以前書いたこととそれほど変わっていないのですが、僕の考える説は以下の通りです。
この絵はオウィディウスの「祭暦」の5月初旬の描写を柱にして、「ホメーロスの諸神讃歌」中の「ヘルメース讃歌」などの描写で補いながら描かれたものだと解釈します。神々の正体はアビ・ヴァールブルクの説とほとんど同じですが、中心の女神がウェヌス(ヴィーナス)ではなくマイアであるという一点が違います。右から、ゼピュロスZephyros、フローラFlora(クロリスChloris)、ホーラHora、マイアMaia、クピドCupido、三美神Charites、メルクリウスMercuriusとなります。
いままで中央がウェヌスであるという先入観から逃れられなかったために、新プラトン主義や、ルクレティウスなど様々な思想を駆使しながら、いくつもの奥深い解釈が試みられてきました。しかし、中央がマイアであることを受け入れると、とてもすっきりとした5月の春の描写が現れてきます。奥深い理論が消えてしまっても、この絵の価値が失われる訳ではありません。この絵のもう一つのテーマである愛をより深い形で見いだしていけるからです。
中央の女神がウェヌスと間違えられたのは、彼女の周りが息子であるクピドや従者であるホーラそして三美神で囲まれていたからです。しかし彼女自身には神々を描くときのお約束であるウェヌスの徴が何もありません。裸でもありません。リンゴも持っていません。これは周りに代わりになるものがあるから省略されただけだと考えられなくもありません。今までも周りの神々の配置からそれでいいと考えられてきました。しかしウェヌスの命令でいろんなところに出没するクピドのことは誰でも知っています。従者も、「祭暦」のフローラの庭でのようにウェヌス無しに現れることもあります。周りにウェヌスの従者が描かれているからといって、中央の女神がウェヌスであるとは断定できません。
「ヘルメース讃歌」を読んだ後、中央の女神の姿を詳しく見てみると、いろんなことに気がつきます。57行目に「καλλιπέδιλον 美しい鞋をはいた」とあります。中央の女神は美しいサンダルを履いています。履物を履いているのはメルクリウスと彼女だけです。6行目には「ἄντρον ἔσω ναίουσα παλίσκιον 濃く蔭をなす洞窟の奥深くに住まっていた」とあります。中央の女神の後ろにある木の幹によるアーチとその中にある木々の影は、いままでは中央の女神が特別な存在であることを示す宗教画にあるアーチのような役割だと思われていましたが、これは「ヘルメース賛歌」の言葉を踏まえると、彼女が洞窟に住んでいたことを連想させるための徴であるように見えてきます。4行目に「νύμφη ἐυπλόκαμος rich-tressed nymphe 豊かな巻毛のニンフ」とあります。残念ながら中央の女神はかぶりものをしていて、はっきりとその美しい髪の様子は見えないのですが、その隙間からのぞく髪は巻毛のように見えます。三美神の髪も巻毛になっていますが、サンダルを履いていませんので間違えようもありません。重要なのはメルクリウスが豊かな巻毛に描かれていることです。「ヘルメース賛歌」にヘルメース(メルクリウス)が巻毛であるという記述はありませんが、髪を隠している女神の息子が巻毛であることは隠しても隠しきれない二人が親子である事実を表しています。厳密にはローマ神話のマイアと、ギリシア神話のヘルメースの母のマイアとは全く別な存在のですが、「祭暦」では同一視されています。「祭暦」を元に描かれたこの絵でもそうなっています。中央の女神は妊婦のようにおなかが大きく描かれています。解説書などにはこの頃はおなかを大きく描くことは胸を強調して描いて女性らしさを表現するようなものだと説明されます。実際、この絵の中でも他のボッティチェリの作品でも女性はおなかが大きく描かれてはいますが、この中央の女神のおなかは目立ちすぎます。これは母神であることを表現していると考えると納得できます。
「ヘルメース讃歌」では当然主人公のヘルメース(メルクリウス)の特徴も描かれています。15行目には「νυκτὸς ὀπωπητῆρα, πυληδόκον 夜の見張り、戸口の番人」とあります。これがこの絵の左端に彼がいる理由です。戸口の番人という解釈はこれまでも何度もなされてきました。ここで重要なのは前者「νυκτὸς ὀπωπητῆρα」という表現です。これは英語では「watcher by night」と解釈されます。ここで「νυκτὸς」が夜ではなく暗闇と訳せたら、どうでしょう。イタリア語ならば「buio」という意味です。そう解釈すると、頭上の暗い霞をのぞき込むようなメルクリウスの仕草も理解できます。この仕草がよく分からないので、いろいろな哲学的な解釈が試みられてきました。このときのメルクリウスの指の形からラファエロの「アテネの学堂」にあるプラトンの天を差す指や、ボッティチェリ自身の「アペレスの誹謗」を引き合いに出したりして。でも、この仕草にそれほど深い意味を考えなくてもいいでしょう。オウィディウスが「祭暦」で描いたフローラ(クロリス)が口から花を出す場面のように、古典の中にある神々を特徴づける言葉を素直に具象化したにすぎないのです。ホーラの草のベルトも、目隠しをしたクピド/アモル(愛)もそうでしょう。分かってしまえばとても単純なことです。
参考リンク:
・祭暦 ラテン語 プロジェクト・グーテンベルグ
・「ヘルメース賛歌」 古典ギリシア語 ペルセウス・プロジェクト
・La Primavera - google art project
追記(2011/04/13)
・この絵の構造についての簡単なまとめを「《プリマヴェーラ》の解答」に書きました。
・三美神の描写の元になっている文章についての記事を「《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について」に書きました。
いいですね、美術書や画集の解説よりずっと好感が持てます。
ご承知のように、私はプシュケ説ですので、
takayanさんの説(マイア説?)そのものには賛同出来ませんが、
ご自身のオリジナル説(大胆な仮説)である点、
神々の分析に終始せず、絵全体を総合の観点から捉えられていることに、
頭が下がります。
以前ご提案致しましたが、
「プシュケ説」をお読みになる気はありませんでしょうか。
ご連絡をお待ちしております。
前回提案いただいたときは、自分の考えをまとめてからにしようと思っていたのですが、結局まとめきれずに、申し込みもしませんでした。今回このようにかけましたので、申し込ませていただきます。
スゴイですね。早速活用させてもらいます。
また、リクエストもありがとうございます。
昼のコメントに当方のメアドを入力していますので、空メールか何か、いただけますでしょうか。
alessandro〜 がうまく繋がらないようですので、
お手数ですが、再度、今回のアドレスに連絡先をお知らせ願えますでしょうか。
ゆっくり読ませていただきます。