それでは、続きをこの絵に合わせて翻訳していきます。今回はいきなりこの絵の核心部分の描写となります。なお、この一連の解釈には神話の世界の性的な表現があるので、ご注意ください。
ὅθι μιν Ζεφύρου μένος ὑγρὸν ἀέντος ἤνεικεν κατὰ κῦμα πολυφλοίσβοιο θαλάσσης ἀφρῷ ἔνι μαλακῷ:
この部分の、以前紹介した沓掛良彦氏の翻訳を引用すると次のようになります。
吹きわたる西風(ゼフュロス)の湿り気帯びた力が、やわらかな水泡(みなわ)に女神をそっと包んで、高鳴り轟く海の波間をわたって、この地へ運び来た。
このアフロディーテ讃歌のアフロディーテは『神統記』で語られる切り取られたウラノスの男性器から出た白い泡から生まれた女神です。上記の引用部分はこのことを踏まえています。アフロディーテにはゼウスとディオネの娘とする話がありますが、それとは違います。
この文には「泡」が出てきますが、この絵をいくらじっくり見つめても彼女を包んできた泡は見つかりません。この翻訳ではこの絵を説明することはできません。この日本語訳に間違いがあるのではなく、ボッティチェリの絵の方が特殊なのです。
泡と通常訳す単語 ἀφρός の解釈を変えれば、うまくいくかもしれません。この語は『神統記』の表現からウラノスの精液を暗示しているのですが、この絵を解釈するにはこれだけでは足りません。そこで手元のギリシア語-イタリア語辞書で調べると、この語には泡schiumaの他にbavaという言葉が書かれていました。この語の意味は「よだれ、ねばねばした液汁、蚕糸、波打ち際の水泡」とあります。この意味を知ると、より生々しく具体的にこの絵の中に ἀφρός を見いだせるようになります。
この文の動詞はἤνεικενで、不規則変化の動詞φέρω「運ぶ」のアオリスト三人称単数です。主語はμένος ὑγρὸν で「湿った力」です。他の言葉を主語にするのは難しそうです。この主語の意味を他の意味に解釈できないか調べてみると、ὑγρόςには他にも「曲げやすい、曲がっている」という意味もあります。またμένοςの意味を調べると、forza「力」などの他にspermaの意味もあります。通常はこの意味は見落としてもいいでしょうが、この絵を解釈するには、一番相応しい語に思えます。
先ほど、bavaの意味として「波打ち際の水泡」とありましたが、この絵には意味ありげに不自然な白い波が描かれています。遠近感がなく壁を降りているように見え、どれもが同じように曲がった形をしています。正直、なんて下手な波打ち際の描写だろうと思った人もいるでしょう。しかし、μένος ὑγρὸνが「曲がった精液」と解釈できると、状況は一変します。
μένος ὑγρὸνの周りの言葉は、この語を修飾しています。ἀέντος は「吹く」の分詞で、属格のΖεφύρουはその行為者を対格のμινアフロディーテで表し行為の方向を示していると解釈します。そして行為の対象が主語のμένος ὑγρὸνとします。主語の部分の訳をまとめると、ゼピュロスがアフロディテの方に吹くクロノスの曲がった精液(白い波)となります。
後半の動詞ἤνεικενの目的語の部分は、次のようになります。κατὰは前置詞ではなく、あえて副詞として解釈します。この語の意味は「下の方向へ」です。つまり、この絵で波が下に落ちているような描写をこの語の描写であると考えるわけです。そのあとにある波の意味を持つ対格のκῦμαは、この動詞の目的語としてぴったりのようですが、既に「白い波」を主語にしてしまっているので、今回は別な意味に解釈しなくていけません。
さて、この絵の中で白い波が運んでいるものは何でしょう。ホタテ貝のような形の巨大な貝です。この貝の波打つ形こそが、κῦμαが表している物と解釈します。そう「波状の物」です。
あとはこの目的語を修飾する単語です。ἀφρῷとμαλακῷは前置詞ἔνι(in,among)に支配されている与格の名詞と形容詞です。この「柔らかな泡」は貝の下で泡立っている波のことです。貝がこの泡の中にいるという表現は問題ないでしょう。πολυφλοίσβοιο θαλάσσηςはこの泡の材料を表す属格の形容詞と名詞で、「多く反響している海水」と訳せます。つまり、この目的語の部分をまとめると、「多く反響している海水からなる柔らかな泡の中の波状の物」となります。
この文全体をまとめると、
ゼピュロスが彼女(アフロディーテ)の方へと吹きやっている(クロノスの)曲がった精液(白い波)は、多く反響している海水からなる柔らかな泡の中の波状の物(貝)を下の方へ運んだ。
となります。
苦しい、実に苦しいですが、このように解釈すると、この絵の描写に合わせることができます。でも、不思議な波打ち際にいるアフロディテとゼピュロスの表現に対して、これほど得心がいくものは他にないでしょう。
この文章だけを提示してもきっと誰も理解してはくれないでしょう。ただの強引な辻褄合わせにしか見えないはずです。しかし、アフロディーテ讃歌の言葉は、余す所なくこの絵の中に描き込まれています。全部読めば、強引なのは、ボッティチェリの方だと分かってもらえるでしょう。