ここで僕はBotticelliの《ヴィーナスとマルス》という作品が、アナクレオンテアの「蜂」の詩と、Lucretiusの『物の本質について』の冒頭部分からなっていて、描かれている幼児のサテュロスたちはクピドをはじめとするウェヌスの子供たちを表しているとしました。今回からしばらくは『物の本質について』の解釈をより深めていきます。
《ヴィーナスとマルス》と『物の本質について』との関係は、2012年02月13日の「《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(1)」からしばらく書いていました。このときはウェヌスとマルスの描写がある前後数行が考察の対象でした。今回はさらに冒頭のウェヌスを讃美する文章すべてがこの絵の描写だったということを示そうと思います。
2012年の2月当時この部分が典拠らしいと思いついたのは、手元の『物の本質について』を眺めていて、偶然だったのですが、調べてみるとこの「ウェヌスの讃美」と《ヴィーナスとマルス》との関係はいくつかの場所で言及されていました。まず自説を述べる前に、これらを既存の説を整理しておきます。
Lucretiusの影響について調べるために読んでいたAlison Brownの『The Return of Lucretius to Renaissance Florence』(2010)の104ページに次のような記述を見つけました。
In describing the pagan sensuality of the goddess of love, however, it, too, must have been influenced by Lucretius's Hymn to Venus, like Botticelli's Mars and Venus, which reflects the twin themes of sexual pleasure and peace, as Mars reclines, "his shapely neck thrown back."
和訳するとこうなります。
しかし愛の女神の異教的な官能性の描写は、これもまたLucretiusの『ヴィーナスの讃歌』に影響を受けているに違いない。例えばBotticelliの《マルスとヴィーナス》である。これは性的な悦びと平和という対のテーマを反映している。マルスが「彼の格好のいい頸をのけぞらせて」横になっていることからこのことが言える。
『物の本質について』の冒頭にあるヴィーナスを讃えている部分の一節に、マルスが頸を仰け反らせている表現があります。これをもって《マルスとヴィーナス》(ちなみに発見当初はこの名前で呼ばれていた)との間に関連性があると言っているわけです。しかし、この詩の記述ではヴィーナスに膝枕をしてもらって彼女に顔を向けようと頸を仰け反らせているのですから、絵の描写とは完全に一致はしません。
Brownのこの記述についての注釈を見ると、『The Cambridge Companion to Lucretius』(2007)に寄稿しているValentina Prosperiの『Lucretius in the Italian Renaissance』を、Lucretiusと≪ヴィーナスとマルス≫の関係の根拠にしていることが分かります。そこには次のような指摘があります(kindle版なのでページが分からないが注釈24付近)。
The iconography of Botticelli's painting of Venus and Mars may derive immediately from an astrological interpretation of the myth by Marsilio Ficino, but the pose of Mars may be inspired by Lucretius' description of the war-god's 'shapely neck thrown back'.
和訳するとこうです。
Botticelliの絵画≪ヴィーナスとマルス≫の図像は直ちにMarsilio Ficinoによる神話の占星術の解釈から導くことができるが、マルスの姿勢はLucretiusによる戦いの神の「仰け反っている形のよい頸」という記述に触発されたのかもしれない。
この部分にある注釈24にGombrich 1972:215 n.133.と書いてあり、この指摘の根拠がGombrichの論文であることが分かります。ただ確認してみると、Gombrich 1972とはBotticelliの神話画に関するとても有名な考察であるGombrichの「Botticelli's Mythologies」が載っている本を指すのですが、この参照は本文ではなく、注釈に対してのものでした。
まず、その注釈が何についてのものかを示すためにGombrichの本文の方を先に示します。この注釈が添えられている文章は≪マルスとヴィーナス≫(Gombrichもこの絵を発見当初の名前で呼んでいる)についての節の冒頭付近にあります。Nesca N. RobbによるFicinoの『愛について』と≪マルスとヴィーナス≫との関連性を指摘し、『愛について』の一節(後述)を引用した直後の文章です。
This is clearly a case when trait which has hitherto defied explanation would acquire coherence and meaning in the light of Ficino's doctrine.
The contrast between the deadly torpor of Mars and the alert watchfulness of Venus has often been remarked.Neither the description of Mars and Venus in Poliziano's Giostra, nor its apparent model, the passage in Lucretius, accounts for it.
訳すとこうなります。
明らかにこれは、これまで解釈を受け付けなかった特徴がFicinoの教義に照らすことにより一貫性と意味が得られた事例である。マルスの死んだような無気力さとウェヌスの油断のない注意深さとの対比はたびたび指摘されてきた。しかしPolizianoの『ジョストラ』におけるマルスとウェヌスの描写だけでなく、その明白なモデルであるLucretiusの一節でも、これを説明はできない。
この文章の中のLucretiusの一節と≪ヴィーナスとマルス≫との関係を説明するためのものが注釈133というわけです。『Lucretius in the Italian Renaissance』の注釈にはGombrichと書いてあるだけなので、GombrichがLucretiusの一節とこの絵が関係あると主張していると勘違いしてしまいそうですが、Gombrich本人は既存の間違った解釈がどのようなものかを示すためにこの注釈を添えています。このことを確認したうえでGombrichのBotticelli's Mythologiesの注釈133の内容を見てみます。
この注釈は次のように始まります。「the passage in Lucretius, recently adduced by Panofsky, looks tempting enough.」(最近Panofskyによって提示されたLucretiusの一節は、十分に心をそそられる)。注釈されている本文を知っていれば、temptingが皮肉っぽく聞こえてくると思います。続けて『物の本質について』第一巻31行目以降の数行を、古い文体の英訳で引用しています。
Thou(Venus) alone canst delight mortals with quiet peace, since Mars, mighty in battle, rules the savage works of war, and often casts himself upon thy lap wholly vanquished by the ever living wound of love, and thus looking upward with shapely neck thrown back, feed his eager eyes with love, gaping upon thee, goddess, and as he lies back his breath hangs upon thy lips
この引用の中に例の「shapely neck thrown back」という記述があります。念のためPanofskyの本の該当箇所を見てみると、これもまた本文ではなく注釈でした。そしてそこにはこの英文ではなくラテン語原文が引用されていました。したがってGombrichの本の注釈にある英語のこの記述こそが、Valentina Prosperi、さらにそれをAlison Brownが引用しているLucretiusとBotticelliを結びつける「shapely neck thrown back」の出所ということになります。さらに英訳そのものが誰の訳であるかを調べてみると、手元にあるLoebのW.H.D.Rouseによる訳とほとんど同じでした。ただそれだと古風な単語は使われていません。おそらくその古い版からの引用なのでしょう。
Panofskyの本の該当箇所を見てわかったことがあります。これは正確にはBotticelliの《ヴィーナスとマルス》とよく比較されるPiero di Cosimoの作品に対する解説でした。その説明としての、Lucretiusの冒頭付近の引用でした。ただし、その引用の前でBotticelliの《ヴィーナスとマルス》のことを、Botticelli's rendering of the same subject(同じ主題をBotticelliが描いたもの)と呼んでいるので、これを根拠にPanofskyがBotticelliのこの作品をLucretiusに関連するものだと考えていたと、Gombrichは判断したのでしょう。そういうちょっとした論理の飛躍がないと注釈133の内容は成り立ちません。それにしても参照をたどっていくと、誰も明確にBotticelliとLucretiusの関係を指摘していなかったことに驚きます。参照を経るごとにいつのまにか既成事実化されていった説だったわけです。
このLucretiusの引用の後、Gombrichは「shapely neck thrown back」という言葉は確かにBotticelliの絵の中で具現化されていると指摘しますが、それと同時にBotticelliの絵とLucretiusの詩ではマルスの体の位置が違うという大きな問題があることをはっきりと述べています。
そしてLucretiusの影響を受けたとみられるPoliziaoの『ジョストラ』でも、体の向きはLucretiusの詩と同じ向きであることを、該当箇所の『ジョストラ』第1巻の第122節前半をその英訳とともに引用して示しています。この詩は見るからにLucretiusの影響を受けています。直接なのか、参考にした古典の詩から影響を受けていたのか判断はつきませんが、Lucretiusのヴィーナスを讃えている部分を思い起こす内容になっています。
Trovolla assisa in letto fuor del lembo,
pur mo’ di Marte sciolta dalle braccia,
il qual roverso li giacea nel grembo,
pascendo gli occhi pur della sua faccia:
(He finds her sitting on the edge of the bed,
emerging from the embrace of Mars,
who was lying on his back in her lap,
feasting his eyes on her face.)
そして、『ジョストラ』と≪ヴィーナスとマルス≫が関係あるとする説の紹介として、G.F.Youngの『The Medici』第1巻226ページへの参照があります。これは1930年に書かれた、メディチ家の有名な人物を一人一人紹介している本です。その中の第8章Lorenzo the Magnificentの章の中で、Botticelliの作品のことが詳しく書かれています。Youngは、Botticelliの《ヴィーナスの誕生(Birth of Venus)》、《マルスとヴィーナス(Mars and Venus)》、《春(Return og Spring)》はLorenzo the Magnificentのために描かれ、それがPolizianoの『ジョストラ』と同じ内容だという説をとっています。なおこの記述の中には一言もLucretiusについての指摘はありません。
GombrichはYoungによる『ジョストラ』と≪ヴィーナスとマルス≫の関連性の指摘を次のように、これも皮肉っぽく語っています。Youngの書いたものは引用せず、この文章でこの注釈をしめています。
Through a strange confusion G.F.Young gives a description of the painting which is represented as a summary of the scene in Poliziano --- small wonder that the picture looks like an exact illustration of this imagined text.
訳すとこうです。
奇妙な混乱を通してG.F.YoungはPolizianoが書いた場面の要約として描かれているとその絵画の説明をしている。この絵がこの想像された文章の正確な挿絵のように見えても不思議ではない。
この混乱とは、一見、マルスの姿勢の違いを表しているように思えますが、実は違います。『The Medici』226ページにある《ヴィーナスとマルス》の説明を次に引用します。
Following this we have the second picture. The tournament is over; Giuliano has carried all before him and rests from his fatigues, basking in beauty's smiles. Politian, in his poem, alluding to Giuliano as the victor in the tournament, had told the story of Mars and Venus, and described Venus, reclining in a woodland glade, robed in gold-embroidered draperies, watching Mars with limbs relaxed lying asleep on the grass, while little goat-footed satyrs played with his armour. This scene Botticelli takes for his second picture, and as before follows closely Politian's words.
訳すと、
続いて二つ目の絵画である。槍試合は終わり、Giuliano は彼の前に全てを放り出して、疲れから休息している。そして美女の笑顔を浴びている。Polizianoは、彼の詩の中で、大会の勝者としてのGiuliano をほのめかしながら、マルスとヴィーナスの物語を語っている。そしてヴィーナスを説明している。彼女は森の中の空き地に横たわっている、金刺繍の服を着ている、そして手足を伸ばして芝生の上で寝ているマルスを見つめていると。一方でヤギの足をした小さなサテュロスたちが彼の鎧で遊んでいる。このシーンはBotticelliが二番目の絵として描いていて、前と同じようにPoliziaoの言葉をとてもよくまねている。
どう見ても、YoungはBotticelliの絵の描写の文章なのにそれをPolizianoの詩の内容の文章と間違えています。これを指してGombrichは「Through a strange confusion」という言葉を使っているようです。こんな内容だと「small wonder that the picture looks like an exact illustration of this imagined text.」という言葉が相当な毒気を持っているのが分かります。そりゃ正確な挿絵にしか思えないでしょうね。そりゃそうです。
このことからも、Gombrichのこの注釈133は、≪ヴィーナスとマルス≫のLucretiusもしくはPoliziano出典説を、そうとう馬鹿にしながら書いています。実際論拠となるべきものが論破するまでもない稚拙なものなのですから仕方がありません。
そういう論調の注釈133を論拠に、ProsperiがLucretius説の可能性を指摘するのも褒められたものではありません。Gombrichによる批判に対して多少の反論する文章を載せてから、このLucretius説の可能性を指摘すべきでしょう。先ほども書きましたが、この引用の仕方だと、Gombrichが多少なりともこの説に可能性を見出しているかのように見えてしまいますが、確かめてみると全く逆です。さらに、Prosperiの引用をBrownがより強い確信をもって引用してしまって、この本を読む限りこの説が既成事実化してしまっています。とにかく、この一連のLucretiusもしくはPoliziano出典説はまったく成り立ちません。
では、一方のGombrichが冒頭に書いているFicino出典説はどうかというとこれも残念ながら、成り立ちません。先ほど書いたように、GombrichはLucretiusやPolizianoの影響を否定する前に、Ficinoの『愛について』の一部分がこの絵の表現に似ていることを指摘しています。ここで引用されているのは第5巻第8章の一部です。
Mars is outstanding in strength among the planets, because he makes men stronger, but Venus masters him.... Venus, when in conjunction with Mars, in opposition to him, or in reception, or watching from sextile or trine aspect, as we say, often checks his malignance ... she seems to master and appease Mars, but Mars never masters Venus....
よく見ると分かるように、何カ所か省略されています。この英文の全文が手に入らなかったので、ラテン語原文の該当部分を示します。上記の引用に該当する部分を赤で示します。
Diis aliis, id est, planetis aliis Mars fortitudine prestat, quia fortiores homines efficit. Venus hunc domat. Quando enim Mars, in angulis celi vel secunda nativitatis domo vel octava constitutus, nascenti mala portendit, Venus sepe coniunctione sua vel oppositione vel receptione, aut aspectu sextili aut trino Martis, ut ita dicam, compescit malignitatem. Rursus quando Mars in ortu hominis dominatur, magnitudinem animi iracundiamque largitur. Si proxime Venus accesserit virtutem illam magni animi a Marte datam non impedit, sed vitium iracundie reprimit. Ubi clementiorem facere Martem et domare videtur. Mars autem Venerem numquam domat.
都合がいい部分を抜き出したという感じが否めません。ラテン語の意味がそう解釈できるのではなく、結論だけ言うと、選んだ英訳に誤訳があり、拾っていくとたまたまこう読み取れるというだけです。原語の言葉遊びでBotticelliの神話画の解釈をしている僕が言うのも変ですが、正しい意味ではもちろん、言葉遊びをしてもこの文章からはこの絵を導けません。
ここに、日本語訳である左近司祥子訳の『恋の形而上学』にある該当部分を引用します。
「他の神々以上に」すなわち、他の諸惑星と比べて火星(アレース)は強さという点でまさっている。なぜなら強い人を造るのが火星なのだから。しかし、その「火星をさえ金星(アプロディーテー)は抑えている」。というのは、火星が天宮の第二室とか第八室にある時生まれた人は、この火星のために悪運に取りつかれるはずである。しかし金星はこの悪運を逆転させることができる。たとえば、この時に金星が火星と合の位置にあったり、衝の位置にあったり、セキスタイル(座相六〇度)の位置を取ったり、トライン(座相一二〇度)だったりするとこの悪運は消え去る。また、火星の支配下に生まれた人は、雄大で荒々しい魂を火星から与えられるのだが、その時近くに金星が居ると、火星から与えられた魂の雄大さという美点はそのままで、荒々しさという欠点だけが是正されることになる。このことからも金星が火星を手なずけ、抑えているのが分かる。「しかし火星が金星を抑えることはない。」
上記の英訳の断片よりも的確な訳だと思います。元々占星術に関する記述なので火星や金星と書かれていますが、それをギリシア語名で読み仮名を振っています。これはこの本がギリシャ語で書かれたプラトンの『饗宴』の注釈だからという翻訳方針だそうです。金星、火星を分かりやすいようにヴィーナス、マルスと書き替えたところで、この絵の描写を思い浮かべることは難しいでしょう。翻訳する言語が変わっただけで意味が失われるというのでは、Ficinoの作品を典拠とする説は否定せざるを得ません。
以上のように、Lucretiusの『物の本質について』が出典であるとする説をたどっていきながら、《ヴィーナスとマルス》に関するいくつかの説を見てきました。これがすべてではありませんが、どれ一つまともなものがありません。信頼のありそうなBotticelliの他の神話画に関する論説も、実際原典を読んでみると、たいてい論理的に破綻しています。研究そのものはとても意味深いもので、その主張を書き残すのは大いに結構なことですが、他人の仮説をさも真実であるかのようにばらまいている解説には、うんざりします。
ところで、この「shapely neck thrown back」という表現を、全体としては否定的に扱いながらも、Gombrichがわざわざ抜き出して指摘したのも、この表現が確かに絵の中の描写を表していることを認めているからに他なりません。Prosperiが問題点を知りながらもわざわざ注釈の中から拾い上げたのも、そしてBrownが確信をもって伝えたのも、この表現が見過ごせないほどに魅力的に思えたからに他ならないでしょう。それもそのはずです。この絵はLucretiusの『物の本質について』の「ヴィーナスの讃歌」と呼ばれる冒頭部分そのものなのです。この表現がこの絵にぴったりなのは、Lucretiusの詩を言葉遊びで描きこんだこの絵の中に現れた、数少ない字義通りの描写だったからです。このことをゆっくり丁寧に説明していきます。