以下ネタバレありの妄想。
最後、主人公の友人が帽子を投げ捨てるシーンがある。これは何か分からなかった。映画の最初のほうを見ていなかったからだったのだが、もう一度見直したら意味が分かった。冒頭で山高帽のことを主人公が話していた。ラストなかなかいいシーンじゃないですか。最後主人公のいる未来のシーンで終わればいいのに、わざわざ主人公が姿を消した当時の19世紀末に戻るのはどうしてかなと思っていたら、そういうことだったんだ。過去を変えることはできないけれど、今は変えることができる。ありきたりなテーマだけど、これがこの映画の答えだろう。友人の最後の行動は、今を変えることは誰にでもできるということの静かな象徴なんだな。
時間旅行物の物語で矛盾やご都合主義がないものなんてありえない。時間旅行自体がありえないのだから仕方がない。歴史を変えたら写真の中から姿が消えるとか、腕時計が逆回転するとか、荒唐無稽なわかりやすさも大切だ。そういうことを言い出したらきりがない。
恋人の死という絶望的な過去を変えるために彼はタイムマシンを開発した。しかしこの事実がタイムマシンを作らせた原動力である以上、恋人の死という事実を変えることができなくなってしまった。それ以外の何事も彼にタイムマシンを作らせる力を与えないからだ。逆に言うと、恋人の死以外の過去の出来事ならば、変えることはできるかもしれない。事実彼は恋人を別な場所に連れ出し強盗に殺されるという危険から回避させることができた。それでもまた別な出来事が起き恋人は死んでしまう。タイムマシンを使っているという事実とその原動力となった恋人の死という事実、この二つの出来事の因果はタイムマシンを使っては絶対に変えることはできない。悲劇のジレンマ。未来の頭脳担当の人類ウーバーが言っているのはそういうこと。それが主人公が追い求めた答えであり、この物語で採用されたタイムトラベルの設定。
ウーバーが自分のような存在はいくらでもいると言ったのだから、あそこで主人公がタイムマシンを爆発させてあのコロニーを壊してしまっても、モーロック、エロイ、ウーバーから成るコロニーはいくつも存在している。主人公が6億年先に見た未来はやがて現実になってしまうのだろうか。6億年先の未来を見てしまった彼には、エロイたちと過ごした時代はまぎれもなく過去である。その過去は変えられるのだろうか。
ウーバーはエロイたちに同じ悪夢を見せることで、モーロックと戦うことを忌避するように仕向けていた。しかしこの主人公のいるコロニーにはもうウーバーはいない。代わりに主人公と、人類の全ての知識を蓄えたヴァーチャル黒人がいる。この知識を道具に、ウーバーに支配されていないエロイは団結し、地球上に散在するこの支配体制を崩壊させていく。そういう彼らの未来を望みたい。