こちらでは、ボッティチェリの《プリマヴェーラ》の中央の女神像はウェヌス(ヴィーナス)ではないとして解釈を展開してきました。
シモンズ(John Addington Symonds)がルクレーティウス(Lucretius)の『物の本質について』で描写されている春の到来がこの絵の舞台であるとしたのも、ヴァールブルク(Aby Warburg)がポリツィアーノ(Angelo Poliziano)の書いた詩『ラ・ジョストラ』で描写されている「ウェヌスの治国」が舞台であるとしたのも、結局ウェヌスが出てくる出典を求めたからです。
また、ウィント(Edgar Wind)は、新プラトン主義において重要な存在であるウェヌスを中心にして、三美神の中央の「慎み」がクピドの矢によって愛を知る変化と、ゼピュロスの暴力によってクロリスがフローラへと変わるドラマティックな変化をこの絵の解釈に導入しました。パノフスキー(Erwin Panofsky)は、ヴァザーリ(Vasari)の言葉を元にして、この作品と《ウェヌスの誕生》が対になって「天のヴィーナス、自然のヴィーナス」を表していると解釈しました。 これらの解釈は中央の女神がウェヌスであるという前提を元にして、考えられたものです。決して結論が前提を導いた訳ではありません。
この絵をよく見ると、三美神の右にいる女神と、左にいるメルクリウスは赤い衣装を身に着けています。さらによく見ると、上空の裸のクピドまでも赤い箙(えびら)を肩から提げています。この赤いものを身に着けている三神と、付けていない六神との違いは何かと言えば、『祭暦』の5月2日の中でフローラ自身によって語られるフローラの結婚の物語に出てくるかどうかなのです。この明確な赤い色による区別は偶然ではないでしょう。ヴァールブルクの頃から『祭暦』の描写との関連性は指摘されていましたが、その場合、断片的に描写を借りているだけだと皆考えました。なぜなら、『祭暦』の5月2日の描写にはウェヌスが出てこないからです。でも、あきらめてウェヌスがいないことを認めるべきです。万が一彼女がウェヌスであったとしても、『祭暦』の物語とは独立して存在していると考えるべきです。
この中央の女神は誰なのでしょう。三美神の右端の Pulchritude に手をかざし祝福している女神は誰なのでしょう。三美神の周りの神々は赤いものを身に着けて、この物語から超越した存在だと主張しています。もしかすると、絵全体の物語とは関係なく、彼女を祝福するためにウェヌスがいるのかもしれません。しかし物語とは脈絡のない存在であっても、やはりそこには必然性がなくてはいけません。ウェヌスがここにいる理由、そして彼女がウェヌスであることを示す何かがなくてはいけません。それはウェヌスに限りません。中央にいる女神は、そこにいる理由を持ち、彼女が何者であるのかを示す何かを持たなくてはいけません。彼女以外のここにいる神々はしっかりとテキストによってそれらが裏付けられています。中央の女神にも典拠が必ずあるはずです。
必ずあるはずなのですが、ウェヌスであることを示す決定的なものは見つかっていません。ブレーデカンプ(Horst Bredekamp)は、女神の真珠の首飾りと逆さ炎の首周りの模様が、ウェヌスのアトリビュートであるとしていますが、残念ながら弱すぎます。女神の後ろのあの木々でできたアーチこそは最大のヒントであるはずなのでしょうが、他の神々を示したようにはっきりとしたテキストが見つけられません。
ウェヌス以外にテキストを示せる者はいるのでしょうか。そう考えて、『祭暦』の5月を読み返すとふさわしい女神が一人見つかります。メルクリウスの母親で、5月の女神であるマイアです。そしてこの女神とメルクリウスのことが描かれている「ホメロス風讃歌」の「ヘルメス讃歌」を読むと、彼女の描写がいくつか出てきます。「ホメロス風讃歌」は《ウェヌスの誕生》の元になった描写のある書物です。《ウェヌスの誕生》でボッティチェリ自身が直接参考にしたことは断定できませんが、同時期のポリツィアーノが参考にしたことは彼の詩の描写から明らかですので、この時代のフィレンツェでは得ようと思えば得られた情報だということは言えるでしょう。この「ホメロス風讃歌」ではマイアは次の言葉で形容されています。「うるわしい巻毛の(rich-tressed)」、「浄福なる神々のまどいを避けて、濃く陰なす洞窟の奥深く住まっていた(a shy goddess, for she avoided the company of the blessed gods, and lived within a deep, shady cave)」、「美しい鞋(くつ)を履いた(neat-shod)」。なお引用したのは、日本語の訳はちくま学芸文庫の沓掛良彦氏、英語の訳はペルセウスのHugh G. Evelyn-Whiteの訳です。髪を隠しているのでよく分かりませんが、この女神の髪は巻毛のように見えなくもありません。ウェヌスでは考えにくい控えめな場所に立っています。後ろのアーチは洞窟の中から外を覗いたような風景です。そして、足下を見ると、彼女は唯一靴を履いている女神です。それも独特な美しいサンダルです。これらの描写は、都合よくいろんなところから拾ってきたわけではなく、ひとつの作品の冒頭部分に現われているものです。特に、洞窟の属性はとても強力な根拠になるのではないかと思います。
ボッティチェリと言えばキリスト教の母子像を数多く残してきた画家でもあります。その彼が、キリスト教とプラトンの教えとの融合をはかったフィチーノの教義の具象化である三美神の両側に、異教の神々の母と子を描いてみせたのも決して偶然ではないでしょう。
とりあえず、これがまとめです。他人にこの考えを信じろとは言いません。検証はしてもらいたいですけれど、鵜呑みにしてはいけません。マイアはあまりにも知名度が低く、後ろのアーチが醸し出す存在感には不釣り合いに思います。この存在感は皆が言うようにウェヌスこそふさわしいように思います。しかしどうしても典拠が見つかりません。代わりに見つかったのが元々控えめで知名度の低いマイアです。ただ15世紀のフィレンツェにおいては、もう少し知られていたかもしれません。ここはラテン語がそれからイタリア語が使われた場所です。5月の語源であるという説があるくらいですから、5月の神話の描写だとわかったら、マイアがすぐに連想されるぐらい皆が知っていたかもしれません。そして彼女が洞窟の女神であることも認知されていたならば、この絵の描写はおおいに成り立つのではないかと思われます。
なかなか熱く語っておられますね。
まずは、同じ日本人として、
またこの分野の専門家ではない者として、敬意を表します。
揚げ足を取るつもりはないのですが、
同じ絵を読み解く者として、指摘したいことがあります。
中央の女神に明快なアトリビュートがないことから、
彼女はウェヌスとは違うのでは、というのが大前提ですよね。
ではお尋ねしますが、
右から2人目の女性にも、中央の女神以上にアトリビュートがありませんが、
なぜ彼女をクロリス(フロラ)と特定できるのでしょうか。
おそらく、根拠は西風とバラでしょうが、
彼女の口からは、バラ以外の花もこぼれ落ちています。
これを説明出来るでしょうか?
ご承知の通り、私は彼女がプシュケだと考えています。
その場合、他のキャストを考慮すると、
中央の女性はウェヌス以外には考えられません。
> 女神の後ろのあの木々でできたアーチこそは最大のヒントであるはずなのでしょうが、
ボッティチェリはウェヌスに聖母のイメージを与えたのです。
アーチも衣裳も右手をかざす仕種も、すべてマリアのものです。
理由は、「クピドとプシュケ」の結婚を、ウェヌスが「受容」することを表現するためです。
それから、下記サイトをぜひ覗いてみて下さい。
http://www.haltadefinizione.com/magnifier.jsp?idopera=9&lingua=it
右から2番目の女性はアトリビュートがないわけではありません。花を作り出しているという描写だけで、花を司る女神であることは自明だと思います。この点で隣のホーラとは違います。ホーラはフローラの口から出てくる花を受け取っています。これもオウィディウスのテキストの通りです。
それから、右から2番目の女性は口から花を出していることで、フローラだと判断していますが、テキストでは薔薇としか書かれていないのに他の花も出ているのはおかしいという指摘ですね。
実際、植物学の専門家の研究結果から薔薇の他にイチゴの花、矢車菊、日々草などが口から出ているとされています。
でも、このことは疑問に思いませんでした。口から花を出すという得意な性質が描写されているだけで十分だと思います。薔薇を口から一度でも出していれば、それでいいと思いますし、フローラの花を受け止めているホーラの抱えている花々を見ても大半は薔薇ばかりです。テキストでは薔薇しか名前が挙がっていませんがフローラは花の女神なのでいろんな花を口から出していても問題ないと考えます。というより、花を司る女神ならば、いろんな花を出している描写がないといけません。
> ボッティチェリはウェヌスに聖母のイメージを与えたのです。
ここが本当にもどかしいところです。ボッティチェリ自身がこの絵について何も言葉を残していないので、何も断定できません。絵を見て想像することしかできません。私も洞窟のメタファだけでなく、このアーチには聖母のイメージを連想させる効果があると思います。
しかし、それだとしても私の仮説は成り立ってしまいます。maia を一般名詞と解釈すると古典ギリシャ語では「良き母、看護師、助産師」などの母性を感じさせる言葉です。そのため、Maiaは異教の聖母という役割を果たせると思います。
細部まで観察できるとても美しい画像サイトをありがとうございます。これはgoogleのものよりきれいに補正してある画像ですね。