけなのか、どうしてここにクピドがいるのか、解決できない謎は残りましたが、今までの通説よりも筋の通った解釈のように感じました。今思うとこの考えは穴ばかりですが、しかし今でも典拠も人物の特定も間違っていないと思っています。この絵に疑問を持った極めて初期にこのことに気づけたことが、何よりも幸運でした。
『ホメロス風讃歌』、オウィディウスの『祭暦』『変身物語』、ルクレティウスの『物の本質について』。これらの作品がボッティチェリの神話画に影響を与えたのではないかという指摘は、再発見され不思議な内容を理解しようと研究が始まった19世紀から既にあります。実際原文を確かめてみると、絵の描写を思わせる表現が出てきます。しかしどうしても一致しないところが必ず現れます。しかたなく研究者たちはこう考えました。断片的にそれらの作品を取り入れて、後は画家ボッティチェリが自由に創作したものであると。その独創性がボッティチェリの神話画の独特な突飛な描写を生み出したのだと。しかし、神話の原典にある一致する描写の周辺にある一致しない記述に現れる単語の意味を調べていくと、その言葉そのものが特異な描写と解釈できることが分かってきました。複数のはずの季節女神が一人だけだったり、ゼフュロスが青い色をしていたり、メルクリウスがカドュケウスでかき回す白い霞だったり、お腹の大きな女神の描写もです。意味の分からないそのような不思議な描写を表す記述とすることができました。ボッティチェリは断片的にではなく、一言一句何一つ残さずにこの絵の中に描き込もうとしていたと推測できます。この奇妙な描写と描かれていない記述との対応は《春》に限らず、《ヴィーナスの誕生》《パラスとケンタウロス》や《ヴィーナスとマルス》等にも見つけることができます。
この仮説の問題点は、描写の箇所との対応や言葉の意味の解釈が恣意的にできてしまうことです。本当にボッティチェリがそこをそう描いたのかもしれないし、偶然そういう意味にとれるように解釈できてしまったのかもしれません。これは当事者たちの制作方針が文書として残っていない以上、本当のところは誰にも分かりません。ただ言えることはただの偶然では片付けられないほど連続して大量に対応させることができたという事実です。
現時点で、それぞれの絵画の典拠と人物は次のように考えています。
《春》は『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』とオウィデイゥスの『祭暦』の5月2日の部分、そしてフィチーノの『愛について』の第2巻第2章にある神と人との間にある円環の三つの呼び名についての文章です。これらの文章は何十年も前からその影響を指摘されていたもので、特に目新しいものではありません。これまでの人々の研究が決して無駄ではなかったということです。登場人物はというと、左から、Mercurius(頭上にいるのはArgos)、三美神(Pulchritudo、Amor、Voluptas)、Maia(お腹にいるのはZeus)、彼女の頭上にいるのはCupid(ギリシャ語Φιλότηςの意味がイタリア語Amoreなので)、Hola(お腹にいるのはMars)、Flora、Zephyrusです。三美神の並びはウィントの説とも、高階氏の『ルネッサンスの光と闇』に書かれた説とも違います。この絵の創作のきっかけはアルベルティが推薦する三美神で間違いないでしょうが、もはやそれは絵の一部分でしかありません。
次に、《ヴィーナスの誕生》ですが、これは『ホメロス風讃歌』の『アフロディーテ讃歌』とルキアノスの『海神たちの会話』にあるアフロディーテが海上で姿を表す部分です。前者は確実だと思いますが、後者の方は短すぎるので意味の一致が偶然なのか判別はつきにくいです。ただこの引用は海に現れるウェヌスが主題であることを示すために必要だと考えています。人物は左から、Zephyrus、Nike(勝利の女神)、Venus、Holaです。単語の解釈を絵に合わせて変えていくと、ウェヌスは虚ろな目をしているのではなく、手前にいるニケたちを見つめ、彼女の歌う勝利の歌に感動し胸に手を当てていると解釈できます。
《ヴィーナスとマルス》ですが、これはルクレティウスの『物の本質について』の冒頭部分、ウェヌスを賛美する言葉をまるまる絵にしたものだと解釈できます。また『アナクレオンテア』にある怪我をしたクピドの詩も元にして描かれています。『物の本質について』があれば『アナクレオンテア』の詩は必要ないかもしれません。しかし、この詩には蜂、蜂の針、指を怪我するといった言葉があります。男性の頭がさす方向に蜂が描かれ、男性の左手の指がさしている突き棒はギリシャ語の蜂の針と同じ単語で、そして男性の右手の指がさしている方向に指の傷があります。これらは意図的な配置にしか思えません。人物の特定ですが、人の姿をした女性と男性はそれぞれVenusとMarsで問題はありません。問題なのは子供のサテュロスたちです。彼らはウェヌスの子供たちです。兜をしたサテュロスはCupid、中央で槍を持っているのとほら貝を吹いているのが、DeimosとPhobosです。二つの言葉はとても似た意味なのでそれぞれどちらかの特定は難しいです。ほら貝を吹いている方はPanicという語の語源との関連があるので、当時のイタリア語でPanicの意味に近いほうがほら貝を吹いている方だと考えられます。そして、右下の方で鎧の中にいるのが娘のHarmoniaです。フォボスとダイモス、そしてハルモニアはウェヌスとマルスの間の子供です。フォボスとダイモスは観念的な存在ですが、ハルモニアにはカドモス王との結婚という物語があります。クピドは彼の特徴である、目隠し、尖ったもの(ギリシャ語では矢には槍の意味もある)といった従来のクピド像と共通点を持っています。クピドつまりギリシャ神話でのエロスは、アフロディテ(ウェヌス)が誕生する前までは愛を司る神でしたが、アフロディテが現れた後は彼女の従者となりました。そののちエロスをアフロディテの子供として記述する神話も見られるようになり、一般的にはクピドは幼児化され二人は母と子とみなされるようになりました。この子の毛の色がほかのサテュロスよりもウェヌスの髪の色に近いことや、この子にへそが描かれていないことで、マルスと血縁がないことや、特別な出生であることを示していると考えられます。ただこの絵が対抗している古代の作品はまだはっきりしません。
《パラスとケンタウロス》の典拠はオウィデイゥスの『変身物語』の第三巻にあるアクタイオンの物語と、パウサニアスの『ギリシア案内記』の第10巻第37章にあるプラクシテレスの作ったアルテミス像の描写がもとになっていると考えられます。従来、この女神はパラスつまりアテナと解釈されていましたが、そう考えていてはこの不思議な絵について何の説明できません。この女神はディアナ(ギリシャ神話ではアルテミス)です。そしてこのケンタウロスとして描かれているのはアクタイオンの祖父カドモス王その人です。アクタイオン自身の顔も壁のシミに見せかけて描かれています。何故カドモス王がケンタウロスとして描かれているかですが、彼をケンタウロスとして描くと、うまくこの一枚の絵の中にアクタイオンの物語が描きこめてしまうからというしかないでしょう。ボッティチェリは今まで見てきたように古代の名作を新たに作り出してきているのですが、この作品のモデルであるプラクシテレスのアルテミスは傍らにけだものを従えているのでその形式を踏襲するためにも彼を半獣にする必要があったのだと考えられます。この絵をよく見ると女神の横に何かの人物像が描かれています。消し忘れの下書きのようでもありますが、これは泉の精Gargaphie(ガルガフィエ)と解釈できます。この語はアクタイオンの物語では単なる地名ですが、その名前の元となったニンフとみなすとこの線画の像をうまく説明できます。こんな感じで、特に不思議な描写で満ちているこの絵の説明は女神をディアナとすることによってのみ可能となります。
≪アペレスの誹謗≫に関しては人物も同じで、典拠も従来通りルキアノスの『誹謗』の第5節です。ただ登場人物たちの不思議な描写もすべてこの文章からのものだということと、この作品の背景も、例えばシンバルを叩く人など、『誹謗』の他の節との対応が見られます。
以上がこれまでの考察で分かってきたことです。根拠となる詳しい説明は今までの記事にありますが、試行錯誤の記録なので全体を把握するのは簡単にはできないでしょう。それにまだここに書いてなかったこともいくつかあります。