《プリマヴェーラ》は「ウェヌスの治国」と呼ばれることがありますが、今回はこの由来についてです。この絵で描かれる場所が「ウェヌスの治国」だと言い出したのは、いったい誰か、そしていつからなのか。調べてみるとすぐに2つの事実が見つかるのですが、それと同時に限界にもぶつかりました。
アビ・ヴァールブルクは1893年出版の有名な論文『Sandro Botticellis 'Geburt der Venus' und 'Fruehling'. Eine Untersuchung ueber die Vorstellungen von der Antike in der italienischen Fruehrenaissance』の中で「das Reich der Venus」を《プリマヴェーラ》の核心部分として指摘しています。もう一方は、1893年頃に出版されたとされるHermann Ulmann の『Sandro Botticelli』という本です。この本の中でこの名前を使っています。書籍検索のスニペット表示の小さな窓の中に、目次に並ぶボッティチェリの作品の名前の一つとして《das Reich der Venus》が書かれています。ヴァールブルクは場面を特定しただけなので、これはこの名前が作品名として使われたネット上で確認できる最初の例になります。
この Hermann Ulmann の本をスニペットで覗くとはしがきの記述とみられるものの署名に1893年8月とあります。また間接的な情報の中には次のようなものもあります。ボストンで出版されていた月刊の美術誌「MASTERS IN ARTS」の1900年5月号が、ボッティチェリ号なのですが、その中に1900年当時の関連書籍、関連雑誌のリストが載っています。このリストでは、例のヴァールブルクの《ウェヌスの誕生》と《春》の論文は1893年出版、Hermann Ulmann の『Sandro Botticelli』は1894年となっています。つまり執筆が終わった翌年に出版されたという解釈ができます。出版されて10年以内の情報で確度は多少高いかもしれませんが、これだけではやっぱり確証はとれません。
またヴァールブルクのこの論文の原注には、ボッティチェリのパラスアテネについてのウルマンの本の名前が載っています。一方ウルマンの『Sandro Botticelli』のスニペット表示から見える注釈にもヴァールブルクの何かの本への参照があり、少なくとも書籍を通じてお互い影響し合っていたのが分かります。お互いに参照し合っているのに、ヴァールブルクのほうにウルマンの『Sandro Botticelli』についての記述がないのはヴァールブルクが先かほとんど同時にこの結論に辿り着いたと推測できますが、片方の中身を見ることができないのではっきりしません。
これでは話が進まないので、以下はこの推測を採用して、アビ・ヴァールブルクの論文が先か、もしくは独立して、この名称に至ったとします。
さて、日本語では、「ウェヌスの治国」や「ウェヌスの王国」、「ヴィーナスの領地」とか訳されますが、この言葉はヴァールブルクの使ったドイツ語だと「das Reich der Venus」、イタリア語では「il regno di Venere」となります。この言葉は1893年に出版されたヴァールブルクの論文において、《プリマヴェーラ》が何を描いているのかを示す結論近くで使われます。正確には、この部分とは関係ない《ウェヌスの誕生》の分析の途中にも一度だけ使われますが、《プリマヴェーラ》の核心を表す言葉になっています。
この「ウェヌスの治国」という言葉はポリツィアーノの詩『Stanze de messer Angelo Politiano cominciate per la giostra del magnifico Giuliano di Pietro de Medici』(ジョストラ)のウェヌスやその従者たちの描写がされている部分を指して使われています。その部分の最初の節である第68節だけを引用すると:
Vagheggia Cipri un dilettoso monte,
che del gran Nilo e sette corni vede
e 'l primo rosseggiar dell'orizonte,
ove poggiar non lice al mortal piede.
Nel giogo un verde colle alza la fronte,
sotto esso aprico un lieto pratel siede,
u' scherzando tra' fior lascive aurette
fan dolcemente tremolar l'erbette.
ポリツィアーノの詩の中には「il regno di Venere」そのものはありません。他の節でも同様です。ただウェヌスの息子であるアモルが一仕事終えて戻ってきた場所をこの第68節で「al regno di sua madre(彼の母の領地)」とあるので、簡単な推論で、その土地が「il regno di Venere」であることが分かります。この描写は第68節から第70節まで続きます。
書籍検索すると19世紀前半にはイタリアの詩の解説書にはポリツィアーノのこの詩のこの部分に対して「il regno di Venere」という言葉が使われています。正確にいうと冠詞が前置詞と結合していたりするので、このまま検索しても出てきません。それはどうであれ、この用語自体は既に1820年代からイタリアで使われていましたが、ヴァールブルグがこの言葉を使ったのは、ドイツ人のAdolf Gasparyの著作『Geschichte der italienischen Literatur(イタリア文学史)』(1888)の影響があると思われます。この本の名前はヴァールブルクの論文中の《ウェヌスの誕生》を解釈する部分で出てくるので、参考にしているのははっきりと分かっています。
ポリツィアーノの詩にあるウェヌスが上陸する描写がボッティチェリの絵として再現されているとガスパリが指摘している箇所は次の通りです。せっかく見つけたので引用しておきます。引用元
Das erste der Bilder ist die Geburt der Goettin, die Anadyomene, welche soeben den Wogen entstiegen, auf der Muschel stehend, im vollen Glanze ihrer srischen Schoenheit, von den Zephirwinden zum Ufer getrieben wird. Danach solgen die Liebschaften Jupiters, Apollo's, die des Bacchus und anderer Götter und Heroen. Wie es scheint, war der Dichter bestrebt, mit der Malerei zu wetteisern, welche er in seinem Zeitalter wiedererbluehen sah; die Venus Anadyomene auf der Muschel sah man in den Gemaelden der Renaissance wiedererscheinen, wie z. B. in einem solchen Sandro Botticelli's.
ヴァールブルクは、この記述があることを引用まではしませんが論文の《ウェヌスの誕生》の章で指摘しています。
この文章が書かれている同じページのほんの少し前の部分に「das Reich der Venus」という言葉が2カ所出てきます。最初のところだけ引用すると次の通りです。
Indessen kehrt Amore, da ihm sein Plan geglueckt ist, in das Reich seiner Mutter nach Cypern zurueck, um ihr Runde von dem Siege zu geben, und hier nun folgt die beruehmte lange Digression, das Reich der Venus, welches gleichfalls Claudian(De Nuptiis Honorii et Mariae, 49-96) nachgeahmt ist.
4行目に「das Reich der Venus」という言葉があることだけ分かればいいのですが、これはポリツィアーノの詩の第68節以降の概要と、その部分に影響を与えた作品の指摘です。
ここをちょっと掘り下げてみます。影響を与えている作品というのは4世紀のローマの詩人 Claudianus クラウディアヌスの『Epithalamium de Nuptiis Honorii Augusti』で、該当する箇所はその49行目から96行目です。言語はラテン語です。49行目からちょっと引用すると:
risit Amor placidaeque volat trans aequora matri
nuntius et totas iactantior explicat alas.
Mons latus Ionium Cypri praeruptus obumbrat,
invius humano gressu, Phariumque cubile
Proteos et septem despectat cornua Nili.
面倒なので全部は訳しませんが、Amor はアモル、matri は母へ、volat は飛ぶ、という言葉です。リンク先で読める英訳を見ると、たしかに元ネタの一つとなる内容になっていて、ポリツィアーノの描写がクラウディアヌスの簡略版に見えてしまいます。ヴァールブルクは注釈で、ガスパリがクラウディアヌスからのポリツィアーノへの影響を指摘していることにも触れています。なお、クラウディアヌスとポリツィアーノの関係性は、イタリア人の詩人Giosue Carducc ジョズエ・カルドゥッチ の『Le stanze, Le Orfeo e Le rime』(1864)において既に指摘されています。この本でも「nel regno di Venere」という言葉が出てきます。
結果的にここまで掘り下げなくてもよかったのですが、直接クラウディアヌスの描写をボッティチェリが参考にしていないか確認する必要があると思いました。目的から外れてしまいそうですが、先日のジョン・ミルトンもそうですが、神々の物語の描写の系譜は面白そうなテーマです。ちょっと調べると日本語で書かれた、このような論文も見つけました。『祝婚歌の伝統と革新 : スタティウスとクラウディアヌス』。
さて、ポリツィアーノに戻りますが、ガスパリは、この場所をイタリアの解説者と同じように「ウェヌスの治国」と呼んだだけで、この描写とボッティチェリとの関連は述べていません。そこではなく、そのあとに描写される「ウェヌスの誕生」の場面をボッティチェリが再現していると指摘しているだけです。ガスパリの本が出て5年後ヴァールブルクはその指摘をさらに推し進めて、豊富な引用を使った論証の末、「ウェヌスの治国」の部分もボッティチェリが再現していると指摘しました。このようにして「ウェヌスの治国」と言う言葉がボッティチェリに結びつけられました。
将来、Ulmann の『Sandro Botticelli』の内容が分かったら、上記の内容を書き換えるかもしれません。