2009年01月26日

『祭暦』と『プリマヴェーラ』

そういうわけで、やっとオウィディウスの『祭暦』について調べたことが書ける。

ボッティッチェッリの『プリマヴェーラ』のことを調べると、この絵がオウィディウスの『祭暦』に関連があるとよく書かれているので、どうしても読んでみたくなった。それで『プリマヴェーラ』についての文章を書いたときに、次は『祭暦』ことを書こうと思っていたのだけど、気になって『ヴィーナスの誕生』と『アフロディーテ讃歌』を調べているうちに、予定通りに行かなくなって、先にそちらの方を書くことになってしまった。ただこの寄り道はかえっていい結果になったと思う。

この『祭暦』(Fasti)というのは古代ローマの詩人オウィディウス(紀元前43年生まれ)が、ローマの暦を詩の形式で書いたもの。星空の話やその季節に関連ある神々の話が書かれている。ラテン語。一巻に一つの月で、一月から六月まである。7月以降はない。それが元々あって失われてしまったのか、それとも未完に終わったのか分からない。ただ7月以降について引用している文献が無いので、最初から存在していないのではないかと見られている。オウィディウスは、この作品よりも、やはり神話を扱った詩集『変身物語』(Metamorphoses)の方がよく知られている。

『プリマヴェーラ』と関連があるのではないのかというのが5月を歌った第五巻の5月2日の記述。この中に絵の登場人物が何人か集まっている。春を題材にした絵だから、当たり前と言えば当たり前なのだけど、読んでみるといろいろ面白い発見がある。

5月2日の記述は、まず牡牛座にあるヒュアデスの短い話があり、そのあと花の女神フロラへのインタビューとなる。これは筆者オウィディウス自らが女神に訊いている。古代ローマではフロラ女神の祝祭フロラリアが4月28日から5月3日まで開催されていた。その祭りの主役であるフロラが直接自分のことを話してくれる。旦那との馴れ初め話や、自分の美しい庭園の話などいろいろと。ラテン語で200行以上あるこの日の記述のおよそ8割は、フロラの自らの言葉になっている。

以下第五巻の部分を示していく。ラテン語の部分は、Ovid: Fasti V からの引用。日本語の部分は、高橋宏幸訳の国文社刊『祭暦』からの引用。そして英語訳はOvid Fasti Book Vからの引用。ただしこのぞれぞれの訳の原文が、上のラテン語と全く同じ内容だったかまでは調べていない。英語訳は、一部しか見ていないが、わかりやすいように神々を形容だけで表す部分を直接名前に置き換えるなど、いくつか言葉を換えているようだ。日本人はやっぱり日本語で理解していくのだけど、引用は言葉をそのまま写しているだけなので、もっと詳しく知りたい人は日本語訳された『祭暦』を直接読むことをおすすめする。例えば訳注ではクロリスはフローラの誤記であるという説はオウィディウスの創作だと指摘してある。古典の書物というのは専門家の分かりやすい注釈を読みながら理解していくものだと思う。

さて、フロラが自分のことを語り出すと、「口からバラ」という『プリマヴェーラ』において特徴的な描写が現れる:

ラテン語(5巻194行目):
( dum loquitur, vernas effat ab ore rosas ):


日本語訳:
女神が話す口からは春の薔薇の息吹が洩れました。


英語訳:
(While she spoke, her lips breathed out vernal roses):



そしてバラの息を吐きながら次のような話を聞かせてくれる。話はもっと長いのだけど、『プリマヴェーラ』と関連と思われる部分だけ。

ラテン語(5巻195行目から212行目まで):
'Chloris eram quae Flora vocor: corrupta Latino
nominis est nostri littera Graeca sono.
Chloris eram, nymphe campi felicis, ubi audis
rem fortunatis ante fuisse viris.
quae fuerit mihi forma, grave est narrare modestae;
ver erat, errabam; Zephyrus conspexit, abibam;
insequitur, fugio: fortior ille fuit.
et dederat fratri Boreas ius omne rapinae,
ausus Erecthea praemia ferre domo.
vim tamen emendat dando mihi nomina nuptae,
inque meo non est ulla querella toro.
[vere fruor semper: semper nitidissimus annus,
arbor habet frondes, pabula semper humus.]
est mihi fecundus dotalibus hortus in agris;
aura fovet, liquidae fonte rigatur aquae:
hunc meus implevit generoso flore maritus,
atque ait "arbitrium tu, dea, floris habe."


日本語訳:
いまでこそフロラと呼ばれる私も、かつではクロリスと言っていました。ギリシア名であった私の名がラテンの呼び名に崩れてしまったのです。かつてクロリスと言っていたとき、私はかの幸福の野、おまえも聞いているでしょう、その昔に至福のひとびとの国があったという野のニンフでした。私の容姿がどのようであったかなど、おこがましくてとても話せませんが、母が神様の婿殿を見つけて下さったのはこの容姿のためでした。
春のこと、そぞろ歩きをしている私がゼピュルスの目に止まりました。私は引き返そうとしました。が、ゼピュルスは追いかけてきます。私は逃げます。けれども、あちらの力のほうが強いうえに、兄弟のボレアスの前例があるので、娘をさらうのは天下御免であったのです。ボレアスはなんとエレクテウスの家から獲物をもち去ったのでした。
とはいえ、力ずくでしたことの償いに、彼は私に正妻の名をくれました。いまこの結婚に私はなんの不平もありません。私はいつも春を謳歌しています。いつでも一年でもっとも輝かしい季節、木々には葉が繁り、大地はいつも牧草がおおいます。そして野には私の婚資である実り豊かな庭があります。そよ風が育み、泉から湧く澄み切った水が灌漑しています。私の夫はこの庭を優雅な花で満たし、『女神よ、花のことはおまえにすべて任せよう』と言ってくれました。


そして、英語訳の該当部分:
‘I, called Flora now, was Chloris: the first letter in Greek
Of my name, became corrupted in the Latin language.
I was Chloris, a nymph of those happy fields,
Where, as you’ve heard, fortunate men once lived.
It would be difficult to speak of my form, with modesty,
But it brought my mother a god as son-in-law.
It was spring, I wandered: Zephyrus saw me: I left.
He followed me: I fled: he was the stronger,
And Boreas had given his brother authority for rape
By daring to steal a prize from Erechtheus’ house.
Yet he made amends for his violence, by granting me
The name of bride, and I’ve nothing to complain of in bed.
I enjoy perpetual spring: the season’s always bright,
The trees have leaves: the ground is always green.
I’ve a fruitful garden in the fields that were my dower,
Fanned by the breeze, and watered by a flowing spring.
My husband stocked it with flowers, richly,
And said: “Goddess, be mistress of the flowers.”


最初、この部分を引用しようとしたときは、口からバラをこぼしながら話している女性の描写と、ゼピュルスによるフロラの誘拐が書かれていて、そしてフロラが花の女神としてゼピュルスが作ってくれた美しい庭で、花を司る女神となるエピソードが書かれているので、それが書かれている文章だという理由で書き出そうと思っていた。だけど、『ヴィーナスの誕生』を見て、それだけではないように思った。


彼女が庭園の女主人になった後、神話の神々がそこに集まってくる記述がある。それが次:

ラテン語(5巻213行目から220行目まで):
saepe ego digestos volui numerare colores,
nec potui: numero copia maior erat.
roscida cum primum foliis excussa pruina est
et variae radiis intepuere comae,
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;
protinus accedunt Charites, nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.


日本語訳:
何度も私は、いったい何色あるのかと、並んだ花を数えたいと思いましたが、できませんでした。数が及ばないほどたくさんだったのです。朝露の滴が葉からこぼれ落ち、色とりどりの草花が陽の光に暖められるや、ただちに彩り鮮やかな衣を身にまとった季節女神ホラたちが集まり、私からの贈り物を籠に摘んでゆきます。それにすぐさま優雅の女神カリスたちも加わって、冠を編み、編んだ冠を神々しい髪に結ぼうとします。


そして、英語訳の該当部分:
I often wished to tally the colours set there,
But I couldn’t, there were too many to count.
As soon as the frosted dew is shaken from the leaves,
And the varied foliage warmed by the sun’s rays,
The Hours gather dressed in colourful clothes,
And collect my gifts in slender baskets.
The Graces, straight away, draw near, and twine
Wreaths and garlands to bind their heavenly hair.


ここに出てくる季節女神ホラたちと優雅の女神カリスたちは、両方ともに三人組の女神。『ヴィーナスの誕生』でヴィーナスにローブを掛けようと待ちかまえている女性として描かれるのがホラの一人。そして『プリマヴェーラ』の三美神がカリスたち。

先日『ヴィーナスの誕生』のホーラと、『プリマヴェーラ』の右から三番目にいる女性の服装が似ていると指摘したけれど、そのことを踏まえると季節女神ホラたちに対して、「彩り鮮やかな衣を身にまとった」という形容が意味を持ってくるように思う。『プリマヴェーラ』では他の女性は無地なのに、柄のある服を着ているのはこの三番目の彼女だけだ。さらに、「私からの贈り物を籠に摘んでゆきます。」という文章が続くが、花の女神フローラからホラへの贈り物と言ったら、それは花しかないだろう。まさに『プリマヴェーラ』の描写として、右から二番目にいる女性の口からこぼれる花が三番目にいる女性の抱えている花々になることが、それを表しているのではないだろうか。前回は彼女は花を撒こうとしているように解釈したけれど、この手は花がこぼれないように押さえている仕草になるのだろう。そのあとに、カリスたちの記述がある。文章では花飾を作って髪に結びつけているはずなのに、絵では花など編まず、三人で踊っている。彼女たちの頭には花はない。でも問題はない。もう既にホラの神々しく結われた髪を飾っている。文章としてもそれで問題ない。この絵ではクロリスからフロラへの変身などはしておらず、二番目の女性がフロラ(クロリス)で、三番目の花柄の服を着ているのがホラということになる。

こう考えると、この絵の登場人物の九人中六人がこの5月2日についての記述として説明できる。ここまでできれば、ボッティチェッリが『祭暦』の影響を受けなかったというのは考えにくいだろう。この記述を直接読んだか間接的に知ったかは分からないが、この詩の世界が反映されていると十分考えることができる。あと残り三人。でもこの日の記述には残りの彼らのことは書かれていない。他の理由を考えなくてはいけない。

『祭暦』の記述として明確に載ってはいないのだけど、訳注などを調べると、古代ローマではメルクリウスの祭日が5月15日で、彼の母であるマイヤの祭日が 5月1日というのが分かる。先日、中央の女性がヴィーナスではなく、豊穣の女神マイヤでないかと書いたのはそういう理由もあった。ヴィーナスは自らが愛をおこなうものであり、自らがこの世の美の象徴であるのだから、この絵の中で一歩下がって他者の愛を見守るような描写はヴィーナスらしくないのではないだろうか。それよりも花で満ちたこの庭園の中央に立ち皆を守護するに相応しいのは、5月の神であり、かつ春と豊穣の女神マイヤではないだろうか。マイヤという女神は二人いて、本来メルクリウスの母はギリシア神話プレアデス七姉妹の長女である。もう一人のマイヤはローマ神話における豊穣の女神である。二人は別々の女神であったが、いつしか混同されてしまった。『祭暦』でも区別せずに呼んでいるようだ。5月(マイユル)の名前の由来は諸説あるが、『祭暦』の中では三つの説を紹介し、その一つとしてこの豊穣の女神マイヤの名前が由来だとする説を紹介している。

ヴィーナスが中央にいる場合、メルクリウスがここにいるのは彼がヴィーナスの庭の守護者であるからだとされる。しかしそれは絵の外の文学などに理由があるのではなく、そう皆が絵の設定を解釈しているに過ぎないだろう。ボッティチェッリがメルクリウスを描きたかったからしょうがないとしかいえない。でも彼が5月の神であることを理由にすれば、彼がここにいる理屈が通る。ローマ人が彼を5月15日に祀っていたからだと。『祭暦』では5月15日も含めメルクリウスが5月の記述の中にたびたび登場する。

『祭暦』を元にこのように考えてみると、キューピッド以外が、『プリマヴェーラ』に登場する神々がローマの五月に関連するということでまとめることができる。もちろんこの庭はヴィーナスの愛の庭ではなく、フロラの春の庭となる。しかし、どうしてもキューピッドだけが5月の神の仲間に入れることができない。彼だけが純粋に恋のきっかっけを与えるいたずら者の記号として描かれている。


posted by takayan at 03:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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