「ウェヌス・アナデュオメネ」というのは、ラテン語で、venus anadyomene。この anadyomene というのは、古典ギリシア語の単語で、Αναδυo'μενη 。英語では「Venus Rising From the Sea」とか、「Venus Emerging from the Sea」とか訳される。日本語では「海から上がるヴィーナス」と訳される。
昨日の記述を見るまでは、「ウェヌス・アナデュオメネ」はウェヌスが海から生まれる場面だとばかり思っていたが、そうではなかった。ルキアノスが記述していたのは、白い牡牛のゼウスの背に乗り海を渡るエウロペを、祝福している神々の描写の一場面だった。
アペレスが「ウェヌス・アナデュオメネ」を着想した理由が、Wikipedia に書いてあったので、確認のため、ペルセウス・プロジェクトでプリニウスの博物誌の英訳を読んでみると、注釈に「that the courtesan Phryne was his model, whom, at the festival of Neptune, he had seen enter the sea naked at Eleusis.」と書いてあった。ちなみに、ポセイドン祭は冬に行われる。(参考:アテナイの12ヶ月 | テオポリス)。Wikipediaに「問題なく」と書いてあるのは、そういうこと。また、Wikipedia では、「エレウシスで」ではなく、「エレウシス祭」と英語の段階でされている。どちらが正しいかは分からない。
ルキアノスが記述した場面が、アペレスが描いた場面と全く同じなのかは分からないが、引用部分直前では、ポセイドンが現れている。そしてそれに続いて引用した彼の息子たちのトリトンに運ばれてアフロディーテが現れる。これはポセイドン祭に関連しているからのように思う。アペレスの描いたものも同じ場面だったのならば、『ウェヌス・アナデュオメネ』は本来ウェヌスが誕生している場面ではないことになる。「venus anadyomene」は、海から上がるでも、海から誕生するでもなく、ただ単に海面に現れるという意味だったのかもしれない。生まれたばかりのウェヌスではないからこそ、泡ではなく、貝に乗っているのではないだろうか。
泡に入ったまま風に運ばれ、初めて地上へ上陸する場面を描いた『ホメーロス讃歌』中『アフロディーテ讃歌』の描写と、花嫁を祝福するためにトリトンに運ばれる貝に横になったアフロディーテの記述とを、詩人ポリツィアーノが融合させることによって、泡ではなく、貝に乗って風に運ばれて上陸するウェヌスという姿ができあがったのだろう。そして、さらにボッティチェッリが、彫刻のヴィーナスを参考に、貝から地上に今まさに降り立とうとする美しいウェヌス像を描き出したということになるだろう。
のちにボッティチェッリは、ルキアノスが記述する『アペレスの誹謗』を描くが、『ウェヌスの誕生』の時期に既にルキアノスの影響があったかどうかは研究者ではないので分からない。でもそれだと話が続かないので、以後、直接的か間接的かは分からないが、ボッティチェッリのこの作品に対して、ポリツィアーノの『馬上槍試合』、ルキアノスの『海神たちの対話』、オウィディウスの『祭暦』、『ホメーロス讃歌』の影響を仮定し解釈する。
さて、この絵の描写をまとめてしまうとこうなる。
『ウェヌスの誕生』
この作品の中央には、一人の裸の女性が立っている。誰もが注目せずにはいられない美しい女性。手と長い髪で大切なところを隠している。彼女は大きな貝の上に乗っている。この貝によって彼女が誰なのかが示される。その根拠の一つは、ルキアノスの『海神たちの対話』にあるトリトンに運ばれる貝の上に寝そべるアフロディーテの記述。彼女は、ウラノスの切り落とされた男根に生じた泡から生まれ出でた、愛と美の女神アフロディーテ(ウェヌス)。
画面右には、花の描かれた赤い衣装を掛けてあげようと、岸に上がろうとするウェヌスを一人の女性が待ちかまえている。彼女は花が描かれた白い服を着ている。首には草花で作った首飾り、腰には草花でできた帯をしている。この花の帯をしていることで、彼女がホーラたちの一人であることを示している。ホーラたちはよく花々を入れる籠をもっている。その根拠の一つは『祭暦』5月2日のホーラーの記述。籠はイタリア語で cesto。よく似た言葉にラテン語で cestos があるが、こちらは帯という意味。つまり、絵の中で花の帯という特殊な記号を持つことが、彼女がホーラたちの一人である可能性を示している。
アフロディーテとホーラの出てくる物語を探すと、『ホメロス讃歌』に収められている『アフロディーテ讃歌』が見つかる。『ホメロス讃歌』には三つの『アフロディーテ讃歌』があるがその二番目のもの。それに次のような場面がある:湿った西風(ゼピュロス)が激しい波を起こし柔らかな泡の中に入ったアフロディーテを運び、金の飾りを付けたホーラたちがうれしそうにアフロディーテを出迎え、ホーラたちは神々しい衣服をアフロディーテに着せる。
画面左を見ると、翼の生えた二人の神々がいる。一人は男の神。彼に抱きつきながら飛んでいるのは、女性的な描写で、はだけた胸からも女の神だと分かる。二人の口元を見ると、ウェヌスへ向けて白い息を吹きかけている。翼を持つ男は頬をふくらましており、息は力強く描かれている。翼を持つ女には優しくやわらかな息が描かれている。男の神は、『アフロディーテ讃歌』の描写から、アフロディーテをキュプロスまで運んだ西風だとわかる。翼のある女の神は誰だろう。
ウェヌス(アフロディーテ)とホーラ、ゼピュロスの出てくる物語を探すと、ポリツィアーノの詩『馬上槍試合』の一節が見つかる。99節-101節。この中にウェヌスに吹きかかる優しい風の描写がある。そよ風(アウラ)がウェヌスの長く乱れた髪にさざ波を立てる。アウラはただの風なのかどうか分からない。調べるとニンフとしてのアウラも、女神としてのアウラもいるのが分かる。でもこれはボッティチェッリの創作であってもいい。(参考:AURAE : Nymphs of the breezes ; Greek mythology ; pictures : AURAI)
『アフロディーテ讃歌』と『馬上槍試合』から、この絵はウェヌスが海から生まれ、そしてキュプロスの陸地に上がろうとしている場面だと分かる。ルキアノスの記述のような、花嫁を祝福している場面は描かれていない。しかし、その場面ではないけれど、ルキアノスの記述のように、左側にいる風の神たちの周りを花々が舞っている。右側でも赤と白の服が風になびき、描かれている花々が風に舞っている。この絵の中のすべての花は赤い服のように誕生したばかりのウェヌス自身を祝福するものでもあるが、それと同時に、ウェヌスの美しさに感動を抱く者をその花々で祝福してくれるのだろう。