2014年08月01日

『物の本質について』と《ヴィーナスとマルス》(2)

間隔が開いてしまいましたが、今回は『物の本質について』の6行目から9行目までの解釈です。
この内容を言葉遊びをして《ヴィーナスとマルス》の中に見つけてみましょう。これまでの考察から、兜をかぶっているサテュロスはクピド、その右にいる振り返っているサテュロスとホラ貝を吹いているサテュロスが、どちらか決めかねていますがデイモスとフォボス、そして鎧の中に入っているのが実は女の子でハルモニア、このように推定しています。ちなみにデイモス、フォボス、ハルモニアはウェヌス(ヴィーナス)とマルスの間の子どもです。それを前提に話を進めていきます。

ラテン語原文は次を使います。

Te dea te fugiunt venti: te nubila caeli:
Adventumque tuum: tibi suaves daedala tellus
Submittit flores: tibi rident aequora ponti:
Placatumque nitet diffuso lumine caelum.

手順としては、構成される単語の意味を調べて、本来の文章の意味を書いたあと、この絵の表現に近づけるための考察をします。そして結論の日本語と英語での解釈を示します。英文は日本語からではなくラテン語からの訳です。日本語に比べるとあまり自信はありませんが、明確に解釈が記述できるように思います。


Te dea te fugiunt venti:

まず単語の基本的な情報を並べてみます。te は代名詞tu「あなた」の単数、男性/女性の対格/奪格。deaは女性名詞dea「女神」の単数主格/呼格/奪格。fugiuntは動詞fugio「飛ぶ、逃げる」の三人称複数現在。ventiは男性名詞ventus「風」の複数主格/呼格、もしくは動詞venio「来る」の過去完了分詞の単数中性/男性の属格、複数男性の主格か呼格。本来の意味は、動詞が複数なので、主語は後ろの複数名詞ventiとなり、残りのte dea te は起点を示す奪格と考えて、「女神よ!あなたから風が逃げる」となります。

しかしこの絵では、風が逃げている描写はないようなので、違う解釈を試みます。te dea は、teを場所を表す奪格、deaを呼格と考えます。つまりteをマルスとみなすと「あなた(マルス)のところにいる女神よ!」となります。

主動詞はfugioしかないのでこれで確定です。そして複数主格となり得るのはventiだけなので、主語も確定です。ここでventiに風以外の意味を考えてみます。ventiは動詞venio「来る」の過去完了分詞の複数男性主格と考えることもできます。つまり、「来た者たち」という意味です。イタリア語でvenioの訳はvenire「来る」です。venireを詳しく調べると「生まれる」という意味もあります。これを使うとventiは「生まれた者たち」となり、奪格とみなしたteと合わせれば、あなたのところにいる生まれた者たち、つまりマルスの子どもたちを表す言葉になります。絵の中のダイモス、フォボス、ハルモニアが確かにこれにあたります。クピドはマルスの子どもではないので、ventiには含まれません。

次は動詞の意味を考えます。動詞fugioのイタリア語での意味はfuggire「逃げる、過ぎる、走る」です。振り返っている真ん中のサテュロスは、足を前後に広げ、しっぽを躍動させていて、走って逃げている姿に見えます。フォボスには英語でpanic flightという意味があるので、この子の描写から、こちらの方がフォボスだと考えられます。

fuggire

fugioの他の意味として、evitareがあります。これには「避ける、逃れる、遠ざける」などの意味があります。ホラ貝を持っているサテュロスは、後ろの二人が持っている槍を避けているので、この意味に当てはまります。真ん中の子どもがフォボスならば、こちらはデイモスということになります。ヒントは、彼の体が一見槍に貫かれているというぎょっとするような恐怖の描写です。

evitare

fugioには他にsvanire「衰える、姿を消す」もあります。鎧の中に入っているハルモニアは、ウェヌスから姿を消していると言えます。そう思ってみると、マルスも左手で協力しているようにも見えます。

svanire

まとめると次のようになります。

あなた(マルス)のそばの女神よ!あなたのところにいる生まれた者たちは、走ったり、避けたり、身を隠したりしている。

Goddess near you ( mars )! those who were born near you ( mars ) do "fugio" ( run,  avoid, disappear ).



te nubila caeli:

nubilaは中性名詞nubilum「雲」の複数主格/呼格/対格。caeliは中性名詞caelum「空、天」の単数属格か処格。動詞は前のfugioが省略されていると考えます。本来の意味は「空の雲があなたから逃げている。」です。

やはり、この絵には雲らしい雲が描かれていないので、別の意味を考えます。caelumには同じ語形変化の別の意味の単語caelum「のみ、たがね」があります。たがねと言えば、マルスが左手で支えている棒がたがねのような形をしています。両側がハンマーで叩く部分に見えるので、完全なたがねではないようですが、たがねのようなものとは言えるでしょう。これを手がかりにします。caeliは処格と見なすこともできるので、たがねのところにある「nubilum(雲)」という描写を見つければうまくいきます。nubilumの他の意味を調べていくと、イタリア語のvelo「ベール、薄い膜、覆い隠すもの」が見つかります。つまり、マルスの下半身を隠し、金属の棒に押さえつけられている白い布をnubilumと考えればいいわけです。しかし、問題があります。主語であるnubilumが複数でなくてはいけません。ここで絵をよく見ると、この金属の棒は絵の中で、ハルモニアの着ている鎧の下の服にも触れています。ハルモニアはまだ小さな子どもですが女性です。この布は彼女の胸を隠しています。つまりマルスの布と同じ役割を果たしています。

nubilacaeli

そしてnubilumを複数対格と解釈して、感嘆の意味を表しているとします。残ったteですが、これもマルスと考えなくては成り立たないでしょう。どちらのnubilumも、たがねとマルス両方に触れています。随伴を示す奪格として、「あなた(マルス)のともに」となるでしょう。

あなた(マルス)とともに、たがねのところにある複数の覆い隠すものよ!

the veils near the chisel with you ( mars ) !



Adventumque tuum:

adventumは男性名詞adventus「到来」の単数対格。tuumは形容詞tuumの中性単数の主格/呼格/対格もしくは男性単数対格。tuumは前にある名詞と一致していると考えると男性単数対格となります。対格だけなので、これは感嘆を表していると解釈して、「あなた(ウェヌス)の到来よ!」とします。

これも絵にするのは難しい表現です。adventumは動詞advenio「来る」の過去完了分詞と考えることができます。中性単数の主格/呼格/対格か男性単数対格で、上記のtuumと一致します。さらに調べてみると詩の表現として、男性もしくは中性の複数属格の場合も存在します。これはtuumも同じです。

advinioの意味にはイタリア語でvenireがあります。venireは先ほど出てきたように「生まれる」と解釈できるので、adventum tuumは「あなたの生まれたもの」となります。tuumは直前のteと同様にマルスを意味していると考えます。したがって「あなたの生まれたもの」はダイモス、フォボス、ハルモニアの誰かを指していることになります。

これでもいいのですが、この語句が複数としても解釈できるのでその可能性も調べてみます。adventum tuumが複数ならば属格となり、前の語句中にあるnubilaを修飾していると考えられます。子どもたちそれぞれに描かれているnubilaが見つかれば、この解釈が成り立つことになります。

ハルモニアに関しては、既に前の語句で分かっているように、鎧の下に着ている薄い服がnubilumとなります。次に振り返っているサテュロスに雲らしいものを探してみると、角が白くてとても柔らかく描かれています。この角が単体で空に描かれていれば、雲と間違いそうなくらいです。これを彼のnubilumとみなします。

nubilum1

あとはホラ貝を持ったサテュロスです。nubilumの意味にはobnubilamentoがあります。イタリア語の動詞obnubilareの名詞化です。この動詞obnubilareの意味には、「曇らせる」、「精神を朦朧とさせる」という意味があります。二番目の意味はこの絵にとってとても重要なものです。いままでずっとこのホラ貝はマルスをびっくりさせて起こしてしまうものだとばかり思っていました。しかし、この単語によって全く逆のことがこの絵に描かれていたことが分かります。このホラ貝でサテュロスはマルスの意識を朦朧とさせているのです。分かってしまうと、この方が納得がいきます。結局このサテュロスのnubilumとはこのホラ貝による行為となります。

obnubilamento

まとめるとこうなります。

あなたの生まれた者たちの複数のnubila(雲の角、覆い隠す服、意識を朦朧とさせるホラ貝)よ!

some "nubila" ( cloud shaped horns,  a veil, a shell to obnubilate) of the people who were born of you ( mars ) !



tibi suaves daedala tellus submittit flores:

tibiは代名詞tuの単数与格、suavesは形容詞suavis「快い、甘い」の複数主格/呼格/対格。daedalaは形容詞daedalus「熟練した、器用な」の女性単数の主格/呼格/奪格か、中性複数の主格/呼格/対格。tellusは女性名詞tellus「大地」の単数主格/呼格。submittitは動詞submitto「繁らせる、下げる」の三人称単数現在。floresは動詞floreo「繁茂する」の現在分詞二人称単数もしくは男性名詞flos「花」の複数主格/呼格/対格。

性数格の一致から、suavesとfloresが結びついて、男性複数の主格/呼格/対格のどれかを表します。同じように、daedalaとtellusが一つになって、女性単数主格/呼格となります。主動詞が三人称単数なので主語はdaedala tellusの方だと分かります。したがって、本来の意味は、「あなたのために器用な大地が快い花々を繁らせる。」となります。

この言葉から想像できるのはボッティチェリの別の作品《春》の足下に描かれている花々の描写に近いでしょう。しかし、ボッティチェリの描いた他の神話画と違ってこの絵には花が描かれてはいません。floresに花以外の意味を探さなくてはならないのでしょうか?しかしよく探してみるとこの絵の中にも花が咲いていました。それは本物の花ではありません。ウェヌスの体の下にある赤いクッションに金糸の刺繍で作られている規則的な模様の中にいくつも花が描かれています。この花を使って考えてみましょう。

flores

suavisの意味としてイタリア語でsoaveがあります。意味は「快い、甘美な、柔らかな」です。このクッションは、女神の腕の沈み方から確かに柔らかく描かれています。この部分がsuaves floresを表していると考えていいでしょう。では、daedala tellusはこの絵でどれになるでしょうか。字義通りならば「器用な大地」となります。よく見ると地面から何かが出てきて、このクッションを押さえているように見えます。

daedalatellus

確かにこれは器用な行為です。ただこれだと金色をまとった描写を説明できません。そこでdaedalusの意味を調べてみると、artistico「芸術的な」という意味があります。正直自信はありませんが、これでいいでしょう。もっと解像度の高い画像があれば、また当時のフィレンツェの俗語を含めたdaedalusの意味が分かれば、もっと確実なこの奇妙な形の意味を考えられるかもしれません。現時点では、「芸術的な大地」としておきます。

あとは動詞submittoの意味です。この語はいろんな意味のある単語ですが、この場合はelevare「あげる、持ち上げる」がいいでしょう。大地から出ている棒状のものが下から花々をクッションごと支えているように見えます。残ったtibiは持ち上げる行為の対象と考えます。したがってこの場合はマルスではなくウェヌスを指しています。二人称の相手として、マルスとウェヌス、それぞれに語りかけながらこの絵は描かれていることになります。この二人称の揺れは、すべての解釈が終わってから点検し直す必要があるでしょう。

芸術的な大地があなた(ウェヌス)のために柔らかな花々を持ち上げている。

the artistic earth lifts the soft flowers to you (venus).



tibi rident aequora ponti:

tibiは代名詞tu「あなた」の単数与格。ridentは動詞rideo「笑う、輝く」の三人称複数現在。aequoraは中性名詞aequor「表面」の複数主格/呼格/対格。pontiは男性名詞pontus「海、波」の単数属格/処格、複数主格/呼格。この文の動詞は三人称複数のridentなので、主語は複数となり、aequoraかpontiとなるが、pontiは単数属格とも解釈できるので、aequora pontiは海の表面、つまり海原が、主語と考えられます。与格のtibiは笑いかける相手を示しています。まとめると「海原があなたに輝いている。」となります。

どう見てもこの絵には海が描かれているようにみえません。しかしよく見るとこの絵の中で海を連想するものが輝いています。それはクピドが被っているヘルメットです。

pontus1

このヘルメットは海のような濃い青色をして、その表面が輝いています。つまりpontusを「海」ではなく「海色の物」と解釈するわけです。輝いているのはおそらく太陽のせいですが、この方向にはちょうどウェヌスが座っています。そうなると、tibiはウェヌスを指していると考えた方がいいでしょう。

tibirident

しかしこの輝いている表面はもう一つなければいけません。なぜなら動詞の形から主語は複数でなくてはならないからです。もう一つ青いものが輝いていないかよくこの絵を見てみると、これもすごく目立つ場所にありました。それは真ん中のサテュロスの両目です。

pontus2

いままで気づかなかったのですが、この絵の中で彼だけが青い目をしています。そしてこの目だけがウェヌスを見つめています。彼の青い目はちゃんとその表面に白いハイライトが描かれています。ここのtibiもマルスではなく、ウェヌスを指しています。まとめると、次のようになります。

海色の表面(クピドのヘルメットと真ん中のサテュロスの目)があなた(ウェヌス)に向けて輝いている。

the surfaces of ocean color ( cupid's helmet and the eyes of the satyr in the middle ) shine to you ( venus ).



Placatumque nitet diffuso lumine caelum.

placatumは動詞placo「和らげる、鎮める」の完了分詞の中性単数の主格/呼格/対格か男性単数の対格、もしくは詩において男性/中性の複数属格。nitetは動詞niteo「輝く」の三人称単数現在。diffusoは動詞diffundo「まき散らす、放つ」の完了分詞の単数男性/中性の奪格/与格、もしくは形容詞diffusus「広い」の単数男性/中性の奪格/与格。lumineは中性名詞luminen「光」の単数奪格。caelumは中性名詞caelum「空、天」の単数主格/呼格/対格か複数属格。

この文の動詞は三人称単数現在のnitet、主語は単数のcaelumとなります。分詞placatumは形容詞として主語を修飾しています。したがって、この三つの単語の意味は「鎮められた空は輝く。」となります。diffuso lumineは単数男性奪格でまとまって、輝き方について「光を放ちながら」と補足説明しています。まとめると、本来の意味は「鎮められた空は光を放ちながら輝いている。」となります。

もちろんこの描写はこの絵の中にありません。「空、天」を表すcaelumですが、この意味ではこの絵の中には見つからなさそうなので、他の意味を探してみます。caelumは先ほど出てきたように「たがね」と訳してみます。本来の解釈でcaelumを形容詞として修飾している分詞placatumですが、これはこのままの解釈「鎮められたたがね」では無理のようです。分詞placatumを名詞的に解釈してみると、「鎮められた者」となります。そう考えて、このたがねの周りを眺めてみると、マルスとハルモニアの状態が気になります。眠るというのはこれ以上にない鎮まった状態です。やんちゃな子どもが鎧の中に閉じ込められている状態も鎮められていると言えるでしょう。

placati

分詞placatumは、caelumとの結びつきを無くし、単独で単数主格か呼格か対格となっているか、詩にみられる語形で複数属格なのかもしれません。そこで注目するのは、このたがねのようなものとこの二人の描写です。マルスは左手の指でこの棒を押さえていますが、ハルモニアも絵の中でこの棒に手で触れています。物理的には距離があってハルモニアは直接触れてはいませんが、絵の平面の上では触れたような描写になっています。手で触れることは所有を表す最も分かりやすい表現です。つまり鎮められた状態の二人が棒に触れている描写は、placatumの複数属格という文法構造を表したものと言えます。

placatum

この棒はにぶく輝いているので、動詞nitetはそのまま「輝く」と解釈します。ここまでをまとめると、「鎮められた二人のたがねは輝いている。」となります。残りはdiffuso lumineです。luminenの意味は「光」ですが、他の意味に「日光、明るい色」の意味もあります。絵のたがねのようなものの下には、マルスの腰にかかっている白い布の端が平らに広がって、日光を受け明るく輝いています。lumineはこの輝きを表していると考えるとうまくいきそうです。diffuso lumineは奪格なので、場所を表しているとします。

diffusolumine

まとめると、次のようになります。

鎮められた者たち(マルス、ハルモニア)のたがねが、広げられた明るいところで輝いている。

the chisel of the persons ( mars, harmonia ) who  were calmed shines at expanded bright object.


今回はここまでです。実のところ、ここをうまく解釈するアイデアが浮かばなくて、1年間先に進めませんでした。



posted by takayan at 01:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月07日

『物の本質について』と《ヴィーナスとマルス》(3)

次は、10行目から13行目です。原文は次を使います。

Nam simul ac species patefactast verna diei
Et reserata viget genitabilis aura favoni
Aeriae primum volucres te diva: tuumque
Significant initum perculsae corda tua vi.

本来の意味をまとめて訳すと次のようになります。一般的な訳の根拠が分からなかったので、それとはちょっと違う物になってしまいました。

空の春の眺めが覆いを取り除かれると同時に、
閂を外された、物を生み出す西風の息が力強くなると、
まず鳥たちが聖なるあなたのせいで飛び回る
あなたの力によって鳥たちの心が打ち負かされたことが、 あなたの到来を明らかにする。

春らしい青空となり、同時に強い西風が吹き始めると、まず鳥たちが飛び回り、ウェヌスの到来を知らせてくれるという一節です。これはときどき《プリマヴェーラ》の元になっているなどと言われる第5巻の一節、たいていウェヌスの先触れはクピドであると間違った解釈がされているあの部分を思い出させます。これも春と西風、そしてウェヌスの到来を踏まえている文章です。


今度は細かくこのラテン語の意味を調べていきます。

nam simul ac species patefactast verna diei

namは接続詞で「なぜならば、例えば、一方で」等。simulは副詞で「同時に、同様に」。acは接続詞で、「そして」など。speciesは女性名詞species「見ること、出現、眺め、姿、美しさ、輝き」の単数主格/呼格、複数主格/呼格/対格もしくは、動詞specio「見る」の二人称単数未来。patefactastは動詞patefacio「開く、覆いを外す」の完了分詞女性単数の主格/呼格/奪格か中性複数の主格/呼格/対格。vernaは名詞verna「奴隷、使用人」の単数主格/呼格/奪格、もしくは形容詞vernus「春の」の女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格/呼格/対格、動詞verno「春の準備をする」の二人称単数命令。そしてdieiは名詞dies「日、空、昼間」の単数属格/与格。

この文章には主動詞がありません。おそらくsum(be動詞に相当)が省略されています。主語は女性名詞単数のspeciesとして、まずこれに形容詞vernusが女性単数主格vernaとなって修飾しています。さらに名詞diesは単数属格dieiになって、speciesを修飾しているとします。diesを「空」、vernusを「春らしい」と訳します。speciesは「眺め」とします。動詞patefacioの意味は、雲に覆われた空から春の日差しが広がっていく様子を表しているとします。したがって「空の春の眺めが開かれると同時に、」とします。

それでは絵に合わせます。patefactastという単語が気に掛かります。「覆いをとった」という意味が、マルスの半裸な姿を示しているかもしれません。しかし、これはやってもうまく解釈できませんでした。残りの単語がうまく絵の描写を表せません。結局行き着いたのがそのまま訳すということでした。patefactastで女性単数主格のspeciesを修飾していると考えて、「開けた景色が」と解釈します。この絵の真ん中のサテュロスの背景が開けた風景になっているので、species patefactastがこの描写を表していると考えてみます。

残りはverna dieiです。vernaは名詞verna「奴隷」とも見ることができます。これを奪格とみなせば風景の見える場所をvernaが示していると解釈できそうです。問題は意味です。子どもたちを奴隷と呼ぶのでは困ります。しかし現時点ではうまい表現が見つからないので、この意味を保留して、次のdieiを考えてみます。名詞diesの意味は日、日光、空、昼間などです。この開けた風景のそばの人物でdiesに関連する描写といえば、クピドの被っているヘルメットの反射光です。dieiを単数属格と考えてvernaを修飾しているとすると、「日光の奴隷のところに」となります。この属格は性質を表していると考えます。分かりやすくすると、「日光を反射している奴隷のところに」となります。

vernadiei

さて、vernaが誰を示しているのかがはっきりしたので、クピドの描写に合う奴隷以外の意味を特定してみます。イタリア語でのvernaの意味を書き出してみると次のようになります。「schiavo nato in casa,schiano nato, mascalzone, canaglia, buffone,」。この中で使えそうなのがbuffone「道化師、おどける人」です。兜を深く被って、兵士のまねをしている彼は、顔の表情は分かりませんが、ふざけている、いたずらっ子に思えます。つまり、verna dieiは「日光のいたずらっ子のところに」となります。そして、全体をまとめると次のようになります。

そして日光のいたずらっ子のところに開けた景色があると同時に

at that same time that the opened landscape is near the buffoon of daylight


et reserata viget genitabilis aura favoni

etは接続詞で「そして、また」。reserataは動詞resero「閂を外す、覆いをとる」の完了分詞の女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格/呼格/対格。vigetは動詞vigeo「元気である、活発になる」の三人称単数。genitabilisは形容詞genitabilis 「命をもたらす」の男性/女性の単数主格/呼格、単数属格、男性/女性の複数対格。aura は女性名詞 aura 「風、息」の単数主格/呼格/奪格、もしくは中性名詞 aurum 「黄金、金貨」の複数主格/呼格/対格、それか動詞auro「金メッキをする」の二人称命令。favoniは男性名詞Favonius「ファヴォニウス、西風」の単数呼格/属格か複数主格。ファボニウスは、ギリシャ神話のゼフィロスに相当するローマ神話の神です。

動詞はviget(三人称単数)なので、単数主格となりうるものを探すと、reserata(女性単数主格)、genitabilis(男性/女性の単数主格)、aura(女性単数主格)で、これらは一つにまとめることができます。残ったfavoniは風の神なので、属格としてauraを修飾していると考えた方が良さそうです。訳は擬人化して、「ファボニウスの息」とします。まとめると「そして閂が外された命をもたらすファボニウスの息が強くなる。」となります。reserataの意味が分かりにくいですが、まるで今までせき止められていたかのように、風が一気に吹き始めることを表しているのでしょう。

絵に合わせた解釈は次のようになります。動詞はvigetで決まりです。しかし主語となり得るものはいろいろあります。reserata、genitabilis、auraをいろいろ組み合わせたもののどれかが主語となります。その中で、答えとなるものは絵のどこかに描かれているはずです。いろいろな可能性を考えました。その一つがgenitabilisの名詞化、「命をもたらすもの、受精させるもの」です。その考えを頭の片隅に入れて、この絵を眺めていると、ウェヌスの後ろの木々の当たりに、勃起したペニスのようなものが描かれていることに気付きました。gentabilisという単語の意味を調べていなかったら、このことには気付かなかったでしょう。動詞vigeoの意味はイタリア語だとessere vigoroso、英語だとbe vigorousとします。つまり、genitabilis vigetで「受精させるものが元気である。」の意味となり、ウェヌスの頭の後ろの木の枝の表現を示しています。

この近くを見てみると、金髪の中に目が埋め込まれている描写があります。これもこの句の単語を連想させます。分詞reserataの元になる動詞reseroのイタリア語の意味の一つにaprire「開ける、目を開ける」があります。auroは中性名詞aurum「黄金」とも解釈できます。そしてこの金髪はウェヌスの他の髪と違って、風に吹かれたように大きく波打っています。この描写もfavoni「そよ風」を連想させてくれます。この句の単語が見事にこの領域に集まっています。

genitabilis

 

あとはこれらの単語を文法的にも、描写的にも整合性のとれた組み合わせで解釈できればいいわけです。完了分詞reserataと名詞auraは中性複数主格/呼格/体格で一致させることができます。主語は既に決まっているので、これは対格になります。意味は「目を開かされた黄金のものたちを」となります。favoniは神の名前としてではなく、金髪を揺らしている「そよ風」とします。属格とみなして、黄金を修飾していると考えます。これも合わせると、「目を開かせられたそよ風の黄金のものたちを」となります。そしてこれらをgenitabilisの目的語とみなします。これは形容詞ですが、元になった動詞gignoの変化したものだと考えて、その目的語とします。まとめると次のようになります。

目を開かせられたそよ風の黄金のものたちを受精させるものは元気である。

the thing that fertilize eye-opened gold objects of breeze is vigorous.

変な英語ですが、ラテン語をどのように解釈したいのかは伝えられると思います。


aeriae primum volucres te diva:

aeriaeは形容詞aerius「飛ぶ」の女性単数の属格/与格か女性複数の主格/呼格。primumは副詞で「まず最初に」、もしくは形容詞primusの中性単数の主格/呼格/対格、もしくは男性単数対格。volucresは形容詞volucer「翼のある、空を飛べる」の複数主格/呼格/対格、もしくは女性名詞volucris「鳥、飛ぶ生き物」の複数主格/呼格/対格。teは代名詞tu「あなた」の単数対格/奪格。divaは女性名詞diva「女神」の単数主格/呼格/奪格、もしくは中性名詞divum「空」の複数主格/呼格/対格、もしくは形容詞divus「神の、神聖な」の女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格/呼格/対格。

これにも動詞がありません。これもbe動詞が省略されていると考えてみます。primumは副詞と考えます。主語は女性複数主格volcuresで、aeriaeは同格で補語になっていると考えます。te divaは女性単数奪格で原因を示しているとします。まとめると「聖なるあなたのせいでまず最初に鳥たちが空を飛ぶ。」

絵に合わせて解釈します。この句はそれほど難しくはありません。ここでもprimumは副詞とします。この文の主語はvolucresです。volucrisは本来の訳では「鳥」としていますが、この言葉は空を飛ぶ虫も表します。そう、「蜂」も表せます。したがってariae volucresは「飛んでいる蜂たちが」となります。te divaは単数奪格で場所を示しているとします。

aeriaevolucres

まとめると次のようになります。

まず神聖なあなた(マルス)のところで飛んでいる虫たち(蜂たち)がいる。

the flying insects (bees) are near divine you (mars).



tuumque significant initum perculsae corda tua vi.

tuumは形容詞tuus「あなたの」の中性単数の主格/呼格/対格か男性単数対格。significantは動詞significo「示す」の三人称複数現在。initumは動詞ineo「入る、引き受ける」の完了分詞の中性単数の主格/呼格/対格もしくは男性/単数/対格、もしくは名詞initus「入場、開始、入り口」の男性単数対格。perculsaeは動詞percello「突き刺す、打ち負かす」の完了分詞の女性単数の属格/与格か女性複数の主格/呼格。cordaは中性名詞cor「心臓、心」の複数主格/呼格/対格。tuaは形容詞tuus「あなたの」の女性単数の主格/呼格/奪格か、中性複数の主格/呼格/対格。viは女性名詞vis「力」の単数処格/与格/奪格。

主動詞はsignificantで三人称複数現在。これにより主語は複数でなくてはなりません。候補としては名詞化した分詞perculsaeか、中性名詞cordaです。二つは性が違うのでこの分詞でcordaを修飾することはできません。そこでcordaを複数対格とし、percelloの目的語と考えます。それが分詞化しさらに名詞化して主語になっています。つまり、「心を打ち負かされたことが」が主語になります。主語が決まったので、tuum initumは対格で意味は「あなたの到来を」となります。同様に主語になれなかったtua viは女性単数奪格となり、 意味は「あなたの力によって」で、perculloの原因を表します。主語の心は誰の心かというと、直前の行のvolucres(鳥たち)のものです。まとめると本来の意味は、「そしてあなたの力によって打ち負かされた(鳥たちの)心があなたの到来を明らかにする。」となります。春となり鳥たちがせわしくさえずりながら飛び回るのは、ウェヌスに打ちのめされた、つまり恋をしたからだとみなしている表現だと解釈します。

今度は、絵に合わせた解釈を考えます。この絵を見せられてperculsae cordaの意味を考えると、どうしても槍を胸の高さで抱え込んでいるサテュロスたちが気にかかります。ちょうど心臓のところを槍に串刺しにされているかのように描かれているからです。法螺貝を持っているサテュロスにいたっては見ようによっては槍が体に刺さっています。しかしそれでは後が続きません。perculsaeが女性形だからです。ではどうするかといえば、絵の中の叩き潰されたものをperculsaeと呼ぶことにします。それは何かというと、木の幹で潰れている蜂です。叩きのめされて、そこに潰れて張り付いているわけです。単数なので、格は属格か与格のどちらかですが、まだここではわかりません。そこで、この木には枝を切った後にできた穴に注目します。この穴の周りには蜂が飛んでいて、この穴が蜂の巣の入り口であることがわかります。したがってこれをinitumで表せます。これを踏まえると、parculsaeは単数属格となります。そして本来の解釈ではこれに形容詞のtuumがくっついています。しかしこのままだと「あなたの入り口」となり、ちょっと意味が通じません。そこで「あなたの」ではなく、「あなたのそばの」と解釈します。ここまでをまとめると、「叩き潰されたもののあなたのそばの入り口を」となります。もちろんこの「あなた」はマルスです。

significantinitum

tua viは、この場合手段を表す奪格と考えて「あなたの武器によって」となります。マルスの武器である子どもたちが持っている「槍」を表していると解釈できます。この奪格は動詞significo「示す」に結びついて、先ほど意味が分かったinitumを目的語として指し示しています。問題はこの文の主語です。内容的に槍を持っている子どもたちが主語になってほしいのですが、残っている単語はcordaだけです。主語が省略されているとしてもいいですが、それだとcordaがどうしても残ってしまいます。cordaが子どもたちを表すことができると都合がいいです。そう思って、名詞corの意味を調べてみると、英語で、sweetheartというぴったりの言葉が見つかりました。つまり、「愛しい者たちが」と解釈すれば子どもたちを表せるでしょう。まとめると、次のようになります。

叩き潰されたもののあなた(マルス)のそばの入り口をあなた(マルス)の武器によって愛しい者たちが示している。

sweathearts indicate the entry of the struck near you (mars) by your (mars) forth


目を開いた金髪、元気なペニス、潰れた蜂などは、この解釈を元にしなければ、説明され得ない描写でしょう。この絵はボッティチェリの他の神話画のような異様な描写はあまり目立たない、まともな絵のように見えますが、やはり、この絵も細かく見ていくとこういう奇妙な描写がちりばめられています。



posted by takayan at 02:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月11日

『物の本質について』と《ヴィーナスとマルス》(4)

今回は、14行目から16行目の以下のラテン語です。

Inde ferae pecudes persultant pabula laeta:
Et rapidos tranant amneis: ita capta lepore
Te sequitur cupide: quo quamque inducere pergis.


inde ferae pecudes persultant pabula laeta

indeは副詞「したがって、それから、その場所から」、もしくは動詞indo「入れる、身につける、紹介する」の二人称単数命令。faraeは女性名詞fera「野獣、動物」の単数属格/与格、複数主格/呼格、もしくは形容詞ferus「野蛮な、野生の」の女性単数属格/与格、女性複数主格/呼格。pecudesは女性名詞pecus「羊、動物」の複数主格/呼格/対格。persultantは動詞persulto「駆け回る、を通過する」の三人称複数現在。pabulaは中性名詞pabulum「飼料、牧草地」の複数主格/呼格/対格。laetaは形容詞laetus「楽しい、豊かな、草木の茂った」の女性単数主格/呼格/奪格、中性複数主格/呼格/対格。

形容詞ferareと名詞pecudesは女性複数主格で「野生の動物たちが」となり、これが主語です。動詞は三人称複数なので、合っています。名詞pabulaと形容詞laetaは中性複数対格となります。動詞を他動詞と考え、これを目的語と考えます。まとめると、本来の意味は「それから野生の動物たちは豊かな牧草地を駆け回っている。」

絵に合わせて考えます。しかしこれはほとんどそのままで使えそうです。野生の動物たちというのは、半獣のサテュロスたちのことと解釈できるでしょう。また真ん中のサテュロスが跳ねている様子から、駆け回っているというのも使えそうです。そして彼らが描かれている背景は開けた草原が広がっているように見えます。ここまでそろっているのですから、あとはより近い訳語を考えるだけです。

ferae pecudesはそのままでいいでしょう。persultanteはいろんな意味で解釈できる動詞です。三人の子どもたちの様子と関係がありそうなのは、 fare incursione「急襲する、襲撃する」、saltare「跳ぶ、跳ねる」、rimbombare「轟く、鳴る」 です。左のサテュロスは槍を持って襲撃をしています。真ん中のサテュロスの足としっぽはぴょんと跳ねた様子を表しています。右のサテュロスは法螺貝を使って、音を響かせています。

動詞の目的語も絵の内容に合わせる必要があります。ここでpabulaとlaetaを別々に考えます。つまり、pabulaを中性複数対格とし、laetaを名詞化した場所を示す女性単数奪格と考えます。laetaは両側のどちらかの茂った木々を表しています。左のサテュロスは左側の茂みに接しています。右側のサテュロスは右側の茂みに接しています。そして真ん中のサテュロスは頭で右側の茂みと接しています。

laeta

 

そしてpabulaです。左のサテュロスが槍で襲撃しているのは、蜂の巣です。これはイタリア語の訳語alimento「栄養物、食料」の意味で表せるでしょう。真ん中のサテュロスは本来の解釈のようにpascolo「牧草地」でいいでしょう。そして右側のサテュロスですが、これはちょっとひねらないといけません。彼はマルスに向けて吹いているので、マルスを表せるpabulumの意味を探してみましたが、ありませんでした。そうではなく、ここでは法螺貝を目的語と考えます。これは貝ですからalimentoの意味が使えます。またこのことから左端のサテュロスの標的を蜂の巣ではない場合でも、法螺貝と考えてもいいことが分かります。

したがってこの文は次のように解釈できます。

それから茂みのところにいる野蛮な動物たちが、食料(蜂の巣)を襲撃したり、牧草地を跳ねたり、食料(法螺貝)を鳴らしたりしている。

thence the wild animals on the bush raid the food (beehive), leap the grass and roar the food (conch).


et rapidos tranant amneis:

etは接続詞。rapidosは形容詞rapidus「急な」は複数男性対格。tranantは動詞trano「泳いで渡る」の三人称複数現在。amneisは男性名詞amnis「川」の複数対格。

形容詞のrapidosは複数男性対格の名詞amnisを修飾しています。意味は「急流を」です。動詞はtranantで主語は、前述の野生の動物たちです。まとめると本来の意味は、「そして彼らは急流を泳いで渡る。」となります。

ではこの絵ではどうでしょう。この絵には川は描かれているようには見えません。しかし真ん中のサテュロスの足下を見てみると、ここに複数の流れがあるようにも見えます。下の流れは、小さな弧がたくさん並んでいます。これは風になびいて同じ方向に草が倒れているせいかもしれません。または草原に水があふれて、これが横方向に流れて、草が同じ方向に倒れているのかもしれません。真ん中のサテュロスの前の方にでている足をよく見てみると、水がしたたった表現にも見えます。これは透明な水が流れている表現と考えることができるでしょう。

そしてその緑の流れの上に黄色がかった草地が描かれています。ここには小さな弧は描かれていませんが、横方向に筋が描かれていて、やはりこれにも流れの表現がされています。槍のつばの部分がそれに触れて流れを乱しているように描かれています。その上の草地には流れは見られないので、流れと呼べるのはこの二種類の草地の表現となります。

amneis

問題はrapidosです。この流れはそれほど速くは見えません。代わりにこの流れの特徴は、できたばかりの川だということです。以前からある川ならば川底の土が見えているはずです。「急にできた」という意味で「急な」と解釈します。ラテン語や当時のイタリア語の単語の意味の範囲でこの変更ができるか、厳密に分かりませんが、そう解釈します。

動詞tranoの一般的な意味は「泳いで渡る」ですが、他に比喩表現で、attraversare「横切る、横断する、貫通する」、penetrare「入り込む、貫く、洞察する」があります。槍も描かれているので、この「貫く」という意味を使えたら面白いでしょうが、それだとamneisの処理に困ります。結局、tranoの意味を泳がずに単に「横切る」とします。まとめると次のようになります。

そして彼らは複数の急にできた流れを横切る。

and they walk across the streams appeared suddenly.


ita capta lepore

itaは副詞「このように、それゆえ」、もしくは動詞eo「行く」の完了分詞女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格/呼格/対格。captaは動詞capio「つかむ、捕まえる」の完了分詞女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格/呼格/対格、もしくは中性名詞captum「獲得」の複数主格/呼格/対格、形容詞captus「捕まえた」の女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格/呼格/対格。leporeは男性名詞lepor「魅力」の単数奪格、もしくは中性名詞lepus「ウサギ」の中性奪格。

captaは中性複数主格で「捕まえられている」という主語の状態を表しています。leporeは単数奪格で原因もしくは行為者を表しています。この魅力とはもちろんウェヌスの魅力です。したがって、本来の意味は、「このように、魅力にとらえられている。」となります。野生の動物たちが騒いでいる原因を説明しています。

次に絵に合わせた解釈をします。captaは女性単数主格/呼格/奪格とします。そしてそれが名詞化しているとします。つまり「捕まえられた者」を表しています。この絵では右下のハルモニアです。leposの意味にはイタリア語でarguzia「鋭敏」があります。さらにarguziaには「機知に富んだ言葉、言葉遊び」があります。この言葉遊びはアナクレオンテアの解釈に由来します。蜂とクピドの詩を言葉遊びで意味を変えてしまったために、その別の意味の中ではハルモニアが犯人になっています。

capta

まとめると、次のようになります。

このように言葉遊びのせいで捉えられた者(ハルモニア)がいる。

thus the person (Harmonia) was captured for the word play.


te sequitur cupide:

teは代名詞tu「あなた」の単数対格/奪格。sequiturはsequor「ついて行く、追いかける」の三人称単数現在。cupideは形容詞cupidus「熱望している」の男性単数呼格、もしくは副詞cupide「熱心に、不公平に」。

動詞はsequiturで主語は三人称単数になります。主語はおそらく野生の動物のことでしょうが、今までは複数でしたが、ここでは単数になっています。これは後続の文と関係があるためでしょう。目的語はteで、ここではVenusを表しています。そして全体で、「彼はあなたを熱心に追いかける。」となります。

では、絵での意味です。折角、cupideという単語があるので、これを左端のサテュロスであるクピドを示せないか考えてみます。cupideを形容詞と考えてそれを名詞化すれば、ちょっと強引ですがCupidoを表せるでしょう。ただし呼格なので、前の二つの単語と区切る必要があります。tuは今までウェヌスかマルスだったので、今回もそのどちらかとします。そしてsequiturの三人称単数の主語を省略したあとで、その後に呼格で強調していると考えます。最後はsequorの意味です。いろいろある中にイタリア語だとtendere「目指す、ねらう」、mirare a「見つめる、狙いを定める」があります。これはクピドの槍の向かう先がマルスの頭であるように見えることを指していると解釈します。単にそう見えるように描いただけなのかもしれませんが、この描写は何か新しい物語上で意味のある行動なのかもしれません。

sequitur

この文は次のように解釈できます。

彼(クピド)はあなた(マルス)を狙っている。クピド!

He (Cupid) aims at you (Mars). Cupid!


quo quamque inducere pergis.

quoは、代名詞qui/quisの男性/中性単数奪格、もしくは副詞quo「どこへ、何のために」、接続詞quo「その結果、〜のところで」。quamは代名詞quiの女性単数対格、quamqueは代名詞quisque「誰でも、何でも」の女性単数対格。inducereは動詞induco「導く、紹介する」の不定法現在、命令法二人称単数完了、もしくは直説法二人称単数未来。pergisは動詞pergo「進む、続ける」の二人称単数現在。

quoの解釈は後回しにします。動詞は二人称単数pergisです。主語はあなた、つまりここではウェヌスです。inducereは不定法。したがって、quamque inducere pregis のところは「あなたは誰でも導き続ける。」となります。今までずっと野生の生物のことを言ってきたので、このquaamqueもそれを指していると考えます。そして、quoは前の文とつなげている関係詞と考えた方が良さそうですが、前の文の内容から場所を表す関係副詞になるでしょう。合わせて解釈すると、「どんな生き物もあなたが導き続けるところで、あなたを追いかける。」と訳せます。

今度は絵に合わせた解釈です。不定詞inducereのイタリア語でのindrodurre「入れる、案内する」という意味がマルスが両手でそれぞれ指し示す仕草として使えそうです。そうすると、quo quamqueが、単数奪格quoと女性単数対格quamになり、「何によって」と「何を」を表します。つまり、以前指摘した傷害事件の凶器と傷跡を、マルスが案内していることになります。

inducere

最後に、pergisの二人称の主語はマルスで、意識を失いながらも指さし続けている様子を表してい婁と考えます。まとめると次のようになります。

あなた(マルス)は「何によって」(突き棒)と「何を」(足の指の傷)を案内し続けている。

you (Mars) go on to indicate “by what “(the goad) and “what”(the wound of toe).


最後の解釈の見つけたときはゾクゾクしました。マルスの指の配置はこの解釈以外に説明不可能だと思います。一連の解釈はどれもそうなんですが、これは特に凄い表現です。奪格を使って凶器を、そして対格を使って傷付いた箇所を示しているのが見えてきたときは感激しました。しかし、これは『アナクレオンテア』にあるクピドと蜂の詩を使った解釈を先に成功していたから分かったことです。

今から考えても、アナクレオンテアが典拠の一つになっていることに気づくことは限りなく奇跡に近かったと思います。こちらの『物の本質について』が典拠であることが発見されるのは時間の問題だったでしょう。それが50年後か100年後になったかは分かりませんが、マルスの首の表現との類似は大きなヒントになっています。しかし、アナクレオンテアの詩にはマルスもサテュロスも出てこないし、この絵にはクピドそのものの姿が描かれていないので、絵と詩の関係を思いつくことは、関係が分かった今であってもなおさら、不可能に近いと思ってしまいます。それにしても、何度も書きますが、この言葉遊びを考え作品を作り上げた知性はやはり素晴らしい!



posted by takayan at 02:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月18日

『物の本質について』と《ヴィーナスとマルス》(5)

今回は第17行から第20行までです。

Denique per maria: ac monteis: fluviosque rapaces:
Frondiferasque domos avium: camposque virenteis
Omnibus incutiens blandum per pectora amorem
Efficis: ut cupide generatim secla propagent.


denique per maria: ac monteis: fluviosque rapaces:
frondiferasque domos avium: camposque virenteis

ここは2行まとめて解釈します。まず各単語について。deniqueは副詞「ついに、その後は、結局、さらに」。perは対格支配の前置詞「を通って、を越えて、を横切って」。mariaは中性名詞mare「海」の複数主格/呼格/対格、もしくは形容詞marius「男性の」の女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格/呼格/対格。acは接続詞atque「そして」。monteisは男性名詞mons「山」の複数主格/呼格/対格。rapacesは形容詞rapax「略奪的な、貪欲な、抗しがたい、狂暴な」の男性/女性複数主格/呼格/対格。frondiferasは形容詞frondifer「葉の茂った」の女性複数対格。domosは女性名詞domus「家」の複数対格。aviumは中性名詞avium「鳥」の単数主格/呼格/対格か複数属格。camposは男性名詞campus「平原、地面」の複数対格。virenteisは動詞vireo「緑色をしている、青々としている」の現在分詞単数属格。

ここは前の文を受けてウェヌスが導く場所を一つ一つあげています。deniqueは「さらに」と訳します。per mariaは海を越えて現れることを示しています。acは同様にの意味の接続詞で、そのあとにperの対象となるものを並べています。つまりperが省略されているとして、「山々を越えて」とあります。次は-queで併記されているfluvios rapacesです。意味は「略奪していく川」となります。次の行も同様に、frondiferas domos aviがperの対象になります。中心にあるのは名詞のdomosで、それに形容詞のfrondiderと名詞の属格aviusがて修飾しています。この意味は「葉の茂った鳥の家を越えて」となり、森のことを言っているとされています。次はcampos virenteisで、分詞virenteisがcamposを修飾しています。意味は「緑色をした草原を越えて」となります。全部をまとめると、「さらに、いくつもの海を越え、山を越え、略奪していく川を越え、葉のしげった鳥の住処を越え、緑なす草原を越えて」となります。

permaria

では次は絵に合わせます。perは英語のthroughの意味で「〜を貫いて」とします。この絵に描かれている山や川や草原は槍を抱えているサテュロスたちの向こう側に描かれています。それらが槍のようにサテュロスたちの体を貫いて描かれていると表現できるからです。さらにマルスの右膝もちゃんと山と川と草原の手前に描かれています。そこでmariaを形容詞marius「男性の」の変化形だと考えて、それを名詞化して「男性たち(の体)」とすると、denique per mariaは、「さらに男たちを貫いて」となります。その後に男たちの後ろに描かれているものの羅列になります。解釈の方針をこのようにします。

文法的につじつまが合うように考えて、denique per maria ac monteisを一つの句と考えます。そしてacを、少し後ろ過ぎますが、前の行との接続詞とします。monteis を感嘆の対格とし、monteis per mariaを一つの意味のまとまりとします。そうすると、この部分の意味は「男たちを貫く山々よ!」となります。

同様に考えて、次のfluvios rapaces per mariaを解釈します。先日解釈して分かったことですが、草原として描かれている下半分は川です。しかしこの川を形容する言葉としてrapaxは合っていません。他の意味を辞書で調べてもどうも合いません。そこでfluviosが他の意味に解釈できないかを考えます。するとイタリア語でcorrenteという訳が気に掛かります。通常は「流れ」という意味がありますが、これには別に「水平梁」という意味もあります。rapaxの意味をtravolgente「抗しがたい」とすると、これは「抗しがたい梁」となります。この言葉ですぐに思いつくのが、サテュロスたちの持っている槍です。サテュロスたちに水平に持たれている様子が梁のようであり、クピドの武器である点で抗しがたい存在でもあります。この槍はそれぞれのサテュロスたちの体の一部分の下を通っています。マルスの膝は残念ながら槍には届いていません。かわりに槍の先端がマルスの頭の後ろに届いている可能性があります。したがって、「男たちを貫く抗しがたい梁よ!」となります。

次は、frondiferas domos aviumです。frondiferas domosはそのまま「葉の茂った住処」という意味で使えます。この絵には二組の家族が描かれています。マルスたちがくつろいでいるこの茂みに囲まれたこの場所と、木の中に作られている蜂の巣が、この言葉で表現されている住処と考えます。残るaviumですが、この絵には鳥が描かれていないので、ちょっとひねる必要があります。aviumは形容詞avius「辺鄙な」の男性/中性複数属格か男性単数対格、中性単数主格/呼格/対格とも解釈できます。ただし属格として使わないと、他の単語とは組み合わせられないので、複数になります。まず一つ目は形容詞aviusを名詞化した「辺鄙な土地」でいいでしょう。遠景の山の麓に町並みらしいものが描かれているので、ここは辺鄙な場所だと言えます。次に名詞avisの意味はイタリア語でuccello「鳥」ですが、この絵には鳥はいません。イタリア語かラテン語で蜂を鳥と呼ぶ用法があれば、いいのですが手元の辞書にはありませんでした。代わりにuccelloには「陰茎」という意味があります。陰茎の描写は先ほど左側の茂みの中で見つけたので、これが使えます。茂みの枝は、それぞれの男の体を貫くような描写になっているので、これもper mariaになっています。したがって「男たちの体を貫く辺鄙で陰茎のある葉の茂った複数の住処よ!」となります。

そしてcampos virenteisです。これは全部そのまま使って良さそうです。緑色は層状に描かれているので、それは先日川の描写と解釈したところですが、それを複数と見なすことができます。これも四人の男たちそれぞれの後ろに描かれています。意味は「男たちを貫く緑色の草原よ!」です。全部まとめると次のようになります。

そしてさらに男たちを貫く山々よ!抗しがたい梁よ!辺鄙で陰茎のある葉の茂った複数の住処よ!緑色の草原よ!

and finally mountains through the men! and irresistible beams! and leafy houses of penis and of remote!  and green plains!


omnibus incutiens blandum per pectora amorem efficis: ut cupide generatim secla propagent.

これは複文なので二行まとめて解釈します。omnibusは男性/女性名詞omnes「すべての人々」の複数与格/奪格。incutiensは動詞incutio「打つ、吹き込む」の現在分詞単数主格/呼格か中性対格。blandumの形容詞blandus「こびへつらう、魅力的な」の中性単数主格/呼格/対格か男性単数対格もしくは副詞「魅力的に」。前置詞perは英語through、during、byなどに相当。pectoraは中性名詞pectus「胸、心臓、心」の複数主格/呼格/対格。amoremは男性名詞amor「愛」の単数対格。efficisは動詞efficio「生み出す、引き起こす」の二人称単数現在。utは接続詞、ここでは接続法propagentを伴い目的を表す副詞節を導いています。cupideは形容詞cupidus「望んでいる」の男性/中性単数呼格、もしくは副詞cupide「熱心に、不公平に」。generatimは副詞「種類によって、一般に」。seclaは中性名詞seculum「世代、種族」の複数主格/呼格/対格。propagentは動詞propago「増殖する、成長させる、延長する」の接続法三人称複数現在。

まず主文の方から。omnibusは与格で間接目的語とします。意味は「すべてのものに」となります。形容詞blandumは男性単数対格で、名詞amoremを修飾しています。合わせた意味は「魅力的な愛を」です。per pectoraは現在分詞incutiensを修飾する語句で、合わせると「心を通して吹き込んでいる」となります。ここまでで、「すべてのものに魅力的な愛を心を通して吹き込んでいる」となります。これが動詞efficio「引き起こす」の目的語になります。utから後が目的を表す副詞節になっています。cupide、generatimは副詞、名詞seclaは中性複数対格となり、意味は「彼らが熱心に種族によって世代を増やすために」です。副詞節の主語はウェヌスによって愛を与えられているすべての者たちです。まとめると、「あなた(ウェヌス)はすべてのものたちに魅力的な愛を心を通して吹き込むことを引き起こす。彼らが熱心に種族毎に世代を増やすために。」になります。

今度は絵に合わせて考えます。まず、amor「愛」はクピドの別名でもあるので、その意味で解釈できないか、これをとっかかりに解釈を始めます。動詞efficisは二人称なので、主語は今まで通りマルスとします。動詞inctioのイタリア語の意味の中には槍lanceaに由来するlanciareがあります。これから現在分詞incutiensを「槍で攻撃する者」と解釈します。こうすると、incutiens amorem efficisは「あなた(マルス)はアモル(クピド)を槍で攻撃する者にしている。」とできます。以前から槍を持って兜を被っている子どもをクピドとしていましたが、ここに文章としてその事実が明らかにされました。残りの単語は次のようになります。omnibusはここでは奪格として、ここにいるすべての人物像を表し、「みんなのところで」という意味とします。形容詞blandum「魅力的な」はincutiensを修飾して、美しい装飾の兜を身につけている様子を表しているとします。per pectoraはincutiensを修飾していて、「胸を貫いて」とします。主文をまとめると、「あなた(マルス)はみんなのところでアモル(クピド)を複数の胸を貫いて槍で攻撃する魅力的な者としています。」となります。

incutiens

次は後半の副詞節の解釈です。seclaの意味には「種族、家族」があります。これは並んでいるサテュロスという種族のものたちのことを表しているとし、格は主格とします。そして動詞propagoの意味は「延長する」とします。そうすると、secla propagentは「同族の者たちが延長している」と解釈できます。そうするとこれは右端のサテュロスが槍の先端付近に法螺貝をくっつけているようにみえる描写を表していると解釈できます。右側のサテュロスだけだと主語は複数になりませんが、左側のサテュロスがまず槍を持たなくては始まりませんし、中央のサテュロスが前の見えない左端のサテュロスの補佐をして、両手で右端の口元の方向に向けていなくては成り立ちません。さらにマルスも自分の頭を使って、槍を延長していると見ることもできます。seclaを同族ではなく、家族と考えればこの解釈も成り立ちます。副詞cupideの意味にはcon parzialita「不公平に、不完全に」があります。これが法螺貝、マルスの頭による奇妙な延長を表しているとします。また蜂の巣に届いていない点でも不完全な描写です。次に副詞generatimの意味です。これをper specie「複数の種類によって」と解釈すると、槍と法螺貝と頭という違う種類を組み合わせていることを表せます。副詞節をまとめると、「家族の者たちが不完全に複数の種類によって延長するために」となります。

propagent

最後にマルスがクピドを槍で攻撃する者とした根拠を考えてみます。そういう命令をマルスが意識が朦朧とする前にクピドに行った可能性もありますが、それよりもはっきりしているのはクピドがマルスの武具である兜と槍をを身につけていることです。つまり武具を使うことを許しているマルスのせいで、クピドは槍を持ち攻撃する者になったわけで、その意味でマルスがクピドを槍で攻撃するものにしていると言うことができるでしょう。まとめると次のようになります。

家族のものたちが不完全に複数の種類によって延長するために、あなた(マルス)はみんなのところでアモル(クピド)を複数の胸を貫いて槍で攻撃する魅力的な者にしています。

you (Mars) make Amor (Cupid) the charming spearman through the hearts at the everybody so that the family men extend it partially by kinds.


マルスが何故膝を立てているのかの理由も見つかりました。これはマルスの体の後ろに山と草原を描き、彼の体を貫かせ、他の男性の描写と合わせて、per mariaという語句の表現をこの絵の中に描き込むためです。また槍の先端に重ねるように法螺貝を配置していることにも意味がありました。これは動詞propagentの表現となります。しかし、今回解釈した部分で一番大きいのは、槍で攻撃している者がクピドだと解釈できる語句incutiens amorem efficisが見つかったことです。



posted by takayan at 01:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月29日

『物の本質について』と《ヴィーナスとマルス》(6)

今回は第21行目から第27行目までです。これで以前(2012年2月)解釈した部分の直前まで進みます。

Quae quoniam rerum naturam sola gubernas:
Nec sine te quicquam dias in luminis oras
Exoritur: neque fit laetum: neque amabile quicquam:
Te sociam studeo scribendis versibus esse:
Quos ego de rerum natura pangere conor
Memmiadae nostro: quem tu dea tempore in omni
Omnibus ornatum voluisti excellere rebus.

以前の解釈で何故この部分を含めなかったのかというと、固有名詞が使われていたりと、絵の描写に変換することがとても難しくてできなかったからです。本来の訳すら構文が難しくて以前はできませんでした。今回もそうとう手こずりましたが、なんとか、この絵らしい解釈ができたと思います。


quae quoniam rerum naturam sola gubernas

quaeは疑問代名詞quisの女性複数主格か中性複数主格/対格、疑問形容詞quiの女性単数主格か女性複数主格か中性複数主格/対格、関係代名詞quiの女性単数主格か女性複数主格か中性複数主格/対格。quoniamは接続詞「するやいなや、だから」。renumは女性名詞res「物、事象」の複数属格。naturamは女性名詞natura「出生、自然、本質」の単数対格。solaは中性名詞solum「底、地面、床」の複数主格/呼格/対格、もしくは形容詞solus「ひとりの、仲間のいない」の女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格呼格対格。gubernasは動詞guberno「導く、支える、支配する、水先案内する」の二人称単数現在。

冒頭の関係代名詞quaeは、接続詞と代名詞として解釈します。女性単数主格なので、「そして彼女が」となります。もちろん彼女とはウェヌスのことです。動詞が二人称単数なので、ここで三人称の代名詞を使うのはちょっと奇妙ですが、そのウェヌスに二人称で呼びかけているので、これでいいでしょう。quoniamは接続詞で、この節が理由を表していることを示しています。rerumは次のnaturamを修飾する名詞属格と考えて、合わせて「物の本質」とします。もちろんこのrerum naturamこそが、この文書のタイトルである『DE RERUM NATURA』に使われています。この節の動詞はgubernasです。これは二人称単数現在で、主語は前の行までの内容からウェヌスを指す省略された二人称tuとなります。そしてそのまえのsolaはその主語を修飾する形容詞となり、「たったひとりのあなたが」となります。まとめると「そしてウェヌスよ、あなたおひとりが物の本質を支配しているのだから、」となります。

それでは絵に合わせた解釈を考えます。本来の解釈と同じ構文になっているとします。そうすると、女性形のsolaのために、主語は女性である必要があります。この絵で女性となると、ウェヌスか右下にいるハルモニアのどちらかにです。solaの意味からすると、ウェヌスよりもハルモニアの方が合っていそうです。ウェヌスのそばには寄り添うようにクピドがいます。しかしハルモニアは画面の右下の角とマルスの左腕と突き棒でできた矩形の中に閉じ込められて描かれています。ハルモニアのこの様子がsolaと言えるでしょう。

sola

次は動詞の意味を考えます。gobernoのイタリア語の意味はgobernare「治める、統治する」です。さらにこの単語には「世話をする、飼育する、耕作する」という意味もあります。この意味で思い出すことがあります。以前アナクレオンの詩の解釈を行ったとき、ハルモニアが農業をやっていることが分かりました。動詞gubernasの意味はこの解釈に合致します。ここまでで「あなたはひとりで世話をしています。」となります。

あとは残ったrerum naturamで植物を表せればいいわけです。naturaの意味はイタリア語でもnatura、このnaturaには天然物という意味があります。resの意味にaveri「財産」(名詞avereの複数形)があります。これを使うとrerum naturamは「naturare averi(財産の天然物)」となります。これがハルモニアが左手で抱え込み所有権を主張しているかのようにみえる緑色の植物の実を表せます。

問題はquaeです。これは今まで解釈した部分でどこかハルモニアを解釈した部分もしくは解釈しなければならなかった部分が必要でしょうが、とりあえずは単に「そしてそのあなたが」と訳しておきます。まとめると次のようになります。

そしてその隔離されたあなた(ハルモニア)が財産の天然物を管理しているのだから、

and therefore you (Harmonia) isolated govern the natural object of the property,


nec sine te quicquam dias in luminis oras exoritur: neque fit laetum: neque amabile quicquam:

necは副詞/接続詞neque「ではない」。sineは奪格支配の前置詞「〜なしに」。teは代名詞tu「あなた」の単数対格/奪格。quicquamは代名詞quisquam「any、anuone」の単数主格/対格、これは冒頭の否定詞necと一緒になって「誰も/何も〜ない」となります。diasは女性名詞dia「女神」の複数対格、もしくは形容詞dius「神々の、神聖な」の女性複数対格。inは奪格/対格支配の前置詞。luminisiは中性名詞lumen「光」の単数属格。orasは女性名詞ora「縁、海岸、領域」の複数対格、もしくは女性名詞ora「大綱」の複数対格、もしくは動詞oro「懇願する」の二人称単数現在。exoriturは動詞exorior「出現する」の三人称単数現在。nequeは副詞「ではない」。fitは動詞fio「なる、生じる」の三人称単数現在。laetumは形容詞laetus「太った、繁茂した、愉快な」、もしくは男性名詞laetum「喜び」の単数対格。amabileは形容詞amabilis「愛す価値のある、可愛らしい、甘い」。quicquamは代名詞quicquam「何か」の中性単数主格/対格。

この文の動詞はexoriturで、主語は否定詞necを伴ったquicquamです。これだけで「何者も現れない。」という意味になります。sine teで「あなた(ウェヌス)無しに」です。名詞の属格luminisもorasを修飾していて、対格支配の前置詞inの目的語になっています。このluminis orasは意味が分かりにくいですが、orae luminis「光明の世界、生あるものの世界」として辞書に載っていて、私たちのいるこの世界を意味しています。形容詞diasは前置詞よりも前にありますがoraを修飾しています。まとめると、「何ものもあなた無しには神々しい光の領域に現れることはない。」となります。たったひとりで世界を支配しているので、ウェヌスがいなくなれば、すべてが存在しないというわけです。次の語句は、neque fit laetum quicquamとneque fit amabile quicquamという二つの文を省略したものだと考えます。主語はそれぞれlaetum quicquamとamabile quicquamで、動詞fitは受動態で「作られる。生じる。」になり、それがnequeで否定されています。まとめると、「喜びも一切無いし、愛すべきものも一切無い。」です。

これも絵に合わせた解釈をします。ここでもteはウェヌスではなく前の行と同じで右下のハルモニアを表すとします。sine teは「あなた(ハルモニア)無しでは」となります。次に、in luminis dias orasの意味ですが、これは以前やったようにlumenの意味に「目」があることを利用します。すると、「目の神々しい縁に」となります。彼女は神同士の子なので、神です。したがって目の縁も、自動的に神々しいものになります。この句の残りは本来の解釈のままにします。これは否定の文ですが、非現実な否定なので、結局現実に存在していることを表しています。つまりハルモニアの目の縁には何かがあるわけです。実際ハルモニアの目には確かに何かがあります。金色の目やにのようなものです。他の人物の目の周りを見てもこんなものは描かれていません。

luminisdiasoras

あとはlaetumとamabileの意味を少し変えるだけで済みます。laetumのイタリア語の意味にはrigoglioso「繁茂した、生い茂った」があります。そしてamabilisはイタリア語でamabileですが、これにはワインの味などで使う「甘い」という意味があります。laetum quicquamは葉の茂ったものとなり、ハルモニアの左肘にかかっている葉の茂った植物を表します。そしてamabile quicquamは先ほども出てきた左手で抱え込んでいる何かの果実です。これはメロンやスイカのような甘い実なのでしょう。

laetumamabile

まとめると次のようになります。

あなた(ハルモニア)がいなければ、目の神々しい縁に何も存在しない。葉の茂ったものも作られない。甘いものも作られない。

without you (harumonia) anything does not exist in divine edge of eye. anything leafy is not made. anything sweet is not made.


te sociam studeo scribendis versibus esse:

teは代名詞tu「あなた」の単数対格/奪格。sociamは女性名詞socia「仲間、妻」の単数対格か、形容詞socius「仲間の」の女性単数対格。studeoは動詞studeo「強く願う、専念する、支持する」の一人称単数現在。scribendisは動詞scribo「書く」の動形容詞複数与格/奪格。versibusは男性名詞versus「一行、詩、溝」の複数与格/奪格。esseは動詞sum「be、exist」の不定法現在、もしくは動詞edo「食べる」の不定法現在。

この文の動詞はstudeoなので、主語は一人称でルクレティウス自身になります。この動詞が不定詞句te sociam esseを目的語にとっています。この不定詞句の構造は、ウェヌスを表すteが不定詞の意味上の主語で、対格で表されていて、さらに補語のsociamが主語と同格になるため、これも対格になっています。この不定詞句の意味は「あなたが仲間であること」です。そして動形容詞scribendisで修飾された奪格名詞versibusが目的「書かれるべき詩のために」を表しています。まとめると、「書かれるべき詩のために、あなた(ウェヌス)が仲間であることを私は強く願う。」となります。

絵に合わせた解釈してみます。構文はとりあえず本来のものと同じに考えます。まずこの文は一人称で書かれています。ここでversibusという言葉を調べてみます。するとイタリア語訳にsolcoがあります。solcoの意味には「畝、額の皺、轍、溝、割れ目」があります。この絵の中でこの単語が描かれている場所を探すと、ウェヌスの服にあるたくさんの襞が目に付きます。teは今の解釈の流れではハルモニアとなるでしょう。scriboは今回のversusの意味から、「書く」ではなく「描く」と訳すことにします。

次にscribendis versibusが奪格なのか、与格なのか、奪格ならば文の中でどのような役割かを考えてみます。そこでじっくりウェヌスの服の襞の部分をよく見てみると面白い描写があることが分かります。ここには人の姿が描かれています。いくつかの場所に分かれて、それぞれ複数の人物が描かれているように見えます。人々が騒いでいるようにも見えますし、男女が戯れているようにも見えます。もっと高い解像度の画像が手に入ればはっきりするでしょう。そうすれば、他にも描写が見つかるでしょう。

まだはっきりはしませんが、この描写からscribendis versibusを二つに分けて考えるアイデアが浮かびます。つまり、versibusを場所を表す奪格とし、scribendisを手段を表す奪格と解釈します。つまり「襞のところに描かれるべきものよって」とします。そしてte sociam esseの解釈ですが、sociamは「女性の仲間」や「妻」と訳せますが、この描写から「妻」と訳し、「あなた(ハルモニア)が妻であること」とします。ところで、この動形容詞は未来のことを語っているわけで、そこに既に人影が描かれているというのはちょっとつじつまがあいません。これを解決するにはもう少し先に進まないといけないようです。

この文の解釈の問題は一人称の主語です。これはいったい誰でしょう。登場人物の中の誰かでしょうか。登場人物で一番の候補はウェヌスです。しかし登場人物以外にも可能性があります。絵を描いているボッティチェリや、詞の内容を考えている人物です。もっと他の人物の可能性もあります。ここまでの情報では判断が付かないので、それが分かるまでは「私は」とします。

versibus

わかりにくいので、さらに拡大してみます。

versibus2

じっくり見ていくと、襞の間にいくつも人の姿に見えるものが見つかります。マルスの指が大切なものを指さしていたように、ウェヌスの指先を注意深く見ると、何かが見えてきます。左手の指先にも奇妙な描写があります。人差し指と中指の間に人影のようなものが見えます。

versibus4

右手の指先には、顔らしきものがいくつかかたまって見えます。その右には口を開けた二匹の蛇が向き合っている模様に見えます。ハルモニアとその夫カドモス王は晩年蛇に変身してしまうことを暗示する描写なのかもしれません。ということはここに描かれている描写は、ハルモニアのカドモス王との結婚の物語がその場面場面で描かれているのかもしれません。さらに右の方には二つの顔が寄り添うような人影もあります。

versibus3

さらに右の方を探してみると、人のように見える模様が見つかります。母子像のようにも見えますが、男女を描いたものにも見えます。どちらにしてもこれはとても意図的な模様でしょう。偶然の色の濃淡が人の顔に見えているだけには思えません。もっと解像度の高い画像が必要です。

versibus6

他にも、ウェヌスの内ももには次のような模様があります。

versibus5

scribendis versibusというラテン語がなければ、こんなにウェヌスの服の襞の中をじっくり見ようなんて思ってもみませんでしたが、この言葉が示すとおりに、この襞にはいくつもの何かが確かに描かれています。もっと細かく見られれば、その内容ももっと詳しく分かるでしょう。

解釈をまとめると、こうなります。

私は襞のところに描かれるべきものによってあなた(ハルモニア)が妻となることに専念します。

I desire you (Harmonia) to be a wife by what should be expressed on the folds.


quos ego de rerum natura pangere conor memmiadae nostro

quosは疑問代名詞quis/関係代名詞qui/疑問形容詞quiの男性複数対格。egoは人称代名詞の一人称単数。deは奪格支配の前置詞「from、about」。rerumは女性名詞res「物、事象」の複数属格。naturaは女性名詞natura「出生、自然、本質」の単数主格/呼格/奪格。pangereは動詞pango「打ち込む、(詩を)作る、表現する」の不定法現在、命令法受動態二人称単数、受動態未来二人称単数。conorは動詞conor「試みる」の一人称単数。memmiadaeは男性名詞memmiadae「メンミウス家の者、メンミウスの子孫」の単数属格/与格か複数主格/呼格。nostroは男性名詞noster「私たちの人々」の単数与格/奪格か形容詞noster「私たちの」の男性/中性単数与格/奪格。

この文の動詞はconorで主語は一人称単数のegoです。動詞の目的語は不定詞のpangereです。de rerum naturaは先ほども出てきましたが、今回は前置詞deもあって、タイトルそのものの形をしています。memmiadaeは「メンミウス家の者」の意味です。ここで表されているメンミウス家の者というのはルクレティウスと同時代の詩人で彼の支援者のことです。オウィディウスの『悲しみの歌』によると恥ずべき、つまり官能的な内容の詩を書いたとされています。この単語は与格単数と解釈しこの詩を捧げる対象を表しているとします。最後に、対格のquosは動詞pangereの目的語を表す関係代名詞で、その先行詞は前の行のversibusと考えられます。まとめると、「そしてその詩を、私たちのメンミウス家の者に捧げて、私は物の本質について書こうと試みる。」となります。

絵の解釈です。de rerum naturaの意味を考えます。ウェヌスの服の上でハルモニアの物語が描かれているとするならば、この言葉がそれを表していることになります。resのイタリア語の意味の中にatto「行い」があります。naturaの意味にはaspetto「様子」があります。つまり、「行いの様子について」と解釈すれば、ハルモニアの身の上に起こった出来事を表せます。関係代名詞quosの先行詞は、この解釈では名詞化されたscribendisとすると、pangere「表現する」の目的語としてちょうどよいものになります。残るmemmiadae nostroは本来の解釈とほとんど同じでいいでしょう。官能的な詩を書いていた彼の信奉者として、この一人称の人物は、ウェヌスの服に書き込むものをメンミウスに捧げているわけです。そう考えるとこの言葉はそのまま使えます。

しかしここでおかしな事に気付きます。この襞に書き込もうとしている人物は、既にあるこの絵を見ながら、正確に言うと襞に何も書き込まれていない段階のこの絵を見ながら、この決意を表明していなくてはならなくなります。この一人称の決意の文章は現在形で書かれていて、そしてこれまでの絵の描写の文章も現在形で書かれていることから、この記述は絵の物語を語っているのではなく、絵を見て、そこから見て取れる様子を語っていることが分かります。この人物は絵を見ながら、絵の中のウェヌスやマルス、ハルモニアに対し、それぞれあなたと語りかけながら、この絵の描写を言葉にしています。その解釈自体は、この絵の本来の解釈とは違っているのかもしれませんが、この絵はそう見て取れるような形でこの一人称の人物の眼前にあります。そして彼はウェヌスの服の襞に、ハルモニアの物語を描き込もうとしているのです。その結果としてできあがった絵が、今私たちが見ているこの絵だという設定になります。

襞の上に何も描かれていないこの絵を描いた人物と、後から襞の上に描き込もうとしている人物が同一人物かどうかは分かりません。おそらく違うでしょう。分かっているのは、ただそのような経緯全体をこの一枚の絵にしたのはBotticelli(ボッティチェリ)だということです。襞に何も書き込まれていない元々の絵はAnacreontea(アナクレオンテア)のクピドと蜂の物語を題材に、言葉遊びで描いた壁画という設定でしょう。この絵の所々に見られる塗料の剥げたような描写はこれが壁画であることを示しているように思えます。この架空の作品を見にきたメンミウスの信奉者が、その壁画に描かれた神々に語りかけながら、メンミウスに捧げるために落書きをすることを決意します。メンミウスに捧げるのですから、多少官能的な描写も含まれるのだと思います。この架空の出来事を、その落書きされた結果の絵そのものだけで描ききったのがこの作品だと解釈できます。予想だにしなかった多重構造がこの絵の中に描かれています。

この行の解釈をまとめると次のようになります。

行いの様子についてその描かれるべきものを、私たちのメンミウス家の者に捧げて、私は表現しようと試みる。

(things should be expressed) which I try to compose about the aspect of the actions, dedicated to our Memmius.


quem tu dea tempore in omni omnibus ornatum voluisti excellere rebus.

quemは疑問形容詞quiの男性単数対格、関係代名詞quiの男性単数対格、疑問形容詞quisの男性/女性単数対格のどれか。tuは人称代名詞tu「あなた」の単数主格/呼格。deaは女性名詞dea「女神」の主格/呼格/奪格。temporeはtempus「時、季節」の中性単数奪格。inは対格/奪格支配の前置詞。omniはominisの単数奪格。omnibusは形容詞omnis「すべての」の複数与格/奪格。ornatumは動詞orno「装備する」の完了分詞中性主格/呼格/対格単数か男性対格単数かスピーヌム(目的分詞)の中性対格単数、もしくは形容詞ornatus「よく装備された、見事に飾られた、華麗な」の中性単数主格/呼格/対格、男性単数対格。voluistiは動詞volo「望む」の二人称単数完了、もしくは動詞volvo「転がす、這いつくばる」の二人称単数完了。excellereは動詞excello「突出する、卓越する」の不定法現在、もしくは受動態二人称単数、受動態二人称単数未来、命令法受動態二人称単数現在。rebusは女性名詞res「物、事象」の複数与格/奪格。

temporeは前置詞inの前にありますが、これはinの後ろの形容詞omniと一緒になって奪格支配の前置詞inに支配されます。この前置詞句の意味は「すべての時において」となります。この文の動詞はvoluistiで、主語は女神ウェヌスを指したtuです。そして離れていますがomnibusはrebusを修飾しています。これは動詞excellereを踏まえて比較対象を示す複数奪格と解釈し、意味は「すべての物よりも」となります。この不定法excellereの意味上の主語が男性単数対格の関係代名詞quemと考えられます。そしてそれを修飾するものとしてornatumがあるとします。つまりこれは動詞ornoの完了分詞男性単数対格か、形容詞ornatusの男性単数対格になるはずです。ここでは形容詞として「華麗な」とします。最後に、文の内容から考えると男性単数対格のquaeの先行詞は男性単数与格のmemmiadae、つまりメンミウスということになります。まとめると、「そしてその華麗なメンミウスが、あなたは、女神よ!いつ如何なるときも他の何よりも卓越することを望んでいた。」となります。

絵の解釈です。今回やっている部分はハルモニアに関する描写になっているのですが、ハルモニアの姿を見ていて、以前から気になる描写があります。それは彼女の左の角を消そうとしている線の存在です。

ornatum

これは後世の人が誤って付けてしまった傷ではないかと考えましたが、《パラスとケンタウロス》の表面の汚しなど技巧的な加工を思い出すと、これも意図的なものだと思われます。角というのはそそり立つものです。つまり、動詞excelloで表現可能な描写です。この角を使ってこの文を解釈できないか考えてみました。

この文は比較を使って一番の何かを表しています。左側が否定されているわけですから、その一番とはハルモニアの右側の角ではないかと考えられます。実際、この角はとても立派な角です。槍の所にいる二人のサテュロスたちの角と比べてもこの角は一番の角と言えそうです。

satyuri_versi

この文が角の話だということなると、tempore in omni という語句の意味もちょっと違ってきます。tempus「時」には同綴異義語tempus「こめかみ、顔、頭」があります。角の生えている場所はこめかみではないので、「頭」という意味で使っていることになります。つまり、この部分の意味は「すべての頭の」となるでしょう。ここにいる登場人物すべての頭でというわけです。奪格のomnibus rebusは本来の意味と同じで、比較の奪格で「すべてのものよりも」とします。ここまででomnibus rebus in omni temporeは「すべての頭にあるすべてのものよりも」となります。

ここまではとても順調でした。しかし関係代名詞quemの解釈が難解です。これが「角」を表せなくては、どうしようもありません。そこで次のように考えました。まずこの関係代名詞の先行詞を探しました。先行詞がはっきりとあるならばそれは男性単数でなくてはなりません。残念ながら都合のいい単語は見つかりませんでした。そこで次は先行詞は省略されていると考えました。しかし何か関係代名詞が表す意味が無くてはなりません。そこで条件を緩くし、男性名詞を探してみました。そこで見つけたのが男性複数奪格のversibusです。本来の意味は「詞」で言葉遊びでは「襞」と訳したものです。quamは男性単数対格なので、これに置き換えるとすると、versumという語形になります。今度はこの形になる他の単語がないか調べてみました。すると動詞verto「回す、向きを変える」の完了分詞男性単数対格と解釈できます。完了分詞なので、「向きを変えられている」という意味になります。さらに名詞化すると、「向きを変えられているもの」、つまり「巻いているもの」となります。このようにすれば、quemでハルモニアの右の角を表せます。

versumが「巻いているもの」を表せるとなると、比較の対象は「すべての頭にあるすべての巻いてあるもの」と解釈できます。つまり、角だけでなく、髪の毛も含まれています。マルスの髪の毛が見事に渦を巻いている描写も、このことを踏まえているわけです。ウェヌスの額の左右に巻き毛が触れているのも同様です。髪の毛も角も描かれていないクピドに対しても、この言葉は影響を及ぼしています。彼のヘルメットにサテュロスの巻き上がったしっぽが触れている描写も、このversumの意味が関係していると考えられます。

mars_versum

venus_versa

cupido_versum

versum ornatum は不定法excellereの意味上の主語になります。つまり「華麗な巻いたものが秀でている」となります。そうなると、ハルモニアの視線にも意味があることに気付きます。彼女は自慢の右の角を見ていたのです。

versum

左の角に打ち消し線を描き込んだのは落書きをした人だということも分かります。それはこの文が過去形で書かれているからです。彼女の目が右の角への望み表しているとこの人物は思ったのでしょう。しかし絵である彼女は自分の意思でその望みを実現することはできません。神の身であるのだから自らの角の長さも自在に変えられるでしょうに、絵の中で固定された彼女は、ただ右の角を見つめるだけです。そこで、この人物は左目の上にある角を打ち消すことで、右目の上の角を唯一のものとし、彼女の望みを実現したわけです。線を引いた人物は、線が引かれる前に彼女の望みを受け取ったのですから、この文は過去形となります。

残りの単語は本来の意味で解釈します。全体をまとめると、こうなります。

そして女神!あなたは、すべての頭にあるすべてのものよりも一つの華麗な巻いたものが秀でることを望んでいた。

and you, goddess! wanted the ornate curling to eminent than everything in all heads.


なんとか解釈できました。以前できなくて当然です。《アペレスの誹謗》の背景や《パラスとケンタウロス》の解釈を経なければ、この発想はできませんでした。これでやっと、以前解釈した部分につながります。合わせると37行になります。次回は二年前に解釈した部分を、今の書式でやり直してみます。



posted by takayan at 02:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする