今まで考えてきたボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》の解釈をまとめていこうとしているのですが、その前に。
ボッティチェリの神話を描いた絵画、《春》、《ヴィーナスの誕生》、《パラスとケンタウロス》、《ヴィーナスとマルス》は、何の物語を描いているのかがはっきりしません。一見、神話の一場面のように見えるものも、細かい部分では神話の記述とは明らかにずれています。また青いゼフィロスや、ツタの絡まった女神など奇妙な描写がよく見られます。問題のないような絵であっても細部には奇妙な描写が描かれています。そういった記述のずれや、奇妙な描写は古典語の言葉遊びのためではないかというのが、僕の主張の中心です。
繰り返しになりますが、ここでやっている言葉遊びについて改めて説明します。
ボッティチェリの神話がどの物語を描いているのか知りたくて、ラテン語や古典ギリシア語といった古典語の原典を引用しながら長い間調べていました。すると、あるとき三美神の描写とフィチーノの『愛について』というラテン語の文章との間の関係に気づきました。→ 《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について
Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.
Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo;
prout in mundum transiens ipsum rapit, amor;
prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas.
Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.
このラテン語の文章で言葉遊びをすると、彼女たちのダンスの様子を記述しているように解釈できました。例えばmudusという言葉に「世界」という意味と「装飾」という意味があるのですが、これを使うと三美神の左右の女神だけが宝石を付けていることを示していると解釈できます。今から見直すと不正確なところもありますが、この文章との出会いにより、言葉遊びがすべてを解く鍵かもしれないと気づきました。
もちろん、これだけではただの偶然かもしれません。単語にはいろんな意味があるのでかなりのこじつけが可能です。しかし、こじつけが可能だからこそ、抽象的な哲学の言葉を、こんなに美しい具象へと変えることができるとも言えます。これがきっかけになって、見えたままの描写が記述されている古典だけでなく、言葉遊びでこの絵の描写になる古典も探索の対象にすることにしました。大量に連続して古典の記述と絵の描写の対応が見つかれば、それは偶然ではなく、必然と言えるようになるでしょう。
そうやってボッティチェリの神話画について典拠をいろいろ探しながら、いろいろここで書いてきたわけです。この中で見つけた、言葉遊びが確かに描かれていると考えられる作品の例を挙げてみます。
まず、《アペレスの誹謗》です。この絵は神話ではなく、古代ギリシアの画家アペレスが自分の身に起こった出来事を元に表した絵を、ボッティチェリが再現したものです。アペレスの描いたとされる絵の内容は、やはり古代ギリシア時代の作家ルキアノスが文章として残しています。そしてさらにその内容をボッティチェリよりも半世紀ほど前に生まれたアルベルティが書いた『絵画論』の中で詳しく紹介しています。
アペレスが書いたとされる元の絵の描写はルキアノスの著作の中にしかありませんから、ボッティチェリの《アペレスの誹謗》はこの文章を元に描いたとしか考えられません。読むとすぐに分かりますが、この文章に記述されている人物が確かに描かれているのが分かります。あとは絵に使ったのが、ルキアノスの古典ギリシア語の原典そのものか、翻訳かということでしょう。アルベルティの『絵画論』はイタリア語版とラテン語版があるので、そのイタリア語とラテン語の可能性もあります。また『絵画論』とは別のルキアノスの翻訳の可能性もなくはないでしょう。
どの記述を元にしたかについての議論はロナルド・ライトボーンの『ボッティチェリ』や、パノフスキーの『イコロジー研究』で触れられています。自分でも古典ギリシア語、イタリア語訳、ラテン語訳、ついでに英語訳、ドイツ語訳を、それぞれ和訳して絵の内容と比べてみました。→ カテゴリー:アペレスの誹謗
それで分かったのは、直接古典ギリシア語を元にして描いているということです。確かに記述は絵の内容に対応していますが、どうしても絵の中に見つけられない文章が残ります。そこで残ったその文章で言葉遊びをやってみると、どれも絵の中の描写として当てはめていくことができました。最初は絵として表しやすいものだけを描いているのかと考えていましたが、その章のギリシア語の言葉を一語も残さずに絵の中に見つけることができました。この絵の中に描かれていない記述と、この絵の中にある奇妙な描写の対応を示すことができたわけです。
ἐν δεξιᾷ τις ἀνὴρ κάθηται τὰ ὦτα παμμεγέθη ἔχων μικροῦ δεῖν τοῖς τοῦ Μίδου προσεοικότα, τὴν χεῖρα προτείνων πόῤῥωθεν ἔτι προσιούσῃ τῇ Διαβολῇ. περὶ δὲ αὐτὸν ἑστᾶσι δύο γυναῖκες, ῎Αγνοιά μοι δοκεῖ καὶ ῾Υπόληψις・ ἑτέρωθεν δὲ προσέρχεται ἡ Διαβολή, γύναιον ἐς ὑπερβολὴν πάγκαλον, ὑπόθερμον δὲ καὶ παρακεκινημένον, οἷον δὴ τὴν λύτταν καὶ τὴν ὀργὴν δεικνύουσα, τῇ μὲν ἀριστερᾷ δᾷδα καιομένην ἔχουσα, τῇ ἑτέρᾳ δὲ νεανίαν τινὰ τῶν τριχῶν σύρουσα τὰς χεῖρας ο)ρέγοντα εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ μαρτυρόμενον τοὺς θεούς. ἡγεῖται δὲ ἀνὴρ ὠχρὸς καὶ ἄμορφος, ὀξὺ δεδορκὼς καὶ ἐοικὼς τοῖς ἐκ νόσου μακρᾶς κατεσκληκόσι. τοῦτον οὖν εἶναι τὸν Φθόνον ἄν τις εἰκάσειε. καὶ μὴν καὶ ἄλλαι τινὲς δύο παρομαρτοῦσι προτρέπουσαι καὶ περιστέλλουσαι καὶ κατακοσμοῦσαι τὴν Διαβολήν. ὡς δέ μοι καὶ ταύτας ἐμήνυσεν ὁ περιηγητὴς τῆς εἰκόνος, ἡ μέν τις ᾿Επιβουλὴ ἦν, ἡ δὲ ᾿Απάτη. κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι, αὕτη ἐλέγετο・ ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν. Οὕτως μὲν ᾿Απελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.
この文章か翻訳以外にこの絵の描写を知ることができない状況で、これだけの長さのひとまとまりの文章を、たとえこじつけの言葉遊びを使って、すべて絵の中に見つけることができたということは、これが古典ギリシア語そのものを元にし、そのこじつけが絵の作られたときにも行われたことを示していると考えていいと思います。
(この文章は人物の特徴だけを表現していますが、この絵にはもっとたくさんの描写が描かれています。つまりこの章の前後の文章もこの絵の中に描かれていると考えるのが自然でしょう。正直将来残りの解釈をすることが楽しみで楽しみでしょうがない。)
同様なことが、有名な《ヴィーナスの誕生》の典拠についても言うことができます。《ヴィーナスの誕生》と『ホメロス讃歌』の二番目の長さの『アフロディーテ讃歌』を比べてみます。『ホメロスの参加』の中には三種類の『アフロディーテ讃歌』があって、その中の二番目の長さのものに、西風ゼフィロスに運ばれて上陸するアフロディーテ(ヴィーナス)と、彼女を迎え入れる季節女神ホーラたちの場面が描かれています。
Εἲς Ἀφροδίτην
αἰδοίην, χρυσοστέφανον, καλὴν Ἀφροδίτην
ᾁσομαι, ἣ πάσης Κύπρου κρήδεμνα λέλογχεν
εἰναλίης, ὅθι μιν Ζεφύρου μένος ὑγρὸν ἀέντος
ἤνεικεν κατὰ κῦμα πολυφλοίσβοιο θαλάσσης
ἀφρῷ ἔνι μαλακῷ: τὴν δὲ χρυσάμπυκες Ὧραι
δέξαντ᾽ ἀσπασίως, περὶ δ᾽ ἄμβροτα εἵματα ἕσσαν:
κρατὶ δ᾽ ἐπ᾽ ἀθανάτῳ στεφάνην εὔτυκτον ἔθηκαν
καλήν, χρυσείην: ἐν δὲ τρητοῖσι λοβοῖσιν
ἄνθεμ᾽ ὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντος:
δειρῇ δ᾽ ἀμφ᾽ ἁπαλῇ καὶ στήθεσιν ἀργυφέοισιν
ὅρμοισι χρυσέοισιν ἐκόσμεον, οἷσί περ αὐταὶ
Ὧραι κοσμείσθην χρυσάμπυκες, ὁππότ᾽ ἴοιεν
ἐς χορὸν ἱμερόεντα θεῶν καὶ δώματα πατρός.
αὐτὰρ ἐπειδὴ πάντα περὶ χροῒ κόσμον ἔθηκαν,
ἦγον ἐς ἀθανάτους: οἳ δ᾽ ἠσπάζοντο ἰδόντες
χερσί τ᾽ ἐδεξιόωντο καὶ ἠρήσαντο ἕκαστος
εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι,
εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης.
χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε: δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι
νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.
αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.
この記述と絵の描写の違いは、アフロディテが貝ではなく泡に乗ってやってくること、ゼフィロスが一人でいること、迎え入れるホーラが複数であることなどで、登場人物はだいたい合っているのに、絵の場面としては明らかに違っています。そのためこの詩に影響を受けていると思われるポリツァーノの『ラ・ジョストラ』の方が一般には典拠だと考えられます。こちらには、貝とゼフィロスの連れアウラ(そよ風)が記述されているからです。ただこの詩でも出迎えが複数だったり、完全に記述と描写が一致するわけではありません。
そこで、この古典ギリシア語の文章も言葉遊びをしてみました。すると、これもすべての単語をこの絵の中に見つけることができました。例えば、本来複数のはずの出迎えのホーラが一人しかいないのは、古典ギリシア語の語形変化によって説明できます。またゼフィロスと一緒にいる有翼の女神は、勝利の歌を歌う女神ニケと解釈できます。さらにこの絵の左の角にある点描で書かれた部分はἄλλης ἀοιδῆςの言葉遊びの「異質な隅」のことだと分かります。今回は特に一つの詩全部が残らず描かれています。つまりこの絵は一つの詩と等価な存在と言えるでしょう。詳しくは→ 《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(1) 以降。
このように古典語の文章を言葉遊びをすることで、連続して大量に絵の中に見つけ出すことができます。これらの古典は大抵いままで研究者が何らかの関係があると指摘をしてきたものです。なぜなら単語の意味すべてが言葉遊びによって別の意味に変えられるわけではなく、意味を変えなくても絵として描ける場合は、そのままの内容で描かれているからです。出典を分からなくするために、言葉遊びをしているのではなく、抽象的で絵の描写にしにくい記述を、仕方なく、具象的な意味に置き換えているに過ぎないと思われます。しかしこれを理解するには最低限、ラテン語やギリシア語の意味が分からないと無理なので、そう簡単には分からなかったというわけです。さらにヴァザーリや初期の解釈者が与えたもっともらしい先入観が、思い込みや願望を誘発させて、みんなを解けない方向に導いてしまいました。
そういうわけで、手法の説明が済みました。次は《春(プリマヴェーラ)》と関係ある古典について説明を行います。どういう理由で、それらの古典が関係あると思われるのか詳しく述べていきます。また古典ではありませんが、最初に説明したフィチーノの『愛について』の一節が関係あると思われた理由も説明します。