今まで解釈してきた《ヴィーナスとマルス》 と呼ばれているボッティチェリ(Botticelli)の絵画についてまとめてみます。
この絵は、アナクレオン風歌謡(Anacreontea)の一編の詩(英訳詩名 The Bee、The Wounded Cupid など)が元になっています。この詩が絵の題材になったことを示すには、これが書かれた時期にこの文章を画家が目にできたことをまず先に示す必要がありますが、前回示したいくつもの符合により、この絵の存在こそがその証拠だと言ってかまわないでしょう。
従来この詩は、蜂に刺されて痛がっているエロスに対して、アフロディーテがあなたのほうがもっと人に痛い目を合わせているのよと諭す話なのですが、この絵は詩そのままの情景を描いていません。この詩のそれぞれの単語の意味を、正しいけれど別な意味で解釈することで、違う情景を作りだし、それを描いています。
この誤解釈は、翻訳者の能力が低いために起きたものではなく、逆に、高い言語能力を使った意図的なものだと考えられます。たとえば、蜂を示す単語 μέλισσα の使われ方を見ればわかります。この単語がこの絵の誤解釈のキーワードとなっています。メリッサという言葉が、「蜂」と「体が分かれた者」の二つの意味で、使われているからです。このような意図的な誤解釈の積み重ねでこの絵は成り立っています。
それでは、この絵で描かれている状況を想像を交えて、書いてみます。
この絵はアレスとアフロディーテの家族の情景を描いた絵です。アレスがバラ色の布の上で寝ていて、そしてエロスが蜂を見ずに蜂を攻撃しようとしていて、アフロディーテが足の指を怪我をしている場面です。アフロディーテが怪我をしたのは、この絵が描かれている瞬間よりもかなり前の出来事です。
アフロディーテを怪我させたのは、ハルモニアです。まだ立って歩けないかもしれないくらいの末っ子のハルモニアが、突き棒でアフロディーテの足の指を傷つけてしまいました。それを見つけたアレスは、突き棒を取り上げ、ハルモニアが勝手にいたずらをしないように自分の鎧の中に入れて遊ばせることにしました。鎧が動かないようにその上に背中をもたれかけています。体の小さなハルモニアでも、鎧の頭を出す穴から体を全部出すことができないので、体が別々の穴から出てしまいました。そのかわいらしい様子を見たアレスは、体が分かれているという意味でメリッサと彼女を呼びました。
アレスは日ごろの戦いの疲れから、そのまま眠ってしまいました。ハルモニアは自由に動き回れなくても、手近にあった実を左手で掴んで、右手で地面を掘って遊んでいます。そこに、エロス、フォボス、デイモスのやんちゃな男の子たちが戻ってきました。母親のアフロディーテが怪我をしていることに気がつくと、フォボスは「お母さんが死んじゃう」と心配します。アフロディーテは「アレスがメリッサと呼んでいる農業をやっている者が怪我させたのよ」とちゃんと伝えたのですが、男の子たちは、それは別のメリッサ(蜂)がやったんだと勘違いしてしまい、蜂に向かって戦いに出かけます。エロスは、いつもの目隠しと矢の姿をアレスの兜と槍で再現してしまっています。フォボスは、エロスの槍を支えて一緒に突撃しているのですが、お母さんのことが心配で後ろを振り返りながら前に進んでいます。デイモスは、蜂たちに向けてホラ貝を吹いて彼らを恐怖に陥れようとします。アフロディーテは、自分のことを心配して振り返ってくれるフォボスの顔を見つめています。これがこの絵に描かれている場面です。
しかし、アフロディーテは彼らが何をやっているのか分かっていません。蜂の巣がアレスの頭の後ろにあることは、そこから見えないのです。デイモスがホラ貝を吹いているのは、アレスに対してふざけているとしか思っていません。このあと起こる大混乱は誰も気付いていません。でも大丈夫、彼らは不死なる神々です。蜂に刺されたくらいでは死ぬことはありません。微笑ましい、ある日の一家の光景です。
一般的な知識として、アレスとアフロディーテの関係は浮気だと理解されています。この絵の二人を見ると、どうしてもその話がよぎってしまいます。しかし、そうとは限りません。
ヘシオドスの『神統記』では、世界の始まりからの神々の話を描いているのですが、アフロディーテとヘパイストスが夫婦だったことは書かずに、アレスとアフロディーテの間にフォボス、デイモス、ハルモニアという子供がいるとだけ書かれています。この本を元に考えれば、アレスとアフロディーテが子供たちと戯れている様子も、自然なものと映ります。
ちなみに、『神統記』ではエロスは誰の子供でもなく、世界に最初に現れた神々の一人です。その後の時代に、泡からアフロディーテが生まれると、エロスは彼女の従者となったとされています。したがって、この絵の人間関係のすべてが『神統記』の記述を元にしたと考えることはできません。どうみてもこの絵のエロスは、他の子供たちと同じアフロディーテの息子として描かれています。
また、アレスとアフロディーテが密会していたとしても、『オデュッセイアー』で描かれているように、二人がヘパイストスの罠にかかった状態で、多くの神々の前で晒しものになったとき、神々の承認の元、アフロディーテとヘパイストスの婚姻関係は終わったとみることもできます。アフロディーテがキュプロスに向かったという文は、そういう意味があるでしょう。
とにかく、過去に何があったにせよ、この絵の神々はまるで人間の家族のように、幼い子供たちと一緒に過ごす、ほのぼのとしたある日の家族の出来事が描かれています。アフロディーテの子供たちが同時期にこんなふうに子供の姿をしていたことはないでしょう。神話にもそんな描写はどこにも書かれていません。これは、ボッティチェリが言葉遊びで作り出した、彼だけに描ける不思議な神話の情景です。
それでは最後に、最初に立てた問いへの解答です。これまでの解釈を読んでもらうと分かるのですが、問いを立ててしまった以上、答えないといけません。
・どうして、いつもと違ってアフロディーテは裸ではないのか?
それは、この絵が母親としての彼女を描いているからです。裸で寝ているアレスのそばで、アフロディーテもいつものように裸なら、別の意味に解釈されてしまうからです。
・どうして、アレスは眠っているのか?
それは、バラ色の布の上にいるからです。
・それぞれのサテュロスはいったい何をしているのか?
槍の近くの三人は、母を傷つけた蜂を退治しにい行こうとしています。詳しくは上に書いたとおりです。 鎧の中のサテュロスは再びいたずらをしなように行動を制限されています。
・右端の暗がりにいる蜂にはどんな意味があるのか?
ギリシャ語の蜂の語源的解釈がこの絵を読み解くヒントです。
・アレスの左手の下にある棒は何なのか?
突き棒です。おそらく戦いに使うものでしょう。ギリシア語では、蜂の針と同じ言葉です。これでアフロディーテは足の指にちょっとした傷を作ってしまいました。でも神様なので、すぐに傷は消えてしまうでしょう。
・どうして、子供がエロス(クピド)ではなくサテュロスなのか?
サテュロスとして描かれていますが、彼らはエロスを含めてアフロディーテの子供たちを表しています。姿がサテュロスなのは、無邪気ないたずら者の子供を表すためではないかと思われます。また野蛮ではあるけれど、その種族の姿そのものに性愛の属性をもった彼らは、誰よりもアフロディーテの子供であることを、図像的に指し示せるのではないでしょうか。
・アフロディーテは何を思っているのか?
アフロディーテの視線は、アレスを見ているようにも、デイモスを見ているようにも、フォボスを見ているようにも見えます。しかし、この中で彼女の方を見ているのは、フォボスなので、やはり彼女は自分を見つめているフォボスと目を合わせているのではないかと思います。そして自分のことを心配してくれるわが子を母として愛おしく思っているのではないでしょうか。
以上の解釈を踏まえたこの絵のタイトルを考えると、《アフロディーテとアレスとその子供たち》となります。
バラ色の布を根拠にこの詩であることが分かったのですが、正直に言うと、最初に問いを立てた段階では、「メリッサ」の解釈にはまだ気づいていませんでした。辞書で単語の細かな意味を調べて、説明を書いている途中で、いろいろ新たに気付きました。まだギリシア語の訳を含めて、整合性がとれていないところもいくつかありますが、少しずつ修正しようと思います。
以前書いた《プリマヴェーラ》の解釈ですが、その「三美神」の描写もやはりこれと同じように意味の誤解釈によって描かれているとしました。キーワードはラテン語の mundus (世界、装飾品)です。あの絵の解釈だけだと答えを出すための強引な曲解に見えたかもしれませんが、この《ヴィーナスとマルス》でも同じ誤解釈が成り立つので、ボッティチェリが意図的にこの特殊な文章の解釈法で絵を描いていたことが、はっきりと分かりました。
それにしても、ボッティチェリのこれらの神話画は、世界で最も美しい、難解で詩的なパズルでした。