予定外の前回の続きです。クピドの矢が胸を射る場面は、『変身物語』の中にありました。第5巻の384行あたり、プロセルピナの略奪の話の中です。冥王プルートの胸に射られていました。
該当する行のラテン語を引用すると:
inque cor hamata percussit harundine Ditem.
意味は「そして、彼は反し付きの軸で神の心臓を射抜いた。」となります。プルートはこのあと、ウェヌスの計画通りに、プロセルピナに一目惚れをし、彼女をさらっていきま す。
せっかくなので、念のため、下のページで確認したら、これよりも古い年代の例見つけました。ギリシア神話の情報が集められているサイト「The Theoi Project」のエロス(クピド)のページでは、エロスの様々な古典での登場場面の引用を見ることができます。
http://www.theoi.com/Ouranios/Eros.html
このページによると、紀元前3世紀のApollonius Rhodius(ロードスのアポローニオス)が書いた『Argonautica (アルゴナウティカ)』第3巻で、エロス(クピド)が心臓に矢を射る記述があります。アポローニオスという名前のついた有名人は何人もいるので、彼は活動したロードスを付けて区別されています。アルゴナウティカの話は日本ではあまり知られていませんが、要約がWikipediaのページ「アルゴナウティカ」で紹介されています。
英訳は確かにハートを射てますが、原文もちゃんとそうなっているのかGoogle Booksで確認してみます。1546年に発行されたものの第三巻286行(Google Books)の該当部分は以下の通りです。
この記述は、Perseus Digital Library のギリシア語のアルゴナウティカの該当する行ともほぼ同じ内容です。
Apollonius Rhodius, Argonautica, book 3 lines 260-316
このブログはギリシア文字が使えないので、ラテン文字表記にすると、「belos d' enedaieto kourē nerthen hupo kradiē phlogi eikelon.」となります。形容詞 ikelon が女性形ではないので、belos を修飾すると考えてみます。そうすると、意味は「炎のような矢が乙女の心の奥深くに火を付けた。」となるでしょう。まさに、ここがメデイアのハートに矢が射られている場面です。
『アルゴナウティカ』は後世の人々に十分影響力のあった物語です。ペトラルカの書簡集の中を検索すると、この作品の名前も出ていました。もっと古い作品の中にもこの構図があるかもしれませんが、そこまで追求しなくても、僕自身が立てた予想を否定するには、紀元前3世紀にこの描写があった事実だけで十分です。
結論としては、『変身物語』の英語訳の誤訳が「ハートに矢」の構図の原因ではなく、逆に、こういう古代の物語や、それを踏まえた詩がそういう常識を作ってしまって、アポロンの体に命中した場所を修正させてしまったと考えたほうが自然だと思われます。